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千載和歌集コミュの源俊頼の歌  その1

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源俊頼の歌  その1


春立ちける日よみ侍りける
   春のくるあしたの原を見わたせば
     霞もけふぞ立ちはじめける  (春歌上 1 源俊頼朝臣)

「春がやってくる朝、朝の原を見渡すと、今日霞みが立ち初めたことであるよ」(久保田淳、イベリコ)

千載和歌集の巻頭の和歌である。巻頭の和歌の作者であるから、和歌も、また作者も重要な人物でなければならないだろう。源俊頼朝臣がその栄誉ある地位に輝いた。 俊成の先輩歌人として(59歳年上)、藤原基俊とともに和歌の一時代を築いた人であり、『堀河院百首』を企画・推進し、白河法皇の命により『金葉和歌集』を撰集した人物であるから、申し分ない人であった。千載和歌集には彼の歌が一番多く採用されており、俊成の尊敬を集めていたのだろう。

この歌は即興性が強い歌のように思える。即興性のある歌には技巧が少ないものの、人の心を打ち、人をして即座に感得させてしまう力を持つものである。千載和歌集の巻頭の歌としては、そうしたパンチ力のある歌が採用されたわけである。

 この千載和歌集が何か新しい時代に向けた人声を発するものであるべきと思ったのだろう。それは「春のくる」、「あしたの原」、「立ちはじめける」という言葉であり、驚くべきはそれらが和歌三十一文字に見事に納められていることである。古今和歌集では巻頭の歌は、

ふるとしに春たちける日よめる
   年の内に春はきにけりひととせを
     こぞとやいはんことしとやいはん  (春歌上 1 在原元方)

であった。これは即興性のある歌のようには思えない。幾分のぎこちなさがあるように思える。春の来ることの素直な喜びは表面には出ていない。

 この二つの歌の比較で、源俊頼朝臣の歌にみえる素直な春への悦びの表明をいいなと思うのである。

(参考) 源俊頼:
源 俊頼(みなもと の としより)
天喜3年(1055年) - 大治4年1月1日(1129年1月29日)、平安時代後期の官人・歌人。宇多源氏。大納言・源経信の三男。官位は従四位上・木工頭。

10歳代より一時期修理大夫・橘俊綱の猶子となる。篳篥に優れ、はじめ堀河天皇近習の楽人として活動し、承暦2年(1078年)の『承暦内裏歌合』には楽人として参加している。
嘉保2年(1095年)に父・経信が大宰権帥に任ぜられたため、父ともに大宰府へ下向するが、承徳元年(1097年)経信の死去に伴い帰京する。その後は、堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌合に作者・判者として参加するとともに、『堀河院百首』を企画・推進した。天治元年(1124年)、白河法皇の命により『金葉和歌集』を撰集。藤原基俊とともに当時の歌壇の中心的存在であった。歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた。
『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に201首入集。『金葉和歌集』(35首)・『千載和歌集』(52首)では最多入集歌人となっている。右近衛少将・左京権大夫などを歴任し、長治2年(1105年)に従四位上・木工頭に叙任、天仁3年(1110年)越前介を兼任。天永2年(1111年)以後散位。

和歌 :
小倉百人一首
うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを(『千載和歌集』恋二・707)
百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)
山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(『金葉和歌集』春・50)
百人秀歌と小倉百人一首の両方に採られている歌人で、異なる歌が採られているのは俊頼のみである。

著書 :
家集『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう)
歌学書『俊頼髄脳』

以上、参考はウィキペディアより

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