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ハロー通訳アカデミーコミュの通訳案内士の歴史(3)を公開します!

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通訳案内士の歴史(3)を公開します!

瀬口寿一郎氏著<通訳案内士の歴史(3)>を公開させていただきます。

●「通訳案内士の歴史」全編(公開分)は、下記PDFにてご覧いただけます。
http://hello.ac//historyofguide.pdf

●皆様のご意見、ご感想、ご希望を是非お聞かせください。
(瀬口氏にもお伝えします)
宛先:info@hello.ac

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<通訳案内士の歴史(3)>
著者:瀬口寿一郎
監修:植山源一郎
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第6節 昭和初期から太平洋戦争開戦まで

大正15年(1926)12月25日、大正天皇が崩御、皇太子裕仁親王が直ちに皇位を継承し、元号が昭和となりました。昭和元年は僅かに7日で終わりました。
昭和の幕開けは実質的には、翌昭和2年からでした。そして昭和時代は実に64年間も続き、その内容は、歴史上、実に波乱万丈というべきものであり、当時の世界情勢から、我が国は次第に軍国主義的な傾向を強め、そのために平和産業である国際観光の最先端を担うガイドにとっては受難の時代に入りました。

*時代背景について

*昭和初期の国内状況

我が国は、第一次世界大戦では主戦場のヨーロッパからは遠く離れており、何の被害を受けることもなく、全くの漁夫の利を収めたのでしたが、それも僅かな期間であり、大戦後の大正9年から始まった戦後恐慌は長引いて慢性化し、同15年秋には不況は極めて深刻な様相を呈するようになっていました。

昭和2年(1927)3月から4月にかけて、ついに金融恐慌が勃発し、台湾銀行が破綻し、総合商社で財閥であった鈴木商店の倒産が発生し、銀行の取り付け騒ぎは全国に広がり、激化しました。同年4月22日には3週間のモラトリアム(支払猶予令)が公布、即日施行となり、この日から2日間、全国の銀行は一斉休業するに至りました。

その後も株式・商品相場は低迷し、輸出の主商品であった生糸価格をはじめ諸物価の大暴落があり、企業の操業短縮や倒産が続発し、一方で、中国大陸における日貨排斥運動の激化等もあって、輸出は激減してしまいました。

ガイド業界と密接な関係があるホテル業界も深刻な打撃を受け、全ホテルの85%が倒産するほどの状況でしたが(運輸省大臣官房観光部編「ホテル業の現状と問題点」昭和45年刊)、ガイドの需要が発生する一流ホテルは何とか生き延びましたが、来訪外客の激減に伴い、必然的にガイド業界も不況の波に襲われたものと推測されます。
それは、来訪外客の主流であったアメリカが後述する様に、大恐慌に見舞われていたからです。

*大恐慌による国際状況とその我が国への影響について
昭和4年(1929)10月24日、ニューヨーク株式市場が大暴落し、この「暗黒の木曜日」に端を発した、世界恐慌が始まりました。アメリカではこの大恐慌初期の3年間に工業生産はほぼ半減し、5000以上の銀行が閉鎖され、失業者は1000万人を超えました。

この大恐慌はヨーロッパ各國へも波及し、世界恐慌となり、これが昭和4年末から5年初めには我が国にも波及し、いわゆる「昭和恐慌」が発生しました。
株式・商品市場は激しく崩落し、企業の生産活動は落ち込み、中小企業や商店などの倒産が相次ぎ、大企業も人員整理でこのような苦境を何とか凌ごうと努めた有様でした。当時、流行した言葉に「大学は出たけれど」というのがあり、これが如実に就職難や失業者の増大を物語っています。

因みに、一例を挙げると、東京帝国大学卒業者の就職率でさえ3割程度でした。
一方で、社会不安からエロ・グロ・ナンセンスが巷に氾濫し、米価、生糸価格等の大暴落もあって、農村の疲弊も著しく、この農業恐慌が政情不安定をかきたて、このような社会的、経済的情勢の中で、軍部ファシズムの波が急速に高まり、明治後半以来、中国大陸への進出を推し進めてきた我が国は、昭和6年9月に起こった満州事変をきっかけに、昭和の15年戦争へと泥沼に陥って行きました。

このような社会状況においては、ガイド業界が深く関与する国際観光事業にも必然的に深刻な悪影響が発生していきました。
昭和7年(1932)には訪日観光客数は約21、000人に落ち込み,大正6年(1917)以来の最低を記録しました。この激減の原因は、ただ単に世界不況などの経済的原因だけではなく、我が国を取り巻く国際関係の悪化がありました。

前述したように、我が国の軍部,関東軍は昭和6年9月に満州事変を引き起こし、翌7年2月には全満州、すなわち現在の中国東北部をほぼ手中に収め、またこの7年1月には上海事変も発生していました。このような動きに対して、我が国に対する国際世論は硬化し、国際連盟は満州問題調査のために、リットン調査団を派遣し、昭和7年2月同調査団は日本、中国、満州の現地調査を行い、同年10月1日我が国に対する報告書を発表し、それを日本政府へ通達したのですが、その内容は厳しく、我が国に不利なものであり、結局、我が国は翌昭和8年3月、ついに国際連盟を脱退する羽目に陥りました。

このように我が国は、国際的孤立を余儀なくされる方向をたどることになったのですが、これは、諸外国との友好親善、相互理解の推進を目的とする国際観光の振興とは根本的に矛盾することでしたが、当時の我が国にあっては、「満州は日本の生命線」であり、「義は我にあり」とする主義、主張が支配的であり、そのような風潮のもとにおいて、我が国の立場についても海外諸国の理解を求め、同時に国際収支の改善にも取り組み、わが国独自の立場で国策として国際観光を推進しようと官民あげて努めたのでした。

このような趣旨に基づく具体的な施策としては以下のようなものがありました。

*鉄道省の外局として「国際観光局」の創設

昭和5年(1930)4月24日勅令第83号をもって、「外客誘致ニ関スル施設ノ統一、連絡及ビ促進ヲ図ル」中央機関として、鉄道省の外局として「国際観光局」が創設されました。これは鉄道大臣の管理下にあって超鉄道的な事業を行う機関でした。

それまで官庁関係において、観光ないしは観光事業という文字はほとんど使用されていませんでしたので、この事実は、それまでの我が国の行政における観光の位置づけと無関係ではありえず、したがって「国際観光局」の誕生は我が国観光史のなかでも特筆大書すべき画期的な出来事でした。

この国際観光局の初代局長となった新井尭爾はその著書「観光の日本と将来」昭和6年刊において素晴らしい見識を示しています。すなわち「近年の如く、一般経済界が不況のドン底に喘ぎ、諸事業が萎靡不振の秋にあっては、この観光事業は、国家としても国民としても尤も有利な事業であって、或る点から言えば、観光事業こそ今日の日本に残された唯一の積極的事業であると観ることもできる」と記しています。

それまでの我が国では、官庁を含めて一般には、観光と言う概念には低俗な遊覧ないしは娯楽程度にしか扱われて来ませんでしたが、こうして従来よりは一段と高い次元で認識されることになり、そればかりではなく、観光は一流国民としての自信と誇りを示す行為であり、事業であるとして、大きな抱負が込められるに至りました。

ここで更に、この観光についての考察を深めるために、国際観光局の「観光事業十年の回顧」昭和15年刊から引用すると「観光の字源は、周代に於ける易経の観卦六四の”観国之光利用賓干王”から出ている。(中略)輝かしい国の光をしめし賓客を優遇する意味と取られ、これは大帝国の建設者たる天分を誇っていた古代ローマ人シセロの云う”ホスピタリス(歓待)は国家のほまれなり”と共に東西相通じて観光が大国民の襟度と矜持をしめすものであることを教えている。

異国の人々を誘致し、こころよく優遇することは、比類なき歴史、伝統、風光、文化を有するすぐれたる国にしてはじめてよくこれをなし得るのであって、いわゆる長者の落付きは自らの国力国情に対する確信と、その確信から生ずる気持ちの余裕から生まれるのである。駸々乎として進んで止まざるわが国柄であるからこそ、観光国日本として、その姿を惜しみなく外国に宣揚し、七つの海から国の光を慕って寄り集う外人に歓待の手を差し延ぶべきである、と云う大抱負が、すなわちこの観光局の命名となったのである」と極めて明確にその観光の字源と命名の由縁を記しています。

*国際観光推進のための組織面の整備について

このような国策を推進するために創設された国際観光局は、創設からおよそ2年間は、主として外客誘致促進のための組織面の整備に力を注ぎました。
そのためにまず、設立されたのが、昭和5年(1930)7月2日勅令第130号による「国際観光委員会」でした。

この委員会は、鉄道大臣を会長として、官民各方面の権威を委員(60名以内)に選び、外客誘致に関する事項を調査、審議する諮問機関でした。
この委員の一人として、ガイド業界と密接な関係がある、帝国ホテル社長大倉喜七郎(明治期財界の重鎮であり帝国ホテル設立の発起人であり、同ホテル社長であった大倉喜八郎の子息)が有力メンバーとして選ばれていました。

諮問第1号は「外客誘致に関し急速実施を要する事項並びに其の実行方策如何」というものであり、鉄道大臣への答申でこの「急速実施を要する事項」とされたのは、海外宣伝の方策の確立、旅行斡旋機関の充実改善、ホテルの整備改善等合計13事項でした。これは外客接遇の第一線の任務を担当するガイドにとっては極めて重要なものでした。

特に注目すべき事項は、外客誘致のためには海外での広報、宣伝を活発に実施するべきだとの答申であり、その具体的な内容は、専門機関を設置して組織的かつ大規模に行うべきであるとしたことです。

この答申に基づき、国際観光局の指導のもとに、対外観光宣伝の実行にあたる中枢機関として、昭和6年12月9日に(財)国際観光協会(会長は鉄道大臣)が設立されました。
同協会は、鉄道省からの拠出金(25万円)を主とし、民間関係機関からの会費(約6万円)その他を資金として、アメリカに主力をおいて海外に対する観光宣伝活動を本格化させ、まずニューヨークに宣伝事務所を開設し、また同地における我が国からの官民の駐在員をメンバーとする実行委員会を設置しました。

同協会の設立以前、既に昭和4年に対米共同広告委員会が設けられ活動を開始していましたが、その業務はこの国際観光協会に引き継がれました。この対米共同広告委員会の業務は実際にはジャパン・ツーリスト・ビューローが実施しており、その具体的な業務は、英文日本案内の発行、アメリカで発行される雑誌、新聞への広告掲載、アメリカの旅行業者10名や一流雑誌記者夫妻16名の日本への招待旅行の実施などでした。

当時、来訪外客の人数から見れば中国からも多かったのですが外貨獲得という見地からは、アメリカ人客が最も重要でした。このような招待旅行は現在でも我が国の対外観光推進機関である日本政府観光局(国際観光振興機構)などが実施しています。このような公的機関によるものとは別に、我が国の有力国際的企業、例えばトヨタ自動車やホンダ、CANONや武田薬品工業などが自社の製品販売促進の為にいわゆる、インセンテイブ・ツアー(褒賞旅行)を実施しており、これはガイド業界にとっては極めて重要な職域となっています。

*観光事業調査会の設置

昭和7年4月、前記の国際観光委員会の答申に基づき、観光事業に関する調査会が設置されました。観光地、ホテル、接遇事項(ここでガイドが正式に登場し、政府関連機関で初めて重要事項として調査、審議の対象とされました)の各調査会に分かれ、それぞれ関係事項の調査、研究に取り組みました。

*観光地調査会について

我が国への来訪外客の主要目的は、外交官やビジネス客は別として純粋な観光客では、観光地訪問であり、これはマルコポーロ以来神秘的で夙に自然の景勝地に優れ、洗練された独特な文化、芸術に基づく歴史的な建造物、例えば日光東照宮の二社一寺や京都、奈良の多くの神社、仏閣などにも富んでおり、来訪外客に対しては極めて魅力的な多くの観光地、例えば冨士、箱根や伊勢、志摩等の多くの国立公園や別府などの温泉地にも恵まれています。

これは日本人があまり認識していない事実ですが、多くの世界漫遊家たちの一致した意見では、日本ほど各種、変化に富んだ観光資源に恵まれている国は世界には他に存在していないということです。それゆえ、観光事業調査会の一委員会として、観光地についての調査、研究が行われることになりました。ガイド業務の重要な部分としては、来訪外客を厳選された名所、旧跡等へ案内することですので、この事業はガイド業界にとっては重要な関係があるものです。

*ホテル調査会について

来訪外客にとって宿泊拠点となるホテルの重要性は、記すまでもないことです。またガイド業界にとってはその業務需要発生の最も主要な源泉であって、死活的に重要かつ密接な関係があります。このホテル調査会は以下のような委員によって構成、組織されました。

国際観光局長、国際観光局事業課長、鉄道省運輸局旅客課長、内務省地方局財務課長、内務省警保局警務課長、大蔵省預金部資金局運用部資金課長、日本ホテル協会を代表する者、ジャパン・ツーリスト・ビューローを代表する者、銀行関係者、建築専門家、国際観光委員会委員および幹事、観光事業に関し学識経験ある者。

これらの顔ぶれから見て、当時の時代風潮が判断可能です。大蔵省や銀行関係者そして建築専門家などが委員として入る必要があったのは、当時国策としてホテルの増設や設備改善、経営助成などが必要とされ、そのために資金関係者等の参加が要請されたからでした。

*接遇事項調査会について

来訪外客に対する接遇業務の重要性は,つとに一般社会にも認識されており、とくに外客誘致が国策として取り上げられてからは、その重要性は尚一層、高まりました。

この接遇事項として、調査、審議された主要項目としては、二つあり、その一つは、来訪外客接遇、斡旋機関として明治期に設立された喜賓会の業務を引き継いだ、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、明治45年3月創設(当初の邦語名は”日本旅行協会”)の事業を調査、審議した結果、これを保護、強化、育成することでした。

ジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下JTBと称す)は、昭和2年7月に当時の民法上の社団法人となり、その本部は東京・丸の内の現在地に設置され、我が国各地の主要都市に支部、案内所を設け、また海外では、ニューヨーク、ロスアンゼルス、ロンドン、香港などにある国際観光協会と共同の宣伝事務所に職員を派遣するなど、広く活発に内外旅客に対して旅行斡旋業務を行いました。

昭和16年(1941)には時勢を反映して、その名称を「東亜旅行社」と変更し、さらに戦時中の昭和18年(1943)には再度これを「東亜交通公社」と変更しています。これは太平洋戦争の緒戦の勝利により、南方の日本軍による多くの占領地(具体的には、香港、シンガポール、マニラ、ジャカルタ、ラングーン等かなりの都市、地域)への人員派遣、交流上の必要から軍属等の要員の旅行斡旋業務が発生していましたが、この旅行の用語には、なにか旅行気分のような悠長な語感が感じられたためなのか、これを「交通」とし、その公共的な使命遂行から「交通公社」とし、その業務範囲が日本国内のみならず、大東亜共栄圏の全域に及ぶことから「東亜交通公社」としたものと推察されます。

このJTBは、当時から鉄道省国際観光局と密接な関係を持ち、一種の半官半民的な存在であって、多くの鉄道省の官吏(現在用語では国家公務員)がJTBをはじめその関連企業等に天下っており、その弊風は従来、長年にわたり継続していました。

このJTBは、昭和20年8月(1945)の終戦後に、財団法人日本交通公社と改称し、さらに昭和38年(1963)にその営業部門を分離して新たに株式会社日本交通公社を設立し、その後この社名を変更して、現在は、株式会社ジェイテイービーとなっています。

一方、この財団法人日本交通公社は、平成20年(2008)12月、経営の透明性確保と所管省庁との癒着防止を目的とした新公益法人制度が始まり、平成25年(2013)11月までに、所管省庁の認可が必要な「公益社団・公益財団法人」か認可の不要な「一般社団・一般財団」に分かれることになりましたので、平成24年に「公益財団法人」の認可を取得して、これに移行しました。

公益財団法人日本交通公社(英文名:Japan Travel Bureau Foundation)は、純粋に公益推進に徹しており,組織の使命である観光文化の振興の為、旅行、観光に関する独自の視点に立った自主研究や自主事業に取り組み、旅行者や観光地の動向に関するデータの収集、分析、セミナー・シンポジウムを通じた研究成果の公表、書籍の出版に加えて「旅の図書館」の運営などに務めています(同社刊行の概要から)。
しかし、インバウンド業界において最大、最強の(株)JTBは、従来長年にわたり自社の営業上の利便からガイド業界に対してこれを支配、統制することにより多大な影響力を及ぼしてきました。
しかし、その一方において、それを唯々諾々として無批判的に受け入れていたガイド一般やその指導層に確固とした見識が欠如しており、ガイドとしての専門職の社会的な使命を自覚せず,いかにしてその社会的、経済的地位の向上、確立を図り、併せて国家、社会に貢献すべきかという理念がガイド業界一般に全く存在していませんでした。

*日本観光通訳協会(J.G.A. Japan Guide Association)の設立

明治期においてガイドが職業として確立して以来,その同業者同志が団結して、連絡、協調、資質の向上等、同業者間の共通の利益を保護したり増進するために、自主的且つ任意に初めてその同業者団体を設立したのは、明治12年(1879)の開誘社でした。

(以下は、下記のPDFにてご覧ください)
http://hello.ac//historyofguide.pdf

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