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懐かしい昭和の風景やエッセイ集コミュの海の上の道(うなかみのみち)

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桜島と並んで鹿児島の象徴的な山に開聞岳があります。その優美な姿は薩摩富士とも呼ばれます。奈良時代に大噴火の記録を最後に爆発はなく、休火山の部類になります。だがその最後の爆発で付近の古代遺跡は消滅しました。山麓には中世以後の遺跡しかありません。別府(鹿児島ではビュー)・別所などの地名は中世開拓村に付けられた地名です。

開聞岳は沖縄に達する古代からの「海上の道」の終着駅でした。琉球から古代の船でも絶えず次の島が見えます。逆に言えば、沖縄〜与論〜沖永良部〜徳之島〜トカラ列島〜種子島・屋久島〜山川港まで常に晴天であれば次の島が見えて居ました。南の文化や産物や人が往来しました。そのシンボルが開聞岳でした。

写真は昭和56年、屋久島在職中に空から写したものです。鹿児島空港から当時はYS11が飛んで居ました。飛行機は1800メートルまで上がり、行きは開聞岳の西側を、帰りは上空を飛びました。所要時間30分、飛び上がって開聞岳上空でもう降り始めます。当時は高速船無く、普通の船では4時間かかりました。
開聞岳はコニトロイデ型と言われる形をしています。ご覧の通り8合目付近までは円錐形火山、最後に山頂に溶岩が噴き出てそのまま固まったものです。だから山頂に火口はありません。山頂はトロイデ型なんです。(トロイデの典型は箱根山)近世になると密貿易の根拠地が付近に出来ました。

山麓の畑はカライモが最初に植えられた場所でもあります。前田利衛門と言う人が琉球から種を持ち帰り広めました。薩摩藩に飢饉の記録が少ないのはカライモのおかげです。江戸幕府の8代将軍徳川吉宗が青木昆陽に命じてカライモを全国に広め、サツマイモとなりました。だが我々には琉球芋であり唐芋なんです。

屋久島在職中は職場の部屋から開聞岳が見えました。故郷を眺めていたのです。
昔の人々は小さい船でよくも往来したものと思いますが、最後に大きな道標が開聞岳でした。山頂に近くなるにつれて急な坂道になります。標高1000メートルのエビの高原から韓国岳に登山するには標高差700メートル、だが開聞岳は0メートルから登山になります。1000メートル近く登ります。若い頃は何度か登山をしましたが山頂の眺めは素晴らしい。太平洋戦争中に鹿屋や知覧から飛び立った特攻機の乗員は開聞岳に最後の別れをしました。

ついでに屋久島の風景を一つ、トローキの滝とモッチョム岳です。カタカナの地名は何故なのか研究不足ですが、トローキの滝は日本では数少ない滝が直接海に落ちているものです。フィヨルド地形の北西ヨーロッパには多いのですが、日本では珍しい。背景のモッチョム岳は岩石の山です。まだ屋久島が世界自然遺産に登録される前の写真です。

コメント(4)


この写真は、知覧〜川辺〜開聞方面へ抜けた時の写真(開聞岳)と、その後すぐに知林ケ島に渡った時の写真です右斜め上
向こう側に映っているのが、魚見岳です右斜め上

昨年の4月に、知林ケ島まで家族みんなで歩きましたるんるん
大潮の時に渡れるんですよねわーい(嬉しい顔)

以外と距離があり、かなり歩きにくかったと思いますダッシュ(走り出す様)ダッシュ(走り出す様)
知林が島へ渡るのは時間制限があり、その上砂の上を歩きますから大変です。

さすがMayさん、元気がありますね。写真写しも御上手です。
「開聞岳は0メートルから登っど〜」
と高校1年生の時の担任に言われ、夏休み有志で登りました。
やっと、頂上に着いて、リュックをあけておやつを食べようとしたら
いきなり猿がやってきて、私のリュックの中からチョコフレークをとって行きました泣き顔
その時、一緒に登った友人の一人と何カ月か前にミクシィで偶然知り合いびっくりげっそり世間ってせまいですね。

芋のルーツは、前田利衛門に有りと聞いていましたが、山麓の畑に最初に植えられたんですかぁ(^。^)

「特攻機の乗員は開聞岳に最後の別れをしました。」のくだり・・・つらい話ですね。


mayさんの写真も美しいですぴかぴか(新しい)

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