ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

千載和歌集コミュの家隆の歌  その3 思ひ絶えぬる

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
家隆の歌  その3 思ひ絶えぬる



   暮にとも契りてたれか帰るらん
     思ひ絶えぬるあけぼのの空  (恋歌二 749 家隆)

「では暮れにも逢いましょうと約束して誰が帰るのだろうか、それにひきかえ、私の恋はだめになったと思い知らされる後朝の別れであるよ。あけぼの空がうらめしいことである。」(イベリコ)

 思い絶えることは恋よりも辛いことだったと詠んだのは藤原清輔。

   なかなかに思ひたへなむと思ふこそ
     恋しきよりもくるしかりけれ  (清輔)

 家隆はそれに加えて、一段の辛さを付け加える。それは別のカップルがではまた暮れに逢いましょうと約束していることを知ったことである。「契りて」帰るのと、「思ひ絶え」て帰るのと大きな違いである。

   けふこそは春はたつなれいつしかと
     景色ことなるあけぼのの空  (清輔)

 同じ清輔はあけぼの空をみて、上の歌を詠んだ。「景色ことなる」とは面白い表現である。家隆の歌に則して、この言葉を考えるなら、契りて帰る恋人と、思い絶えて帰る失恋の人間が見上げるあけぼのの空の景色は異なるだろうということである。



(参考: 以下、ウィキペディアより)
藤原 清輔(ふじわら の きよすけ、長治元年(1104年)[1] - 治承元年6月20日(1177年7月17日))は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家魚名流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。

原 家隆(ふじわら の いえたか、保元3年(1158年) - 嘉禎3年4月9日(1237年5月5日))は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次男。官位は従二位・宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。
ww

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

千載和歌集 更新情報

千載和歌集のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング