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日本近代史コミュの靖国神社A級戦犯合祀についての疑問

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キュブ零と申します。まだまだ素人で恐縮なのですが、靖国神社について、より詳しく知りたいが為に、作家であり、元文化庁長官の三浦朱門氏の『靖国神社 正しく理解する為に』を読んでおります。その中で疑問に思ったのがA級戦犯についてです。今まで、新聞やテレビの報道を見ながら、A級戦犯とは、先の大戦において最も重い罪に負われた人たちと理解していたのですが、そもそもA級、B級、C級は罪のランク分けではないようですね。A級は侵略戦争を遂行した「平和に対する罪」、B級は戦争法規や慣例に違反した「(通常の)戦争犯罪」、C級は民間人に対する迫害を実行した「人道に対する罪」という犯罪の種類による分別だとか。そしてA級「平和に対する罪」というものが今まで国際法上になく、戦勝国が敗れた日本を裁く為、東京裁判で急遽作った罪だという趣旨がのっていました。
A級戦犯合祀問題については、まだまだ難しい問題でもあり、意見は控えさせていただきますが、何故、政治家、新聞、マスコミ、識者等、これら戦犯の本当の意味を語ってくれていないのでしょうか。このことを知っているのといないのとでは、合祀問題へのアプローチも違ってくると思うのですが。このコミュニティに参加されている方にとっては、戦犯の本来の意味は常識的にご存知の方が多数と思いますが、素人の私にわかりやすく教えていただけませんでしょうか?宜しくお願いいたします。

コメント(59)

はじめまして。
学部で朝鮮近代史を勉強しています。
日本近代史は専門ではないのですが、内容に非常に興味があったので発言させていただきます。

日本が侵略によって領土にした地域が現地人の反発を受けながらも、工業化を中心とする発展を遂げたというのは事実だと思います。
このようなことは「植民地近代化論」などで、すでに充分検討されています。

ただ国際状況を考えるとやむをえない状況だったから、侵略して手に入れた領土を近代化させたからという、そのような理由だけで当時の日本を肯定的に捉えるのはどうかと思います。
日本の海外膨張の過程においても、植民地の近代化の過程においても、そこには現地や現地人に対するなんらかの暴力性が働いていたのは確かです。
そこに目が向けられない限り、戦前の日本の海外に対する行為は完全に評価し得ないと思います。

靖国神社とはほとんど関係がない話題になってしまいましたが…。
>ATAMAさん

当時、国際社会の中で「侵略」戦争は確かに、違法行為でした。
ただし、「自衛」戦争は違法ではありませんでしたね。そして
誰が「自衛」か否かを決めるのかは、当該国によるというものでした。即ち、自国が「自衛」戦争であるとすれば、それは「侵略」ではないという、ある意味不完全なものでした。不勉強ですが、今の国際社会でも「侵略」の定義は完全なものではないと思います。

”問われれば「正」でないことは自明だと思います。”
私は、それで何が悪いのかという事を考えているわけです。
欧米列強国が、自らの過去の行いについて謝罪、反省していますか?「問われて『正』とは言えない」と云うでしょうか?ドイツでさえ「ナチスの残虐行為」に対しては謝罪、賠償を行っていますが、他国を侵略併合した事などについては謝罪してません。といいますか、俎上にものぼってないと思います。弱肉強食が当時の国際情勢であった以上、自らが「強」にならなければ国家の存立は危うくなります。

「侵略か否か」については、様々な解釈があろうと思います。私も過去の日本の行いを全て正当化しようとは思っていません。
ATAMAさんの読まれた本の中に、戦後マッカーサーが米国上院の軍事委員会で、「あの戦争は日本にとって安全保障上の必要に迫られた戦争だった」と証言した事は載っていたでしょうか。

>guttiさん
ぐたぐたごたくを並べましたが、私は「A級戦犯」の方々も合祀されていることに、目くじら立てて反対してるわけではないのです。「分祀」にも反対です。積極的な賛成者ではありません。ただ、仮にある人が東條首相の懲罰徴兵によって無理矢理死に至らされた人の縁者であり(普通に徴兵されて戦地に赴き、戦死された人とはその感情は別者)、「私の親戚は、あいつのために殺されたんだ」と言ったとしたら、私は果たしてどういう言葉を返せばいいのかという事が気にかかるもので・・・。だから、旗幟を闡明にできないのです。
それと、死者にむち打つような事をするのは非礼であると思いますが、そうかといって当時の施政者の敗戦責任をうやむやにしてしまうのは如何なものかという思いです(誤解なきよう言いますが、今さら裁くべきということでもありません)。
横槍を入れるようですが、私もゼロさんのおっしゃるとおり、日本の行った戦争が侵略戦争であったか否かとか、どこからが侵略かというような議論は無意味だと思います。

当時の社会情勢として、帝国主義が全盛であり、欧米列強はこぞってアジアやアフリカに進出していったわけです。当時の日本は、そういう国際社会にあわせて、独自の方法で進んで行ったにすぎないわけです。つまり、帝国主義下の世界情勢では、侵略戦争をしてでも外に進出して自分の勢力を大きくしていこうというのは常識の範囲内であったわけです。そのことを無視して、後世の人間が「15年戦争は侵略戦争だからよくなかった」といっても、それはあとづけの論理でしかないので、時代を認識した理解だとはいいがたいのではないか、と思うのです。

歴史事象に対して、後世の人間が、正邪とか、善悪とかいう区別をしようとしただけでは、歴史事象を「評価した」に過ぎないのであり、評価というものが主観的性質を持つ以上、価値観の相違によって、おなじ論点で似たような論争ばかりが起こる…これをナンセンスといわずしてなんといいましょうか。

歴史事象は、当時の社会情勢・思想的背景・登場人物の人間関係・力関係といった、さまざまな要素を見ていかねば説明がつかないのですから、東京裁判もしかり、「誰が悪い」「どこが悪い」ではなく、「太平洋戦争後に行われた東京裁判という戦後処理」を歴史的にどう「説明する」かを考えるべきでしょう。もっとも、それは歴史家の仕事なのかもしれませんが…。

善悪・正邪という論点で評価を試みるのも歴史を考える上での楽しみの一つでありましょう。が、それは学術的な解釈とは違います。ATAMAさんが読まれた歴史書に「日中戦争は日本の侵略戦争だった」と書いてあったとしても、それがよかったか、悪かったか、という話までは書いてないんじゃないですか?通史を編纂するほどの歴史家がそこを履き違えたことを書いているとは思えないのですが、いかがでしょう?
ちなみに、侵略の国際法上の定義は「1974年12月14日の国連総会決議3314により現代国際法上の侵略の定義が初めて定まった。」とwikiにあります。逆を言えば、国際法的にはそれまでは侵略が存在しなかったとなります。

> 弱肉強食が当時の国際情勢であった以上、自らが「強」にならなければ国家の存立は危うくなります。

私も同意です。
もちろん、国際法そのものが欧米の基準で出来上がっている以上、同じ価値基準を持ってこなかった人々を虐げた事を全て正しいとは思いません。ですから、ピサロも19世紀の欧米も・・・「今」の我々にとっては、道義的には侵略だと感じています。
しかし、あくまで今のような国境がない時代、弱肉強食時代が何千年も続いていたわけで、ようやく国境や人種を越えてまともに話ができるようになったのはここ数十年の話です。
(*17世紀のウェストファリア条約がありますが、アジアやアフリカを国としてみなしていたわけではありませんので.)

そのような歴史の連続性を考察する限り、日中戦争の一部の事件を取り出して批判することはできないと思います。もちろん、反省すべき部分はあるでしょうけど、当時に至る世界情勢を抜きに侵略だと思われる部分のみにスポットを当ててしまうために、外交も国際社会の中でのポジショニングもおかしくなってしまうわけです。そして、開国以降の日本のおかれた状況やその当時を引張った人たちのビジョンも理解しない国民が今の政治家を選んでいるわけです。

>ゼロさん
>だから、旗幟を闡明にできないのです。

そのあたり、よく気持ちはわかります。
上では侵略でないというようなトーンの主張で書いてますが、「私の祖父は日本人に殺されたんだ」という中国人に面と向かっていえることではないですね。
ですが、正当に徴兵されても、ヘボ指揮官の作戦のせいで殺されてしまった人たちもいたことでしょう・・・。私の家内の祖父は沖縄戦で戦死していますし・・・、このあたりの泥沼戦が本当に必要だったかどうかはかなり疑問です。

ですけど、個別感情と敗戦責任は別物。

感情論で裁きたいのであれば、処罰覚悟で暗殺しにいくか、当時の国内法での措置以外はありえませんから。
怨恨感情を持つ人もいる一方で、彼が戦争責任を天皇に押し付けなかったがために今の皇室や憲法、今の日本があるのも事実です。その歴史的意味・価値を全否定することができるなら、東條英機を全否定できると思います。
>トトロさん
「歴史事象に対して、後世の人間が、正邪とか、善悪とかいう区別をしようとしただけでは、歴史事象を「評価した」に過ぎないのであり、評価というものが主観的性質を持つ以上、価値観の相違によって、おなじ論点で似たような論争ばかりが起こる…これをナンセンスといわずしてなんといいましょうか。」

我が意を得たりです。

>guttiさん
その国連決議ですが、確か留保国がかなりあるように記憶しています。つまり1974年時点でも「侵略」の定義は明確には定っていないように思います。
私も東條首相が東京裁判において天皇と国家の名誉を守ったことは大いに評価します。ただし、それはそれ以外の免責にはならないのではないかと思っているだけです。仰ってることよくわかります。ただしかし・・・といった感情ですね。


>ジョーダンさん
「見えるものの立場にたっていかに見えない世界を描くか。それが歴史じゃないでしょうか。 」
いい言葉ですね。
ただ、「中国侵略は云々という道徳論」であるならば、満州事変にそれを持ち込むのは矛盾してませんか?
細部にはコメントしきれませんが、第二次大戦は、基本的には「全体主義国家VS自由主義、民主主義陣営」という対立構造だと認識しています。

「当時の日本の主張は不当ではなかったけど、国際社会では受け入れなかったのだ」というのは、現在の北朝鮮が「私たちは自国を自衛する正当な権利を有しており、そのために核兵器を開発せざるを得ないだけであって、不当ではない。国際社会で受け入れられないのは納得できない」というのと、どう違うのでしょうか。

当時、日本によって、侵略されたところが近代化、工業化されたかどうかということは、論点のすり替えでしかないと考えます。
>26
全体主義国家「ソ連」の立場はどうなるんでしょうか?w

国家社会主義ナチスドイチvs最古の社会主義国家ソ連


この一点だけであなたの理論が破綻してますがwww
19: gutti さん

満州事変は日露戦争による合法的な成果物ではありません。
日露戦争による合法的な成果物は 満鉄の線路の周り200メートルに鉄道守備隊置く事だけです。 そこから出たから国際王違反の侵略なんです。 
>ATAMAさん

貴兄が認識されている対立構造は、大雑把すぎて本質を捉えられていないように思います。チャンコ増田@増田さんが仰られているようにです。

また、当時の日本と現在の北朝鮮の立場、どう違うのかという問題ご提起ですが、先ずひとつは「時代が違う」としかいいようがありません。ふたつめは、そのような論点(国家防衛)で言う限り、何の違いもないと思います。同じことです。ただし、今と昔は価値観(国家防衛、戦争観)が全く異なりますので、今の北朝鮮とかつての日本の行動を同じ土俵に置くのはあまりにも大雑把すぎる気がします。

>侵略された所が近代化、工業化・・・云々
これについては、あくまでも結果であって、貴兄の仰る「被侵略国」がそういわれるならともかく、この国の歴史を引き継ぐ者としてその結果だけを声高にいいつのるのはどうかと思っています。ただし「悪いことばかりした」と非難されると、「おいおいちょっと待てよ」と反論したくなるのも人情であろうとも思います。

>HAMさん
横やりですが、満鉄権益を守るための自衛だとも考えられないですか?国民党政府は、第二満州鉄道を敷設しようとするなど、貴兄の仰る「国際法」に守られた日本の権益を明確に侵害する行為等を多く行っています。これへの対抗措置としてあの事変があったとは考えられないでしょうか?
>27
>全体主義国家「ソ連」の立場はどうなるんでしょうか?w

これは失礼しました。あの時点でソ連の体制がどれほどのものだったのか不勉強で判断しきれません。ドイツよりもファシズムであったということはなかったとは思うのですが。


話しを戻しますが、日中戦争は日本の侵略戦争だったという位置づけは認識としては間違っていないと思っています。

国際的な問題に限らず、当事者は自分の都合を主張するものです。当事者の言い分が対立したときに、どこかの機関がどちらの言い分により理があるかを判断するというのは妥当なシステムではないでしょうか。であるならば、満州事変後の国際連盟の裁定を否定はできないのではないでしょうか。

また、事実認識が大雑把すぎで本質を捉えられていないように感じるというご指摘ですが、細部にこだわりすぎて物事の全体像をディフォルメしてしまうということもあるのではないでしょうか。
そうですよね。同感です。精神的自由権はどんなことばでもいいつくせない大切なものですよね。

ネパールも、昨年末に大きな変化ありましたよね。これからは良くなっていけば良いですね。

関係ないですけど「うつくしいくに」というのは、後ろから読むとその本質があらわれてくるというユニークな指摘があります。
ゼロさん

確かに 対抗措置でした。 ただ問題はそれが、諸国に認められるかどうかが問題です。というのは日本は当時から資源の少ない貿易立国であって、(今でもそうですが)単独では生きていけなかったからです。

満鉄権益を守る目的であっても、満鉄周辺から兵を進めることはポーツマス条約違反だったのです。 相手方が違法行為を行っていたとしても、こちらの違法行為が正当化されるわけではありません。

日本としては 国際社会に認められる方法よって、たとえば国際連盟を利用してイギリスと組むという発想があったなら、という風には思います。

所詮 国際法は慣習法なので 有力国、この場合はアメリカ、イギリス、に認められる方法が必要であったと 私は考えています。 たとえばリットン報告は日本の立場とイギリスの国益を踏まえたものでした。 また、松岡のパフォーマンス外交は最悪でした。 
ATAMAさん、

すくなくとも私は、国連の判断に対して異議を唱えているわけではありません。

問題なのは、あなたの論が主観的に過ぎるということです。ウチの教授みたくいうならば、事実を客観視した認識ではない。

ジョーダンさんもおっしゃっておられますが、歴史事実を描写する際には、現在の価値観で過去を捉えてはいけないんです。
当時の感覚として侵略戦争が当たり前だった以上、今現在の感覚で「日中戦争は日本の侵略戦争だった」といってみたところで何の意味もないのですよ。

後世の人間である我々にできることは、残された手がかり(史料)に基づいて、わかることを連綿と編み上げ、歴史的事象の真実を明晰判明にしていくことだけだ、と私は考えています。

また、

>事実認識が大雑把すぎで本質を捉えられていないように感じるというご指摘ですが、細部にこだわりすぎて物事の全体像をディフォルメしてしまうということもあるのではないでしょうか。

ということですが、それはそのとおりだと思います。論者が書く際に注意しなければならないことでしょう。

しかし、これではなんの答えにもなっていませんよね。
あなたの論が「事実認識が大雑把すぎで本質を捉えられていないように感じる」という指摘を受けたのであれば、論者であるあなたがとるべき姿勢は、ご自分の事実認識の甘さを認めてみせるか、ご自分の歴史認識は決して大雑把でないということを示すか、の二つしかないはずです。

もしもATAMAさんが後者を取られるならば、チャンコ増田@修羅場さんの指摘に対して「いやいやそのこともちゃんと視野に入ってますよ」と返してみせるべきでしょう。それをしないでゼロさんに反論しても仕方がないと思うのですが、違います?
HAMさん、
>日本は当時から資源の少ない貿易立国であって、(今でもそうですが)単独では生きていけなかったからです。

この点については、満州事変を進めた石原莞爾がきわめて鋭いことを言ってます。「もともと、日本は鎖国して一国で生きていく覚悟でやっていた、それを無理やり開国させたのはアメリカではないか」と。
そうすると、日本としても世界の中で生き残る方法を考えなければならないので、欧米列強への対抗のための近代化政策を取る必要があるというわけです。
つまり、江戸時代から明治までは他国の資源を利用しなくてもやっていたわけで、外部への膨張の必要性を生んだのは当時の日本を取り巻く世界情勢であり、それを要求したのは欧米列強によるアジアへの圧力です。

少なくとも、近代化し、武装しない限り、どこかの植民地のようになっていたでしょうね、日本は。
第二次世界大戦の惨禍を学んだ我々は、戦争が悲惨すぎるものだと思っているので、戦争を避けることを大前提として考えていますが、原爆やB29による空襲を体験しない時代ではそこまで悲惨なものだと考える人は少なかったのだと思います。

だから、『「自衛のための膨張」をして何が悪い!?』という発想を当時の人が持つのはきわめて自然だと思います。
そうしないのであれば、ガンジーのように武力ではない手段で抵抗を続けるしかありませんからね。


> 相手方が違法行為を行っていたとしても、こちらの違法行為が正当化されるわけではありません。

この主張はわかりますし、無理に南下して本土に攻め込んでいく必要はあんまりなかった・・というのは私も感じています。
ただ、法的措置が通用しない敵、ゲリラ戦法を敷く敵、そこから自衛するための問題の根をどこまで取り除くか・・そういう問題があると思います。
問題の根を完全に取り除くのが正しいというまでの強い意見は持っていませんが、当時の状況では自衛を放棄して命を危険にさらすのが妥当だとも言えません。
今の北朝鮮と戦前の日本が似ているということはある程度うなずけます。天皇を金日成と置き換えることも可能でしょう。私は戦前のことも少しは体験していますが、神武天皇等が伝説上の存在であることも聞いていました。大正時代に既に津田左右吉が「記紀批判」をしていて、彼の書籍は昭和16年に発禁になったので、「紀元2600年」も伝説を基準にしているのは常識でした。その辺、北よりは自由があったと思います。
それにしても北朝鮮は日本より60年以上遅れているといわざるを得ませんね。
ソ連が「モロトフ・リッペントロップ秘密協定」により、1939年フィンランド、バルト三国に軍事介入をしたことはご存知と思います。この行動によりソ連は国際連盟から除名処分になりました。これは「東京裁判」の証拠にも提出されましたが、受理されませんでした。こんなソ連が「東京裁判」を裁く権利があるかということです。
誰かも書いておられましたが、織田信長が今川を闇討ちにしたのは怪しからんとか、徳川家康が妻と長男を織田との関係保持のため殺害したのは、道徳に反すると云ってみたって意味ないと同様、日本が「侵略した、侵略した」とわめいても仕方がないことです。第一満州は万里の長城の外側にありますね。もともと漢民族の領域外です。五億の信者を持つバチカン様も満州国は承認されていました。
いずれにせよ戦争行為の善悪を決めるのは無理です。戦争がないのは良いに決まっています。しかし国家がある限り、何時でもありえます。戦争のないそんなきれいな世界はありえないでしょう。
今の日本は交通事故で1万人(最近は少し減ったようですが)、自殺者が3万人、計4万人死んでいます。10年で40万人です。100年後の歴史家が、あの時代はとんでもない危険な時代だと書くかもしれません。でも、今の人々は危険な時代と認識していません。当時の「侵略」も似たようなものです。
>ATAMAさん

ソ連とドイツは同じ穴の狢ですので、いわば兄弟同士の骨肉の争いですよ。貴兄がどの程度の認識で「全体主義」を捉えていらっしゃるのかわかりませんが、「ファシズム」も「スターリニズム」も結局は同じことです。また、ドイツ、イタリアは全体主義の国という理解で結構だと思いますが、日本はそうではなかったと思います。
全体主義の代表的見解でもあるF=ブレゼジンスキーの「全体主義的独裁と専制」による同体制の徴候とは次のようなものですが、当時の日本は当てはまるとお思いですか。
1.首尾一貫した完成したイデオロギー
2.独裁者の指導による単一大衆政党
3.物理的・心理的テロルの体系
4.マスコミの独占
5.武器の独占
6.経済の集中管理と指導
私は、当時の日本が全体主義の国であったならば、もう少しまともな戦いができたであろうとも思いますがね。

また、「侵略」という言葉には道徳的に非難されるニュアンスが含まれているので、後世の価値観をもってその言葉を使うことの是非に対しての疑問を私が貴兄に投げかけたわけで、他の方々によっても同様の意見がなされています。これは、モンピエさんの喩えられた「交通事故・・・」がそれをよく表現していると思います。

東京裁判で訴追されることになった「侵略戦争」ですが、これは
「war of aggression」の訳でした。「aggression」の意味は「挑発を受けないのに行う攻撃」です。国際法的概念としてのそれも「不当な武力攻撃」を意味するだけのもので、日本語の「侵略」に内包されるような、略取、掠奪というような意味を含む事はないそうです。東京裁判の翻訳者の誤訳は大きな問題だと思います。また、今でさえ「侵略戦争」の定義は明確には定っていないというのはguttiさんの言われた通り。

「国際連盟」も「国際連合」もその論拠とした「不戦条約」ですが、これは前にも書いた通り、侵攻戦争か自衛戦争かの解釈権は各国に委ねられており、英国は「自国領土以外の海外の地に存在する合法的権益を侵害から守ることをも『自衛』と見なす」ことを確認した上で当事国となっています。日本の満蒙地域における権益を守ることにまで及ぶという解釈は英国と同様のことです。

日華事変の発端は昭和12年7月7日午後10時40分頃。その後3回にわたって敵の射撃を受けながら一発も応射せず、遂に敵の一斉射撃に対して反撃を開始したのは8日午前5時30分と言われています。当初から「侵略」企図のある者の行動ではないと思います。
また、当初から不拡大、現地解決の方針で臨んだのは周知の事実。内地師団の動員を2度決定、2度中止。そんな経緯をへて、正式に戦闘状態に入ったのは7月28日です。国家の主体意志としての「侵略」とはほど遠いのが私の感想です。

>HAMさん

どうも物事の順序が逆になっているように思えるのですが、日本は一国では生きて行けないからこそ、満蒙に進出したのではないですか。当時は自由貿易体制ではなく、ブロック経済圏でがんじがらめの状態でしたよ。だから、日本も独自の経済圏を構築しようとしたのが後の「大東亜共栄圏」だったはずです(この事の是非は今は問いません)。当時の米国の対日経済封鎖はひどいものでした。

私「ポーツマス条約」はその中身まで知らないので、それが同条約違反かどうかはわかりませんが、相手国の不法に対し、自衛権の発動を禁じるほどの条約ってあるんですか?相手の違法行為に対し、自衛権を発動するのは合法的なものだと思いますが。

「国際連盟を利用してイギリスと手を組む・・・」
これは到底不可能な選択肢です。日英同盟を破棄させられたのは1921年、米国によってですよ(この辺りあまり勉強してなく、うろ覚えです)。それも1919年のベルサイユ会議では日本も連合国の重要な一員として加わり、貴兄の想定されているであろう「国際社会」(米英仏等)と蜜月関係にありましたが、その僅か2年後のこのかつての「戦友」とも言える国々の背信行為。米国全体を対象とした「排日移民法」は1924年です。英国も米国と歩調を合わせ出したのはこの頃ですよ。私は、この一連の行動の背後には間違いなく人種差別があったと思っています。

HAMさんの言われるように、満蒙における日本の取り得た他の選択肢として、米国ハリマンの満鉄共同経営を受け入れていたら、その後の日本の歩みは違ったものになったかなとも思いますが、所詮アングロ・サクソンと東洋人、いずれ破綻をしただろうとも思います。
35: guttiさんなどへ


欧米の圧力により開国させられたのは、そうなんですが、満州は だだっぴろいが石油は出ないし、産業もない。 そこを取るために 混乱していたとはいえ 華北以南との貿易を捨てるとは 経済センスのない考え方、政策でした。 実際 満州事変後は満州以外との貿易量はかなり減少しています。そして、石油を得るためには さらに南方にも行かねばならなかったわけで。

またブロック経済を日本主導で作れるのであればよいが 実際はその力はなかったわけです。 また アメリカが日米通商条約を破棄したのは満州事変後、さらに鉄、石油の禁輸に至ったのは さらに日中戦争開始の大分後の1941年の南部仏印侵攻後であって 満州事変の前にブロック経済化していたのでありません。

好き嫌いの好みはあるでしょうが、戦後 アメリカ経済圏に入ってから 満州を捨ててから日本経済はこれだけ発展したわけです。 私も別にアメリカが好きでもありませんが...

欧米が嫌いだからそうしたくないというのは 個人レベルではいいですが 国の政策ではそれは通用しないと考えています。

日米同盟は 戦後60年破綻していないわけで その間に日本と日本人が得た利益と基地の負担などのコストを差し引いても私はプラスだと思っています。 

最後に日英同盟解消の経緯ですが、アメリカ側がイギリスに圧力をかけていたのはその通りですが、当時イギリスとしても 満州ではなく上海などでの権益で日本とぶつかるようになっており、またロシアの崩壊により共通の敵がいなくなっていた(ソビエトは1920年代初頭は脅威とまではなっていなかった)ことにより日英同盟の存続意義がなくなっていたのです。

イギリスもアメリカに言われたから はいそうですか、と決定したのではなくて 自らの損得があったわけです。
>満州事変の前にブロック経済過していたのではありません

ブロック経済という私がなした表現に語弊があったかも知れませんが、米国の極端な保護貿易・管理貿易立法である「スムートホーレイ法」は1930年です。これも突然出来たのではなく、それ以前からの「国内産業保護」のための貿易制限を改めて立法化したものだと思います。したがって、日米通商条約の破棄後に「ブロック経済」化したというのは誤認であろうかと思います。

>日英同盟の解消について

これも貴兄の考察は皮相にすぎると思います。最終段階での日英同盟は「米国に対して同盟条約の義務を発動しなくてもよい」ようになっており、仰るとおり共通の敵であるロシアやドイツの脅威が薄れたため、その同盟関係は事実上空洞化していました。しかしながら日本は国際的孤立を回避するために同盟の継続を希望していました。一方、英国においても同盟廃止後の日本が取りうる自由行動に、豪州などの太平洋の英連邦が脅威にさらされることを恐れ、いわゆる「びんの蓋」的な発想から、さらには中国における利害の調整の外交チャンネルとして同盟の継続を望んでいたのです。

米国は地政学的な恐れ「英日両国海軍に2つの大洋から挟撃されること」と、日英同盟は二国間の相互の利益を認め合う排他的条約である故、英国は必ず日本の侵略的政策に巻き込まれ、米国と共同歩調を取る事ができなくなると通知して、継続に反対したのです。

もちろん英国の損得勘定はあって当然です。しかしその収支を英国は同盟廃止時にどのように予想したかというと、

「日本代表たちの顔面は緊張したままだった。一部の英国代表は不愉快な顔をした。米国と中国の代表は大きく微笑んだ」

と四カ国条約調印式の様子をモーニングポストの記事が伝えたように、マイナスになるのではないかと予想したように思います。
確かにブロック経済化の流れはあったでしょうね。 だからといってそれに対する策が 満州では話にならないと思います。
実際 現在の中国を見ても 旧満州と沿岸地域の経済格差は歴然としており 満州を取れたとしても それでブロック経済圏ができるというのはセンスがなさ過ぎる。 南方も一緒に取れるなどというのは 甘すぎる。

また外交交渉は 戦争と同様 力関係であって、結局 事実としてイギリスは日本ではなくアメリカを取ったわけで、不愉快な顔をしようとも それはイギリスとして自国の国益を考慮した判断であったと思います。 それを否定する場合は イギリスは自国の国益を損なう判断をしていることになります。

それほど ばかな外交をやるのが 18世紀以来 したたかな外交をやってきたイギリスの行動かという点がつながりません。


つまり 日本は外交でも勝てなかったのです。 日本との同盟継続は損だと判断されてしまったわけです。 ご指摘のように日本の侵略に巻き込まれおまけに自分の権益も犯されるだけであって増えることはない。 どのようすれば たとえばどのようなインセンティブをイギリスにあたえれば彼らがこちらになびいたかは 検討の余地があります(アメリカはかつてイギリスと戦争をしたことがあり 対イギリス 軍事計画をオレンジ計画同様作成してましたから、日本と同時にイギリスも潜在的な脅威と感じていたわけで、そのあたりに付け入るすきがあったかもしれません)が、昔も今の 外務省の役人と大臣の交渉力、発想力がいまいちということでしょう。


私の個人的な意見では 最も大きな外交上の’頭の切り替え’はコテンパンにやられる前に アメリカ経済圏か イギリス経済圏に入るような外交をやることであったのでは と思っています。 実際それまで イギリスと同盟していたわけですから、幕末の欧米による強制的な開国=反欧米 という 単純な図式ではないはずです。 実際 コテンパンにやられてから、戦後アメリカ経済圏に入ったことにより、先ほど書いたような大きなメリットがあったと考えています。
>HAMさん

「だからといってそれに対する策が 満州では話にならないと思います。 」

私は、知り得ている歴史の事実を述べているのに、貴兄の論は主観論ですね。それは、あくまでも貴兄のお考えであり、満蒙を領有しようとした原因のひとつには、極端な世界経済の保護主義・管理貿易にあったということの反論にはなってないです。
また、現代中国の東北部と沿岸部の経済格差は何の関係もないと思いますが。単に地理的な問題だと思いますが。

もちろん、日英同盟破棄は結果的に英国を救ったのでしょう。私が言いたかったのは、破棄した直後の損得として、英国はマイナスで予想したのではないかと言う事です。

「外交でも勝てなかった」

同意です。ただし、「アメリカ経済圏・イギリス経済圏」の件りは、日本ばかりが恋焦がれても、前にも述べた人種差別の感情により不可能であったでしょう。特に「排日移民法」やら何やらの法律まで作った米国との経済圏など、空想上の事でしかあり得ない事だったような気がします。

P.S トピックタイトルと全く関係のない話になってきていますが
いいのですかね?
>40

>確かにブロック経済化の流れはあったでしょうね。 だからといってそれに対する策が 満州では話にならないと思います。

あの当時の状況ですと、満州に手を出す選択がベターだったと思いますが…。主力輸出産業だった絹織物などかブロック経済圏にはばまれてしまい輸出できない
→朝鮮・台湾はまだ購買力がない
→自国の経済圏で残るは満州しかない

という流れでした。


>実際 現在の中国を見ても 旧満州と沿岸地域の経済格差は歴然としており

当時の満州は日本資本が入って経済が活発化し中国本土(万里の長城より南っていう意味ね)から職と金を求めて人が集まったくらいです。

>満州を取れたとしても それでブロック経済圏ができるというのはセンスがなさ過ぎる。 南方も一緒に取れるなどというのは 甘すぎる。

今の状態を見て当時を論評するのはナンセンスです。
当時の政治家・軍人・企業人たちが手に汗握りながらギリギリの決断を繰り返した結果であることをご理解いただきたいです。

南方に進出したのは、フランスがドイツ第三帝国に負けたから。インドシナ植民地に日本軍が合法的に進出したが英米の反発を招いてABCD包囲網へとつながっていったのです。


>41

>P.S トピックタイトルと全く関係のない話になってきていますがいいのですかね?

まあいいんじゃないですか?w
愉しく議論できれば。
ゼロ さん
チャンコ増田@修羅場 さん


イギリスから見た日英同盟は不満が多いものでした。3次にわたる同盟の中で、 錦愛鉄道をめぐる対立、第一次大戦中の段政権へのファイナンス、これらに対する駐日海軍武官 ライマー大佐の日本に対する不満表明。 さらにイギリス参謀本部側では
日本の青島占拠に対する不満 を列挙できます。

従い イギリスから見て 日英同盟は意味のほとんどないものとなっていて破棄によるネットのマイナスはなかったと考えられます。

また 当時 英米と組むというウルトラCは確かに大変難しいとは思いますが、そのくらいの外交をやってほしかったということです。 戦後は日米同盟やってるわけなので。



主力輸出産業だった絹織物などかブロック経済圏にはばまれてしまい輸出できない

→ 1930年代は アメリカは日本の輸出先の第3位を維持しており 輸出できてたんです。 スムートホーレー法は農産物を標的にしたもので 打撃を受けたのは日本ではなくカナダだったんです。 


経済成長において 昔も今もその地域のインフラは重要で 中国沿岸と旧満州の差は 今の昔も同じです。 日本がそれを補う投資をするということは それだけ余計に資本コストがかかってしますのです。 
>HAMさん

私が準拠した書籍と、貴兄のそれでは書いてある事が違うような気がします。貴兄はご専門の研究者ですか?私の日英同盟の件りは「日英同盟/平間洋一/PHP新書」からです。何か、それによる当時のモーニングポストの記事さえも否定なさるようなので、これについてはもうやめましょう。

また、かなり断定的ないいようをなさいますが、「対日経済封鎖/
池田美智子/日本経済新聞社」を手元に用意しましたので、そこから引用させて頂きます。

「この法律(スムートホーレイ法)によって米国はカナダからの輸入にも強い制限を加えた。そのため、貿易収支の悪化したカナダは、直ちに米国に報復的な輸入制限措置をとると同時に、両国とは直接関係のない日本に対しても厳しい輸入制限を実施した・・・」

1926年を100とした指数でみると、米国への輸出は貴兄の仰る1930年代は32年が31、34年は28、37年は26となっています(出所は同書にある大蔵省『日本外国貿易年表』)。数字のトリックですね、確かに32年は第3位ですが、この減少幅は尋常ではありません。(ちなみに29年は104ですから、3年で7割の減少です)
少々話がずれすぎのような気がします。
A級戦犯合祀の件ついてなら、わたしはそれで良い、と思いますし、靖国以外の慰霊施設を作ることにも反対です。
それこそ国家による宗教への干渉にほかなりません。
東京裁判は復讐裁判であると同時に、政治裁判でもありました。
米国、というよりもマッカーサーは占領統治のために、天皇をはじめとする国家の統治機構を必要としていました。一方米国内や他の連合国などには「復讐」を要求する世論が強くあり、それを利して、国家機構を解体しようとする策動などもありえました。
その状況下で行われた「政治ショー」が東京裁判の本質です。
その目的は日本の統治機構の保全であり、そのことを被告人たちも重々承知していました。
「政治ショー」ですから法の正義など求めようがありません。
そもそも究極、普通の裁判でも、本当に人が人を裁いていいものかどうかは、疑問なのです。
とはいえ、これはわれわれの社会にとって、止むを得ないことです。
だとすれば、その矛盾を掬い取ることはまさに、宗教の役割ではありませんか。

もちろん国家神道と言う特殊な?宗教形態には、また別次元からの批判もあろうか、と思われますが、少なくともそれは、われわれの先祖が、その歴史の中で掴み取ってきたあり方であり、それをそう簡単に否定しても良いものかどうか・・これについても良く、吟味してみるべきでしょう。

さて、東京裁判に話を戻しますが、それが政治ショーであってみれば、その犠牲になった人々を靖国神社が祀らない、などということは、宗教法人としての靖国の本質にかかわることです。
しかしこれは今、靖国が、一宗教法人だからこそ、いえることでもあります。
戦前のような国家宗教であったなら、いちいち国の意向を気にしなければなりませんからね。
というわけで、靖国神社もまた、戦後的ねじれの中にある、と。
話題をずれしてしまったのでこれを最後に失礼しますが、満州の経済運営は以下の通り、当初の期待とはかなり異なった状況となりました。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00499279&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00499279
なぜだろうか・・・
この手の書き込みは大体同じような流れに見える・・・

肯定側と否定側。
昔の民主主義と共産主義のように相容れないものなのか?
しかしこの場合の相容れないものっていうのは・・・
熱海のほうに戦犯の遺骨を引き取った寺があるときいたのですが
どこだかご存知の方いらしゃいますか?
祖父がどこかしりたがってるのでよろしくお願いします。
>たていし様

それは熱海伊豆山 興亜観音のことですね。
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/
興亜観音先般伺いました。
松井石根大将がシナ事変で亡くなった皇軍兵士並びに中国人の慰霊を弔うために建てられ昭和15年以来伊丹氏その志を継ぐ遺児3姉妹が今もお守りしています。
細い急な登り道を車で行ったもので、これは出られなくなるのではないかと大変不安になりましたが、行き止まりに車寄せがあり
なんとかUターン出来ました。
そこに車を置き、徒歩7〜8分ほど、途中の休憩所は人も来ないのに塵一つ無く清められ一輪の花が飾られておりました。
靖国に賛成の方も反対の方も一度行かれることをお勧めいたします。
46: 写楽斎 さん
一点、確認させていただきたい。
>少なくともそれは、われわれの先祖が、その歴史の中で掴み取ってきたあり方であり、それをそう簡単に否定しても良いものかどうか・

の主語が「国家神道」となっていますが、それは「神道」の間違えではありませんか?
「国家神道」は、徹底的に批判されるべきものと考えます。
A級戦犯、もとはa項の戦犯、というような英文であったと思いますが、
なぜ「級」と訳されたかご存知の方がおいででしたら、是非教えて下さい。

ABCと言われれば、どのみちAが一番と捉えられてしまうのかも
知れませんが、「級」という訳され方が輪をかけて誤解を招く
結果となってしまっているように思います。GODを神と訳した
ことが間違いであったように…。話を逸らしてしまいましたが
シマさんの仰る
>「国家神道」は、徹底的に批判されるべきものと考えます。
の意図はなんでしょうか?
神道を政治的に利用することは批判されることであると思いますが、
神道が国民精神の拠り所であることに違いはないと思いますが…
日本人の宗教観については私の日記を見てご意見をいただければと思います。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=541932375&owner_id=12939227
54: isuzu さん
「神道」と「国家神道」は、全く違います。
そして「国家神道」とはまさに”神道の政治的利用”以外の何物でもない、と考えるからです。
シマさん

よく分かりました (*^_^*)
勘ぐったようなことをお聞きして申し訳ありません。
気分を害されたようでしたらお許し下さい。。。ペコリ(o_ _)o))
>シマさん。

> の主語が「国家神道」となっていますが、それは「神道」の間違え
> ではありませんか?
> 「国家神道」は、徹底的に批判されるべきものと考えます。

私はそれを自明、とは考えていないのです。
何事も疑う、懐疑的姿勢は学問の基本でしょう(^_^;)。
たしかに国家神道はなにか、怪物のように見なされ、批判されますが、それを私は「本当かな?」と思ってしまう・・そこで、逆の立場から書かれた本も読んでみるわけです。
葦津 珍彦「国家神道とは何だったのか」
などに描かれる姿は、そんなものとは程遠い、むしろ、在野神道にあおられ、対処に追われる姿なのです。
政治利用、などというなら右翼団体と結びついていた大本教のような、神道系新興宗教、在野神道のほうがよほど政治的で、内務省・・神祇院ははその一部局・・はこれを弾圧する(した)側です。
一方、大本教は陸軍、それも関東軍周辺となにやら怪しい関係が・・陸軍とは犬猿の中の内務省が、これを弾圧したのも分かる気がします・・教義問題などは口実だったんじゃないでしょうか?
57: 写楽斎 さん
貴方の「学問的姿勢」は判りました。

それでは「神道」では無く、「国家神道」を
>われわれの先祖が、その歴史の中で掴み取ってきたあり方
と言われるならば、その根拠をお示し願いたい。
>シマさん

> >われわれの先祖が、その歴史の中で掴み取ってきたあり方
> と言われるならば、その根拠をお示し願いたい。

それこそ、「国家神道とは何だったのか」をお読みください。
その成立過程について、きちんと説明されていますから。

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