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政治の動きコミュの70、永続企業は「守・破・離」の道を究める「失われた20年」と「古き良き日本型経営」「悪い米国型経営」

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 明けましておめでとうございます! 2010年はどんな年になるのでしょうか? 新聞各紙を含めメディアではいろいろな予測がなされていますが、私は大きな転換の年になると考えています。

 1989年12月29日に日経平均株価が最高値(3万8915.87円)をつけてからちょうど20年が経ちましたが、今年は「生みの苦しみ」を経て「新しいニッポン」が誕生したと考えられるような年、今年を起点に明るい未来が描き始められるような年になるでしょう。

 ではどのような転換が起こるのか。これを考える際には、そもそも「失われた20年」はなぜ日本だけで起こったのかを冷静に認識する必要があります。

 前回は、企業の「経営力」について、(1)正しい目標の設定と共有、(2)「本質的な価値」を見抜く洞察力、(3)「本質的価値」をビジネスモデルに転換できる力、の3点について、創業経営者を念頭にファーストリテイリングを例に取りながら考察を深めてきました。

 今回は残された「経営力」の要素である、(4)創業経営者個人が備えた思考・能力を、実践を通して組織化して、企業文化として定着していく仕組みを作る力、すなわち企業経営の在り方と組織の在り方、という難解な問題について考えていきます。

 「失われた20年」は様々な面からの分析が可能ですが、今回は特に「失われた20年」と「日本型経営」に焦点を当て、「日本型経営」の歴史的変遷と「米国型経営」との比較を通して、「新しいニッポン」における「新しい日本型経営」を探っていきたいと思います。なぜなら、この解こそが、実は(4)の解にもなり、また一般的な日本の企業経営の転換後の在り方を指し示すと言えるからです。考え方の道筋としては、いつも通り、歴史を振り返り世界的な視野で日本を捉え、今をあぶり出したうえで、今後のあるべき姿を考えていきます。


「古き良き日本型経営」の強みと弱み

 私事で恐縮ですが、私自身は幼少期に2度ほど米国に滞在したという経験もあり、若い頃から米国に対する憧れを持っていたように思います。そして社会人4年目にニューヨークに駐在員として赴任した時には、いよいよ米国に乗り込むんだという高揚感とプロの世界に飛び込む緊張感で胸が躍っていました。

 実際に赴任してみると、1990年代前半のまだまだ元気がなかったニューヨークであったにもかかわらず、その街が持つ躍動感や働く人のエネルギーはやはり想像以上のものがありましたし、国土や文化の豊かさにも感じるものがありました。ただ後から考えてみると、実は高揚感は赴任当初がピークで、その後は米国の悪い部分が徐々に明らかになるとともに、いろいろな面で日本の良さを感じることが多くなってきました。

 このような見方に変わっていったのは、自分の中で「米国に劣後しているというメンタリティ」が解消されるとともに、米国の懐に入った実体験で日本と米国をより相対的に見ることができるようになったことによって、初めて冷静に観察できるようになったからではないかと考えています。そして「米国型経営」「日本型経営」に対する見方は、私自身が外資系運用会社に10年間働きつつ、日本企業の経営者に会って日々企業分析を繰り返すことにより、さらに研ぎ澄まされたように思います。

 こうした実体験も踏まえたうえで、まずは「日本的経営」がどのように米国に認識され、またその過程でどのような変遷を辿ってきたのか、大雑把に捉えておきたいと思います。

 1970年代前半までは、日本がひたすら米国の真似をしてきましたが、まだまだ米国では途上国イメージだったので、その意味には気づいていなかったと言えます。ちょうど今、日本が中国を見て、ある意味ではその脅威を本格的には認識していない(したくないのかもしれませんが)のとよく似ています。ただそれも1970年代後半になってくると米国では日本脅威論が華やかになり、1980年代には『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・F・ヴォーゲル著、阪急コミュニケーションズ、1979年)に象徴されるように日本経営ブームが起こり、米国は日本から謙虚に学ぼうという姿勢に大きく転換しました。

 その陰で、戦後の高成長を支えてきた「古き良き日本型経営」は劣化が始まっていたように思います。特に1980年代以降は、本業の成長が鈍化し投資機会が減少する中、カネ余りと円高により悪い多角化に突き進んでいきました。水面下では、日本の評価が高まったことによる傲慢が蔓延し始め、大きくなり過ぎたが故の大企業病も発生、さらには団塊世代が管理職年齢に達して大量の「経営者的ではない」管理職が生まれ、「古き良き日本型経営」の劣化が内部で進みました。

 日本の戦後の高度成長を可能にした「古き良き日本型経営」の強みは、経営者としての力量が十分な人材が内部昇進して経営者として自由に行動できたことがポジティブに働いてきたことではないかと考えています。が、1980年代後半に経営者の力量が落ちてくる中では、その自由さや管理のルーズさが逆に、経営問題の先送りを生んで「日本型経営」の弱みに変わってしまったと言えます。

 こうした意味では、国全体が長期に発展成長し先進国にキャッチアップする過程で、日本的経営の強さが過大に評価された時期だったとも言えそうです。

 1990年代以降現在に至るまで、高度成長とバブル崩壊を経験した日本では経営課題先送り体質が「失われた20年」につながってきました。一方で米国では、その間に日本に謙虚に学んだことも手伝って復活を遂げ、その米国のカネの力により、日本では短期的成果を求める株主支配型の「悪い米国型経営」に振り回されてしまっています。また、今般の金融危機でその有効性に疑問符がつけられている米国流の金融ルールや内部管理・ガバナンスの仕組みなども同様だと言えます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20100104/211991/

 こうして歴史を紐解いてみると、自分たちの強みを冷静に分析することなく、内部で進行する日本的経営の劣化に指をくわえてしまった1980年代まで、そして1990年代以降、自分たちの強みが弱みに変わった原因を冷静に考えることなく、その強みを捨てて「悪い米国型経営」に学んでしまった日本の姿が浮き彫りになります。


「悪い米国型経営」とは?

 「日本型経営」の歴史的変遷を見たところで、今度は「米国型経営」の弱みとその背景について、日本と比較しながら考えてみましょう。私は、(少なくとも今の)米国と日本では根本的な「価値観」が違うように思えてなりません。米国においては、あらゆる組織において情報やカネを一元化して集中し、「カネ」を軸に物事が判断されているように思います。

 企業経営においては、資本市場の投資家が有利になるような高配当や短期の利益を重視する傾向がありますし、愚直なものづくりよりも短期でうまく儲けられる方が賢いといった風潮、利益のためなら顧客に提供する品質を多少犠牲にしても構わない、さらには利益のためには社員をあたかもモノのように切っても仕方がない、ということになるわけで、まさに「カネ」を中心とした価値観から生まれてくる発想です。

 この「カネ」中心の発想は、株式会社とは誰のモノかという根源的な問いにも関係してきます。株式会社の基礎を定める会社法では、基本的に会社はモノであり財産であり、その所有や処分の権利が規定されていますが、その背景には継続企業というよりも解散した時の財産という「解散価値」の前提が置かれています。

 だからこそ、2000年代半ばに盛んになったように、株主の権利として当然のように利益剰余金の一時的な大幅配当を求めたり、会社をモノのように売り買いしたりするような発想が出てくるわけです。残念ながら、そこには継続企業としての利益の在り方という発想はないように思います。「日本型経営」において、(変質してきているとは言え)会社を共同体や社会生活の場と捉える発想とは対極的です。

 「カネ」中心の発想は、企業のガバナンスにも影響を及ぼします。米国の経営者はよくチームが大切だとか強いコミットメントという言葉を使いますが(何を隠そう、私もそれを鵜呑みにしていた時期がありました)、経営者自身は株主の利益を確保するために雇われて高報酬を得ているわけですから、そもそもの目的・動機が「カネ」にしかないわけです。そうなると利益を上げるためならば、組織そのものがモノとなり売り買いされ連続性を失うし、社員はニンジンをぶら下げられて「カネ」で動機づけをされるので会社に対する忠誠心では動かずに「カネ」で転職してしまう・・・。

 その結果、要領よく「カネ」を稼いだ者が高報酬でそれ以外はあたかも転職しろと言わんばかりの所得格差が生まれてしまう、というようなことになるのです。日本人の感覚からは想像できないかもしれませんが、政治的に追い出される、引き継ぎはしない、後の者で適当に回してくれ、送別会はしない等々、これらは実際に私が外資系の会社にいた時に経験したことでもあります。こうした「悪い米国型経営」は、経済がうまく回っている時には見逃されますが、いったん逆回転が始まると民主主義そのものがこの格差を許せなくなると考えています。バラク・オバマ大統領が、リーマンショックという逆回転の契機に合わせたように現れたことは、こうした文脈でも歴史の偶然とは思えないですね。

 「カネ」に重きを置き、企業は利益を生み出すモノとして捉えている米国では、その目的達成のために、一元的にリーダーに権限を集中し、その決定に組織が従う縦型ヒエラルキー型の組織を作っています。従って管理志向が非常に強く、例えば日本法人の社長とは名ばかりで、社長は入れ替え可能な中堅社員にしか過ぎません。また「米系の日本法人はどこの会社か」というアイデンティティの議論をした時に、日本人は日本の会社と考えていたのに対し、外国人は即座に米国の会社に決まっていると答えました。日本で日本の顧客に対して20年近くも業務をしているにもかかわらず、やはり資本がすべてなんだと納得した瞬間でした。


原理・原則を貫く強み

 ただ、利益という「カネ」の目標に対して、社員も事業も資産も経営者でさえもどんどん入れ替えながら回していくという経営の仕組み自体は、一貫していて合理的で理路整然としていることは確かです。

 だからといって、すべての米国の会社が「悪い米国型経営」だとは思っていません。米国の会社の中にも、利益よりも顧客や従業員を重視すると宣言しているジョンソン・エンド・ジョンソンのような会社はありますし、グーグルはチーム志向やフラットな組織を採用し、創業者が多議決権株を保有することで企業の経営と資本を一体化しつつ資本市場ともうまくつき合う方法を模索しています。

 また資産運用業界においても米国のキャピタル・グループは、得てして個人プレーが目立ち匠の技が競争力になりがちな業界において、個人の能力を満足感と同時に引き出しつつ、チームとして組織化して結果を出す、しかも在籍年数が平均数十年と長い、という日本的な価値観と米国的な経営合理性を持った尊敬すべき素晴らしい会社です。ただ全体としての「米国株式会社」が、歴史的変遷の中でバランスを失して、現在は「悪い米国型経営」に陥ってしまっているというのが、ここでの趣旨です。

 このように「カネ」を価値観の中心に置いた資本主義の原理・原則によって企業が経営されていることは、一方では「米国型経営」の強みでもあります。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20100104/211991/?P=2

 1つ目には、世の中の変化が激しい時には素早い「変化対応力」につながります。今般の金融危機の時にもその兆候は現れましたが、米国企業が何の躊躇もなく正社員を解雇し、事業を切り売りし、儲かると思えば積極果敢に「カネ」を投じたのに対して、日本企業はワークシェアリングで固定費を一時的に下げることしかできず、事業の入れ替えも相対的には少なく経営判断を先送りする傾向にあったのと対照的です(是非については後述します)。

 2つ目には、ベンチャーキャピタルが既に一定の質を伴って「カネ」を集めることができるので、多産多死ながら創造的なベンチャー企業に「カネ」が回ることにより、産業構造のシフトや新しい産業の勃興が大企業のみならず産業全体の「新陳代謝力」によっても起こるのです。残念ながら、そもそも失敗を許容しない文化を持ち、金融機関の子会社が会社員的なベンチャーキャピタルを担い、二番煎じ的でプロの経営者が少ないベンチャー企業が多い日本においては、実現できそうにない魅力的なインフラです。

 3つ目には、その結果、「カネ」を目標にしたとしても、高いインセンティブを持った創造力溢れる経営者が多数輩出されることにより、「プロの経営者育成」を行う仕組みが国として確立されているのです。しかも、挑戦をしたが故の失敗を許容し再起することを賞賛する文化があることにより、多くの失敗経験によって強いリーダーが生まれやすいということが背景にあります。また日本の経営者がどちらかというと情緒的で根性や努力などに依拠しがちなことと比べると、(国としてもそうですが)リーダーが経営者に必要な「論理性・戦略性」を持っていることが多いように感じます。

 「悪い米国型経営」には、「カネ」を価値の中心にするが故に、長期的には「正しくない弱み」が多数あると考えています。この弱みについては、米国の識者の中にも「制御された資本主義」という発想が出てきており、またオバマ大統領も格差是正を主張しているので、長期的には是正されていくと信じていますし、その「変化対応能力」こそが米国の強みだと思います。一方で、前回日本の創業経営者の「経営力」で触れた通り、インセンティブと「論理性・戦略性」を兼ね備えた経営者のリーダーシップという強みは、「日本型経営」においてしっかりと学ぶ必要がありそうです。


日本型経営の強みは自己組織化

 さて、それではそろそろ「日本型経営」について考察を始めましょう。まず日本においては、「カネ」よりも「ヒト」を価値の中心において、権力を分散して平等を旨とした継続性を重んじていることが、根本的に米国と違うように思います。この「ヒト」に対する価値観には、古来日本にある「和」や「村」といった共同体意識が影響しているのかもしれません。

 「古き良き日本型経営」においては、終身雇用や年功序列という制度により支えられた「いずれは報われるという期待感」により、長期の継続性・安定性を持った組織が形成されていました。高度成長の中で、年功序列という形は崩さずに若い社員や現場に実質的に権限委譲することにより、縦の構造を保ちつつ若手や現場という横同志のつながりをも作り、効率的・安定的な経営をしてきたと言えます。

 すなわち、「ヒト」や組織を起点にその能力を鑑みながら目標を決めて経営されてきたわけで、米国型のトップが目標を決めてそれに合わせて「ヒト」や組織を作るのとは発想が逆なのです。「カネ」か「ヒト」かという価値観が違うと、組織の作り方や指揮命令系統にも大きな違いが出てくるのです。また、日本型は「部分最適」の和が「全体最適」になるように調整していくのに対して、米国型は「全体最適」を目指して論理的に「部分最適」を作り出す、というようにも言い換えられます。

 「複雑系」の特徴の1つに、外部からの直接的な指令がないにも関わらず、自身が独りでに、ある種の規則性を獲得し調和・組織化を実現するという「自己組織化」の概念があります。「古き良き日本型経営」では、現場において「自己組織化」でき、かつ経営者が必要な舵取りを加えていたという非常に強力な状態だったのかもしれません。

 では、なぜこのような経営が可能であったのか。私は、日本の教育水準が平均的に高く、日本企業が組織として持つ「育てる力」という強みが背景にあったからだと思います。企業が、大学卒業から終身雇用を前提に長い目で育てることにより、企業文化を納得し忠誠心が高く、かつOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング=職場内訓練)で実践に強い人材を「育てる」ことができたのです。これが均質な教育水準と相まって、誰でもある程度のところまでは昇れるという「平等」を達成してきたのです。

 米国の人材が、大変高度な少数の人材集団と、日本と比べるとかなり劣る多数の人材集団から構成されているために、前述の縦型ヒエラルキー型組織が発達したことと対比すると、非常に興味深いですね。さらには、その育てられた社員が作り出した知識を、組織全体で製品やサービスに落とし込み、業務の仕組みにしていった「組織的な知識創造」が「日本型経営」のさらに裏にある強みだと思います。有名なトヨタのカンバン方式は、まさに現場社員の知恵・知識の結晶が仕組みになった代表例だと言えます。

 ところが前述のように1980年代以降は、この人材育成力が目に見えない形で着実に劣化していく中で、現場社員の「部分最適」が強くなり過ぎた「大企業病」組織と調整型の経営者しかいないこととが相まって、バブル崩壊で高度成長が終わったという大変化に対応できず、論理的・戦略的に素早く解決すべきであった経営課題を先送りするという「失われた20年」への道を歩んできたのではないでしょうか。すなわち、「ヒト」を軸にした「日本的経営」の強みが弱みに変わり、弱くなってきていた「経営者」と経営者が担うべき「論理性・戦略性の欠如」が明確になってきたのです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20100104/211991/?P=3

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「創って、作って、売る」

 ここまでで、日米の経営の歴史的な変遷と、それぞれの強み・弱みとその背景について分析してきました。いよいよここからは「新しいニッポン」における「新しい日本型経営」について考察していきます。「新しい日本型経営」の考え方の基本は、環境変化を認識したうえで、その環境変化に対して、培ってきた価値観をベースに、「日本型経営」が本来持つ強みを生かしながら、「米国型経営」が持つ強みを日本型に進化させて弱みを補完する、ということ、すなわち日米の強みのハイブリッド経営です。

 21世紀には「本物の価値」「目に見えない価値」が重要になると同時に、IT(情報技術)化・ネット化や新興国の消費国化がさらに進み、事業の在り方そのものを根本的に見直す時代になるという環境認識はこれまで述べてきた通りです。

 こうした時代の付加価値は、モノそのものよりも知恵や知識が生み出す可能性が高く、「組織的な知識創造」を得意とする「ヒト」に重きを置いた「日本型経営」の強さが際立つ時代だと言えます。ただここ10年ほどは「悪い米国型経営」の影響で、「ヒト」を中心とした価値観が揺らいできていることも考慮して、しっかりと根本的な価値観を共有する必要があります。一方で、事業の在り方そのものを根本的に見直す際には、「論理性・戦略性」を持った経営者によるリーダーシップという「日本型経営」の弱みが際立ってしまいます。

 そう考えると、「新しい日本型経営」では、「ヒト」を中心とした価値観を維持し、「日本型経営」が本来持つ「安定的な組織構造」「育てる力」「組織的な知識創造」といった強みを再度強化しつつ、その日本型の組織の良さを活かす形で、「論理性・戦略性」を持った「経営者」を育てること、が目標になりそうです。

 では、私が「新しい日本型経営」の1つの形だと考えているミスミグループ本社(以下、ミスミ)を例に取り、より具体的に考えていきます。今から10年以上前にお会いした創業経営者の田口弘氏は、小規模組織を使い伝統的な日本型経営とは異なるユニークな経営で業績を伸ばしていましたが、規模が大きくなった際のご自分の経営能力にある意味での限界を感じられて、2002年に三枝匡氏(現在、代表取締役会長・CEO[最高経営責任者])を後任の社長に任命しました。

 三枝氏は、日本でも大変珍しい日本的価値観に立脚したプロ経営者です。日本においては、1企業で社長として大成された方は数多くいますが、どの会社に行っても通用するプロ経営者はほとんどいません。その中でも三枝氏がずば抜けたプロ経営者だと考えるのは、コンサルタントに始まり、日米で現業トップとして数社の再生型経営をされ、さらに成長途上のミスミをも加速成長させた輝かしい経験と実績、そしてその過程を著した数冊の著書が本質を突いた内容だと感じたからです。

 以下、私が10年以上フォローしてきた知識と著書を基に、ミスミによる「新しい日本型経営」への挑戦について、描いていきます。

 三枝氏がミスミ社長に就任してまず行ったことは、それまでの商社機能に加えて製造を司る会社をグループに入れたこと、そして「創って、作って、売る」(企画、生産、販売)という一気通貫の機能を持った小規模組織をデザインし、各組織の経営リーダーに徹底した戦略教育を施したうえで、各小組織の経営リーダーや社員が鮮明で「シンプル」な戦略ストーリーを自律的に作り、意思決定し、「ビジネスプラン」に従って事業を推進できる組織構造を作ったこと、でした。

 「創って、作って、売る」というのは、三枝氏独特の言い回しですが、一気通貫の「製造物流小売業」と言えばすぐにお分かりの通り、バリューチェーン全体を自社内に持つことによって、仮説・検証・修正のサイクルの精度を高め、コスト、スピードと品質の競争力向上により顧客満足を高めることを狙っているビジネスモデルです。
「スモール・イズ・ビューティフル」という組織

 それ以上にユニークなのは、一気通貫機能を持った「スモール・イズ・ビューティフル」を基本にした小規模組織デザインです。これは、1980年代以降に「日本型経営」が陥った「大きいことはいいことだ」という「大企業病」による「組織の硬直化」の反省に立った考え方です。責任を持てるできるだけ小さい組織に分権化することにより、素早い仮説・検証・修正サイクルの中で、情報が相互的に流れ、それが「熱い心」につながり、事業成果という成功体験によって跳躍(リープ)を生むと考えたわけです。

 また自律的な組織にすることにより、全社員の「個」としての参加意識を高めて、責任感を持たせる作用も期待できます。これは、「日本的経営」の本来の強みである、組織が人材を「育てる力」「組織的な知識創造」の力を再強化する、「部分最適」の力を強めることになるわけです。

 また「部分最適」の追求をすると、自分の事業規模でしか考えない「チマチマ病」や、それぞれがバラバラに好きなことを追求する「バラバラ病」といった罠に陥りがちです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20100104/211991/?P=4

 三枝氏はこれについても、各組織の「戦略ストーリー」「ビジネスプラン」を経営陣と小規模組織の経営リーダーが徹底的に議論することにより、組織の上から下までその内容を共有し、同じ船に乗っているという経営のコミットメントを与え、権限委譲の範囲を明確にする、という経営が横串を入れることによる「全体最適」化を仕組み化することで、「部分最適」のみの弊害を防げると考えています。そしてさらには、仮説・検証・修正のサイクルを自分で何度も回し続けるという経験によって、経営者としての「論理性・戦略性」が磨かれていくという経営者の育成機能までもが仕組みに入っているのです。

 それでは、これは中堅企業にしか当てはまらないモデルでしょうか? 中堅企業では経営が直接ハンズオンで行っていた議論を、大企業においては、もう一段下の階層に落とすことで、間接的な管理ができるはずです(もちろん一段下の階層に同じレベルの経営者が育っている必要はありますが)。また動態的には、中堅企業で事業が大きくなれば、各組織を慎重にさらにセル(細胞)分裂を繰り返したり、組織構造を循環的に見直し続けたりすることで、組織の硬直化や弊害を防ぐことはできるはずです(ここでも経営者の組織に対する絶妙なバランス感覚は必要ですが)。

 まずは事業を慎重に一気通貫の小規模組織に分けるという「ヒト」の組織論から入り、戦略ストーリー、ビジネスプランの議論でリーダーから社員の末端までを「責任感」と「熱い心」で束ねる、という「日本型経営」の「ヒト」を中心とした価値観で「部分最適」を仕組み化する。さらに経営による「全体最適」化を図りながら、実践の中で「論理性・戦略性」を磨いた経営者人材を育てる。ミスミモデルはこうした意味で、大変ユニークな「新しい日本型経営」の1つではないかと考えるわけです。さらに、この経営モデルをベースに、ビジネスモデルの進化を行うことができるようになれば、「自己組織化」した「新しい日本型経営」にまでもなり得るのです。

 もちろんミスミモデルは、三枝氏という傑出した日本型のプロ経営者がいたことによって起こりえたという意味では、三枝氏はやはり創業者のような存在ではあるのかもしれません。従って、今の日本における最大の問題は依然として、起点になる創業者あるいはプロ経営者が枯渇していることに変わりありません。この問題に対しては残念ながら、こうした「新しい日本型経営」を既に実践している創業者やプロ経営者が、しっかりとした次世代経営者層をできるだけ早く多く育成するよりほかはありません。

 もう1点、「経営力」の継承を考える時のポイントについて補足しておきます。創業経営者やプロの経営者が「経営力」の継承を考える際に、経営者自身が傑出した独自の才能を持った方であることを考えれば、日本古来の伝統芸能や守り続けてきた匠の技を持った「道」が引き継がれていく方法は、大変参考になると思っています。

 能を確立した世阿弥の教えに「守・破・離」という道を究める際の成長プロセスの原理・原則があります。「守」は第1段階で、疑問を挟むことなく教えを忠実に守り基本の型を習得する。「破」は第2段階で、型をしっかりと身に付けたうえで、自分の創意工夫で型を破る。そして「離」は独自の境地を開き飛躍する段階です。実は、第1段階で基本型を完全に習得してすべての基礎を作るからこそ、時代とともに進化し永続することができるのです。
 従って、受け継いでいくのは、あくまでも基本の型。これは企業にとっての「軸」になる正しい目標や価値観、企業文化で、その範囲内の組織や戦略は時代とともに変化していく必要があるということです。そうすることにより、カリスマ創業経営者の個人的な能力に依拠しない、でもその本質的な価値は受け継いだ「経営力」の継承が可能になると考えています。


前進の第1歩は認め合うことから

 ここまでで冒頭の、企業の「経営力」の(4)創業経営者個人が備えた思考・能力を、実践を通して組織化して、企業文化として定着していく仕組みを作る力、すなわち企業経営の在り方と組織の在り方について、一定の解は示せたのではないかと思います。ただ、コラムで簡単に語るにはかなり複雑で大きなテーマですし、永遠に通用するような万人が納得する1つの解はないので、少々物足りないかもしれませんが思考の一助にしていただき、読んでいただいた個人それぞれが自分の立場で考えて応用していただければと思います。

 「新しい日本型経営」では、各社員に平等な機会を与えたうえで、オープンな評価によって、弟子を育てるような日本的な経営者育成・継承により論理性・戦略性を備えたリーダーを創る、それ以外の社員も自分の役割をしっかりと認識しそれに適切な評価が与えられる、そんな結果としての平等を目指します。日本の悪い風習である「ねたみ」や「そねみ」がない文化を国全体として創れれば、将来を明るく展望できる社会になるのではないでしょうか?

 毎年年末になると、小田和正というアーティストの「クリスマスの約束」というコンサート番組を楽しみにしています。昨年末のコンサートは、「21組のアーティストが一堂に会して、全員で全員の曲を歌い倒す」という小田和正が8年間暖めてきた企画でした。小田和正の想いは、「大切なことは、同じ時代に音楽を創ってきた仲間が、お互いを認め、愛し、尊敬することではないか」「日本の音楽が前進しなくなったのは、認め合っていないからではないか?」という危機感からでした。

 企画当初からそんなことに意味があるのかというテレビ局やほかのアーティストの声に対して、1人ひとりが責任を持って一丸となって歌うことで、「目的のためにではなく、やることにより見えてくるその先」「言葉にできないことで何かを超えよう」とまずは歌い始めることで、徐々にその「何か」をつかんでいく様が描かれていました。

 そして、当日歌い終えたアーティストたちだけでなく観客も心を1つにした瞬間、1人ひとりのアーティストでは伝えられない「音楽の力・優しさ」や「一体感」による感動が得られたように思います。

 日本の20年にも渡る閉塞感は、再び原点に戻って自分たちが持っている「力」をみんなで創り上げていく「新しい日本型経営」によって打ち破ることができると信じています。次回は、「新しいニッポン」における働き方の変化や資本主義の在り方について、考えていきたいと思います。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20100104/211991/?P=5

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