ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

中高年のための京都コミュの懐かしい香りのするところをご紹介

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
地下鉄東西線の東山三条駅から、知恩院へ向かう道に
「古川町商店街」というのがありまして、なぜかそこを歩くのが
好きなんです。
昭和の時代の香り。。幼い頃の懐かしい故郷の香り・・

その日も、ひとりそこを歩いていました。

夕暮れ時の飯炊ぐ薪の香りが漂ってきそうな、なつかしい風情でした。
しばし、ぼーっとたたずんで、みてたんです。

そしたら、おっちゃんがお店から出てきて、近所のおっちゃんと
お話してはって、その風景が、あまりにも懐かしくて・・
なんかしらんけど、涙が出てきましてね。。

なんか、ほんま、ほっこりしたんですわ。。

なんやろねぇ〜

ほんわかと。。。暖かいものを感じました。

すっごく、幸せな気持ちになれました。

みなさんも、なつかしい香りを求めて・・
街を歩いてみましょう。
故郷のほんわかとした、懐かしい、暖かい香りに包まれて・・
京都の街は、ほんま、よろしおすえ〜
おこしやすぅ〜

コメント(48)

古川町商店街、3月8日の午後5時半ごろ、また用事があって
フラフラと歩いていたのです。

そしたら、京都大学の大学院の研究グループの人たちが
ミーティングしてはりました。
チラチラとみてましてんけど・・
結局なんかわかりませんでした。
何してはったんやろね〜
知ってる人おられたら、教えてくださいませ。

あそこには昭和の雰囲気がそのまんま、まだ残ってますよねー。

お惣菜屋さんが食堂をしてはるんですけど、そこがまたほんまに「食堂」
という感じでねぇ・・
八百屋さんや洋品店なんか、ほんま、ええ味出してはります。

そうそう、お肉屋さんでは、定番のコロッケ売ってはりました。
ついつい「おっちゃん、コロッケ1つー」ってゆうてしまいそうな感じでした。

そやけど・・
最近は、不況やから、閉店してはるお店もあって、活気は今ひとつですけど、
それがまた、ひなびたええ味を出してますねん。。。

買い物せんでもええから、歩くだけでも、覗いてみておくれやす。
ミーティングって路上じゃないですよね。
それに京都大学の大学院の研究グループというからには、ポスターとか看板をあげておられたのでしょうね。

でも、分かりません。


多くの商店街でシャッターが下りている店があるというのは事実ですね。
商店街は活気が必要です。
大型店との競争ですから大変なのでしょうね。
この前、スーパーを選ぶ理由についてのアンケートを見ました。
1.鮮度がいいこと
2.安いこと
以上が大部分で
3.品ぞろえがいいこと
と続いていました。
商店街の店がそろって特徴を出せば対抗できるかもしれませんね。
ただこの分野、素人ですから、打開策があるといいですね。
難しい話を発見してきました。

商店街を拠点としたポピュレーション・ストラテジーによる健康増進活動
(介護i予防,メタボリックシンドローム予防等を目的とした商店連盟や住民自治会との連携による出前"すごやか健康講座")

というタイトルの文章があります。ここに以下の文章があります。さゆりんさん、如何でしょう。

我々は,京都市東山区古川町商店街において2005年9月から古川町商店街"すこやか健康講座"を始めた。最初のすこやか健康講座"は,古川町商店街の商店主,従業員を対象に同商店街振興組合理事会の協力を得て『転ばぬ先の… … 』をテーマに転倒・骨折予防の内容で実施した。
この契機となったのは,2005年度に古川町商店街に設置した古川町商店街『すこやかサロンP)における地域保健活動を通じて商店街の店主や従業員との交流が深まったことや,健康教育に関する周辺住民のニーズを把握できたことにある。


また、古川町商店街では
現在、商店街への集客を最優先課題として、いろいろな企画を考えています。
しかしながら、この地区のお客様である主婦の70%が勤めに出ています。
従って営業日や営業時間については、土、日曜・祝日の営業を検討せざるをえません。
また、観光客や一見客の取り込みもできると考えています。
昨年、新店舗として八百屋が2軒と整体医院が新しく開店しました。
整体医院は、周辺住民の高齢化もあり、お客様を引き込む力が強く、予約が必要なほど盛況です。
 食料・日用品を中心とした品揃えで、スーパーやコンビニではないお客様とのコミュニケーションがとれる、顏が見える関係づくりを目指しています。

その具体的活動内容は
1.ゴミ減量とレジ袋の環境問題に配慮した“マイバッグ”をお客様に無料で提供。
2.営業時間を延長し、夜7時までは各店舗がオープン
3.都大学医学部の協力を得て、納豆やアロエなど各店舗の「一品」情報を店頭で紹介。
  今後は、さらにテーマに合わせたオリジナル商品・ブランドの開発をすすめ、この事業を継続。
4.個々の店主が将来の商店街について真剣に考え、行動することで未来を拓く。
>11
追加:上記の前半部分は「京都大学医学部保健学科紀要」−4− 59ページから引用しました。


さらに「京都まちづくり学生コンペ」というのがあって、2009年12月6日(日)の公開プレゼンテーションで発表された10組の中から、第二次審査の結果、最優秀賞1作品、優秀賞3作品、佳作6作品が選ばれました。

その佳作の中に京都大学大学院(人間・環境学研究科)の「Gated Market 〜街区境界の明確化による古川町商店街の再生〜 」というのがありました。

さゆりんさん、これでしょうかね?

またまた、出町商店街に行ってきました。

やっぱり懐かしい。
北大路烏丸東入ル北側に京野菜の販売店があります。

有機野菜や無農薬野菜が販売されています。

近所のおばさん達が買い物かごを下げて買いに来られている姿が見られます。
三条会商店街
三条通りの堀川から千本までの商店街です。

子供の頃、母に連れられて買い物に行ったものです。

3枚目の写真は50年ほど前までは、よく模型を買いに行ったお店です。
まだ、健在なのが嬉しいです。


この商店街は東西800mの間に180店舗の店があります。
雨の日はアテネ五輪女子マラソンの金メダリスト・野口みずきさん がここで練習をしていました。
こちらも三条通り。
但し、場所は三条大橋西詰め北側。

舟はしやさんのお菓子屋さんと、たわしや竹箒を扱っているお店。

何故、ここに?って感じがします。
イノダコーヒは京都市に本店・本社を置くコーヒーのチェーン店。

京都市中京区の堺町通三条の本店など市の中心部に数店を展開するほか、近年は札幌駅、東京駅、広島駅の各駅前などにも大丸百貨店内を中心に出店している。

京都市内の店舗はすべて喫煙席があり、分煙方式となっている。

比較的高級な路線で運営を行なっており、スターバックスやタリーズコーヒーなどの大手チェーンの倍程度の価格帯でコーヒーなどの飲料を提供している。

以前は必ず砂糖とミルクの入った状態でコーヒーが提供されていたが、近年はこれらを分けるか事前に質問される。

一方、サンドイッチなどの軽食はボリュームがあり本店等で食べられる「京の朝食」はボリュームたっぷりの朝食である。

自社の焙煎工場とケーキ工場を有し、特にコーヒー豆や挽いた粉については店頭だけでなく全国各地の百貨店、スーパーマーケット、茶葉店などでも販売されている。

「アラビアの真珠」と名付けたブレンドのコーヒーが特に有名。自社の店頭やオンライン通信販売ではコーヒー以外にも、コーヒーカップなど食器類・アクセサリといった商品を取り扱っている。

以上ウィキペディア参照

左写真は本店、右写真は三条支店
久しぶりに、このトピックに書いて見た。
上七軒です。

花街だからこそ、昔の風情が残っています。
 上七軒の辺りもいいですねぇ〜るんるん
 「上七軒」と言う響も素敵揺れるハート
 
 今年の夏は是非、
 上七軒の歌舞練場内にあるビアガーデンに行ってみたいですビール
 

 
MAKOさん、
舞妓さんがビールを運んで来てくれるのもいいですね。
普段、舞妓さんとは縁がないもので、こういうときに行かなくっちゃ。
上七軒のビヤガーデン♪[撮影日:2010年08月01日]

上七軒は、大徳寺再興のときに余った木材で七軒立てられたので上七軒という名前があります。豊臣秀吉の好物のみたらしだんごが上七件や祇園のトレードマークとなっています。
上七件の提灯の回りのみたらしだんごは10個です。祇園は、8個です。それだけ上七軒は、祇園よりも格が上だといっているわけです。 いかにも京都らしいプライドですね。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=31523438&owner_id=9873863
渉成園近くで発見した提灯屋さん

京都だからまだあるのでしょうか。
多分全国にあると思うのですが、見たことはありません。

こういう昔の雰囲気を漂わせる店って懐かしい感じがします。
杉本家住宅    下京区綾小路通新町西入矢田町116

内部の写真撮影が禁止なので外部の写真だけ説明しますね。
この建物が建ったのは明治3年で今年で142年になります。
間口30m、奥行き53mという、京都の町家としては破格の大きさです。
普通の京都の町家の間口は6〜8mなので、如何に大きいかが分かります。

先ず、この家屋は商家としても外観をもち、一階部分は道路に面して門口(かどぐち:表とも:出入り口のこと)と京格子と塀からなっています。

一般の京町家の門口は大体1間(1.8m)ぐらいで扉部分は1m弱なので、これも杉本家住宅が大きいものです。

格子は3種類あって、左写真では門口の横が糸屋格子といいます。
これは全ての立子(たてこ)が框(かまち)に達しているのではなく2本おきに短くしてあり、採光を良くしています。京都の呉服店に多く見られるものです。

次は仕舞屋(しもたや)格子で糸屋格子の左側の出窓部分にあるもので、写真で見ても分かるように上部近くに中敷居があって上下に分かれています。
店の間を持たない町家に多く見られますが、杉本家住宅ではこの内側が洋間になっていました。

もう一つは細目(ささめ)格子といって、中写真の左側部分ですが木部と隙間部の比率が9:1ぐらいでしょうか。この格子の立子の横断面は台形になっており内部側が短く隙間が大きくなっています。
このことにより、狭い隙間からも意外と視野が広く、外部の動いているものならハッキリと見えることが分かりました。

格子の役割は家の内部が見えにくく、外部と遮断することと、風通しがいいことです。


2階は虫籠(むしこ)窓が見えていますが、ここには店で働く男衆(おとこし)さんが住んでいました。
江戸時代まではお公家さんや武士を見下ろしてはならないということで人が住めないような高さ制限があり、物置にしか使えなかったのですが、この点、明治の建物は高いものが現われてきています。

格子の前を犬走りと言い、犬が「おしっこ」を家にかけないように竹製の犬矢来(いぬやらい)はありますが、実際の目的は家の内部を覗かれたりしないようにするためと言われています。
その他にも駒寄せというものもあります。


さて、玄関の話をしてみましょう。
通常、入り口を入ったところが玄関ですが、京町家はそこが店の間ということになります。
家の玄関は店の間を通り過ぎたところに玄関があります。
杉本家住宅では玄関の他にも内玄関というものがあります。
玄関は客人用のもので、内玄関というのは家人の使う日常生活に使用する母屋への入り口です。(写真が無くてすみません)
この玄関の空間を「玄関庭」といいます。


ここで庭という言葉の説明をしておきましょう。
通常「庭」と言えば植木が植えられていたり、石が置かれている庭のことですが、京都では作業をする場という意味もあります。
「店庭(みせにわ)」とは店の通路であり、「走り庭」とは走り=台所の場所であり、奥に抜ける通路でもあります。
この庭は土でもなくコンクリートでもない粘土と石灰とにがりを混ぜて叩き固めたものです。

だから京町家は表(おもて)から入って、店庭を通って、走り(台所)を通って裏庭(この庭は樹木のある庭)に至る訳です。
この通路全体を「通り庭」といいます。


玄関の裏側に八畳の座敷がありました。
明治26年に結婚をした七代目の若夫婦の居間として増築されたものです。
部屋の西側全面と北側1間分が障子となっています。

まだ、電燈もなかったのでしょう。明かり取りとしての役割が大きいと思いますが、午後からの木漏れ日が障子に映えて癒しの空間を演出しているように感じました。

同時に部屋が優しく感じられたのは、柱が角材でなく北山杉の磨き丸太が使用されていたからでしょう。

豪商だからこそ、豪奢に走らずセンスの良さからなのでしょう、利休の茶道の心に通じるものを感じます。


まだまだ書きたいことはあるのですが、本日はここまでといたします。
続きはまた後日といたします。

>23続きです

杉本家の人々は自然の季節の移ろいやちょっとした明りの変化に敏感だったのでしょうか。
障子の唐紙は白地に、キラ(白雲母使った塗料?)を使った模様が描かれていました。

キラの絵付けの技法には2種類あります。それは置き上げと木版刷りです。
この2種類の技法では光り方、見え方が違います。

この見えても見えなくてもよいようなセンシティブな事ですら、どちらを選ぶかという美意識がそこにはあるのです。
西洋の壁紙とは全く違う微妙な美意識がそこには集約されているのです。

西洋といえば、家の中、家の外ということがはっきりしていますね。
がっしりとした壁、しっかりとした窓によって内と外が隔たっています。

しかし、杉本家住宅のこの部屋は障子紙1枚で仕切られているだけです。
開け放てば部屋と庭が一体となり、そこに腰をかければ庭の中にいるようであり、閉めていても明りが入ってき、シトシトと降る雨音まで聞こえてくる。

この自然とのゆる〜い関係が訪れた外国人の方には驚きで、「ここは家の中なのか外なのかというような質問をされます」とおっしゃってました。
自然と自分たちの生活を決して切り離さない生活がここにはあるのです。

杉本家に人々は、人の身の丈を知っておられたので、自然というものが人間より勝っており、自然を押さえ込もうとか、自然と戦って生きていこうとか思われてない。
自然を上手にやり過ごす知恵と工夫を凝らせて、豊かに生きてこられたと思われました。
そこに美意識というものが織り込まれてきた結果がこのような住宅になってきたと思います。

この部屋の前にある路地庭は薮内(やぶのうち:茶道の流派)の流儀の庭です。
薮内流の初代は藪内剣仲といって武野紹鴎の門下で、兄弟子の千利休とは親交が深く、利休より相伝を受け、また利休の媒酌によって古田織部の妹を娶っています。
薮内流の特徴は飛び石が埋もれていますが、杉本家の今の庭は土が流れて飛び石が大きく露出していますが、造った当時はこの特徴をそのまま取り入れていました。

■細目格子(ささめごうし)のある部屋について
>23にも書きましたが、縦格子は内側が広く開かれているもので外はよく見えますが、外からは殆ど見えません。 音もよく聞こえます。

何かあって、表が騒がしいと、すぐに気が付きます。
そんな時、「ヤジ馬みたいに飛び出していくのは恥ずかしいでしょ。
そういう時は格子の内側から覗いて、近所の人が出てきたはると、私らも外に出て様子を見に行こかという風にするのですよ。

京都の人間は用心深くて自然とこういう風な習性が身についてしまったのです。

狭い京都の町ですから、外ではお人の噂や話などして、何処で、誰が聞いているのか分からへんですから、滅多なことでは話はしないのです。
その代り、家の中ではせいだいきつ〜いことを言わはるんです。

そこは非常に京都らしい内向的で排他的でありながら、外のことが気になって仕方がないという京都人の気質をよ〜く表わしている建て方ですね」。

京都の人は単数形で話さないですね。一人称で話すときも「私ら」ですし、子供を指して言う時も「お子達」なんです。
自分を主張することが少ないのです。物事を言う時はいつも曖昧にしてしまうのです。

■階段
押入れのように見えている襖をあけると階段があります。
これは母屋は店の建物の裏にあって、外からは見えないものですから、2階なんてあらへんというカモフラージュの為でもあります。
もう一つは、階段の段々というのは目にうるさいからです。
むさくるしいので襖で隠しているのです。
そして階段の下の空間はもったいないですから引出しになっています。
こういうのを箱段と言います。

■御仏壇の部屋
商家としては異例なほど大きな仏壇があります。
これは、当方の先祖が信心深かったからで、心の糧に大事にしていたからです。
明治3年にこの家を再建するにあたって、先ず平面図で御仏壇の位置を決めて、その下に地下室(石室)を造っています。

これは近所で火事が発生した場合に御仏壇を地下に仕舞って、燃えることを防ぐためです。
禁門の変(蛤御門の変)で御仏壇が焼けたことを、よっぽど悔しく思っていたのでしょう。家が燃えても仏壇だけは守ろうとすることが窺われます。
仏間は家の者が入る外陣(げじん)、お坊さんが座る内陣、仏壇を置く内々陣からなっています。
我が家と違って、いかに先祖を大事にしていたかが分かる仏間でした。
春もそこまで来ていますね。
今、円山公園は柳が芽を吹いてきたところです。

長かった冬、厳しかった冬も終わりですね。
ホッとした気がします。
下町というのでもないのですが、昔ながらの街並みというのか、こういう雰囲気が好きですね。

道幅が2〜3mぐらいの細い路地のような道にお地蔵さんがありました。

こういうところで元気な子供が遊んでいるのかと想像すると、懐かしい自分の子供の頃を思い出しました。
10月1日、東京駅の駅舎保存復原の完成で一躍有名になった辰野金吾さん。

京都にも彼の設計による建物があります。

写真は右から
日本銀行京都支店 (1906年/京都府京都市/重要文化財/現・京都文化博物館別館)
第一銀行京都支店 (1906年/京都府京都市/現・みずほ銀行京都中央支店/レプリカ再建)
日本生命京都支店 (1914年/京都府京都市/登録有形文化財/現・日本生命京都三条ビル)
です。

他にもレンガ造りで今も残る建物があります。


辰野金吾さんは、1854年10月13日(嘉永7年8月22日)に生まれた江戸時代から大正時代に生きた武士であり、建築家だったのです。

現在の東京大学工学部を卒業し、工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長の経歴を持っていました。

設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれ、帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太、長野宇平治、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞らの人材を輩出した。

この中で武田五一さんは京都帝国大学に工学部建築学科を創立した人物で、
京都府立図書館(1909年)
同志社女子大学ジェームス館(1913年)
順正清水店(旧松風嘉定邸洋館)(1914年)
白河院旧館(1919年)
京都大学建築学教室本館(1922年)
東本願寺内侍所(1923年)
聖トマス学院(1923年)
春陽堂本社屋(1924年)
京都大学時計台・本部本館(1925年)
藤井斉成会有鄰館(1926年)
京都市役所(1927年) (中野進一と共同)
島津製作所河原町別館(1927年)
1928ビル(旧毎日新聞社京都支局)(1928年)
京都大学人文科学研究所東洋学文献センタ(旧東方文化学院京都研究所)(1930年)
同志社女子大学栄光館(1932年)
関西電力京都支店(1937年)
などを設計しています。
もう一つ、辰野金吾設計のビルです

烏丸蛸薬師角にあるこの建物は、山口銀行の京都支店として建てられたものです。
竣工は大正5年。

その後は北国銀行京都支店でしたが、現在は撤退して flowing KARASUMA というテナントビルになっています。
 
辰野金吾の作品としてはこじんまりとした建物ですが、彼の特徴である赤レンガに白ラインの入ったファサード。ただし縦のラインも強調されています。鉄筋コンクリート造り2階建。
このトピは2年も更新されず忘れ去られていました。
それで掘り起こしの意味も込めて投稿します。

京都タワーは私が子供のころ(1964)にできました。
思えば50年前ですね。

当時は京都に相応しくないなど評判が悪かったことを記憶しています。

ところが、最近では50年も経つと京都に馴染んできたと言うのか、鉄骨造りでないのがいいとか、いい評判を聞くことがあります。

当初から、京都らしくローソクイメージとか言われていましたが、設計者の山田守氏によればあれは京都の街並みの屋根瓦が波のイメージで灯台を現しているとのこと。

昨日、昇る機会があり行ってきました。

展望台から真下は見えないと思っていましたが、手を延ばせば右のような写真も摂れます。
そして月曜日という平日にもかかわらず、左写真のように結構な人が来ていました。
>>[029]

こんなトピがあったんですね。

私は白川と古川町商店街が好きで、
東山三条に短期移住のマンションを決めましたわーい(嬉しい顔)

商店街の人はよそ者の私にとても優しく親切でしたわーい(嬉しい顔)
あちこち徒歩で行けるのが便利でした。
大好きで愛おしいくらいの街でしたるんるん

来年も短期移住の予定ですが、里帰りと言いたくなるほどに素敵な街でしたるんるん

もちろん!京都タワーは三度ほど行きました手(チョキ)
古川町商店街は、たまに歩きます。かっては西の錦市場、東の古川町商店街と多いに賑わったそうです。周辺からお茶屋さんや料亭旅館が姿を消してからすっかり寂れてしまいました。その愁いを帯びた雰囲気もよく商店街には、ゲストハウスも数件できた。枝垂れ柳が美しい白川通り沿いにもゲストハウスが数件できている。時代の流れでしょうね。
偶然に見つけた膏薬辻子(こうやくのずし)入口。四条新町交差点の一本西側にあり南側です。

所在地:京都市 下京区 綾小路通西洞院東入新釜座町728
京都・四条通を南の綾小路通りへ少し下がった路地に民家の軒下に埋め込まれるように祀られています。所在する新釜座町の地は、平安時代当時は左京五条三坊一保一町の町中であったが、後には 太政大臣・藤原頼忠の四条宮となりました。その後再び町屋になったという、市内でも古い町です。膏薬辻子(こうやくのずし)には、ランチタイムにカレーライスが頂ける町家風カフェがある。
1度は、行きたい処だ。

その昔、築土神社が祀られた頃、当時「市聖」とあがめられていた高僧の空也上人は京の都において、平将門の首が晒された地に堂を建て手厚く供養したという。いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、後にこれがクウヤクヨウ…がなまってコウヤク、細い路地に位置することから「膏薬の辻子(こうやくのずし)」として地名になったと伝わっている。明治2年に南北に分かれていた膏薬辻子を合併し、現在の町名(新釜座町)に変えられるまではこの名で呼ばれていた。江戸時代の地誌類にはいくつかに掲げられている。『京雀』「かうやくの辻子」のくだりには「又此町の南にて行當神田明神の社有」と記載されている。 『拾遺都名所図会〜巻一〜』においても「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」という内容が書かれています。
近くには、空也堂がある。

現代まで京都は、呪われている。三大怨霊は、菅原道真、崇徳天皇、平将門だと云われている。
六条マート。日用雑貨店です。店名からこの通りは、六条通だと判ります。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000093027602&owner_id=9873863
>>[3]
京の冬の旅・阿弥陀寺(あみだじ)と寺町
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000089222688&owner_id=9873863
石塀小路

京都市では、昭和47年「京都市市街地景観条例」を制定し、京都の特色ある歴史的な町並みの整備を特別保全修景地区という独自制度でおこなってきました。

昭和50年の文化財保護法改正で、伝統的建造物群保存地区制度が創設され、51年に産寧坂地区と祇園新橋地区をこの伝統的建造物群保存地区に指定して、54年に嵯峨鳥居本地区、63年に上賀茂地区、平成7年にはこの石塀小路地区が加えられました。


石塀小路が出来たのは、大正時代の初期の頃です。
もともとこの土地は、圓徳院の所有地でしたが、明治時代になって廃仏毀釈の流れで税金を納める必要が出てきたため、圓徳院庭園の一部を売却したことに始まります。

このとき圓徳院の外壁は、レンガ造りとなりましたが、当時はどのような思いで築いた壁でしょうね。
レンガが珍しい当時としてはモダンな雰囲気だったのかも知れません。

両側に並ぶ町屋の基礎部分の石垣が石塀のように見えます。 
石塀小路という名前の由来がここにあるのじゃないでしょうか?

道に敷き詰められた石畳の一部は昭和50年代に廃止された京都市電の敷石を移設したものです。

一時期いわゆるお妾さんの家が多かった事から「お妾通り」なんて呼ばれていた事もあったようです。

通りの両側には料亭や旅館が並んでいますが、観光地と祇園の近くということでお値段も高いと思われがちですが、旅館は朝食付きで一人1万円ぐらいから泊まれます。

京情緒あふれる粋な旅館で1泊し、祇園で遊んで、高台寺や産寧坂、清水寺に出かけてみるのもいいものじゃありませんか。


亀山城址

明智光秀によって丹波統治の拠点として築城されました。
光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死。

その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが入りました。

秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年 - 1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じました。

築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。

亀山城は、明治維新以降廃城処分となり、所有者が転々とします。

紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人大本が入手し現在に至ります。

石垣は大本によって修復されており、総合受付で見学を申し込むと内堀跡や本丸付近の石垣を見学することが可能です。
学生時代に行っていた喫茶店がまだるというのは懐かしいです。

木屋町四条上がったところの西木屋町。
純喫茶ソアレ。
昨日も行ってきましたが、1番乗りで2階に上がったのですが、そのあとに来た女性客で満席に。
男としてはい辛かった(≧◇≦)
フランソア喫茶室

四条通りを挟んで純喫茶ソワレの反対側にある。フランソアに通った人々の中には今は亡き画家・藤田嗣治、演劇人・宇野重吉、フランス文学者・桑原武夫達がいた。それから半世紀を経た今、フランソア喫茶室は、京都昭和史の貴重なインデックスですね。
>>[40] 清水五条駅から五条通りを清水寺界隈、いろいろオモシロいですね手(チョキ)
>>[42] さん

マジですか!?ちょっとショックですね。

斜め前のお肉屋さんの唐揚げが好きなんですが大丈夫でしょうかね?冷や汗
東山三条交差点近くの古川町商店街入り口の八百屋さん。去年の火災で焼失した店舗跡地で営業開始!!そうでなくちゃあ♫
>>[47] 営業再開ですか。 永らくそのままの状態だったので、違う業種の店ができるのかと思ってました。

ログインすると、残り14件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

中高年のための京都 更新情報

中高年のための京都のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。