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タクティクスオウガを活かす!コミュのLNC考

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1,Lのレオナールは、謀反し公爵を殺害する。行動自体はまったくLらしからぬ、それにも関わらずレオナールはLである。
 彼が真に忠誠を誓っていたのは公爵ではない、ウォルスタだからである。彼はウォルスタに忠実だった。ウォルスタの未来に。ウォルスタ民族の存亡に。
 裏切り者。彼には不名誉などまったく何の力も持たない。現実主義者の彼に名前などまさに有名無実の存在に過ぎなかった。誰よりも忠実、それにも関わらず最低な名誉。
 Lなのは名前ではない、人々から解釈される像でもない。純粋に彼の行動がLを示している。いや、Lによって示されるのは彼の行動なのだ。

 

 

コメント(14)

2,タルタロスの場合。
 タルタロスはブリュンヒルドを持ちながらもカチュアを探していた。彼は明らかにヴァレリア島を支配しようとしていた、いや統治を目論んでいた。ブリュンヒルドさえあればドルガルアの遺産は手に入る、そして任務も終わったはずだ。しかし彼は何らかの目的で統治をし、治めることを人々の心を収斂することを視野に入れていた。彼はここだけを見るとLの皮をかぶったCである。いかにも命令に従うそぶりを見せながらも、彼は彼独自の思惑を持っていた。
 しかしながら、彼はLだ。
3,バルバスとマルティムはCである。あれだけ勝手に行動していればそれはCになりそうな話ではあるのだが。
 二人で行動するときの主体は専らバルバスである。マルティムはバルバスにくっついていく。主体性はなさそうにも見えるが、命令をくだすときには、組織の一員としてではなく自らの意思で命令をくだす主体性も持ち合わせている。つまり、基本的には従うのではなく、自らの意思があり、興味関心があるから行くのがマルティムであるといえる。
 バルバスはどうか。バルバスはタルタロスに反旗を翻す。謀反の形でいうならば、レオナールが公爵に反旗を翻したのと同じである。しかし決定的に違うのは、バルバスにはレオナールがウォルスタを憂えるほどのものがないという点にある。バルバスにあるのは・・・せいぜいタルタロスへの恥をかかされた恨みや屈辱感くらいなものか。あるいはマルティムのいう「ドルガルアの遺産を独り占めしようったってそうはいかねえ」的なものもあったかもしれない。まああったにせよなかったにせよ、そのくらいなものである。
 レオナールは概念があった。いうならば、愛国心、民族愛。そうした概念があり、それに付き従っていたのがレオナールである。バルバスにはそれがない。
 ただしウォーレンレポート上では、ふたりに大差はない。レオナールは謀反を起こして鎮圧された存在に過ぎないのだから。しかし、レオナールはLである。
 実は散々考えて結論にまだ至れないでいるのですが・・・


 恐らく私は、Lは集団による力がいい方向へと物事を導く信念を持っている人間なんだと思うんです。
 Cはそうではなく、個人個人の思いというものの尊重が事態を良い方に導くという信念なんだと思うんですね、大雑把に言って。


 キャラからクラスまで言い尽くすにはそうなるかも知れないと思っております。続きはまた週末に。
 なぜアンデッドがCなのか、などと考え始めると止まらなくなりますのでそれはまた今度として。


 ザパンってキャラはこれを考えるにあたりけっこうキーとなるキャラではないかと考えています。
 Cで出会うザパンはイヤなキャラで、倒したら逃げ倒したら逃げ。しつこく登場しデニム一行を苦しめる存在です。
 ウォーレンレポートでも、金のためならば自分の親でさえ売るような男だと散々酷評しています。
 ではLならばどうなのか。Lでデニムはやはりザパンに出会います。安くしとくぜ?の言葉にデニムは戸惑いながらも「・・・・いいだろう。今は少しでも戦力が欲しいからな」としぶしぶザパンを連れていく決断をします。

 しかしザパンと共に過ごしていると、少しずつザパンに対する見方を変えることになっていく。ロスローリアンのところへ行く危険な任務に際しては、「そんな危険な任務なら、さらにふっかけてやるさ」とあっさりしたもので。
 単なる命知らずではない、肝の座りよう、または度胸、切符の良さを感じさせます。デニムも呆れてしまう。こいつはバカかと思わせる、しかし単なるバカではないなと感じさせるものをザパンは持っています。
 
 CかLかでこうも違う人間かと思わせるザパンですが、それらを総合して考えてみると、ザパンは仕事に対して非常に真面目で厳格でありプロ意識がある人間だと分かります。情もあるが、それは普段はあまり表には出さない。
 その仕事に対するあまりの厳格さをどう評価するか。あまりに残忍、残酷とみるか、あるいは仕事に真面目とみるか。どちらにせよ、同じ事態を、同じ行動を面を変えて見てみたに過ぎないわけだと分かってきます。彼は行動としてはそうせざるを得ない。
 というよりそうすべきだという何かがあり、それを様々に解釈されている。
 しかしザパンはザパンでしかなかった。
 

 彼はあまりに組織的ではありません、金がすべてであり、傭兵のプロであり、つまり兵士ではない、兵士にはなれない人間です。とてもLではない。愛国心だの民族愛だのには動かされない。金がすべてです。しかしそこにはただならぬ厳格な意識がある。組織とは無関係な彼自身の心情によって、ザパンの行動が形作られているのをうっすらと見てとれるのだと考えます。


 
 さっきのは4ということで、次は5を。


5,なぜテラーナイトはCなのか。これはタクティクスオウガにおける難しい問題のひとつだろうと考える。例えば、LのデニムとCのデニム、どちらがテラーナイトに近いかといえば明らかに虐殺をしてしまったLデニムの方が近いだろうと考えられるからだ。
 それにも関わらず、Cを進んだデニムはテラーナイトになることができてしまう。これがなぜなのかを解釈するのは非常に難しい。
 テラーナイトは、呪われている。無数の悪霊や亡霊があたりを飛び交っているらしいのだ。
 しかし、悪霊や亡霊の意志とはあるのだろうか?たくさん人間がいるのに、たかだか1人や2人死んだからなんのことがあるだろうか。
そうみるのはLの見方である。人の意志、個人の意志より集団の意志を優先するのがLである。
 Cの人間の周囲には確かに亡霊は飛び交っているだろう、そんなもの見ない人間、見ようとしない人間には何の意味もないのだ。
 Cの人間にはそれがわかる。なぜならば、自分と同じように個人の意志というものを肌身に感じながら生きているためだ。個人の感情というものがいかに大切なものかを知っているからだ。その繊細さが、個人の意志への思いやりがテラーナイトを作る。
 テラーナイトもナイトも戦う兵士、戦力に変わりはない、テラーナイトはちょっといい戦力になるくらい・・・
 そうした認識ではテラーナイトを捉えることはできない。悪霊や亡霊の意志を。


 その意味で、Lデニムはバルマムッサの人々の思いを背負ってはいる、がしかし5000人の意志にどれだけ寄り添えているだろうか。撫で切りにせざるを得ない、またあまりに数が多すぎるのもあるだろう、Lデニムには悪霊も亡霊も見えはしないのだ。個人の意志より集団の力を重んじるゆえである。自らの感情や、意思を殺したLデニムには他人の感情や、意思、痛みが見えない。
 組織的な意味合いでしか人々を、個人を把握できなくなっている。悪霊も亡霊も個人の感情や、意思の先にあるものだからである。

 彼は危険な任務だと知りつつ、ロスローリアンの懐へと出向く。
 彼は、欲望によってではない、無私を貫いた先で客観的に自らを指導者に相応しいと判断した。
 彼は、自分が死んだらすべてがうまくいくと思ったときにレオナールに殺されてもいいと思った。自らの命への執着すら忘れた人間であり、自らの無痛覚が他人への無痛覚へとも繋がってしまっている人間である。

 彼には、他人の命を背負う重さはわかるが真に他人の痛みには寄り添えない。彼自身痛みが分からないからである。
 従って、彼はテラーナイトにはなれない。彼はテラーナイトになるにはあまりに鈍すぎるためだ。
 これを考えるきっかけになったのが、Cデニムの3章だった。カノープスが死んでる場合に、デニムの隠れ家におばちゃんが表れる。

 大変だよデニムちゃん!また賞金首のやつらだよ!
 ありがとうおばさん!

 がんばりなよデニムちゃん。わたしたちはたあんたの味方だからね!

 みたいなくだりがある。


 これを見たときに、すごい異質な感じがして面食らったものだった。しかしCのデニムには確かにおばさんの思いというもの、またはおばさん自体を理解できているのだと思う。おばさんもまた、デニムの考え方、デニムの思想と行動に対する深い共感があったのだと思う。
 名もない一般人ではあるが、しかしこのくだりはCデニムの本質を掴んでいると思う。
 恐らく、私見ですが近代以降の軍隊の特徴は概念的だというところがあるのではないかと感じるんですね。実体から離れたところに成り立つようになっていると言いますか。
 愛国心なんて言いますけど、概念先行型過ぎて誰もついていけてないと考えるんです。愛国心とは、国を愛するとは?
 何のことはない、具体的で身近なものを離れて愛国なんてことはあり得ないんです。言い出しっぺも追従者もそこを見失ってるんです。いかにも高尚な愛国心と、まさか身近な故郷や家族とが一致するとは・・・
 しかし愛国心なんて言葉より遥かに故郷や家族の方が大切であるべきなんですよね。そこらの錯綜がまた事態をややこしくしていると思うんです。

 例えば、給料なしでも兵隊は本来ならばできるようなものだと思うんです。危急の際にはそれが必要となるし、兵隊側もそれを当然とした時代と状況がかつてはあった。


 今の日本は違います。愛国心という建前の下、給料もらって軍隊の真似事をしている。なぜ軍隊の真似事か。その仕組み自体が傭兵だからです。
 今の日本にある軍隊は傭兵でしかない。待遇や給料が良ければ今の兵隊あっさり仕事を変えることができます。


 ザパンはしてみると傭兵のプロであり、レオナールは軍隊の兵隊のプロであると言えるのではないでしょうか。あるいは傭兵の象徴と近代的兵隊の象徴。境遇や性格云々はさておき、そうした形で抽象的に捉えることは可能だと思いますし、またそう飛躍だとも呼べないのでは、と。

 とりあえず、私はザパンが即物的に生きている一方、レオナールがあまりにも概念的、確かに美しく綺麗なんですがあまりにも現実から離れ過ぎているのが気になりますね。
 LとCの差は、概念的か即物的かにかかる要素も持ち合わせている。とりあえず、私はそう思っています。
 そう、確かにそうなんです。NとLでなぜプリーストになれるか、なれないかの差があるかもそこらに行き着くと思いますね。まったくおっしゃる通りです。
 しかしNはあまりにも難しすぎて、把握に苦労しますね。だからLとCからぼちぼちやってるって感じなんですよね。Nは本当に難しいんですよ。
 私見ですが、ソードマスターがLなのは。
 まず、剣の道についているところにひとつ特徴があるかと考えます。
 例えば、例が少しアレなんですが、ストツーの(ご存じでしょうか?)リュウってキャラがいます。彼は、武道を極めるために各地を放浪し、さまよいます。勝手気ままに生きて勝手気ままに修行し、勝手気ままに戦う。しかしながら、彼は武道という道の上に必ず位置している。武道という道から彼は離れることができない。彼は武道家だし、戦う相手も必ず武道家です。共に切磋琢磨し、武道を極めようとする、・・・つまり相手を敵ではなく、同士にしてしまう要素を持っている。武道を歩む人間は、確かに個人的要素もあるにはあるんですが、組織的要素を多分に含んでいると考えて間違いはないかと考えます。彼は武道という配置された道を歩まざるを得ないんです。
 ハボリムにどれほど当てはまるかは謎ですが、ソードマスター自体に、クラス自体には似たような要素があるかと思います。武道をする人間はL的な要素を持っていると考えますね。
 次に、暗黒の要素についてですが。暗黒呪文についてはあまり分かりません。
 ただ、神聖と暗黒について考えた際には、それが実体的であるのか、それとも見た目的にであるのかが重要であると考えます。
 このゲームには実体的な悪魔と天使がいるため、具体的には分かりやすくはなっています。
 しかし現実的には実体より遥かに見た目が神聖が悪魔かを判断する要素となっています。悪事をしていてもバレなければ神聖だし、神聖な人間も見た目が悪ければ暗黒側に配置されてしまう。むしろ神聖か暗黒か、なんていうのは解釈する側によって決定されてしまう実態があるとも言えるでしょう。そこに具体的悪魔と具体的天使とが放り込まれてはいる、というのがこのゲームなわけです。

 というわけで、その先は分かりません。

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