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大麻草検証委員会コミュの法律家としての原点を振り返る。

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法律家としての原点を振り返る。

2011年(平成23年)8月3日

丸井 英弘

 本年3月11日の東日本を襲った大地震と大津波そして原発事故の発生によって、私達の生活のあり方が根本から問われています。

 このような状況において、私は今与えられている生命に感謝をすると共に世界平和の実現のために日々の生活を大切にしていきたいと思います。

 私達人類は、この母なる地球においてその生態系と調和し、また人類全体が一つの家族として仲良く平和に安心して暮せる行き方を実現する必要があります。

 私は、1974年から今まで37年間職業として弁護士の道を選択し、微力ながら、弁護士の使命である基本的人権の擁護つまり平和で安心安全な市民生活の確保を目指して活動してきました。今まで37年無事に弁護士業務を続けてこられたことに心より感謝をします。しかしながら、今回の大地震と大津波そして原発事故の発生を踏 まえて、改めて自己の法律家としての原点を振り返り、残りの人生を悔いの無いように生き抜きたいと自戒します。
 私は、高速増殖炉「もんじゅ」の差し止め裁判にも関わってきましたが、政府の原子力政策を止めさせる事ができず、今回の福島原発の事故を招いてしまった事は、法律家としてもまた一人の人間としても、この国の主権者として不十分であったと自戒します。
 
 今後私がしたいことは、衣食住エネルギーを 地域的に自給できるような地域主権の確立を実現することです。そのためには自らの生活で個人的にできることを工夫し実践するとともに、社会的な政策提言活動に参加するつもりです。
 現在私は、環境循環型・環境保全型の社会を実現するために石油や原子力に替わる衣・食・住・エネルギーそして安全な医薬品を生み出す素材である麻の有効利用を推進することが大切であると思っています。そして、その麻の有効利用を妨げている大麻取締法の改正を実現する活動を有志とともにしていますが、この活動をさらに発展させていきたい。

 私の弁護士になるまでの小伝記が、「なぜ弁護士を志したか」と題して「市民環境科学の実践 東京・野川の水系運動」(けやき出版2003年6月6日発行の148頁から156頁にのっていますので、私の法律家としての原点を振り返る為に紹介します。

1.中学・高校時代

小 学校6年の時に、父の経営していた事業が取引先が不渡手形を出して連鎖倒産をしたために、担保となっていた自宅が処分され、私の家族(祖父・ 祖母.父.母.弟3人)の家がなくなってしまった。私は親類に世話になったり、借家生活をして中学時代を過ごした。母親も働きに出たし、私を始め弟たちも 新聞配達などで家計を支えた。

今の学歴杜会では、中学卒業の段階でどのような高校を選ぶかということが大きな関心となるが、私の中学時代 (昭和32年〜昭和35年、名古屋市 立八王子中学校)は、高校の進学率が50%ぐらいで、そのうち普通高校へいって大学まで進学するのはクラス(一クラス50人)で1人2人という状態であっ た。

私も格別大学に行きたいとは思っていなかったし、また私の家が父親の事業が倒産したために売却され、一緒に住んでいた祖父・祖母や父 母・兄弟は バラバラに住まざるをえない状態であったので早く就職しようと思い、寮が付属していた国立詫間電波高校(香川県三豊郡詫間町所在・浦島太郎の伝説のある場 所。船舶通信士を養成するための国立高校で全国に三ヶ所-仙台・熊本・詫問にあった。現在は国立の高等専門学校になっている)へ進学した。

当時弁護士になろうとはまったく思ってもいなかった。私を大変かわいがってくれた祖父は保護司をやっており、祖父に連れられて刑務所へ行った記憶はあるが、弁護士の存在とはまったく無縁であった。

詫間電波高校は通信士となるための通信技術の実技(トンツーというモールス信号の操作を覚える)と電気通信理論を中心とした授業を中心に学校のカリキュラムが組まれていたので、大学の入学試験に合格するために必要な英語・国語・社会など一般教養の授業は最小限であった。

高 校の寮に入ると卒業生が時々遊びにきたりして、高校卒業後の社会実態を聞かされた。そこで始めて今の社会では学歴によって差別があることを 知った。また、私は細かい専門技術よりは、人間として必要な一般教養をもっと勉強したいと思った。そこで大学進学のために出来れば普通高校へ転校したいと 思って調べたところ、転校は不可能とのことであった。

私はその時、特別奨学生として毎月三〇〇〇円の奨学金の給付を受けており、この三〇〇〇円で毎月の生活費は確保できたが、もし一年留学して普通高校に転校するということは経済的にも不可能であったので、とりあえず電波高校を卒業して大学へも進学しようと思った。

そ こで、大学進学用の受験雑誌をいろいろ調べて、その頃教養学部という新しい学部が国際基督教大学(ICU)と東京大学にあることを知った。東 大への進学は受験科目が多いため無理であろうと思ったが、ICUの場合には英語については読解力やヒアリングなど総合的な試験があるが、その他の受験科目 は社会科学や自然科学に関する論文を読ませてその内容について答えさせるというものであったので、これなら新聞をよく読んだり、また電波高校における電気 理論などの勉強の際、文章の解読力をつけることにも役立つと考えればICUへの受験勉強にもなると考えICUを目指すことにした。

ICUは授業料が特別奨学生の場合には半額となり国立大学と同じであったし、特別奨学金が毎月8000円支給されることになっていたので経済的にも大学生活を送ることは可能であった。

英 語の勉強としては、高校の授業にあった英語はきちんと勉強し、また英語会話のクラブ活動に参加したり、更には当時アマチュヤ無線をやっていた 弟にイヤホン付きのラジオを作製してもらって毎日のように旺文社の「百万人の英語」やNHKの英語会話をイヤホンで聞いて勉強した。寮が三-四人が同じ部 屋で共同生活をしていたので同室の友人に迷惑がかかるといけないと思いイヤホンで学習した。



2.大学時代

私 は幸いにも1963(昭和38)年3月にICUに合格することができた。ICUの第二男子寮に入寮し、高校時代と同様に寮生活をしながら大学 生活を送ったが、ICUは私が入学した1963(昭和38)年4月以降授業料の値上げ問題が起こり、大学始まって以来初めてのストライキが行なわれるとい う状況であった。

なお、私が高校に進学した1960(昭和35)年は安保闘争で日本全国が大きく揺れたが、私は香川県の詫間という場所に いたこともあり、新聞で その様子を知るくらいであり、他人事であった。しかし、ICUでの授業料値上げ問題は、在学生には適用されないものではあったが、私のような経済的に厳し い環境にある者の大学進学への道をふさぐという事でこの社会の矛盾を深く考えさせられた。

ICUでは、私が二年生の時(昭和三九年)に寮の管理権を学生が持つかどうかという問題が起こり、また三年生の時には食堂の値上げ問題に端を発して生活協同組合の設立運動が起こった。

こ の生協の設立運動に対しては、私は学生会の執行委員となって参加した。大学側が生協という学生の自治組織は認めないという態度に出たため学生 大会でストライキを決議し全学的なストライキが行なわれた。しかし、このストライキも長期化するにつれ支持する学生が減少し内部崩壊した。

そ の後、今後の白分の将来をどうしようかと考え、当時寮の先輩が司法試験を勉強していた事もあり、また弁護士という職業にも魅力を感じていたの で司法試験を目指す事にした。しかし司法試験に合格するには四年間位勉強が必要といわれていたので、とりあえず経済的に生活を支えるために公務員になり、 仕事をしながら受験勉強をしようと考えた。

大学四年になってから法律の勉強に精を出すようになったが幸いにも都庁の上級職に合格することができた。しかし、ICU卒業間近の1967(昭和42年2月になって、能力検定試験の採用問題をめぐって学内で大きな論争が起こり、3年生を中心に反対運動が起こった。

私 の寮の部屋にも新聞会所属の3年生がやってきて「大学本館を占拠するストライキを起こす事にした。4年生も是非参加してほしい」と要望した。 その頃4年生の大半は放送局、新聞社、一般商事会社などへの就職が決まっていたが、私を含め就職の決まっていた四年生のうちの二〇%くらいがストライキに 参加したのではないかと思う。

私は、三年生からストライキ参加の呼び掛けがあった時、前年における生協設立運動の敗北の経験から今回のス トライキも負けるであろう、そのとき には自分の就職もダメになるであろうと考えていたが、能力検定試験が採用されれば、その試験内容からして私のような職業高校からICUに進学することは不 可能になると考えたし、3年生以下の後輩を見殺しにして、白分だけ卒業していく事は出来ないと思いストライキに参加した。ストライキは1967(昭和 42)年の2月から2ヶ月問程続いたが警察力の導入によって解散させられ、またストライキ参加者は全員無期停学以上の処分を受けた。私も卒業保留そして無 期停学処分となって、都庁への就職もダメになってしまった。

それまでは、特別奨励金が毎月8000円貸与されていたので、後は家庭教師など のアバイトをして大学生活を支えていたのであるが、停学処分を受 け就職もダメになってしったので、仕事先を探す事と警察力導入後の能力検定テスト反対運動への参加という事に直面した。反対運動は参加者それぞれの生活が 厳しくなってきて運動を続けることがきなくなってきた。大学側と処分された学生側で和解が成立し、私は1年後にICUを卒業した(それまでに卒業に必要な 単位はすべて取得していた)。

私は、1968(昭和43)年3月にICUを卒業すると同時に司法試験の勉強をするめに東京教育大学文学部 法律政治学専攻へ学士入学した。生活費は、ICUの友人が国立市谷保にあるヤクルト研究所や小金井市立第三小学校夜警の仕事をいていたのでその仕事を手 伝っていたが、本を読む時間もあり、学校にも通えるという点で大変助かった。

東京教育大学も私が入学した1968(昭和43)年に筑波への 移転問題が起こり、ストライキが始まった。私も自分だけ司法試験の勉強をしている わけにもいかず、他の学生とともに参加した。しかし、この筑波移転反対のストライキも1年半ほどで警察力の導入によりつぶされた。

私は1969(昭和44)年春からICUの友人のあとをついで小金井市立第三小学校の警備員の仕事をしていたが、東京教育大の学内状況も落ち着いてきた時点で本格的に司法試験の準備に集中する事にした。



3.小金井司法研究会との出会いと三多摩研

1970(昭 和45)年の4月ごろ、司法試験の勉強をグループでやりたいと思い職場である小金井第三小学校の近くにグループがないかと思っていたところ、『受験新報』 という司法試験受験用の雑誌で小金井司法研究会が会員を募集している事を知り、早連申込んで入会させて頂いた。

当時、丁度四日市の大気汚染や水俣における水質汚染が大きな社会問題になっている時であり、そこで弁護士が活躍している事を知り、私も弁護士になったら公害問題に取組みたいと考えている時であった。

小金井司法研究会の入学願書には、「地域社会をよくするためにあなたは何が出来ますか」という質問があり、小金井司法研究会は、地域社会の事を考える法律家を目指す受験団体という雰囲気があり、大変新鮮な印象を受けた。

私 は、その小金井司法研究会で、後に協力して三多摩問題調査研究会を作る事になった矢間秀次郎さんや関島保雄さん・平賀睦夫さんと知り合う事に なった。幸いにも昭和46年度の司法試験に合格し、小金井司法研究会第1号の合格者となった。関島保雄さんも翌1972(昭和47)年に合格した。私は、 1972(昭和47)年4月から司法修習生となり横浜(地裁・地検.弁護士会)へ配属されたが、この年に野川の浄化問題などに取組むための調査研究会とし て三多摩問題調査研究会が矢間さんを中心にして設立された。ICUの構内(今は野川公園になっている)に野川が流れていたために野川は私にとっても思い出 深い川であった。野川が地下水を集めて流れる川であり、またその付近に縄文遺跡も出ると聞き、野川は人類の文化生活と密接な繋りを持っていると感じ、その 浄化問題には現代的意味があると思った。また世の中を良くするためには、先ず身近な環境の浄化が大切だと思っていた。


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