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ネット詩を語る会 in フクオカコミュの第1回 中原中也「汚れつちまつた悲しみに…」

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何人かの方に予告していました通りに、第1回目は、中原中也といたしまして、どの詩がいいのか悩みましたが、ハルキ文庫版の『中原中也詩集』の裏表紙の文章の冒頭が「汚れつちまつた悲しみに…」から書き始められていましたので、この詩をとりあげてみたいと思います。

まず、全文を引用します。



〈汚れつちまつた悲しみに…〉

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる

その裏表紙の文章には〈歌〉〈愛唱〉〈慰謝〉という言葉がちりばめて用いられており、この詩にとっても適切な語彙になっている気がしますので、これらの語彙から感想などをいただければと思います。

ちなみに、わたしは、四行四連という形式に〈歌〉を感じ、それがひいては〈愛唱〉性につながったんじゃないかと思います。〈慰謝〉に関しては、この詩の内容に関わってくるんじゃないかという当たりぐらいはつけられるんじゃないかと思いますが、突っ込んだ評言はいまは述べられそうにありません。

こういった事どもに関わる話から、まぁ、まったく別の角度からの感想でも逸話でもけっこうです。
コメントをお願いします。

コメント(17)

汚れちまつた悲しみに
今夜も冷たい雨が降る

汚れちまつた悲しみを
癒す術は昨日の手のひら

もう還る筈のない
幻は永遠の彼方に

微細な針の隙間に隠れた
やさしさは泡沫の夢


という即興詩を書いてみました。。

中也では、やはりこの詩が一番好きですね☆

ほらほら、これが僕の骨(だったかな??)

みたいな詩も好きだけど☆


                     あおい満月
あおい さん

これは
二行四連のあおいさんの歌ですね。
中也の時代とはまったく違う現代感覚があります。

社会派の詩に拘らないで、こんな調子で書いてほしいですね。
悲しみは鈍色の虹の彼方に
聴こえる音はアスファルトの明日へ

理想も現実も綯交ぜにして
明日に戻るのなら

握りしめた半透明の刹那を
ただ信じて
歩こう

扉へ

この向こうへ


現実とは、憎めない伴侶のような時間です。


                       あおい満月 
あおい さん

ありがとうございます。
あおいさんらしい、佳い詩じゃないですか。

また、
「現実とは」
「憎めない伴侶のような時間」
は、本当にその通りですねぇ。
内在的リアリズムというものです、そんな言葉が
あるかないかは知りませんが……。

恥ずかしいことに中原中也全く読んでいません。
あ〜12時のサイレンだというような詩は何かの歌で聴いたことがあります。その程度ですのでトンチンカンかもしれませんが。
この詩に書かれている悲しみは世間と折り合いをつけて何処かにしまっているものですが、どうも作者の視野の端っこにいつも見えて気になってしまうもののよう。
自分のプライドとのバランスがとれている間は問題無いと思いますが、それが崩れたときは単なる悲嘆で終わらない無気味を感じます。
変な感想になってしまいました。
地下鉄に乗っていていて自分を窓越しに見ていたら思いついたのですが、現在の自分の悲しさを詩にしているのかも知れません。
そのように考えると 朝 書き込んだことと変わってきます。
※朝の読み方は過去の悲しみが汚れているというニュアンスで読んでいます。ー中也ファンからぶっ飛ばされそうな読み方です。
 生き方自体が汚れていて悲しいという風に読めますので、現在の自分に対する悲しみと読めます。そうだとするとなすすべもないという自分の無力さに対する詩と言うことになります。大変素直な詩で青少年っぽい感じがします。しかも汚れっちまったという言い方はどこの方言か知りませんが、なんか粋がって聞こえてしまい、無力な割に元気だなぁと感じます(笑)。
中原中也は、大好きな詩人です。特に好きなのは、「ひとつのメルヘン」ですが(笑)

「汚れちまった」って言葉に、私は、若さゆえの自虐的なものを感じました。例えば、彼が夭逝せずに、もっと歳を重ねた時に、同じ物事を捉えた時に、「汚れちまった」と表現したかな?と思いました。若さゆえの繊細さを感じ、そこに好感が持てました。
……とある蛙さま

ありがとうございます。

「粋がって聞こえ」「無力な割に元気」という感じ方がおもしろいなぁと思いました。
また、
これ、方言なんですか?
ぜんぜんそうは思っていなかったので、意表をつかれました。

まぁ、こういったところが、
このコミュニティの真髄だと思いますので、どんどん感想をお寄せください。



ありす さん

ありがとうございます。
「一つのメルヘン」も佳い詩ですね、わたしも好きです。

〈一つのメルヘン〉

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……


不思議な詩です。
河原に陽が射しているのですが、「個体の粉末」のようであり
「流れて」いなかった「川床に」水が「さらさらと、さらさらと」
流れているというのです。これは、意識の存在を表現しているのでしょうか。
みているのにみえていない、きこえているはずなのにきこえていない
それって、意識の問題じゃないのでしょうか。
つまり、主体であったり、主観であったりするところの問題でもあるのかなぁ、なんて思ったりします。


僕の大学の頃の担当教授(経済学者ですが歌人でもある人でした)が、「海外で朗読して、日本語のわからない人を感動させられるのは、中也の詩と、あといくつかぐらいだと思う」といって、この詩を例に出していたのを記憶しています。
言葉の音そのものに、なんともいえない味わいがあるのだ、と仰っていました。

と、それはおいておいて、今、何度もこの詩を読み直しているのですが、なんとも不思議な詩だなぁと思わせられます。
というのも、読んでも読んでも、僕には、いまひとつ意味が理解できないのです。
まぁ、詩というのは抽象性や比喩の度合いが強いものだ、といってしまえばそれまでですが、どうにも、シュールというのとは違って、地に足が着いているのに、ちっともわからない印象がします(地に足が着いているといっても、実体験を異化しているという感じもしません)。

そもそも「汚れっちまった」といわれても、誰が、どう汚れたのか、いまひとつよくわかりませんし、悲しみ「に」から悲しみ「は」というところも、なんだか異様な印象を受けます。
「例えば狐の皮衣のように汚れている」ならわかりますが、「汚れっちまった悲しみは、例えば狐の革裘」というのも、異様な感じです。そこからあとは、「悲しみ」が独立した生物みたいに描かれたり、自己の内部のもののように描かれたりしていて、やっぱり、まとまっているのに、不安定な印象を受けます。
で、最初の4行の『汚れっちまった悲しみ「に」』は、悲しみに「向けて」風が吹いたり、雪が降ったりしてますけど、最後の4行では、同じ『悲しみ「に」』でも、悲しみに「自分が」怖気づいたりしていて、ちょっと方向が変わってる。
そういうのが、面白いな、と思います。
ケイダイさん♪
「ひとつのメルヘン」
かわいた川は、中也の心かなと思いました。蝶は、中也にとっての何かのきっかけで、それによって、水が流れ出した、つまり、心が潤ってきたのかなと…。中也の壊れやすい心を感じました。
フェイゲンさん

ありがとうございます。

わたしもかつて、中也や朔太郎の詩をハングルで朗読してもらったら旋律的に、どう耳にひびいてくるのだろうと考えて、詩人会に提案、日韓両国詩人の交流を企画し実現したことがありますから、あなたが仰ることは理解できます。

わたしもそれはさておき、
この〈汚れつちまつた悲しみに…〉に関しては、通常われわれが思う詩とは別物と考た方がいいんじゃないかと思います。

四行四連という形式がヒントで、行末の〈に〉と〈は〉の別はあるものの、「汚れつちまつた悲しみ」が連の冒頭にくることからも、やはり〈歌〉を強く意識したんじゃないかと思うのです。中也と朔太郎は作詞も多くした白秋の影響を受けており、また当時は西条八十や佐藤惣之助、野口雨情などの活躍もあって、歌詞としての〈歌〉の意識があったんじゃないかと思うのです。

そういう視点から読んでみれば、辻褄の合わなさも理解できないでしょうか。
また、戦前戦後はナンセンス・ソングという言葉遊びの要素もあったかに思います。そんなこんなを考えれば、四角四面に意味だけで理解しようとしないこともまた大事なのではないでしょうか。


アンジェラさん

ありがとうございます。
〈凍てつくような虚無感〉ですか、独特の視点ですねぇ。
う〜ん、意表をつかれました。

「倦怠(けだい)のうちに死を夢む」とか、「なすところもなく日は暮れる」にそれを感じるのでしょうねぇ。
でもわたしは、それにはリアリティを感じないのです。
フェイゲンさんの返書のなかで書いていますのでそこを読んでいただきたいのですが、もっと〈作り物〉めいたものを感じてしまうのです。

それが正しい読みかどうかはわかりませんが、四行四連の、整いすぎた形式によってそれを感受してしまうのだと思います。



ありす さん

ありがとうございます。
〈壊れやすい心〉を感じましたか、すごい感受力です、関心しました。

蝶がきっかけとなって〈水が流れ出した〉なんて
思いもしないことを指摘されて、ぶったまげました。
たしかに、そういう読みもありますねぇ。


いゃあ〜、ありすさんに限らず、こういういろんな感想がでてくることが
このコミュニティの意図でしたから、とても嬉しいです。

たきじ さん

「中也雑感」ありがとうございます。
いろんな読みがあるものですね、じぶんのそのとき置かれている生活環境、心情・心境、諦念と希望、いろんなその最初の読書時の心的な要素と絡まってひとは読むし、イメージするし、記憶するんでしょうね。それはまるで流行歌と同じですね。と、書いたら誤解を与えるかもしれないけれど、流行歌と同じ要素の〈歌〉的なものが、この詩に、あるからなのではないでしょうか。

なんだか、そんな風に感じました。

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