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ハロー通訳アカデミーコミュの通訳案内士試験<通訳案内士の歴史(4)>公開!

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通訳案内士試験<通訳案内士の歴史(4)>公開!

●「通訳案内士の歴史」全編(公開分)は、下記PDFにてご覧いただけます。
http://hello.ac//historyofguide4.pdf

●皆様のご意見、ご感想、ご希望を是非お聞かせください。
宛先:info@hello.ac
件名:「通訳案内士の歴史」を読んで

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「通訳案内士の歴史」公開に寄せて
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初代ドイツ帝国宰相オットー・フィン・ビスマルクの有名な言葉に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があります。
通訳案内士の社会的、経済的地位が何故このように貶められてきたのか。国交省(運輸省)は何をしてきたのか。あるいは、何をしてこなかったのか。
日本のインバウンド業界を支配するJTBグループは、自社の金儲けのために、いかに巧みに通訳ガイドを支配、統制、搾取してきたのか。
JTBグループは、癒着関係にある国交省と一体となって、いかにして、日本が世界に誇る通訳案内士制度を崩壊させてきたのか。

通訳案内士の社会的、経済的地位向上を図るにしても、まず、通訳案内士の歴史を知ることから始めることが大切です。
私がこの業界と関わりを持ち始めた約40年前からは分かるにしても、それ以前のことになるとよく分かりません。

そこで、私が尊敬する通訳案内士業界の重鎮でおられる瀬口寿一郎氏に、氏の知っておられる通訳案内士の歴史について、是非書いていただきたいと、横浜のご自宅まで押しかけてお願いし、執筆していただいたものが、本「通訳案内士の歴史」です。

本書が、日本の通訳案内士の社会的、経済的地位向上のために、少しでも資することができれば、これに優る喜びはございません。

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<通訳案内士の歴史(4)>
著者:瀬口寿一郎
監修:植山源一郎
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第7節 太平洋戦争開戦、昭和16年12月8日(1941)から終戦、同20年8月15日まで

*開戦に至る経緯、その歴史的な背景について

昭和6年(1931)に満州事変が勃発し、それ以来、我が国の中国大陸進出は、年とともに拡大し、国際情勢は我が国に対して次第に不利になっていきました。
更に、昭和12年(1937)7月7日に支那事変(当時の呼称で、現在は日中戦争が一般的)が勃発し、戦局の全面的な拡大に伴い、我が国は必然的に戦時体制となり、同年8月には近衛内閣は、国民精神総動員実施計画を閣議決定するに至りました。

国際的な孤立を深めていた我が国とドイツは、昭和11年(1936)に日独防共協定を締結し、翌、昭和12年にはイタリアもこれに加わり、日独伊三国防共協定が成立しました。
昭和11年5月に陸海軍大臣及び次官を現役武官とする軍部大臣現役武官制の復活に続いて、昭和12年11月に宮中に大本営が設置され、ここに軍部独裁が制度的にも確立され、これ以後、我が国の政治、経済等すべてが軍部主導となり、当時の列強による帝国主義の波に飲み込まれ無謀な戦争へと突き進んでいくことになりました。

この経緯を具体的に記述すると、前述のように昭和12年7月に勃発した支那事変の影響によって、我が国への欧米からの来訪外客が減少に転じ、通訳案内士に対して苦難な展開となって行き始めました。
更に、これに追い討ちをかけるように、昭和13年(1938)には、ヨーロッパの政情がめまぐるしく動くなかで、ドイツとオーストリアが合併し、翌14年には独ソ不可侵条約が締結されました。

我が国は、ドイツ、イタリアと共に、対ソ三国軍事同盟の締結を交渉していましたが、予想外に急展開した国際情勢への対応に苦慮した、平沼騏一郎内閣は、「欧州の天地は、複雑怪奇」との言葉とともに昭和14年8月に総辞職するに至りました。
このように、欧州情勢が一瞬即発の危機を孕みつつあった当時、アメリカの不況は依然として深刻であり、一方我が国や中国などのアジア情勢も不穏であって、国際観光には不安要因が増えるだけでしたので、訪日観光客は激減状態を続け、必然的に通訳案内士にとっては死活的な打撃が与えられました。

我が国は、開国以来、国際貿易や国際観光にとって、アメリカは最も重要な相手国でした。現在でも国際観光、特にそのインバウンド旅行業界にとっては、その重要性は一層高まっています。
旅行形態も二極化現象がきわめて顕著であり、ガイドの需要はもっぱら富裕層相手になっています。
支那事変の勃発により、我が国の中国大陸進出は、国際的には侵略と捉えられ、アメリカは対日政策を硬化させてきました。

当時の我が国からアメリカへの輸出は、生糸、緑茶、缶詰類、陶磁器等の軽工業製品が主であり、その多くの品質はあまり高度ではなく、Made in Japan は安物の代名詞でした。
それでもこれらの輸出は、外貨獲得という面では国際観光とともに貴重な存在でした。
この点、戦後の我が国が奇跡的な復興を遂げ、各種のMade in Japan が世界に誇る高度な精密工業製品へと脱皮したことは驚嘆すべき快挙であり、これは現在でも国際的に認知されている事実です。
一方、アメリカからの輸入は、石油、鉄鋼、綿花や各種の工作機械等の重要物資であり、我が国の対米依存は極めて大きなものでした。

昭和15年(1940)7月22日に第二次近衛内閣が成立し、戦時統制の拡大強化と共に、国民の精神的動員を図ろうとする、新体制運動が強力に推し進められていきました。
この内閣が閣議決定し発表した、基本国策要綱によれば、「世界は今や歴史的一大転機に際会し、数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとしており、我が国は有史以来の大試練に直面している。したがって百般にわたり「速やかに根本的刷新を加え、万難を排して国防国家体制の完成に邁進する」ことが急務であるとしました。そしてドイツのヨーロッパ新秩序に呼応し、日本の「大東亜の新秩序」建設を国策の基本として明示しました。

続いて同年7月22日、大本営政府連絡会議は、「世界情勢の推移に伴う戦時処理要項」を決定し、武力行使を含む南進政策、つまり必要とする天然資源を求めて南方諸国への進出を決めたのでした。
その結果、同年9月23日、日本軍は北部フランス領インドシナ、現在のベトナムに進駐し、その数日後に、ベルリンで日独伊三国同盟が調印されました。

続いて同年10月12日に大政翼賛会、総裁は近衛内閣総理大臣が設立、発足しました。
これは国民の精神的な動員を図ろうとする、「新体制運動」を強力に推進するためのものでした。
これによって従来の政党はなくなり、様々な団体が合同して政府の施策に異議なく協力、推進する体制が確立されました。全国民の日常生活における服装から食事そのほか全てにわたり、規制し画一化していくことになりました。

この大政翼賛会は、総裁のもとに、中央本部 -- 道府県支部 -- 6大都市・郡支部 -- 市区町村支部 -- 町内会 という系列に整備され、全国民を全体主義的に統合し、それを支配、統制しようという巨大な組織でした。それは、「日本が、今世界歴史の推進力として、大東亜の、いや世界の新秩序を建設してゆくための体制」であるとし、「一億一心一体となって国家国民の総力を十二分に発揮できるような仕組み」であるとされました。

このように我が国は、軍部主導の暴走が顕著になり、アメリカとの政治的な対立が不可避な状態となってきました。

その結果、アメリカは日米通商航海条約の破棄を通告し、これが昭和15年(1940)1月に失効しました。更に、アメリカは翌、昭和16年夏に我が国の在米資産凍結、石油輸出禁止を決定し、経済的封鎖を断行しました。
一方、イギリスは欧州においてドイツ、イタリアと敵対しており、アジア地域においても我が国とは中国問題や植民地問題等その利害関係で対立していました。
このような事情から、アメリカとイギリスは政治的、軍事的にも協力関係を強化し、イギリスもアメリカに続いて我が国の在英資産凍結、日英通商条約の破棄を断行し、日英の関係も悪化し、断絶状態となりました。

このような国際情勢の悪化に伴い、東条内閣は予てから自存、自衛の為として、対米英の戦争に踏み切る覚悟を決めており、ついに昭和16年12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃に踏み切り、ここに太平洋戦争の火蓋が切って落とされました。

しかし、開戦に至るまでは、このような国際情勢の下にあっても、我が国の国際観光事業は、まだ細々としてではあっても何とか継続していたのです。
既に記述したように、通訳案内士(ガイド)を当時の国策上の必要性から、鉄道省の外局として存在していた国際観光局の主導で、更に防諜上の見地から内務省の特高警察や軍の憲兵隊を含めた役員構成をして、ガイドを支配、統制する目的で「日本観光通訳協会、Japan Guide Association、 J.G.A.」が昭和14年8月に設立され、翌15年5月9日に当時の民法上の社団法人格を取得しています。同会については、もうすでに詳述しています。

因みにこの国際観光局は、既述したように昭和5年(1930)に設置され「外客誘致」の中央機関として、観光業界に対する指導、監督、助成を行って来たものですが、太平洋戦争中の昭和17年11月に廃止されました。もはや観光どころではない戦雲、戦火の過酷な状況だったわけです。それ以後は、観光事業の所管行政庁は存在しないまま、昭和20年(1945)8月15日の終戦に至ったのでした。

それではこの太平洋戦争中に通訳案内士、ガイドはどうなってしまったのでしょうか。
戦争により国際観光が途絶してしまい、来訪外客が皆無になってしまい、必然的に他の職業へと転業を余儀なくされたことは想像に難くありません。
すでに開戦に先立つ、昭和14年(1939)7月に「国民徴用令」が公布、施行されており、健康な男性のみならず女性までも必要に応じて、軍需工場等へ動員されていきました。

国民の義務として憲法上も規定されていた、「徴兵制度」も戦力増強の必要上から、漸次拡大適用され、平時ならば甲種、乙種合格者が入隊していましたが、これだけでは人員不足のために、丙種の者までや、一旦兵役が終わり除隊し、家庭に復帰した者までが再度徴兵されたりして、この徴兵制度については数多くの悲劇が発生しています。

更に、このような一般国民の動員だけでは足りず、それまでは徴兵猶予の特権が与えられていた大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていましたが、兵力不足を補うため、次第にこの徴兵猶予の対象は狭くされていきました。
昭和16年(1941)10月、大学、専門学校などの修業年限を3ケ月短縮することを決定し、同年の卒業生を対象に、12月に臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌昭和17年2月に入隊させました。さらに、同年には大学予科と高等学校も対象として修業年限を6ケ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置を採りました。

このように、徴兵対象者拡大の際に対象になった高等教育機関に在籍する学生は文科系学生だけでした。
理科系学生は、兵器開発などの科学技術分野において、戦争継続に必要、不可欠として徴兵猶予が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員されただけでした。
但し、農学部の一部学科の農業経済学科や農学科は文系と看做されて徴兵対象となりました。

高等教育機関に在学中に徴兵された者を学徒と称し、彼らが陸軍・海軍に入隊するのを「学徒出陣」と称して、その第一回壮行会を昭和18年(1943)10月21日に東京の明治神宮外苑競技場(現在の国立競技場)にて盛大に開催しましたが、翌年の第二回以降は開催されませんでした。

なお、この「学徒出陣」は、日本国内の学生だけではなく、当時は日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地の学生や、アメリカから我が国の高等教育機関に留学中であった日系2世の学生も対象とされました。日系2世の学生は英語を母国語として駆使する者も存在し、殆ど海軍へ入隊し貴重な情報係りとして活躍しました。

戦争末期には、制海権、制空権ともに連合軍に完全に握られていましたので、アメリカ海軍など解読に手間取る暗号文などを使用しないで、通常の英語のままで交信したので、日系2世の学徒出身の海軍士官たちに活躍の場が大いにあったとのことです。

太平洋戦争勃発とほとんど同時に、わが国における外国語教育はドイツ語やイタリア語のような枢軸国の言語はともかく、英語は敵国語とか敵性語として排斥されていました。
しかし、殆どの高等教育機関への入学試験には英語が入試科目として存在していましたが、戦争末期には陸軍士官学校ではその入試科目から英語を外してしまいましたが、海軍兵学校では、海軍には英語は必要であるとして、最後になった昭和20年(1945)の入試でも英語の試験は課されていました。

太平洋戦争は、開戦から翌17年(1942)にかけて、ハワイ真珠湾攻撃、香港占領、マニラ占領、シンガポール占領(昭南市とする)、ラバウル占領(海軍の航空基地とする)、ジャワ(現在のインドネシア)占領、ラングーン(ビルマ、現在のミャンマー)占領、その他南方各地域への補給を無視した矢継ぎ早の進攻作戦ですべて多大な勝利、成果を収め、僅か4ヶ月程で、東南アジア、西南太平洋一帯の広大な資源地帯を手中に収めてしまいました。

これらの占領地で日本軍による占領政策の実施や、接収した油田等の施設の管理運営には外国語、特に英語が堪能で駆使可能な者の助力が絶対に必要でした。
国際観光が途絶し、転業を余儀なくされた、通訳案内士、ガイドでしたが、一般国民と同様に徴用対象とされ、特に軍需工場等へは産業戦士と称して、現場の作業員が不足していましたので、徴用された者もいた模様です。
しかし、実際にはごく少数ですが外国語堪能者として軍属として軍に徴用され外地の占領地域に派遣されたり、捕虜収容所の通訳として就業した者もいました。

このように、太平洋戦争の緒戦では我が軍は華々しい勝利を次々に収め、その占領地を大東亜共栄圏の各地に拡大していきました。
この大東亜共栄圏の範囲は、現在の ASEAN(Association of Southeast Asian Nations) 東南アジア諸国連合に加盟している10カ国はもとより中国や南洋諸島などを含めた広大な地域を指していました。その当時の独立国は、タイと中国(国民政府)を除いて他はすべて欧米の植民地でした。

当時の通訳案内士、ガイドは、すべて免許証の所管官庁であった警視庁や地方長官(府県知事)の支配、統制下にありましたから、その動静は容易に把握可能でしたが、占領地へ派遣する要員として必要な適格者を確保するために、当時は身元調査が行われていましたので、通訳案内士、ガイド以外にも三菱商事とか三井物産などの貿易商社の社員とか日本郵船や大阪商船の元社員などで外国語堪能者は候補者として軍当局が手当していました。しかし、昭和18年(1943)以降の戦況悪化により、派遣の取りやめとか又は反対に帰国不可能になったり、不幸にも戦禍の犠牲になった者もいました。

太平洋戦争開戦までは、通訳案内士の仕事は、殆ど惟一の来訪外客斡旋の旅行業者であった、ジャパン ツーリスト ビューロー (J.T.B.)又は帝国ホテルのような来訪外客が宿泊するホテルを通じて、その依頼によって就業していました。
戦争勃発により、国際観光が完全に途絶してしまい、通訳案内士はその結果、仕事が無くなり転業を余儀なくされたわけですが、密接な関係があった、旅行業者やホテル業者にはどのような影響があったのでしょうか、参考までに記述します。

旅行業者 J.T.B. の場合:
来訪外客の旅行斡旋は、組織としての取扱業務はそのごく一部であり、邦人客の取り扱い比率がかなり高くなっていたために、柔軟な対応で切り抜けたものと推察されます。
旅行業は、根本的には平和産業ですので、業容の縮小はやむを得ない処置でした。

ホテル業者 帝国ホテルの場合:
我が国の迎賓館的役割を担って設立された当初の顧客は、来訪外客が殆ど100%でしたが、それゆえ戦争により国際観光が途絶したことは、大きな打撃でしたが、その営業形態は明治23年(1890)の創業以来、漸次、時代の要請に対応して適切に変化、発展させてきており、来訪外客が途絶しても、邦人客の各種の需要(宴会とか婚礼、場所の利便性から事務所的機能としての利用など)が増加して来ており、営業成績は大体、順調に推移しています。
戦争中であっても、”大東亜共栄圏”内の各国からの要人の往来も活発にあり、さらに軍の高官や軍需成金等の邦人客の宿泊や宴会も盛んにあって、営業成績は好調であったと記録されています。

一例として、昭和18年(1943)11月には、帝国ホテルを会場として、大東亜会議が開催されています。
その際の出席者は、我が国からは重光葵外務大臣、青木一男大東亜大臣、タイのワンワイ・タヤコン殿下、中華民国(国民政府)の王精衛主席、満州国の張景徳国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ主席、自由インドのチャンドラ・ボースなどでした。
大東亜共栄圏の諸国と安全に往来可能な間には、各種の国際会議は殆ど帝国ホテルにて開催されましたので、それへの出席者は首席代表をはじめ随員などを含めて全体としてかなりの人数が宿泊しました。

更に、特筆大書すべき事柄は、この戦争中、緒戦の勝利を収めた昭和17年(1942)以降、我が軍が占領地にて接収した各地の一流ホテルの経営を、帝国ホテルを代表とする日本のホテル業者に委託したことです。
帝国ホテルは、シンガポールのグッドウッドパークホテルやバンコックのオリエンタルホテルなどを経営委託されていました。
日本から派遣された社員たちは、現地にてかなりの苦労をして立派な経営を終戦まで維持しましたが、中には不幸にも戦火に倒れ帰国を果たすことができなかった者もいました。
帝国ホテルが調査した昭和17年(1942)11月16日現在の占領地など南方諸地域における日本のホテル業者によるホテル経営は31ホテルにのぼっています。

*ここで、通訳案内士とは密接な関係があり、理論的には相互に基本的な協力関係がある、ホテル業者の団体について記述します。
この団体は、国際観光事業の中核の一端を占め、その役員構成から見て、如何に国の観光行政が実施されるのか、その方向性とか、特に通訳案内士に対しての明確なスタンスが判明して興味深いものがあります。

*日本ホテル協会の設立沿革と、その社団法人化された際の役員構成について、「日本ホテル略史」から引用してみます。
この設立沿革については、既に本稿の9頁にて記しています。
明治42年(1909)の設立以来、本会は32年間にわたり任意団体でしたが、太平洋戦争勃発の年である昭和16年(1941)3月5日、鉄道大臣より社団法人として認可されました。
これは、それだけ本会が社会的に重要な団体であると認知された証明です。

会員数77、支部数7、役職員は以下のとおりです。

会 長   大倉喜七郎(男爵)     
理事長   西尾 寿男(鉄道省旅客課長)   
理 事   富山 清憲(国際観光局庶務課長)   
 同    高久甚之助(ジャパン・ツーリスト・ビューロー専務理事)   
 同    田辺 多聞(朝鮮鉄道運輸課長)   
 同    鈴村 勝利(南満州鉄道旅館課長)   
 同    犬丸 徹三(帝国ホテル常務)   
 同    中谷 保(山王ホテル社長)   
 同    五百木竹四郎(丸の内会館社長)   
 同    佐藤 万平(万平ホテル社長)   
 同    山口 正造(富士屋ホテル専務)   
 同    井上 行平(名古屋観光ホテル支配人)   
 同    中居篤次郎(都ホテル常務)   
 同    大塚 常吉(京都ホテル常務)   
 同    加賀覚次郎(新大阪ホテル常務)   
 同    橋本 喜造(雲仙観光ホテル社長)   
 同    小平 真平(共進亭ホテル社長)   
監 事   金谷 真一(金谷ホテル専務)   
 同    野村 洋三(ホテルニューグランド会長)    
幹 事   吉田 団輔(鉄道省旅客課事務官)   
 同    宮部 幸三(国際観光局事務官)   
主 事   森田栄次郎(鉄道省運輸局総務課)   
 同    宮川 肇(国際観光局)     

この23名の役員構成を見ると、ホテル関係者は、帝国ホテル常務犬丸徹三以下13名であり、鉄道省関係者が10名を占め、事務局を構成すると思われる、幹事、主事各2名、合計4名は全て鉄道省関係者であって、その運営は鉄道省主導であると推測されます。

なお、理事長であった西尾寿男は後に J.T.B. に天下ってその社長に就任しています。
J.T.B. 専務理事であった、高久甚之助は後に J.G.A. の会長に天下っています。
主事の森田栄次郎も J.G.A. の事務局長に就任しています。
他の鉄道省関係者の役員も多分、それぞれ J.T.B.とかホテル業者に天下っているものと推測されます。

このような風潮は、現在まで尾を引いており、現在はその力関係から J.T.B. を主とする旅行業者の利益重視、優先で国の観光行政が運営されていることは、現実の各種行政上の施策や法令等がこれを如実に物語っています。
観光関係の各業者の社会的、経済的地位にも格差があり、全体として国益を十分に考慮した観光行政が適切に実施されているとは到底考えられません。
*太平洋戦争の終戦への経緯

我が国の長期総力戦も、満州事変勃発以来既に長期にわたっており、国内の物資も労働力も軍需生産の為に根こそぎ動員されましたが、我が国の生産力は漸次、低下傾向が顕著になり、回復は全く不可能になりました。
頼みの綱であった、南方占領地からの石油等の重要諸物資の輸送も、昭和17年後半頃からは保有船舶量の急激な減少によって、殆ど不可能な状態に陥りました。

これは昭和17年6月5日から7日にかけて戦われたミッドウェイ海戦において、わが海軍は致命的な敗北を喫してしまい、虎の子の航空母艦や熟練搭乗員を多数失ってしまい、これ以後はまともな戦闘能力を喪失してしまいました。

この時点で太平洋戦争の帰趨は客観的に決していたのですが、神風や最終的な勝利を盲信していた軍部や一般国民は依然として、旺盛な志氣を維持しており、それと共に戦争の最高指導者たちの国際情勢の把握、判断にも重大な誤りがあって、遂に二度の原爆投下やソ連の参戦まで終戦することができませんでした。

このような悲惨な経緯、尊い犠牲を払って、ようやく昭和20年8月15日に太平洋戦争は我が国の無条件降伏によって終結を迎えました。
いよいよ平和な時代の到来で、民間外交官である通訳案内士、ガイドが活躍できる待望の時代が出現したのです。

(続く)

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