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アンチ創価学会(女子部)コミュの創価学会の「師弟不二」の邪義を破す。 「法華経の智慧」第一巻 聖教新聞社

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さて一般的に「師弟」という場合、それは「師匠と弟子」ということで、師匠=教える人、弟子=教わる人ということでありスポーツの世界、その他学校、茶道、華道の世界等ありとあらゆる場で存在している。
では「不二」とはどういう意味でしょうか
仏語。対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということ
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/194341/m0u/
これは仏法用語であります。従いまして師弟不二とは師匠と弟子は対立がなく一つという解釈が成り立ちます。平たく言えば「師匠と弟子とは教える側と教わる側ということであり人間的には平等」という論理が成り立ちます。
では日蓮大聖人はどのように定義されておられるのでしょうか?
「能と云ふは如来なり、所と云ふは衆生なり、能所各別するは権教の故なり。法華経の意は能所一体なり」
(御講聞書1862)
「此の経は相伝に有らざれは知り難し」(一代聖教大意 御書92p)
「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくは(蓄)ひぬれば師弟地獄にを(堕)つといへり。師弟相違せばなに事も成すべからず」(華果成就御書 御書1225p)
また第二祖日興上人はどのように定義されておられるでしょう。
「なをなをこのほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじくほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也」 (歴全1巻 佐渡国法華講衆御返事)
如何でしょう? 一般的な「師弟」という意味ではありませんよね。また創価学会の言うような「師匠と弟子は平等である」という解釈でもありません。大聖人様と日興上人の御文を拝するれば、それは「仏(日蓮大聖人=師匠」「弟子=大聖人を師匠とし信じる僧俗」ということが分かります。
即ち仏である大聖人様を師匠と拝し、信じ、修業・実践する僧俗は「相対している」ということであり、師匠は能(成仏させる側)でありわれわれ衆生は「所(成仏を与えられる側)」であり、そこには当然ですが、厳然とした区別・差別が存在するのであります。創価学会の言う「師弟不二」というよりは「師弟相対」という言葉が適しているのであります。
この「俗世間の師弟関係」と「大聖人の師弟相対」をうまく利用し、「法主と在家は平等である」と批判し俗世間の師弟関係を正当化しているのであります。
池田タサクはこのように言っております。
「すべての民衆を救うために説かれた仏法です。女性と男性に差別はない。出家と在家の違い、人種、学歴、或いは権力、経済力など、どんな社会的立場も関係ない。当然のことです。」(60p)
「そして、この大哲学の上に、すべての人々を仏にしようという大闘争の軌道に入った。そこで初めて、仏が歩んでいるのと同じ道に入った。根本の一念に於いて、師弟が目的を同じくする同志となり、「不二」の道を歩む先輩と後輩の関係になった。 そのように進んでいくのが、真の師弟なのです。(195P)
お分かりであろう。仏法の師弟を貶め世俗の師弟を「法華経に説かれているがごとく」うそぶき、「俺がお前らの師匠である。先輩と後輩だ。不二だ、俺から離れるなよ」と暗に思わせ、大幹部をはじめ一般平会員を洗脳しているということです。
最後になりますが日蓮大聖人の師弟相対とは世間の師弟関係ではありません。
どこまで行っても末法の御本仏日蓮大聖人が根本の師匠であり、その唯一正当の血脈を継承遊ばされた第二祖日興上人を本門弘通の大導師・僧宝と仰ぎ、「此の経は相伝に有らざれは知り難し」(一代聖教大意 御書92p)
との御金言の通り、歴代の猊下を現在のおける師匠とし、また猊下の指導を伝える末寺の住職を手続(てつぎ)の師匠となし、信・行・学に励み一生成仏の信心・境涯を得るのであります。
池田タサクは、まさに仏法を利用したペテン・詐欺師であり、もはや創価学会は仏法とは何の関係もない外道ということです。
創価諸君、一日も早く脱会しましょう。
以上、

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