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浅草ステージカラオケ部コミュの2020年10月14日の筒美京平

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【2020年10月14日の筒美京平】

私は、2019年、浅草雷門近くのライブハウスで
筒美京平さん作曲の歌を2曲歌うように依頼された。
私は、南沙織さんの歌を2曲歌った。
作曲家を指定するなんて、何かあるなとは思っていた。
2020年10月13日には、
カラオケで筒美京平さん作曲の歌を中心に50曲歌った。

作曲家・筒美京平さん死去
昭和歌謡の黄金期に君臨した
「ヒット請負人」
総売り上げ7560万枚

「また逢う日まで」
「魅せられて」
など数々のヒットを生んだ
昭和を代表する作曲家の筒美京平
(つつみ・きょうへい、
本名渡辺栄吉=わたなべ・えいきち)
さんが2020年10月07日午後3時、
誤嚥(ごえん)性肺炎のため
都内の自宅で死去した。
80歳。
東京都出身。
葬儀は近親者で行った。
喪主は妻善子(よしこ)さん。
歴代1位の作曲シングル総売り上げ
約7560万枚を誇る希代のヒットメーカー。
突然の悲報に芸能界から追悼の声が相次いだ。

積み上げた売り上げ枚数は、
戦後を代表する作曲家の吉田正さん、
CDバブル時代に君臨した小室哲哉氏(61)
も届かない別次元の数字。
手掛けた楽曲は約3000曲。
日本歌謡史に多大な足跡を残した天才が旅立った。

華やかな経歴の一方で裏方に徹した。
生来の照れ屋も手伝い、
生前はマスコミの前に出ることを控えた。
音楽関係者は
「亡くなる時もほとんど周囲に知らせることなく旅立った」。
お別れの会を行う予定もない。

親しい関係者によると、
運動障害を引き起こす神経疾患のパーキンソン病を患い、
ここ3年ほど病状が悪化していた。
最近は病気の影響で心臓の筋肉も衰え、
発作をたびたび起こしたため
「自宅と病院を行ったり来たりするような状態だった」。
元々細身だったが
亡くなる前の体重は20キロ台まで減っていたという。

1969年にいしだあゆみ
「ブルー・ライト・ヨコハマ」
で初めてオリコン1位を獲得して以来、
39作が1位に。
1960年代から2010年代まで、
6年代連続で楽曲がオリコンベスト10入りした偉業は前人未到。
金字塔の数々は
ヒットにこだわり抜く姿勢が生んだものだ。

デビュー当時、
著名なディレクターに
「君はメロディーが弱い」と指摘され、
それを補うため洋楽のエッセンスを導入。
編曲まで計算に入れた、
独特の華やかな曲作りを目指した。
全盛期は行きつけのレコード店の洋楽コーナーに、
筒美さんが購入するための専用棚があり、
最新の流行曲を全て聴いていた。

独特の作風は「カツ丼」といわれた。
西洋料理から生まれた日本代表の味。
洋楽の風味をただ取り込むだけでなく、
日本人好みに仕立てることにこだわった。
いくら高度な曲でも売れなければ失敗作。
「それが僕の職業。心に染みる歌を書きたいと思ったことはない」
と言ってのけたほどだ。

芸能事務所やレコード会社がここぞで頼る
「ヒット請負人」。
特に才能を絶賛したのが、
ジャニーズ事務所のジャニー喜多川前社長だった。
郷ひろみ(64)の「男の子女の子」では岩谷時子氏、
近藤真彦(56)の「スニーカーぶる〜す」では、
ゴールデンコンビと名高かった松本隆氏と、
名作詞家とのタッグで勝負。
見事デビューを大ヒットで飾った。
その後も少年隊「仮面舞踏会」など
重要な曲を依頼。
「勝負時は必ず筒美さんだった」と、
その神通力を振り返る。

百発百中を求められる、
並大抵でない重圧と闘い続けた人生。
関係者は
「後進への影響力も含めて、
まさにプロの作曲家を極めた人だった」
と悼んだ。

◆筒美 京平(つつみ・きょうへい)
本名渡辺栄吉(わたなべ・えいきち)。
1940年(昭15)5月28日生まれ。
東京都出身。
青学大卒業後の63年にレコード会社
「日本グラモフォン」に入社、
洋楽ディレクターに。
在職中すぎやまこういち氏に師事し、
1966年藤浩一(現・子門真人)らの競作
「黄色いレモン」で作曲家デビュー。
ペンネームは鼓(つづみ)が平らに響くという意味で、
漢字は「筒美京平」と左右対称にした。
2003年に紫綬褒章受章。

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