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猪群山ストーンサークルを語る会コミュの最終回・飯牟礼山縁起

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最終回・飯牟礼縁起


第四十六代孝謙天皇の時、天平宝治元年丁酉年(757)に万巻上人飯峯礼山に登山して当村に暫く留まり、その後、相州箱根山に逗留していた。
万巻上人は天平宝治年中(757〜764)飯峯礼山から神社・仏閣等を見聞して、その後、箱根山の神殿、末社、仏閣等を建立した人である。
第九十五代後醍醐天皇の時、尊氏将軍が九州兵乱の旅の途中に当山の峯に籠もりてその時、当村の村民中が当寺の本尊等を旧野の村・西畠村都甲村等の在家に預け隠くなした。
今日、旧野の村の白泉寺と西畠村と都甲村の龍雲寺等の本尊はこれなり。なお同じ時に当国府内の萬壽寺の住僧、仏師・禅師の直翁和尚はこの先祖因縁を村民に語り伝へた。その後、この物語を残す為に時折飯峯礼山に登山していた。
すでに拙僧は、俗性下野国の住人で名前を足利宮内少輔秦氏(1216〜不詳)の子供であり。東福寺の聖一国師の弟子であり、筑前国・博多の承久寺の住主をへて、その後、徳治元年(1306)に将軍相模守、平貞時公(北条貞時)の時に下知する。
その後、吉弘美濃守の使者となって当国府内の萬壽寺に住居する。その後、延慶三年(1310)に関白左大臣藤原朝臣忠教公のお供をして、上洛して東福寺の住主となり、又その後、志賀左近将監の使者となり、二度も当国府内の萬壽寺の住主となる。
当郡当村に来着し、飯峯礼山に拙僧が始めて登山した時、村民の厚恩をわすれる事ができず。ある時、この村の因縁に関係のある霊夢を見て垂迹和光の因縁を知り末世の衆生を救わんと思い村の出来事を調べる事にしました。
これ、豊後国国東郡三浦庄の山幡村にある飯峯礼山・神宮寺・龍子院と中峯礼山・小峯礼山の白和龍神等の本当の事を書き記し、これを「飯峯礼山縁起」と名付け村民に語り伝えし物なり。

コメント(1)

ついに最終回ですね。
ご苦労様でした。
ブログで公開するのがもったいないくらい貴重な資料ですね。
いつ、だれが書いたかも はっきり記述されている!!
但し、素人にはちょっと難しい!

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