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比企氏の乱
 ひきしのらん


 建仁3(1203)年、北条氏により、
 比企能員ら比企氏一党が滅亡させられた事件。


<寿永元(1182)年>
 10月、源頼家、誕生。

  頼朝は比企能員を頼家の「乳母夫」に任命する。

<建久3(1192)年>
 北条義時、比企朝宗の娘姫の前と婚姻。

<建久9(1198)年>
 源頼家、嫡子・一幡が誕生。

  母は能員の娘・若狭局であり、能員は未来の将軍の「外戚」となった。
  (一幡の誕生年については別説あり)

<正治元(1199)年>
 正月、源頼家、家督を相続し「鎌倉殿」となる。
 4月、鎌倉御家人十三人による合議制が始まる。

  この合議制は北条時政の策で、
  北条時政・北条義時・和田義盛・三浦義澄・比企能員・安達盛長
  梶原景時・大江広元・三好善信・中原親能・八田知家・足立遠元・藤原行成
  の十三人により構成されていた。

  頼家はこの動きに対抗して、
  比企時員(能員の子)らに「鎌倉中勝手自由」の権限を付与する。

 10月、梶原景時、弾劾される。

<建仁2(1202)年>
 正月、『梶原景時の乱』
 7月23日、源頼家、征夷大将軍就任。

<建仁3(1203)年>
 8月、源頼家、危篤。

  北条時政はこれを好機として、
  頼家の家督を次のように相続することに決めた。
  「関東二十八国地頭職」「日本国総守護職」を一幡に、
  「関西三十八国地頭職」を実朝に相続させた。

  一方、頼家は危篤になる前より家督の全てを、
  一幡に譲渡するつもりであったとも言われる。

 9月、源頼家、回復。

  能員は時政の強引な家督相続を頼家に訴え、
  時政に怒り怒髪天を突いた頼家も「北条時政追討」を能員に密かに命じた。
  しかしこの一部始終は、頼家の母・北条政子が聞いており時政に急ぎ知らせた。

 9月2日、北条時政、比企能員を暗殺。

  時政は仏事であると能員を名越亭に誘い出した。
  ここに能員は名越亭内において時政の命を受けた
  天野遠景・仁田忠常らにより騙し討ちにされ暗殺される。

  能員が時政により殺害されたとの報を受けた
  比企氏一族郎党は小御所(一幡の館)に篭城し抗戦の構えに出た。
  これに対して政子は、北条氏が中心の比企氏追討部隊を派遣。
  一幡・若狭局共々比企氏一党を滅ぼした。

  この時の北条氏による比企氏一族への弾圧ぶりは徹底しており、
  能員の義姉の子にあたる島津忠久までが
  守護職を剥奪されるという過酷なものであった

 9月7日、源頼家、出家。
 9月29日、源頼家、修善寺へ幽閉される。


 比企氏は比企朝宗が源頼朝の信任厚く重く用いられていた。
 能員は頼朝の乳母である比企尼の養子となり朝宗の義弟となって、
 朝宗の死後は能員が比企氏の家督を相続していた。

 家督相続後の能員は、頼朝に従軍し次々と戦功を挙げ、
 「北陸道大将軍」「東山道大将軍」を務めるなど、
 有力御家人にのし上がっていった。

 そして寿永元(1182)年頼朝の嫡子・頼家が誕生すると、
 頼朝は御家人の中でも有数の実力者となっていた能員を「乳母夫」に任命。
 能員は頼家の室に自分の娘・若狭局を入れることに成功。
 やがて頼家と若狭局の間には男児・一幡が誕生した。

 ここに「外戚」として能員の地位は、
 ますます鎌倉中において重きをなすようになってくる。
 このことに一番の危機感を持ったのは時政を中心とした北条氏であった。

 時政は将軍・頼家の権力を制限するために、
 御家人を十三人選びその合議による政治運営を図る。
 しかしその合議には能員を加えねばならないジレンマもあった。

 建仁3(1203)年8月、突如として頼家が人事不省の危篤に陥る。

 時政は素早く動き頼家の家督を
 「関東二十八国地頭職」「日本国総守護職」を頼家の嫡子・一幡に、
 「関西三十八国地頭職」を頼家の弟である実朝に相続させたのである。

 これに驚き怒ったのは能員であった。
 9月、頼家が回復すると時政の横暴を訴え、
 「時政追討」の密命を頼家から受ける。

 しかしこの謀議の一部始終は政子に筒抜けであり、
 早速、政子から時政に対して頼家と能員の動きは伝えられた。
 時政は先手を打ち能員を殺害することを決意。

 時政は「仏事」にかこつけ能員を名越亭に呼び出す。
 謀議が漏れているとは思わない能員は名越亭に出向き殺害される。
 「能員暗殺される」の報が届いた比企家中では、
 一幡の居る小御所に篭城し徹底抗戦の構えに出る。

 事件の処理に時間がかかってしまうようなことになると、
 鎌倉が分かれてしまい事後の事態の収拾に不利になると見た政子は、
 比企氏討伐部隊を差し向ける。

 かくして北条氏を中心とした討伐部隊は、
 一幡とともに比企氏一党を滅ぼしてしまうのである。
 また頼家を出家させた上で伊豆国修善寺に幽閉してしまう。
 そして時政は「政所別当」に就任し幕政の実権を握ったのである。

 この乱により北条氏は将軍家よりも優位に立ったのである。


北条氏め!!やりおる〜!!
でも北条さんもあんまきかないよね



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