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民俗学者の肖像コミュの柳田國男の肖像とか

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「当時この山中を訪れる中央の官僚などほとんどいなかった。ところが法制局の参事官が来ると県庁から電話があって村の者はおどろいた。それまで県の下級官吏の来るときは洋服に脚絆をつけて草蛙ばきが多かった。参事官はどういう支度で来るであろうかということが問題になり、とにかく道の両側の草を刈り、村の入口の中山峠の上まで村長以下官吏、有志が羽織袴で迎えにゆくことになった。峠の上で待つほどに下から上って来た人を見ればまだ若い、しかも紋付に仙台平の袴をはき、白足袋の貴公子で、旅姿ではなかった。これには全く度肝をぬかれた」
(「柳田國男の旅」『評伝柳田國男』日本書籍)

これは、明治41年に柳田國男が宮崎県椎葉村に入ったときのことを、後日、宮本常一が当時の村長に聞いてまとめたものです。いわば、日本初の民俗調査を村側がどう受け入れたかが伺える興味深い一文であります。

実は私、柳田國男の肉声を聞いたことがあります。指導教授が録音してたものを聞かせてくれたんです。なんてことない普通の爺さんの声だという印象しか残ってませんけど(笑)。

ところで、柳田國男は次のようなことを言ったともいわれています。
「貧乏人は学問をするな!」(そんな趣旨のことを言ったらしい)
今の私たちの感覚からすると、傲慢な言葉のようにも思えますが、学問のための研究は本来金銭的な利益を得るために行なうものではないので、本人やその家族の生活を成り立たせ、なおかつ研究に専念していくためにはそれなりのバックボーンが必要となるのだ、とそういう意味が込められているのだと思います。

「ブラックジャックによろしく」で描かれている研修医や、「くろみちゃん」で描かれているアニメーターほどではないですが、研究者の収入状況もかなり悲惨なものです。生活保護を申請して断られたとこぼしていた先輩がいたくらいです。

もう亡くなられましたが、宮田登という民俗学者は、学者として暮らしていけるようになるまで、奥さんが花を売って家計を支えていたという話を聞いたことがあります。真偽のほどはさだかではありませんが、民俗学者をとりまく環境を知っている人間には説得力のある話です。

研究と生活を両立させるために、高校の教師になったという方もおおぜいいらっしゃいました。私の指導教授も、そうやって調査研究を重ねて、博士号を取得した方でした。

八雲樹も助手だけじゃなくて、いろいろな副業をやってるのでしょう。市町村主導の民俗誌編纂とか、研究団体の調査応援や教授の調査代行とか。いつものんびりしているように見えますが(笑)

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