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千載和歌集コミュの修理太夫顕季の歌  その3

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修理太夫顕季の歌  その3


入道右大臣初めて中院の家に住み侍りける時、祝の心をよめる
   むれてゐる鶴のけしきにしるきかな
      千歳すむべき宿の池水  (賀歌 631 修埋大夫顕季)

「群れいる千歳の鶴の景色にはっきりしているように、千歳も宿の池水が澄むことである」(イベリコ)


 入道右大臣は平安後期の公卿、歌人、源雅定のこと。1150年に正二位右大臣まで昇進した。雅定の妻は顕季の娘である。中院邸は六条北、烏丸西にあって顕季が住んでいた場所でもある。今の東本願寺あたりであろうか。 そこに入婿の雅定が住むことになったので、顕季は大層うれしかったのではないだろうか。 雅定の住む中院邸の賀であると同時に、自分の家であった中院邸が千歳までも栄えることを祈った和歌なのだ。

千歳すむは「千歳の鶴が住む」と「千歳まで池水が澄む」の両方を掛けている。そして、鶴は雅定のことでもあったのだろう。ここに千年も長生きして住んでくれという望みをも内包しているとみてよい。

 雅定は顕季から和歌の指導を受けたとのことである。

源雅定:
「素直でよく気が付き、堅苦しい所もなく魅力的な性格であった。また、学才もあり、朝廷の儀式にも通じていたとされる。幼時より舞楽に長じ、康和3年(1101年)3月9日の白河院五十歳の賀の試楽における童舞で、9歳にして『胡飲酒』を舞い、賞賛された。父雅実は雅定の舞の技能に自信を持っていたためか、嘉承元年(1106年)に開催された石清水臨時祭における一の舞に雅定が選ばれなかったことに腹を立て、雅実が祭りの途中で帰京してしまったとの逸話がある。また、『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が山村政連に殺害された際、『胡飲酒』を伝受していた雅実が多忠方(資忠の子)に伝えた逸話があるが、雅実が死去してからは、多忠方は雅定を師としていたとされる。豊原時元から伝授を受けた笙にも秀で、嘉応2年(1170年)迄に開催された御遊において、各種記録に記された笙の演奏回数が、2位の藤原宗忠を大きく引き離して最多となっている。また、歌人としては藤原顕輔・源俊頼らと交渉があり『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。」(ウイキ)

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