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千載和歌集コミュの慈円の歌 (その1)

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慈円の歌 (その1)

 千載集には慈円の歌は九首収められている。


   おほけなく憂き世の民におほふかな
     我が立つ杣にすみぞめの袖  (雑歌中 1137 法印慈円) 

「私は鎮護国家の比叡山に住みはじめて、おおけないことに憂き世の民に墨染の袖を覆いかけることよ」(久保田淳)

 杣とは杣山のことで、木を切り出す山のこと。後世、比叡山のことを杣というようになったというが、それは、次の最澄の和歌による。

比叡山中堂建立の時歌
   阿耨多羅三藐三菩提の仏たち
     我が立つ杣に冥加あらせたまへ (「新古今集」釈教歌1921 最澄)

 この歌は比叡山の根本中道建立がめでたく成就するように、諸仏に加護を願ったものである。中道建立のための木材を切り出した山は当然、比叡山ということになるわけである。

建久2年(1192年)、38歳で慈円は天台座主になった。この歌はその立場からの歌ではないだろうか。「すみぞめ」は住み初めに云い掛けていることからも想像される。

「おほけなく」は身分不相応のこと、これは「負ふ気無くとも」のことであるという(佐々木信綱「百人一首講義」)。民という表現は上から見下ろした言葉のようであるが、自分には身分不相応なものだと言っており、その自分の至らなさを素直に嘆いているのだろう。

仁徳天皇の御製での民の認識とは異なるのだろう。

貢物許されて国富めるを御覧じて
   高き屋にのぼりて見れば煙たつ
     民のかまどはにぎはひにけり(「新古今和歌集」賀歌707 仁徳天皇御歌)

 仁徳天皇の御代と異なり、慈円の時代は、混乱の時代であり、明治維新前後の激動の時代に匹敵する。こうした時代には民の苦悩がいかに大変であったか想像にあまりある。その時代に天台の座首になることの重みを慈円は当然のこと自覚し、このように詠んだのではないか。

参考(ウィキペディアより):
慈円(じえん、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、鎌倉時代の天台宗僧侶である。歴史書『愚管抄』を記した。諡号は慈鎮和尚で一般に吉水僧正とも呼ばれ、また『小倉百人一首』では、前大僧正慈円と称されている。慈円は藤原忠通と加賀局(藤原仲光の娘)の子で忠通の第六子・九条兼実の弟である。
幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主明雲について受戒。建久2年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後慈円の天台座主就任は4度に及んだ。天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兼実の孫道家の後見人を務めるとともに、道家の子藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭復位を願う願文を納めている。また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。 越天楽今様の作詞者でもある。

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