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岩上王国へようこそ!岩の上の家コミュの疑問!?岩上のルーツを探せ(^。^)/

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最近テレビでも名前のルーツなる番組が始まりましたねわーい(嬉しい顔)

そこで一応、岩上で色々調べてみました手(チョキ)

全国の順位は1608位で約1万人もいるようです。

そして祖先は「幕臣は源氏、中興系図は宇多源氏。高崎藩、大多喜藩、鯖江藩、三河吉田藩に。」だそうです・・・ダッシュ(走り出す様)

ということは岩上は天皇一族ということになります手(パー)

ちなみに宇多源氏とはムード
宇多天皇より出た源氏で、敦実親王の後裔が最も栄え、庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家の堂上家が成立する。 敦実親王の四世孫成頼は近江に下向し、武家として蒲生郡佐々木荘を本拠とする。
 治承4年の源頼朝による平家討滅で軍功を挙げて、十五カ国の守護職を佐々木一門で占める程、全国的に勢力を拡大している。 宇多源氏は近江源氏とも呼ばれ、佐々木氏流は後に京極氏流と六角氏流に分かれる。
 後世の大名家の建部氏、朽木氏、京極氏(4家)、黒田氏(2家)、亀井氏、谷氏は宇多源氏を称する。

ということだそうですげっそりだんだん訳が分からなくなってきました。

一応・・・私が調べた内容は以上ですが、いまだドコで岩上が

発生したのか?分かっていません。

それに家紋は皆さん同じなのかな?

それも今度調べてみようグッド(上向き矢印)

ということで、何か情報があればお願いします。

コメント(8)

当方の家紋を発見しました手(チョキ)

違い菱という家紋ですほっとした顔

ウィキ参照した内容です↓
菱紋は、一年草の水草であるヒシ科のヒシの実またはヒシの葉を図案化したものといわれる一方で、単純な図形のために発生のプロセスについては明確ではないとされている[1]。菱文様は紀元前より見られ、日本では縄文時代前期の土器に描かれている[2]。家紋となった経緯については、菱形が連続した織文様から取り出されたものとされる[3]。菱紋が現れたのは、1370年ごろと見られている。その1370年ごろに成立されたとされる『太平記』に大内修理亮が直垂に「大菱」を入れたという記述がある。1392年(明徳3年)の『相国寺塔供養記』には武田信任の直垂に「違い菱」がつけられていたことが記されている[3]。

うーーん、やっぱり難しいげっそり

結局は菱は武田家がメインみたいです。

ちょっと掘り下げます。長いので頑張って読んで下さい泣き顔

そこで武田家をどうぞ↓
武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国には庶流があった。
武田氏の祖は、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男源義光(新羅三郎義光)と位置づけられている。河内源氏を称した源頼信は1029年(長元2年)に甲斐守に任官し、頼義、義光と継承される。頼義までは在京で現地へは赴いていないと考えられているが、義光は初めて甲斐へ着任し土着した人物とも言われ、山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は義光の在所であったとする伝承がある。1981年(昭和56年)の発掘調査では出土遺物が確認されるものの義光の在所とする確定的な証拠は発見されず、また古代甲斐における国衙が八代郡であることからも義光の入国は疑問視されている。また、甲斐守任官についても否定的意見がある(秋山敬による)。

本当にツライ眠い〜たらーっ(汗)

ココまでで分かったことるんるん

武田家は源氏であり源とは天皇一族であるということ・・・

また岩上家は宇多源氏から派生していることを加味すると・・・

武田家に招かれた?もしくは同族?ということでしょうか?

あくまで憶測ですので、今後も調査をしていきたいと思います。

最後まで読んだ人はスゴイですわーい(嬉しい顔)
えーー久々の続編です手(チョキ)

岩上の皆様、お元気ですか…そしてGWは楽しんでますかexclamation & question

では早速ですが、歴史の時間ですがまん顔

今まで、色々と調べて行き着いた場所を報告しますが・・・

岩上 朝堅(いわかみ ともかた、天文23年(1554年)- 慶長8年(1603年))は結城氏の家臣。

元の名は三浦義堅であったが、功績を立てたことから「結城四天王」のひとりとなり、結城氏の重臣であった岩上姓を与えられ、同時に主君・結城晴朝の「朝」の一字を賜った。常陸方面の結城領を管轄し、外交面でも活躍したという。

子の岩上朝吉は、結城秀康に仕えて1601年の越前転封に従い、四千五百石を給された。

というのを発見しました。では結城氏というのはexclamation & question

結城氏(ゆうきし)は平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した一族(大身)。通し字は「朝」

だそうですうまい!さらに掘り下げます…

鎮守府将軍藤原秀郷の末裔・小山朝光(結城朝光)が平安時代後期に源頼朝の挙兵に従い、志田義広滅亡後の鎌倉時代には下総の結城(茨城県結城市)を領した事が結城氏(下総結城氏、本記事中では一部を除き単に「結城氏」と記す)の始まりであるとされている。朝光は古くから源頼朝御落胤説があり、北条氏のために親子の名乗りができず、その代わりに身分の上では小山氏の庶子に過ぎなかった朝光にあらゆる優遇を施したという。それ故か、伝統的に源氏を称し、代々の当主も「頼朝」の「朝」の字を通字としている。いくつもの動乱の時代を経経て、あらゆる名族が起きては滅び、結城氏も翻弄され家運定まらぬ中で、鎌倉以来の名族中の名族としてその家名を後世に伝えた。

うーーん名門ですね手(チョキ)では小山氏ってexclamation & questionてコトで…

小山 政光(おやま まさみつ)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。元の名は太田政光。武蔵国の在庁官人で藤原秀郷の直系子孫とされる太田行政の子。太田政光は平安時代末期の1150年頃、下野国に移住して小山荘に住し、小山氏の祖となる。後妻で3男朝光の母である寒河尼は源頼朝の乳母。

なるほど手(パー)って難しすぎて疲れてきた〜あせあせ(飛び散る汗)

これより先は第2部を見てください泣き顔

これ以上、本文が入りきりませんでした。
第2部 まだまだ続きます。がんばって読んでください。

では早速ですが、幕末の頃まで歴史を見ていくと、最後には…

戦国時代の終了と結城秀康の入嗣〜越前松平家への移行・消滅〜

政勝には子がなく、跡は高朝の子である結城晴朝が継いだが、晴朝の時代においては、古河公方の没落は顕著となり、新たに勃興した相模北条氏康や関東管領を継承した上杉謙信の侵攻を受けて、結城氏は北条・上杉の間を転々としながら勢力を保つのみになり、晴朝の実家である小山氏との関係も険悪となった。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、近世大名として生き残ることに成功し、改易された旧小山氏の所領と旧小田氏の所領の一部(土浦城一帯)が戦功によって結城氏に与えられている。

晴朝には嗣子が無く、初めは宇都宮広綱の次男で佐竹義重の甥に当たる結城朝勝を養子に迎えていた。だが、小田原征伐後に結城氏の所領が大大名である徳川氏の所領と隣接するようになる。このため朝勝を廃して、徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた結城秀康を養子に迎えて家督を譲ることで豊臣・徳川両氏の信頼を得て結城氏の存続を図った。しかし、関ヶ原の戦いの後に秀康は越前に移封されて1604年には名字を松平に改めることになる。秀康の没後、結城家は秀康の五男結城直基が継ぐことになる。しかし、直基も後に松平を名乗り(前橋松平家)、大名の家名としては下総結城家の家名は消えた。なお、家名は松平家となったが、下総結城氏の祭祀は代々の前橋松平家当主が継承している。また家紋については結城家のものをそのまま用い、小山氏に由来する結城巴と秀康以来の太閤桐であった [1]。この点は、その他の越前松平諸家とは一線を画する。

結城氏の末裔〜水戸藩御三家・秋田藩士として〜

別系統に白河結城氏の末裔たる結城氏のうち一部は、水戸藩士として1000石、家老の家格を有した。小山氏、宇都宮氏と並び水戸藩御三家として尊ばれ代々家老を務め叙爵(従五位下と官職を受けること)を受ける家柄であった。しかし、結城寅寿の代に藩主毒殺を図ったとして、反逆の罪で絶家とされた。寅寿の子 結城種徳は牢死し、結城家は大森家から養子を迎え入れて存続した。なお、水戸藩の結城氏は庶流であり、白河結城氏の末裔は秋田藩士、仙台藩士として存続している。

その他、常陸国伊奈に名主の結城氏が存続。結城300石といわれる石高を有した。

ということだそうです。ここまで読んで頂き、ありがとうございます。

それでは独断と偏見の結果を発表します。

岩上は小山氏から派生したということ、そして結城氏に仕え、現在の茨城県を中心とした一族ということになります。また岩上は重臣というけして悪い立場では無かったということ手(チョキ)あと地名に残る程の(結城市・小山市など)名家に仕えていたということです。

ここでまたもや本文が入りきりませんでした。第3部へ続く・・・泣き顔
第3部 完結編になればいいな〜という思いで書きます。

では結城氏の家紋は何exclamation & questionってことで…

さらに小山氏の家紋は何exclamation & questionってことで…

全然、当方の家紋と違う〜泣き顔

ソコは置いといて、皆さんの家紋でこの巴系を使っている方は多分ですが、

岩上家の本当の末裔になると思います。一度、確認をお勧めします。

最後に一つ書き加えておきます。

巴とは水が渦を巻いている形をあらわしている。いわゆる渦巻き。この渦巻を火災予防のお呪いとして、民家では屋根瓦や土蔵などに用いていることが多い。巴の図を省略して「水」を描いているものも見かける。しかし巴にはもっと深い意味がある。武士の弓手に巻く皮具-鞆(とも)から、また、古代の宝器であった勾玉が巴形で、これが神霊のシンボルに移転したこともこの紋が広がった要因のようだ。(右三つ巴)
巴紋は神社に多用されているため、神社関係のひとが家紋として使いはじめた。たとえば宇都宮氏。この氏は、二荒山神社を祖と崇めた毛野氏の後胤で巴紋を用いた。 さらに、藤原秀郷流の下野の小山、足利、佐野の諸氏、下総の結城氏なども加わって、全国的にひろがっていった。
 そのほかでは赤松、土肥、沼田、杉原、長尾、小早川などの豪族が使用。大名家では有馬、岡部、土方、板倉、林、沖縄の尚氏も巴紋を使用している。忠臣蔵で有名な大石良雄は「二つ巴紋」を用いている。この大石氏は藤原秀郷の子孫という。

以上で今回の調査は終了したいと思います。

都合3ページになりますが、読みきりましたか?

また何か発見した際には書き込みますがまん顔
初めまして!
ちょっと出遅れちゃいました。

佐野出身です。夏には秀郷祭りがあります。
家紋は丸に桔梗です。
http://www.asgy.co.jp/crest-list/18003.gif

よろしくお願いします。
TO かっちゃん

その家紋は明智家かも知れませんね。
ちなみに坂本竜馬も桔梗ですよねダッシュ(走り出す様)

関西系のご出身かも知れませんね!
私の先祖は家系図によりますと、宇多天皇から初まる近江源氏京極高氏の弟、岩上五郎従五位下尾張守秀信を始祖としています。岩上、岩山の表記も有ります。室町幕府の奉公衆にて、室町幕府の日記?花営三代記に名前をみうけます。
今、調べらている事はこんな感じです。
ご存じな事、お教えください。

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