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Gaugeコミュの006 アートの魅力の根源は

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今回のテーマは、「アートの魅力」についてです。
そんな茫洋な。という気もしますが、これは結構具体的な話です。

結論から言えば、

 ”アートの魅力は、「謎めいているところ」である。”

となります。
そんなバカな。という気もしますが、これは今のところの本気の結論です。

では一体、どんな風に謎めいているのでしょうか。或いは、こう問い直してもいい。一体、アートにまつわる、何が謎なのか。答えはひとつです。

 ”アートの謎は、その「なぜか偉そう」なところにある。”

どんどん進めましょう。さて、「偉そう」とひとことで言っても、その意味は一つではありません。
そこには、「崇高さ・高尚さ」、のようなある種の聖性を持った「偉そう」もあれば、一方では「傲慢さ・鷹揚さ」のようなネガティブ側面の「偉そう」もあります。
そこで第2の結論。

 ”現在あるアートの魅力は、それら二つの「偉そう」(聖性のある「偉そう」とネガティブな意味での「偉そう」)がそれぞれに付帯する「謎性」にある。”

ようするに、「わからないところが、魅力なんだ」っていうことです。
とはいえ、この「両者」はまったく別の意味です。僕の思うところでは、「崇高さ」と「傲慢さ」は、全然違います。

全っ然、ちがう。

にも拘らず、現在のアートにおいてはどうにもこの両者が混同されていて、それがアートの魅力について語ることを理不尽に抑制させたり、ややこしくさせたりしているのだと、僕は思っています。

僕らがアートに触れるとき、多くの場合は、作品を直接目にするというよりも、人の手を介して、たとえばテレビや雑誌などを眺めている最中に触れる事になると思うのですが、その際、何の説明もなくただ作品を鑑賞するということは、まずありません。というか、なんの解説もなく作品に触れるということは、実物を前にしてさえ難しいのです。
そう思いませんか?
だって、僕らはたとえ一人で作品の前に立ったとしても、美術館であれば監視員さんやキャプションや解説、或いはそんなものが一つもなくたってさえ、そこへ立つに至るまでの様々な「情報」に囲まれていて、それら副次的な情報と一緒に作品を鑑賞せざるを得ないのです。
なので、僕らはどうしても、何らかのBGMや解説を片手に、それらアート作品に触れることになります。問題は、その、作品に副次的についてくる「あれこれ」です。

これは直観的に、また経験的に思うのですが、どういうわけかアートを説明しようとする「あれこれ」というのは、アート作品そのものから立ち上がるのとは、”別のプロセス”を経て発生している「崇高さ」や「高尚さ」、そしてそれらとどうしても見分けのつかない「傲慢さ」や「横柄さ」などを捏造しているように、僕は感じています。
たとえば、どうして美術作品を案内するテレビ番組では、クラシック音楽がひっきりなしに流れるのでしょうか。(或いは、本当は流れていないのに、僕の頭だけにそんな音楽が流れているようなイメージがついているのでしょうか。)
たとえば、どうしてテレビのバラエティー番組っていうのはあんなに騒がしいのに、こと美術を扱うとなると、メディアはそろって襟を正すのでしょうか(そんな中で、『たけしの誰でもピカソ』はかなり奮闘しています)。彼ら情報の送り手は、何だか自分が間違えるのを、他の分野を紹介するときに比べて酷く怖れているように僕には見えます。そしてそれを怖れるがあまり、明治期から延々とつづく「イメージとしての、西洋絵画の紹介史」をただ丹念になぞっているだけであるように感じられます。

勿論、実際にTVや一般雑誌などのメディアを作成している人たちの中には、そのようなスタイルを基本的には踏襲しながらも奮闘している人もあるでしょう。しかし問題は、初めに選択できるスタイルに、幅がなさ過ぎるということです。僕らは多分、明治期からつづいているような仕方でしか、アートを紹介できない。と、思い込んでいる。
そしてこれが先の結論の言い換えになるのですが、だからこそ、アートは「偉そう」に見えるし、さらに言えば、だからこそ、アートには魅力が生じます。

明治期以降の紹介史をなぞる為、というだけの理由で捏造されてきた「アートは崇高なのだ」という思い込みによってのみ展開されている、偉そうに見せる解説や紹介を通して、つまり僕らは「ああ、アートは偉いんだ」と思うわけです。思うわけなんだけど、当の作品を近くで見ても、また雑誌などで見てみても、どうして偉いのかがよくわからない。わからないんだけど、でもどうやら偉いらしい。と考えたときに、そこには「謎」が発生します。そしてその「謎」が、「魅力」の源泉になるのです。
現代においてもアートが魅力的足りえている大きな理由は、とりあえずここにあると僕は思います。

と言っても僕はべつに、”本当はアート作品そのものにはまったく「謎」も「魅力」もなくて、すべては紹介史によって捏造されたものなんだ。”と言っているわけではありません。
アートはもしかすると(というか)、きちんとそれ自体が「謎」を抱えているかもしれないです。僕はそう思います。でも、先に挙げたような「捏造された謎」も一方では消しがたく、未だにあるわけです。そのような意味で、このように言うことができます。

 ”現在、アートは二方向の謎を抱えている。”

ということで、これまでの話を軽くまとめる意味で、その「二方向の謎」について整理してみましょう。
アートが抱える一つ目の謎は、いわば「捏造された謎」です。
文中では「明治期以降の、イメージとしての、西洋絵画の紹介史」としましたが、ようするに、「傲慢・横柄」タイプの「偉そう」なアートを象徴するのが、この「謎」です。どうして威張っているのかちょっと「謎」な人たちが、アート界には横溢しています。いや、アート鑑賞界と言ったら良いのでしょうか。本当に、どうして美術史を知っていることがそんなに偉いのか、と思うような人たちですが、でもそういう人たちが振り撒く「アートは偉いんだ」の言説こそが、アートにある種の近寄りがたさを感じさせて、そこに歪んだ形ではあれ、「魅力」を発生させていることは事実です。僕の言う、アートにまつわる「捏造された謎」というのは、このことです。

さて、もう一方の「謎」は、じつは僕はあんまり実感できてないんです。だって、「捏造された謎」に邪魔されてるんですもん。だから、これはあくまで「予感」としての仮説です。つまり、

 ”アートというのは、本来的に「謎」を抱えている。”

どうしてそんなものが生まれたのか、鑑賞者はもとより、制作者にさえよくわからない、聖性を帯びた「謎」。アートというのは、そういうものを持っているのではないか、と僕は思っています。

さて、そんな中で、僕がこのコミュニティも含めてやっていきたいことは、その捏造された方の「謎」と、それが導く「魅力」を、すべて剥ぎ取ってしまう、ということです。
思うに、アートについての言説は、もっと間違っていいはずです。というか、実際にすでに間違ったことは沢山言われているはずなのだけど、当の言っている人間が「偉そう」なものだから、その周りにいる、優しくてちょっと臆病な僕らはなかなかそれに突っ込めない。それに、突っ込む段階で僕らがつまづいて(間違って)しまったら、逆に彼ら「偉そう」な人たちにどれだけあげ足を取られるものか、想像するだけでも恐ろしいからやっぱり突っ込めないでいる。

でも本当は、そんな状態を終わらせる為にも、周りにいる優しい人たちはどんどん間違ったことを言うべきだし、間違ったことを言う人がどんどん増えていかなければなりません。なぜなら、そのような形で「突っ込める人」や「議論に参加できる人」が増えることで、「場」もどんどん成熟していくからです。これまで「偉そう」にしていた、限られた発言者たちは、他に参加者がいないのをいいことに、「場の成熟」への努力を怠ってきた、と僕は思います。すべての先達が、とは言いませんが、大抵の先達が、とは言っても良いでしょう。
彼らはもしかすると、「部外者の発言が、自分たちの住む場所をより快適で楽しいものにしてくれるかもしれない」などといった想像をすることが出来なかったのかもしれない。 或いは、素人の発言に気を向けている暇もないほど、日本に西洋風のアートを根付かせる作業が難渋なものだったのかもしれない。でもいずれにせよその工程の末に訪れたのは、「素人は口を出すな」といったアートを巡る機運と、同時に現れた「アートの知識を良く知っているということは、どうやら偉いことであるらしい」という、捏造された「偉そう」であり、それは「どうしてアートを紹介する人は偉そうなんだろう?」という「謎」を呼び起こし、さらにそれが導く「魅力」も形成してきました。

しかしながら、僕がイメージする、「成熟した場」、つまり、アート作品が本来持つ(持っているのであろう)「謎」や、それが導く「魅力」を鑑賞者が生で体験できる世界を迎える為には、そうした「捏造された謎」を無効にする必要があります。

では、その未来像は、具体的にはどのように作られ得るのか。
たぶん、結構簡単です。

 ”言いたいことを好きなように言う。”

それだけです。
批判されても、「偉そうな批判」には耳を貸さなくっていい。なぜなら「偉そうな批判」というのは、相手の発言内容には一切関心がなくて、言っている自分をアピールするためのものに過ぎないからです。

また、もしかすると優しい僕らは、怖れずに発言している自分自身を「偉そう」だと感じるかもしれない。あり得ることです。
でも、「怖れない発言」と「威張った発言」では、じつは使われている言葉はまったく同じです。だから、言葉だけにとらわれて自制を働かせる必要はないです。

ついでなので言うと、「威張った発言」が威張って聞こえるのは、相手が誰であろうと、不特定多数の相手よりも自分を高みに設置して成された発言です。だから人は、そういった発言に触れたときに、その発言者を「偉そうな人だな。」と、敏感に察知できるのです。
ただ問題は、その「偉そうな人」の論に筋が通っていた時で、優しい僕らは多くの場合、その点にこそ戸惑うわけですが、これもまったく問題ではなくて、なぜなら「筋の通った論」というのは、遠くギリシャ哲学の時代から人間たちがバトンをリレーするようにして継いできた「受け売りと改良」による思索の歴史を辿ってきた「生きる為の道具」でしかなく、仮にその道具を「威張った人」から受け取ったのだとしても「威張った人」そのものを認めたり受け入れたり、ましてや屈したりしたことにはなりませんし、また「威張った人」をその場で無視して受け取らなかったところで、他のルートから同じ「論」(道具)を受け取ることは可能だからです。
要は、「筋の通った論」はどこにでもあり、それ自体に価値はないが、「筋の通った(偉そうではない)話し方」をする人は少なく、「誰から話を聞くか」という事の方がよっぽど大事だということです。

なので、僕らは怖れずに発信して良いのです。

思うのですが、年をとるにつれ人は段々、間違えることを怖れます。それも、「どうやらこれを知らないのは恥かしいらしい」と思えることについてはとくに口をつぐみがちです。

20歳も過ぎてしばらく生きると、「今ヒットチャートでは何が流行っているか」とか、「中学生の間ではこんなアイドルが売れてるらしい」とか、「若い小説家でこんな人がいる」とかいう事については「別に知らなくたって恥かしくない」と思っているのに、こと話題がコンピューターやアートのことになると、「いやー、そっち方面にはウトくて(笑)」なんて言ってしまう。

アートだってコンピューターだって、アイドルや若い小説家や携帯の新機種と同じように、どうでもいい感じでちゃらちゃら話せばいいです。それで、「おっさん、それもう古いよ。」なんて、若い人たちに何の悪意もなく言われたなら、そのまま続けて話したらいいです。「え、そうなの?」とか。
だってそんなの、人生や人格を否定されているわけではまったくないのです。
というかむしろ、アートにまとわりついている、「捏造された謎」を引き剥がす為には、そのような過程が間違いなく必要なのです。

じゃあ、まとめます。

■まとめ

1) アートは現在、二つの謎に支えられた魅力を有している。
 一つ目の謎は「捏造された謎」であり、もう一つは、「本来的な謎」である。

2) 前者は、アートに関わるある種の人が振り撒く「傲慢さ・尊大さ・鷹揚さ」が元になっていて、それを見て「どうしてこの人は、そしてこの人が成すアートの紹介はこんなに偉そうなんだろう?」という「謎」が、アートを魅力的足らしめている。
 後者は、ただ作品を観る際に、鑑賞者の内に立ち上がる「謎=わからなさ」がもたらす魅力である。

3) 今後、僕は前者のような見方を一旦、方法的に撲滅したい。前者のような鷹揚さなどを、一回全部「ダメー」なものとして断罪して、「アートは全然偉くない」という事に、方法として、してみる。
 方法的に、というのはつまり、僕は本当は「アートは偉いのかもしれない」と思っているということで、でもそれは、一般にあるような「それについてよく知っている人が偉い」とか、「紹介している人が偉い」とかいう事とはまったく関係なくて、作品そのものがもっている「謎性」がもたらす「偉さ」であって、それを知るにはまず作品に等身大で触れなければならないので、その「等身大で触れる」を成立させる為にも、今流布しているような形での「偉さ」を焼き尽くさなければならない。
 たとえばその焼かれた後の風景で人は、携帯の新機種について語り合うように、2006年の最新型アートと16世紀初頭のダ・ヴィンチのデッサンを並べつつ「間違い8割」ぐらいの軽口を叩き合っているだろう。というか、そうならないといけない。とりあえず。

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