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長野県民 ハワイ会コミュの松本市

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中心市街地は古くは深瀬郷、捧ノ庄、庄内、深志(これが最も使われていた)と呼ばれ、国府が置かれたことから信濃府中(略して信府(しんぷ))、漢文調に信陽などの異称もあった。また、松本市周辺や松本地域は松本平、筑摩(筑摩野とも)などと呼ばれる。

旧市街は、国宝松本城を中心とする城下町である。また、重要文化財「旧開智学校」などの歴史的建造物も多い。指揮者の小沢征爾ら一流の音楽家の集うサイトウ・キネン・フェスティバルが毎年夏に開催され、全国からクラシック音楽愛好家らが訪れる。キャッチフレーズは文化香るアルプスの城下町、3ガク都(楽都、岳都、学都の3つのガク都。音楽、山岳、学問で有名なため)などだが、前者が多く使われ後者はほとんど見られない。
松本市の都市圏は、さまざまな定義があるが最大のものは諏訪地方も含まれる松本地方中核都市圏で人口は65万人に及び長野地方中核都市圏を越す。このほかに人口62万の松本都市圏、UEA(都市雇用圏)を基準にした松本大都市雇用圏、松本広域連合がある(都市圏ではないが都市圏として扱われることが多い)。市名の由来は諸説あるが、一説によればかつての松本藩主が松本の地で領地の復活という本懐を待っておりそれが叶ったことからことから、本懐を待つ→待つ本懐を→松本懐→松本 と変化し松本となった。しかし明治維新のころまでは松本とともに以前からの呼び名である深志も多用されていた。

地理
松本市は、長野県の中央からやや西の所にあり(これは市中心部のことで、市西部は県境にある。)、県庁所在地の長野市から40?、東京から220?のところにある。市域は、西の飛騨山脈(北アルプス)から、東の筑摩山地(美ヶ原)までととても広く長野県内では最も広い(全国の市では20位)。市中心部や、狭義の松本(松本駅周辺)は二つの山脈(山地)の間にある松本盆地の中央部に位置する(標高約600m)。

河川では、上高地方面から流れ出す梓川が市の西部を流れ、奈良井川が市を二分するように横断している。また、市街地には女鳥羽川が横断している。女鳥羽川はもとは現在の大門沢川のルートを流れていたと考えられるが、江戸時代はじめに人工的に流路が帰られ今の姿になった。山では、合併に伴い日本百名山の山が多数 松本市に編入され、岳都(学都、楽都とならび松本市のキーワードとなっている)の側面が強くなった。中部山岳国立公園、八ヶ岳中信高原国定公園が市内にあり、前者には特別天然記念物のライチョウが生息する。また、景勝地の上高地も市内にある。

市内には多数の扇状地が形成されている。また、松本市はフォッサマグナの上にあり、市西部には糸魚川静岡構造線が通っている。市内には地震関連のテレビ番組などでもよく紹介され地震の発生確立が全国で最も高い断層牛伏寺断層が通っている。市域は5000万年前は海底にあった。

森林面積は74,000haで、市域全体の約81%を占める。また、山間部の村々と合併したことにより人口密度が大幅に低下した。

山: 穂高岳、槍ヶ岳、焼岳、乗鞍岳、大天井岳、常念岳、大滝山、霞沢岳、美ヶ原   
河川: 梓川、犀川、女鳥羽川、奈良井川、田川、薄川、牛伏川、鎖川、大門沢川、和泉川
湖沼: 大正池、美鈴湖
高原: 美ヶ原、乗鞍高原
自然公園: 中部山岳国立公園、八ヶ岳中信高原国定公園

気候
松本市(松本地方)は中央高原型(5d)の気候が顕著に現れるところにあり、ほとんどの学校教育用の地図帳で中央高原型気候の都市の例として扱われている。そのため松本測候所は中央高原型の代表として直達日射観測も行っている。冬の寒さは厳しく、特に早朝は零下10度まで冷え込むことも度々ある。雪はそれほど多く降らず、多くても30cmほどである。夏はとても暑くなり、冬と夏、昼と夜での寒暖の差が激しいのが特徴である。また、晴れる日が多く日照時間は全国でもトップレベルである。その反対に、雨は少なく全体的に乾燥している。梅雨の影響も少ない。松本市で傘を使うことはまれである。松本平は山に囲まれているので日中でも風速7〜8m/sの強い風が吹き、このうち北アルプスから吹いてくるものをアルプス颪(おろし)と呼ぶ。

市中心部を流れる女鳥羽川、薄川は有史以来たびたび氾濫し、市内を幾度も浸水させている。中でも1959年の台風7号は大きな被害をもたらした(詳しくは女鳥羽川を参照)。松本市で観測した極値は、最高気温が38.5℃(1942年8月2日)、最低気温が-24.8℃(1900年1月27日)、最大の一日の降水量が155.9?(1911年8月4日)、最深積雪が78?(1946年3月3日)。

松本城
構造
典型的な平城。本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地され、縄張りは輪郭式を成している。

歴史
戦国時代、信濃国中部を治めていた甲斐源氏の名門、小笠原氏が砦を築いたのが始まりといわれている。以後、同じ甲斐源氏である武田氏の侵攻を受け武田氏の支配下となる。武田氏が滅んでからは徳川家康の支配下におかれ、配下に支配が委ねられた。

豊臣秀吉が徳川家康を関東に転封したのちは、石川数正が配置された。石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭、城下町の整備を行う。

江戸時代は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。

貞享年間(1684年-1687年)以降、昭和25年(1950年)の昭和修理の際に修復されるまで、およそ260年にわたって天守が大きく傾いたままであった。貞享騒動(嘉助一揆)の首謀者多田嘉助が磔刑に処せられる際、天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いたといわれている。 しかし現在では、軟弱な地盤(元々この地は深瀬,深志と呼ばれる沼地で、城の始まりは沼の畔の館である)の上に天守を構築する工法として採用された石垣下の格子状の筏と、其れを支える為に地中深く打ち込まれた多数の杭が時代を経て朽ち、土台構造物を失った天守が自重で沼地に沈み込んだ事が傾斜の原因であると判明している。 ようするに松本城は筏の上に載せられ沼の上に浮いていたのであり、傾斜の実態は泥船状態の“沈没”であった。

明治維新後、1872年に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れる。しかし、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。

アクセス
徒歩:JR東日本・松本電鉄松本駅から徒歩20分。遠回りになるが駅前通りを東へまっすぐ行き、サークルKがあったら左に曲がりまっすぐ行く(橋も越える)ルートがわかりやすい。
バス
松本駅バス停から:タウンスニーカー北コースで10分弱。松本城黒門下車。
松本バスターミナルから:浅間温泉行きなどで10分弱。八十二銀行前で下車。
マイカー:松本インターチェンジから車で15分。

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