横屋ミツナリと出会ったとき、既に彼は松葉杖を突いていた。
まだ高校生の頃の事だ。
担任は横屋を「病気だ」と言い、何かあったら手を貸してあげるように、とクラスに通達した。
横屋は大きな瞳にふっくらとした頬を持つ愛嬌のある顔をしていたが、
表情の変化が乏しいせいで年齢不詳に見える不思議な男だった。
ホームルームの後、周囲は色々と世話を焼こうとしたが、横屋は手助けを拒否した。
「自分でできることを人任せにしはじめたら、僕はすぐにダメになる」
横屋はそういって頬だけで笑い、頭を下げて協力を申し出てくれたことに感謝した。
移動教室の時には一番最初に教室を出るが、到着するのは最後だった。
体育の授業にはほとんど参加できなかったが、座ったままバスケットボールを投げたり、
「松葉杖ダーッシュ！」と言いながら松葉杖を足のように扱って他の生徒と一緒に走って見せ、
教師をハラハラさせていた。
当時の俺は、授業をサボったり平然と遅刻をしたりを繰り返しており、
「一生懸命にならない」ということが格好いいと考える下らない年ごろだった。
体育を見学しながら、公然と授業を休めるのに休もうとしない横屋を、
「よくやるわー」と冷めた目で眺めていた。
夏休みを過ぎて二学期になると、横屋の出席率はひどく低下した。
学校に出てきても虚ろな目をしていることが多くなり、
教師の判断で家に帰らされることも多かった。
そんなある日。
授業をサボって高校の最寄駅周辺にあるゲームセンターでひとしきり遊び、
移動教室のタイミングを見計らって教室に戻ると、誰もいないはずの教室に横屋がひとり、
ポツンと自分の席に座っていた。
「おー横屋おはよう。今日の授業は移動教室だよ」
「知らなかったんだ、で、動く気力もないからここにいる」
「おー、真面目な横屋がサボリとは珍しいな」
自分の声を聞くと、横屋は両拳を机に叩きつけた。
机の脇に立て掛けてあった松葉杖が倒れ、誰もいない静かな教室に乾いた音が響く。
「僕は君が嫌いだ」
こちらを見ずにそう言うと、横屋は笑った。
「いつも好き放題して、サボってフラフラ出歩いて、その癖口が上手いから世渡り上手で」
いつになく激しい調子でそう言い放ち、
振り向いて立ち上がろうとして横屋は転んだ。
「見るなよ！ 面と向かって文句のひとつでも言ってやろうと思っても、僕にはできない。
オマエみたいに授業を抜け出すことも、何もできやしない」
床に突っ伏したまま横屋は言う。
教室のタイルは横屋の涙声を吸い込み、教室を包む静寂を痛いほどに感じさせた。
俺には返す言葉もなかったが、元より横屋は返答を必要としていなかったように思う。
……横屋はそのまましばらく泣いた。
「ごめん、最近体調がよくなくて、少しイライラしてたんだ」
下を向いたまま呟くと、横屋は床に両手を突いて起き上がろうともがいた。
横屋を助け起こし松葉杖を机の横に戻すと、横屋は小声で「ありがとう」といい、
珍しく顔全体を使って不器用そうに、笑った。
「横屋の体調のこととか俺はよくわからんけど、そういう時って誰にでもあるし、
別にいいんじゃね？ 好き放題してるのは突っ込まれてもしょうがないし、返す言葉もねぇや」
「怒らせようと思って言ってるのに。つくづく口の上手いヤツだ」
「何に対しても不真面目なだけだよ」
俺が笑いながらそう返すと、横屋は眉根を寄せて顔を伏せた。
「多分だけど、もう少ししたら僕は学校に来れなくなると思う」
机の上で指を組み、そこを見詰めながら言葉を続ける。
「それまでは、できる限り普通に扱ってほしい」
「いや、別に普通に扱ってるっしょ。横屋が来れなくなるまでもそうだし、
来れなくなってからもだ」
「ありがとう。やっぱ君は世渡り上手だ」そう言って横屋は笑い、「教室に行こうか」と言った。
「いいけどさ。……残り５分だよ？」
初めてだと思う。ふたりで声を合わせて笑った。
その日から、横屋が学校に来ているときは授業をサボらないように決めた。
突っ込まれたからというのもあるが、彼が残り少ないかも知れない時間を学校で過ごしたいと
望む気持ちに対して、自分の態度が余りにも失礼な気がしたからだ。
横屋も一度内心をぶちまけた気楽さがあるようで、俺にはよく声をかけてきた。
好きな本やCDを貸し借りしたりしていると、周囲の連中からは驚かれた。
そりゃそうだ、それまで水と油みたいに思われてたんだから。
きっと、横屋に出会わなければ、一生ジャック・ラカンを読むことはなかったと思う。
日を追うごとに横屋の状態はどんどん悪くなっていき、
秋の学園祭を迎える頃には傍目からもそれがよくわかるようになった。
横屋は杖をうまく扱うために日頃から体を鍛えており、がっしりとした上半身をしていたのだが、
この頃には、その上半身もすっかりしぼんでしまっていた。
話す声も掠れて小さくなり、以前のように走りまわることも、
座ったままキャッチボールを楽しむこともできなくなっていった。
女生徒はそんな横屋を気遣うことも多かったが、俺は彼を所謂「普通」に扱った。
クラスでは学園祭の出し物としてお化け屋敷をやることが決まっていて、
俺はその作業統括を行っていたのだが、当然横谷にも買出しや制作作業といった
クラスの共同作業を、他の連中と同様に任せていた。
それによって女生徒から「あんたはひどい、横屋君にもやらせるなんて」と言われたりもしたが、
折れる気はなかった。それが、横屋との約束だったから。
横屋は絵が得意だったので、教室に掲げる「お化け屋敷」の看板デザインを任せた。
彼は「筆を動かす力がなくなってもできるし」と言って、
看板をスプレーアートで描くことを決めた。
ベランダに椅子とイーゼルを置いて、そこにスプレーを使って文字と色を載せていく。
他のクラスからも生徒が見に来るほどの腕だった。
……そんな作業の最中、突然横屋が倒れた。
すぐに横屋をおぶって保健室に連れて行き、ベッドに横にならせる。
保健教師は俺に矢継ぎ早に質問を飛ばし、横屋が倒れるまでの状態を聞き取ると、
担任及び横屋の両親に連絡を入るためにスリッパを擦るように駆け足で保健室を走って出て行った。
ベッドサイドに戻ると、横屋は少し掠れた声で笑っていた。
「もう無理かもなぁ」
「そっか」
「学園祭、出たかったなぁ」
「そうだな」
「あ！ あと恋愛もしてみたかった」
「気になるヤツ、いたんか？」
「んー、……ジュンコ」
「あいつはダメだ、ガードが無駄に固い」
「だよなぁ」
しばし、ふたりで笑った。
「過去形にすんな、これからでもできるだろ？」
そう言うと、横屋はゆっくりと首を振った。
「いや、ムリだ」
「ばっか、そんなこと言って――」言いかけた俺を、横屋の言葉が遮った。
「ムリなんだよ。一緒に買い物に行ったり、
F組の小島と最近仲いいじゃねーかって嫉妬したりとか、
そういう普通はもう、できないんだ」
横屋は右拳を固く握ると、自分の胸をコンコンと二回、叩いた。
「このポンコツ、もうちょっと持つと思ったんだけどね」
力なく笑うと、クマの大きくなった横屋の目尻を涙が伝った。
「……もう一度言うけど、僕は君が嫌いだ」無言で見詰めていた俺に、横屋は言う。
「まだ言うか」
「何度でも言うよ、君は僕にないものを持ってるのに、
それを使おうとせずに言い訳して逃げてばかりいる。僕は君が羨ましいんだよ。
僕には自分の可能性を試す時間も体力も、ない。ないんだ」
返す言葉は俺の小さな脳みそにインストールされていなかった。
俺が何を言っても、その場を取り繕う嘘にしかならない。
横屋の時間がなくなりつつあることは厳然たる事実で、
たかが俺ごときの言葉でその現実を変えることはできない。
事実の前に、綺麗事は全く意味を持たない。
「あのさ」
「……なんだ？」
「学園祭、楽しいものにしなよ。僕が作りかけの看板は君が完成させること」
横屋はそう言って、また笑った。
悔しいだろうに、辛いだろうに、こんな顔で人間は笑えるのだ。
その笑顔の透明さを言葉で表現する術を、俺は未だに持っていない。
その後、横屋の母親が車で高校に乗り付けて迎えにきた。横屋をおぶって車まで連れて行くと、
母親は微笑んで、「ミツナリと同じクラスの方？ ありがとうね」と言い、
後部座席に横になった横屋は「違うよ、トモダチだ」と、掠れた声を精一杯張り上げて、言った。
それが、俺が聞いた横屋の最期の声だ。
一ヶ月後。
学園祭の写真と横屋から引き継いで完成させたクラスの看板を持って、
横屋の家を訪ねたが、彼に会うことはできなかった。
先日会った横屋の母親が出迎えてくれ、ミツナリはもう入院していると言った。
病院を教えてもらおうとしたが、
「学校の連中には会いたくない、元気だったころの自分だけを覚えていてほしい」と言って、
横屋自身が面会を拒否したそうだ。
母親は何度も頭を下げて無礼を詫びたが、
それが横屋なりの気遣いだということはわかっていたので、問い詰めるつもりはなかった。
横屋が描いた丁寧な下地の上に、
美術的なセンス皆無な俺が毒々しい色を重ねた出来の悪い看板の裏に
「いい出しもんになったぞ」と書き残し、写真と一緒に渡してもらった。
その頃の自分は高校の卒業さえ怪しい出席日数だったのだが、
気合を入れて出席しはじめて同様に絶望的だった大学受験にも成功した。
横屋のおかげだとは言うつもりはないし、彼もそんな綺麗事は望んでいないと思う。
ただ、俺が俺自身のために、自分の持つ可能性と戦ってみた、それだけの話だ。
……今でもたまに考えることがある。
思い描いた夢と自分の現在の差を知り、その残酷な現実を飲み込んだ上で、
なぜ横屋はあの笑顔で微笑むことができたのだろうかと。
考えても、きっと答えは見つからない。
彼だけが抱えた彼だけの世界における、彼だけの結論だから。
横屋は自分に、とてもシンプルだが誰もが忘れがちなことを教えてくれた。
人間は他の誰かになることはできず、それ故に他の誰かを理解することはできない。
いつだって自分を動かし、自分の世界と戦うことができるのは、
ただひとり、自分でしかないという事を、だ。
毎年一度、横屋に会いに行く。
彼はもう語ることはないし、俺も彼に伝えるべき言葉を持っていない。
ただ、こうやって彼の元を訪れることで、
俺は彼が望んだように「元気だった頃の横屋」を忘れていない。
そのことを証明できるなら、それでいいと思っている。
13回目の墓参りを終えて記す。
まだ高校生の頃の事だ。
担任は横屋を「病気だ」と言い、何かあったら手を貸してあげるように、とクラスに通達した。
横屋は大きな瞳にふっくらとした頬を持つ愛嬌のある顔をしていたが、
表情の変化が乏しいせいで年齢不詳に見える不思議な男だった。
ホームルームの後、周囲は色々と世話を焼こうとしたが、横屋は手助けを拒否した。
「自分でできることを人任せにしはじめたら、僕はすぐにダメになる」
横屋はそういって頬だけで笑い、頭を下げて協力を申し出てくれたことに感謝した。
移動教室の時には一番最初に教室を出るが、到着するのは最後だった。
体育の授業にはほとんど参加できなかったが、座ったままバスケットボールを投げたり、
「松葉杖ダーッシュ！」と言いながら松葉杖を足のように扱って他の生徒と一緒に走って見せ、
教師をハラハラさせていた。
当時の俺は、授業をサボったり平然と遅刻をしたりを繰り返しており、
「一生懸命にならない」ということが格好いいと考える下らない年ごろだった。
体育を見学しながら、公然と授業を休めるのに休もうとしない横屋を、
「よくやるわー」と冷めた目で眺めていた。
夏休みを過ぎて二学期になると、横屋の出席率はひどく低下した。
学校に出てきても虚ろな目をしていることが多くなり、
教師の判断で家に帰らされることも多かった。
そんなある日。
授業をサボって高校の最寄駅周辺にあるゲームセンターでひとしきり遊び、
移動教室のタイミングを見計らって教室に戻ると、誰もいないはずの教室に横屋がひとり、
ポツンと自分の席に座っていた。
「おー横屋おはよう。今日の授業は移動教室だよ」
「知らなかったんだ、で、動く気力もないからここにいる」
「おー、真面目な横屋がサボリとは珍しいな」
自分の声を聞くと、横屋は両拳を机に叩きつけた。
机の脇に立て掛けてあった松葉杖が倒れ、誰もいない静かな教室に乾いた音が響く。
「僕は君が嫌いだ」
こちらを見ずにそう言うと、横屋は笑った。
「いつも好き放題して、サボってフラフラ出歩いて、その癖口が上手いから世渡り上手で」
いつになく激しい調子でそう言い放ち、
振り向いて立ち上がろうとして横屋は転んだ。
「見るなよ！ 面と向かって文句のひとつでも言ってやろうと思っても、僕にはできない。
オマエみたいに授業を抜け出すことも、何もできやしない」
床に突っ伏したまま横屋は言う。
教室のタイルは横屋の涙声を吸い込み、教室を包む静寂を痛いほどに感じさせた。
俺には返す言葉もなかったが、元より横屋は返答を必要としていなかったように思う。
……横屋はそのまましばらく泣いた。
「ごめん、最近体調がよくなくて、少しイライラしてたんだ」
下を向いたまま呟くと、横屋は床に両手を突いて起き上がろうともがいた。
横屋を助け起こし松葉杖を机の横に戻すと、横屋は小声で「ありがとう」といい、
珍しく顔全体を使って不器用そうに、笑った。
「横屋の体調のこととか俺はよくわからんけど、そういう時って誰にでもあるし、
別にいいんじゃね？ 好き放題してるのは突っ込まれてもしょうがないし、返す言葉もねぇや」
「怒らせようと思って言ってるのに。つくづく口の上手いヤツだ」
「何に対しても不真面目なだけだよ」
俺が笑いながらそう返すと、横屋は眉根を寄せて顔を伏せた。
「多分だけど、もう少ししたら僕は学校に来れなくなると思う」
机の上で指を組み、そこを見詰めながら言葉を続ける。
「それまでは、できる限り普通に扱ってほしい」
「いや、別に普通に扱ってるっしょ。横屋が来れなくなるまでもそうだし、
来れなくなってからもだ」
「ありがとう。やっぱ君は世渡り上手だ」そう言って横屋は笑い、「教室に行こうか」と言った。
「いいけどさ。……残り５分だよ？」
初めてだと思う。ふたりで声を合わせて笑った。
その日から、横屋が学校に来ているときは授業をサボらないように決めた。
突っ込まれたからというのもあるが、彼が残り少ないかも知れない時間を学校で過ごしたいと
望む気持ちに対して、自分の態度が余りにも失礼な気がしたからだ。
横屋も一度内心をぶちまけた気楽さがあるようで、俺にはよく声をかけてきた。
好きな本やCDを貸し借りしたりしていると、周囲の連中からは驚かれた。
そりゃそうだ、それまで水と油みたいに思われてたんだから。
きっと、横屋に出会わなければ、一生ジャック・ラカンを読むことはなかったと思う。
日を追うごとに横屋の状態はどんどん悪くなっていき、
秋の学園祭を迎える頃には傍目からもそれがよくわかるようになった。
横屋は杖をうまく扱うために日頃から体を鍛えており、がっしりとした上半身をしていたのだが、
この頃には、その上半身もすっかりしぼんでしまっていた。
話す声も掠れて小さくなり、以前のように走りまわることも、
座ったままキャッチボールを楽しむこともできなくなっていった。
女生徒はそんな横屋を気遣うことも多かったが、俺は彼を所謂「普通」に扱った。
クラスでは学園祭の出し物としてお化け屋敷をやることが決まっていて、
俺はその作業統括を行っていたのだが、当然横谷にも買出しや制作作業といった
クラスの共同作業を、他の連中と同様に任せていた。
それによって女生徒から「あんたはひどい、横屋君にもやらせるなんて」と言われたりもしたが、
折れる気はなかった。それが、横屋との約束だったから。
横屋は絵が得意だったので、教室に掲げる「お化け屋敷」の看板デザインを任せた。
彼は「筆を動かす力がなくなってもできるし」と言って、
看板をスプレーアートで描くことを決めた。
ベランダに椅子とイーゼルを置いて、そこにスプレーを使って文字と色を載せていく。
他のクラスからも生徒が見に来るほどの腕だった。
……そんな作業の最中、突然横屋が倒れた。
すぐに横屋をおぶって保健室に連れて行き、ベッドに横にならせる。
保健教師は俺に矢継ぎ早に質問を飛ばし、横屋が倒れるまでの状態を聞き取ると、
担任及び横屋の両親に連絡を入るためにスリッパを擦るように駆け足で保健室を走って出て行った。
ベッドサイドに戻ると、横屋は少し掠れた声で笑っていた。
「もう無理かもなぁ」
「そっか」
「学園祭、出たかったなぁ」
「そうだな」
「あ！ あと恋愛もしてみたかった」
「気になるヤツ、いたんか？」
「んー、……ジュンコ」
「あいつはダメだ、ガードが無駄に固い」
「だよなぁ」
しばし、ふたりで笑った。
「過去形にすんな、これからでもできるだろ？」
そう言うと、横屋はゆっくりと首を振った。
「いや、ムリだ」
「ばっか、そんなこと言って――」言いかけた俺を、横屋の言葉が遮った。
「ムリなんだよ。一緒に買い物に行ったり、
F組の小島と最近仲いいじゃねーかって嫉妬したりとか、
そういう普通はもう、できないんだ」
横屋は右拳を固く握ると、自分の胸をコンコンと二回、叩いた。
「このポンコツ、もうちょっと持つと思ったんだけどね」
力なく笑うと、クマの大きくなった横屋の目尻を涙が伝った。
「……もう一度言うけど、僕は君が嫌いだ」無言で見詰めていた俺に、横屋は言う。
「まだ言うか」
「何度でも言うよ、君は僕にないものを持ってるのに、
それを使おうとせずに言い訳して逃げてばかりいる。僕は君が羨ましいんだよ。
僕には自分の可能性を試す時間も体力も、ない。ないんだ」
返す言葉は俺の小さな脳みそにインストールされていなかった。
俺が何を言っても、その場を取り繕う嘘にしかならない。
横屋の時間がなくなりつつあることは厳然たる事実で、
たかが俺ごときの言葉でその現実を変えることはできない。
事実の前に、綺麗事は全く意味を持たない。
「あのさ」
「……なんだ？」
「学園祭、楽しいものにしなよ。僕が作りかけの看板は君が完成させること」
横屋はそう言って、また笑った。
悔しいだろうに、辛いだろうに、こんな顔で人間は笑えるのだ。
その笑顔の透明さを言葉で表現する術を、俺は未だに持っていない。
その後、横屋の母親が車で高校に乗り付けて迎えにきた。横屋をおぶって車まで連れて行くと、
母親は微笑んで、「ミツナリと同じクラスの方？ ありがとうね」と言い、
後部座席に横になった横屋は「違うよ、トモダチだ」と、掠れた声を精一杯張り上げて、言った。
それが、俺が聞いた横屋の最期の声だ。
一ヶ月後。
学園祭の写真と横屋から引き継いで完成させたクラスの看板を持って、
横屋の家を訪ねたが、彼に会うことはできなかった。
先日会った横屋の母親が出迎えてくれ、ミツナリはもう入院していると言った。
病院を教えてもらおうとしたが、
「学校の連中には会いたくない、元気だったころの自分だけを覚えていてほしい」と言って、
横屋自身が面会を拒否したそうだ。
母親は何度も頭を下げて無礼を詫びたが、
それが横屋なりの気遣いだということはわかっていたので、問い詰めるつもりはなかった。
横屋が描いた丁寧な下地の上に、
美術的なセンス皆無な俺が毒々しい色を重ねた出来の悪い看板の裏に
「いい出しもんになったぞ」と書き残し、写真と一緒に渡してもらった。
その頃の自分は高校の卒業さえ怪しい出席日数だったのだが、
気合を入れて出席しはじめて同様に絶望的だった大学受験にも成功した。
横屋のおかげだとは言うつもりはないし、彼もそんな綺麗事は望んでいないと思う。
ただ、俺が俺自身のために、自分の持つ可能性と戦ってみた、それだけの話だ。
……今でもたまに考えることがある。
思い描いた夢と自分の現在の差を知り、その残酷な現実を飲み込んだ上で、
なぜ横屋はあの笑顔で微笑むことができたのだろうかと。
考えても、きっと答えは見つからない。
彼だけが抱えた彼だけの世界における、彼だけの結論だから。
横屋は自分に、とてもシンプルだが誰もが忘れがちなことを教えてくれた。
人間は他の誰かになることはできず、それ故に他の誰かを理解することはできない。
いつだって自分を動かし、自分の世界と戦うことができるのは、
ただひとり、自分でしかないという事を、だ。
毎年一度、横屋に会いに行く。
彼はもう語ることはないし、俺も彼に伝えるべき言葉を持っていない。
ただ、こうやって彼の元を訪れることで、
俺は彼が望んだように「元気だった頃の横屋」を忘れていない。
そのことを証明できるなら、それでいいと思っている。
13回目の墓参りを終えて記す。
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