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考える糧ゴリーコミュの新約聖書トピ

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僕は罪人です
肉体ある身でこの世に生きている以上、自己愛の深い根はこの身を離れ難く、常に自分が楽であればいいなあ、自分に有利であればいいなあと願っている心がそこここに働いているのを観察しないわけにはいきません

僕がこのトピをあげるのは、誰かが始めたほうがいいと思うただそれだけのためで、僕が聖書に詳しいわけでも信仰が篤(あつ)いからでもありません

聖書の言葉を参照しながら各人が自分の心や暮らしぶりをかえりみたり、お互いに思うところを素直に語り合う中で新たな発見ができたり新たな希望を持てたりしたならば、とても素敵なことだと思います

どうぞ皆さま、よろしくお願い申し上げます
m(_ _)m

コメント(388)

>>[348]

だから「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」と言うルカによる福音書の言葉もその通りに解釈します。

裕福な人々が教会でこの言葉を牧師の説教で聞くとき誰も笑いださない。

裕福なのは神が嘉(よみ)されていると考えるのはブラックユーモア以外のなにものでもない。
若干フォローさせていただきます。
多くのキリスト教の遺跡には酒類の遺跡が存在します。
それは主として医療用の酒類です。
酒類は薬として使われた。
薬であるかぎり用量を正しく使わないと中毒がでます。
ゆえにキリスト教医療関係者の中からアルコール中毒防止のために断酒を叫ぶ者が出てきた。
そのためクリスチャンは酒を呑んではいけないと言う神学が生まれた。
私はこの歴史を否定はいたしません。
聖書を正しく理解する文献としては使徒信条あるいはニカイア信条です。
例えばイエスキリストの誕生を「処女マリアから産まれ」と使徒信条には記載しています。
ニカイア信条にも似たような記載があります。
聖書の編纂当時キリストは男から産まれたとする異端があった。
この一群の異端をグノーシスと言う。
新約聖書にはグノーシス文献は含まれていない。

なおグノーシスに寛容な教派が多い国には大麻を吸う人が多いらしい。
統計的には不明な点が多いが大麻取り締まり法に注意!
トピの前の方を読んでみました。
「汝姦淫するなかれ」
私の解釈を書いておきます。

姦淫とは非社会的性行動のことです。
例えば情欲をもって他人の妻を見る。
これは視姦と言って姦淫に分類される。

子供をほしがる自分の妻を自分たちの寝室で見るのは罪にならない。
その場合は妻が期待する行動をとらなければ聖書的にはむしろ罪。

>>[352]

それは「子供を欲しがる」という妻の側の考えがあった時だけ、罪にならないという意味でしょうか。
>>[353]

そもそも聖書は正常な性欲を否定してはいません。
姦淫の罪とは聖書の中でも社会的な罪に属します。
つまり他人の妻に手を出すことはもちろん見てもいけない。
視姦になるから。

この場合他人の娘であっても同じです。

要するに他人もものに手をだすなと言うことです。
さすがに売春婦に手を出すことも忌避された。(パウロの手紙)

聖書の性に関する考え方の代表は「雅歌」でしょう。
>>[354]

他人の娘というのはすべての女性が含まれてしまうのではないでしょうか。女性に恋い焦がれる気持ちがすべて否定されることにはならないのでしょうか。
>>[355]

他人の娘・・・未成年の娘を持つ親の娘を守る権利を認めただけですよ。
なにしろ処女だと偽った嫁いだら殴り殺されたって文句の言えない男尊女卑の時代です。
この場合偽らなければ問題はないのですが・・・

マタイによる福音書には明らかに非処女のルツが売春婦ラハブの息子ボアズと結婚してイエスキリストの先祖に名を連らねている。
>>[356]

あ〜すべての未婚女性という意味ではなく、未成年の女性という意味でしょうか。

イエス・キリストはなぶり殺されてもおかしくない罪人をも差別なさらず、身近な者として抱擁されるよという隠喩でしょうか。
>>[357]

隠喩とは考えておりません。
比較的早婚だった時代ゆえ・・現代人の我々には未婚の女性とは未成年とほぼ同義・・
親離れした女性で独身は問題にするほど居たとも思えない。

親離れした女性との行為は社会問題になるほど乱れたものでなければ姦淫とは言わない。
またラハブやルツは隠喩として語るには旧約聖書では有名すぎる。
>>[358]

旧約聖書をよく読んでいる者ならはっきりとイエスは虐げられる者たちの側に立つとわかる、という意味です。
>>[359]

それを言うなら名家中の名家ダビデ王だって罪人に分類される羊飼いの出身だった。
羊飼いは罪人に数えられていたががゆえにキリスト誕生のニュースを最初に天使から告げられた旨がルカによる福音書には記載されている。
御二人が何を議論されているかいまいちよくわかりませんが、

「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 」
(:マタイによる福音書 5:28)

で、要するに、他人の妻に情欲を持つのが問題なのであり、正当な夫婦関係の性欲を否定しているわけでないことは聖書の語句から明白です。

ちなみに、ペテロは妻帯し、妻を連れて伝道していたことが聖書に明記されています。
>>[362]

他人の妻でなくとも、淫らな思いで未婚の女性を見てしまったとしても、それは心の中でその女性に罪を働いたということになるのでしょうか。
それとも心の中でのことは罪でも何でもない、となるのでしょうか。
>>[363]

上記にあげたマタイ福音書の箇所は「他人の妻」に関してであり、未婚女性とは書かれていません。
したがって、罪を働いたことになるかどうかはこの箇所からだけではわかりません。

また、律法における姦淫は、実際の行為に関してであり、心の中のこととまでは文言には書かれていません。

したがって、心の中だけで未婚女性に対して淫らな思いを抱いたとしても、それが罪になるかどうかは、不確定ということではないかと思う。

もっとも、じろじろと無作法な視線を向ければ、相手が不快感を感じるでしょうし、そうした場合は一般的に善くないとは言えるかもしれませんが、あんまり過度に無理なことが直接規定されているというわけではないかと思います。
>>[364]

すると、他人の妻についても、淫らな思いで見ただけでは、心の中で犯したに等しいとされるにしても、そう言われるばかりで、実際の行為におよんだわけではないから罪というわけではないということでしょうか。
>>[365]

マタイの上記箇所に従うならば、その場合は姦淫です。
したがって罪です。
>>[366]

ということは、同じ心の中だけのことにしても、女性が他人の妻だと知りながら淫らな気持ちを抱いたなら罪だが、他人の妻ではないと認識した上で淫らな気持ちを持ってしまうことは罪とは言えないということですね。
>>[367]

罪かどうかは一概には言えない、という方が適切と思います。

独身の若い男性が、独身の若い女性の水着姿を見て多少もやもやする程度のことまで、それほど強くはとがめないということでしょう。

コリント人への第一の手紙より

「あなた方はキリストにあって、すべてのことに、すなわちすべての言葉にもすべての知識にも恵まれて、キリストのための証しがあなた方のうちに確かなものとされ、こうしてあなた方は恵みの賜物にいささかも欠けることなく、私たちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。
主もまたあなた方を最後までかたく支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、責められる所のない者にして下さるだろう。」


パウロがこうした手紙の中で明らかに示している力強い論理と思想ともちろん信仰こそが後に続く者たちの力強い礎になっていますね。
>>[370]

キリストに頼る時、すべての聖なる言葉、すべての聖なる知識が豊かに私たちに恵まれる。
そうするとキリストについての証しも疑いのないものとして私たちの中に輝くことになる。
もはや私たちは恵みに欠ける所はいささかも無い。
主イエス・キリストが私たちの前に現れるのは疑いの無いこととなる。
主もまた、私たちを堅く支えて下さって、崩れるままにするようなことがない。
主イエス・キリストの日に明らかに私たちは責められる所の無い者として臨むことができるでしょう。
メリークリスマス。聖夜にすべての人に安らぎと癒しの光がもたらされますように。
新約聖書 たとえ話

イエズス・キリストの教え、聖書そのものに
いくつもの奥義があると言われています。

その中でも敢えてキリストが奥義を明かしたたとえ話があります。
それが「種まきのたとえ話」。

このたとえ話は4つの福音書のうち、
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書でカバーされているので
注目すべき内容だと思います。


【種まきのたとえ話】

『聞きなさい。種まきが種を蒔きに出て行った。蒔いているうちに、道端に落ちた種があった。すると、鳥が来て食べてしまった。他の種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。他の種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。他の種は良い地に落ちた。そして、生えて育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった。』そして言われた、『耳のある者は聞くが良い』

マルコ4:1〜20 
マタイ13:1〜15; 
ルカ8:4〜10

上記はマルコの福音書から抜粋したものですが、
自分はルカの福音書が好きで、ルカではスバリ
「このたとえはこういう意味である。 種は神の言(ことば)である」(8章11節)
「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、
耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」(8章15節)
と表現されています。

今の時代だからこそ、より良く理解できる内容もあると思います。
世界で毎年一番売れているのが聖書。
永遠のベストセラー。 その内容には他にも謎が多く隠されていますね
新約聖書

聖書には右、左の表現が度々使われます。
これも分かりにくく、聖書に隠された秘密だと思います。

下記のゼベダイの子らの母とイエスのやりとり、
またイエスの回答が印象的です。

イエスの両隣に座れるのはイエスの意思によるものではなく、
イエスの父によって備えられている人々だけに許されることである。
天の奥義について触れた、実に深い言葉だと思います。

マタイによる福音書 20章20節〜23節より。

そのとき、ゼベダイの子らの母が、
その子らと一緒にイエスのところにより来てひざまずき、何事かをお願いした。
そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。
彼女は言った、「わたしのこの二人の息子が、あなたの御国(みくに)で、
一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるように、お言葉を下さい。
イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、分かっていない。
わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。 彼らは「できます」と答えた。

イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。
しかし、わたしの右、左に座らせることは、わたしのすることではなく、
わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」
>>[375]

>>上記はマルコの福音書から抜粋したものですが、
自分はルカの福音書が好きで、ルカではスバリ
>>「このたとえはこういう意味である。 種は神の言(ことば)である」(8章11節)
>>「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、
耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」(8章15節)
と表現されています。

★☆★
聖書からの、注目すべき種蒔きのたとえ話をありがとうございます。

耐え忍んで実を結ぶというところの「実を結ぶ」という表現の奥義を 現代では どのように理解したらよいとお考えでしょうか。
簡単には理解し難い内容も込められているのかもしれませんけど、、。
>>[376]
マタイによる福音書の20章のところですね。
>>イエスの両隣に座れるのはイエスの意思によるものではなく、
イエスの父によって備えられている人々だけに許されることである。
>>天の奥義について触れた、実に深い言葉だと思います。

>>イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。
>>しかし、わたしの右、左に座らせることは、わたしのすることではなく、
わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」
★☆★
天の奥義に触れた とても深い言葉なのですね。「わたしの父によって備えられている人々」とは どのような人々なのだろうかと思います。
備えられているとは、どのようなことを表現されているのだろうかと思います。
>>[376]
マタイによる福音書の20章20節〜23節は、現代風に考えると、民の上に立ちたいという愚かな支配欲のようなものが現れているようにも見えます。
愚かだけれど、人間には出てくる感情ではないでしょうか。

また、ぶどう畑に雇われた人たちのたとえ話のように、有能であったり長い時間苦労したりしたら、それ相応のものを得たいと考えてしまうのは、人間の自然な感情だなと思ってしまいます。

でも、神さまは 平等に1人1人をしっかり見まもってくださっていて、その人にとっての 最上のギフトについてご存知なのかもしれません。
その人の真実の願いについて ご存知なのかもしれません。
人間が地上の辛苦や悲哀の渦中にいるときは、気付くことが出来ないことも あるのでしょうか、、、。
感謝を忘れてしまいがちの自分の日常を省みて、そんなことを思いました。

20章では、イエス様が優しく諭してくださっているので有難いです。
その後の20章24節〜28節も有名なところですね。印象深いです。

24 他の十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹をたてた。
25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の間では支配者たちはその民を支配し治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える者となり、
27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕となりなさい。
28 それは、人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、また、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるために来たのと、ちょうど同じである」。
>>[376]
聖書の秘密である右と左に関しても、難しいです。右手で祝福すると聞いた気がします。
このたとえ話は種=御言。
種が蒔かれるのは、人々の心、魂。
それぞれの人の魂のレベルによって
御言は100倍に育ち実を結ぶ。

一方、無神論者や死後の世界はないと
言い切る方々ににとっては御言は育ちにくいもの、
と解釈しています。

実を結ぶは=霊格が上がると理解しています。



>>[379]

マタイ20章のぶどう園のたとえ話は
また奥が深いたとえ話だと思います。

このたとえ話は最後16節で
「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるだろう」
と締め括られています。

この部分、英訳では一行多いと気づきました。
英訳では"So the last will be first, and the first last.
For many are called, but few chosen"と記されており、
日本語対訳ではFor以下が訳されておりません。
この部分を敢えて直訳すると。4その意味は
「多くが呼ばれる中で、ごく一部が選ばれる」。
自分的に大胆な意訳をすれば、「神の国は全てに開かれているが、
神の国に入る資格が与えられるのはごく一部に限られている」
と解釈できると思います。

更にマタイ19章30節に注目。
30節「しかし、多くの先の者はあとになり、
あとの者は先になるであろう」

20章16節は19章30節を言い換えたもの。
その意味は(個人の意見を挟まず)
聖書の読者の理解に委ねたいと思います。
聖書の中の奥義だと思います。

ぶどう園のたとえ話のキーワードは
ぶどう園の「所有者の主」、「1日1デナリの約束」、
「朝9時、昼12時、3時、5時の時間帯で主に呼び止められ、
ぶどう園へ行った市場で何もしないで立っていた人々」、
「労働者に支払われた賃金が一律1デナリで
遅くに行った順に支払われた」こと

また主は「不正をしていない。」、「1デナリの約束」、
「自分の物を自分がしたいようにするのは、当たり前ではないか」
と説明しています。

2人の息子が登場する話は現代的に言って、
と言うよりも、霊能者江原さん的に言えば、
「死後の世界が霊的差別界であるのに対し、
幽玄界や霊界の下層部に行く魂が突然飛び越えて
神界に行くことは許されない」と理解しています。

自分がはっと気づいたのは、神であるイエスであっても。
自分の両隣に座らせる権威は持たないと言ったこと...

聖書には謎が多いですよね。
>>[380]

"but few chosen"
直訳は「選ばれる者は殆どいない」です。
殆どいないので、ごく一部のみ選ばれると解釈。

右、左については、福音書のどこかで
イエスは死後、天国で父の右側に座ると書いてあった筈です。
若い頃の自分は「では左側には誰が座るのだろう?」と
疑問に思った時期がありました。
今日YouTubeで動画を視聴していて、
下記に聖書ついての謎を漸く発見。
理解した気がします。

動画6分17秒に答えがあります。
但し理解するには前後の関連も理解する必要があるかも知れません。

"Quote"
マタイ20章のぶどう園のたとえ話は
また奥が深いたとえ話だと思います。

このたとえ話は最後16節で
「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるだろう」
と締め括られています。

この部分、英訳では一行多いと気づきました。
英訳では"So the last will be first, and the first last.
"Unquote"

【衝撃】地底王国からのメッセージがヤバすぎる!!謎に包まれたすべての歴史が繋がる!?6
https://www.youtube.com/watch?v=qRXPnxbBFmA
>>[387]
謎に包まれた歴史! 興味深いです。
動画を視聴してみます♪

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