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日本の城 訪問記コミュの日本100名城 74岩国城

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まずは岩国という地名の由来から…。

平安末期、この地は平家に属する「岩国氏」という一族が、勢力を保持していた。
おそらくそれが由来であろうとされている。

平氏滅亡後、弘中氏がこの地を治め、鎌倉時代後半には、周防の国の守護「大内氏」の武将になる。

1555年 厳島の役で毛利元就に敗れ、この地は毛利地盤になる。

岩国城・築城主の吉川広家(吉川元春の三男、元春は毛利元就の次男、後に吉川家に養子入り…これは当時毛利家より格上の吉川家を乗っ取る思惑が、元就にあったのではないかとされている。)が、関ヶ原の合戦後、月山富田城より三万石に減封されて、岩国入り、この地に城を築き、城下町岩国の礎が形成される。

かつては毛利の司令塔として活躍した吉川元春〜広家、同じく広島城を追われ、萩に減封された毛利に忠誠をあらわすように岩国に定住したのだが、1615年の「一国一城令」により、破却を余儀なくさる。

1607年に13年かけて造られた岩国城は、わずか7年という工期よりも短い時間で姿を消すことになった。

で…。

現在の山口県は長州藩…。なのに何故か吉川家はこの後も実際には承認されていない「岩国藩」として、城を失った後も「御土居(おどい)」を築造し、城下町岩国を統治、吉川家は明治4年まで13代にわたり岩国を治めてきた。

これには広家と石田三成の少なからぬ因縁がある。
関ケ原西軍の将・石田三成は、広家のことを評価していなかった。

加藤清正の朝鮮出兵でも援護射撃にまわったことからも、心情的には東軍を支持。しかし毛利を裏切るわけにいかず、広家の苦心が続く…。

結局毛利秀元から「裏切り者」のレッテルを貼られ(実際小早川秀秋のように反旗を翻したわけではないのだが、秀元の出陣を妨げ、敗戦に追い込んだとされた。)徳川家康からは「藩」と岩国城を認可されるも、本家(萩に移封した毛利)からは領主としてしか認可されない、複雑な立場(佐賀・鍋島藩と何となく似ている)を強いられてきた。

話が大きく脱線してしまったが、現在の岩国城は昭和37年に再建、地盤が弱かったのか、かつての天守閣があった場所(石垣が残っている)より少し南に建てられた。

天守閣から、大きくカーブする錦川、錦帯橋、岩国市街のパノラマが美しい…。
2回には錦帯橋をはじめ、日本の珍しい橋の写真が展示されているので、こちらも見てほしい。


コメント(3)

パノラマ

天守閣武者窓より錦帯橋を眺める
岩国城へは、ロープウェーでどうぞ…。

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