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ハロー通訳アカデミーコミュの<通訳案内士の歴史(2)>公開!

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<通訳案内士の歴史(2)>公開!

瀬口寿一郎氏著<通訳案内士の歴史(2)>を公開させていただきます。
●「通訳案内士の歴史」全編(公開分)は、下記PDFにてご覧いただけます。
http://hello.ac//historyofguide.pdf
●「通訳案内士の歴史」は、下記ブログにてもご覧いただけます。
http://blog.goo.ne.jp/gu6970/c/b1f983ace556bb4dcb519bf6f7ed7e2e
●皆様のご意見、ご感想、ご希望を是非お聞かせください。(瀬口氏にもお伝えします)
info@hello.ac
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<通訳案内士の歴史(2)>
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第4節 明治後半期におけるホテルおよびガイド業界について

明治32年7月、当時の国民の悲願としていた条約改正が実現し、その結果、日本が長年苦しんできた治外法権が撤廃され、日本は欧米の条約締結国と対等な立場に立つことになり、外国人は内地旅行及び居住の自由を得て、従来のようにその都度の許可を必要としなくなりました。

これは必然的にホテルおよびガイド業界にとっては大いに歓迎すべきことでした。

その当時におけるガイド需要発生の、主要ホテルとしては、下記のようなホテルがありました。
帝国ホテル(東京)、富士屋ホテル(箱根宮の下)、金谷ホテル(日光)、新井ホテル(日光)、日光ホテル(日光)、樋口ホテル(熱海)、村松ホテル(伊香保)、海浜院ホテル(鎌倉)、志那忠ホテル(名古屋)、也阿弥ホテル(京都)、常磐ホテル(京都)などでした。

「日本ホテル略史」によれば、これらのホテルは、条約改正前の明治26年に、帝国ホテルにおいてホテル懇親会が開催されたとのことですが、これが我が国最初のホテル業者の全国的な会合であったとのことです。更に、明治35年には、帝国ホテル、富士屋ホテル、金谷ホテル、都ホテル、大阪ホテルによる五大ホテル同盟会が結成されたとのことですが、この結成理由は驚くことに「案内業者(即ちガイド)の横暴に対し、歩合全廃を以て対抗しようとしたためであった」とのことです。

この当時のガイド業界は完全な売り手市場であったとのことで、一部の品行方正でないガイドの不当な要求や行状に富士屋ホテルなどは悩まされていたとのことです(富士屋ホテル八十年史)。
ガイドをめぐるこのような状況からも前述の様に、「案内業者取締規則」が制定されるに至りました。

明治後半期に至ると、ホテル業界においては、その共通の利益増進という狭い見地からのみならず、「日本に来遊する外国人客を優待し、満足してもらうことは、ただ商工業の利益を増進させるばかりでなく、相互の理解を深めて国交上得るところもまた大きいのである」との優れた見識が横浜グランドホテル社長C.H.ホールによって、明治42年6月16日に帝国ホテルにおいてホテル業者会議が開催された席上において披瀝されています。

この時期においては、我が国の一流ホテルの経営者や直接現場において宿泊客との接遇やその指揮に当たる支配人、そして調理場にて腕を振るうシェフやコックには外国人の優秀な人材が配置されていました。

ガイド業界の繁栄はそれがそのままその社会的使命である来訪外客への接遇を通じて、いろいろな見地から国益増進に大いに貢献することになります、そしてその繁栄はホテル業界のそれと密接に関連しています。

それゆえ、ここで当時そのガイド業務需要発生の最高の源泉であった帝国ホテルの発展の経緯に触れ、これを記述します。

すでに第2節にて記したように、帝国ホテルは明治23年(1890)11月3日にほぼ現在の場所において開業しました。
その当時、東京築地にメトロポールホテルというホテルがありました。

これはもとアメリカ公使館所有の建物であり、それを数人の外国人が買収してホテルを開業したものであって、客室数は20で、支配人は外国人でした。

このホテルは、東京湾頭にあって眺めがよく、夏涼しくて、冬は暖かく、訪日外客を悩ましていた夏の蚊がいなくて、衛生状態が優れ、経験豊かなシェフによる素晴らしい料理を提供しており、東京における唯一のヨーロッパ風マネジメントだったとのことです。

帝国ホテルと比較して規模は小さいが、外國公館筋から贔屓にされており、明治34年(1901)刊行のマレー「日本旅行案内」第6版でも東京のホテルとして最初に記載されており、紹介されているのはこのメトロポールホテルと帝国ホテルの二つだけでした。

日露戦争後の好況のなかで、ホテル業界では新築、増改築が盛んに行われ、メトロポールホテルでも増築計画が具体化し、その際に帝国ホテルとの過当競争を避けるためにも、両者協議の上、合併して一層業務の拡張、繁栄を図ることになり、結局この協議が、成立して明治40年1月25日に帝国ホテル株式会社第32回定時株主総会において合併が承認され、以後、帝国ホテルの名称にての経営が決定され、メトロポールホテルは「帝国ホテル築地支店」となりました。

このように新しい飛躍が大いに期待されて出発した、新時代への帝国ホテルでしたが、その後の経営の展開は、予想に反してけっして好成績なものではありませんでした。

その理由の一つは、明治39年に帝国ホテル新館が完成しており、その収容力が増えたこともあって、東京への来訪外客は、いずれも本店に宿泊する傾向があり、当初の予想を裏切って支店、即ち築地の元メトロポールホテルへの宿泊客数が激減してしまったことでした。
ガイド業務への需要も当然、来訪外客数に関連しています。

なおここで、明治中期から後期へのガイドの経済的地位、すなわちその収入を帝国ホテル社員の月額給料と比較してみますと、ホテルの支配人兼会計主任で月額50円、副支配人で45円でしたが、ガイドは個人客相手で日当2円50銭から3円でしたから、月に20日就業すれば月額50円から60円程になったのですから決して悪くはなく、他に雑収入があったとすれば、やはり時代の先端を行く魅力ある職業であったと思われます。

しかし、その社会的地位は一部の不心得者の為に決して高くはなく、むしろ低く評価されていたものと思われます。

このような状況において、明治40年(1907)7月に「案内業者取締規則」が制定され、ガイド業務は免許制となり、その試験レベルは一応、専門学校卒業程度とされ、ガイド料金も地方長官による認可制となったため、この規則実施を契機として、その経済的、社会的地位は改善され一般よりは高度に評価されるに至ったものです。

その証拠に免許取得者も高学歴者が多く、退役後の高級海軍士官等もいて、従来よりは優秀な人材がかなり増加する傾向を示していました。

明治初期から後期まで、その全期を通じて、我が国の主要ホテルでは支配人以下主要ポストに外国人を雇用していましたが、彼らには諸般の理由から日本人よりは遥かに高給が支払われていました。

しかし、帝国ホテルでは開業以来の長年にわたる社員教育の成果も挙がり、明治42年(1909)の上半期をもって全ての外国人を解雇し新たな人事政策のもとに経営をはじめました。

その結果、帝国ホテルは初めて日本人の支配人を登用することになり、当時の財界の重鎮であり帝国ホテルの取締役会長であった渋沢栄一を中心にその人選を進め、当時ニューヨークの古美術商・山中商会主任として活躍中であった林愛作を抜擢、選任しました。

この林愛作が支配人になったことは、帝国ホテルの経営にとっては、素晴らしい好影響を及ぼしました。
それは彼が従来、長年にわたり欧米で培った幅広い人脈や豊富な知識、経験を活用して優れたホテル経営理念の明確化を打ち出してそれを成功させたからでした。

明治43年からは我が国への来訪外客が急増しましたが、これはそれに伴ってガイド業務の繁栄を物語っています。
その理由は、シベリア鉄道経由のヨーロッパからの来訪外客が漸次増加し、更にアメリカやオーストラリアからの観光客も増加したからです。

そして、明治43年12月20日の臨時株主総会において老朽化した築地支店(旧メトロポールホテル)の廃止を決定し、以後現在に至るまで帝国ホテルは現在地において経営を継続し、依然として我が国を代表する一流ホテルとして、その地位を確保し、その訪日宿泊外国人客の要望に応じてガイド業務の仲介を行っており、ガイド業界にとっては極めて重要な存在です。

第5節 大正期(1912年〜1926年)における歴史的な背景とガイド業界の状況について

我が国は明治期における当時の大国であった清国やロシアを相手とした日清・日露の両戦争で勝利を収め、一躍、世界の耳目を集めることになりました。

その結果、日本は独立を強めるとともに、必然的に国際的地位を高めることになりました。

そして明治が終わって2年目の大正3年(1914)の夏に第1次世界大戦が勃発し、当時の複雑な国際情勢から連鎖反応的に各国を大戦に巻き込み、主戦場となったヨーロッパでは、大きな破壊と悲惨な結果がもたらされ、ようやく終結したのは実に4年4か月後の大正7年(1918)11月でした。

日本はこの大戦を、井上薫によれば「大正新政の天佑」と捉え、時の大隈内閣は日英同盟を口実にドイツに宣戦を布告し、中国山東半島のドイツ利権、赤道以北のドイツ領の島嶼など、アジアにおけるドイツ植民地をすべて獲得しました。

この大戦は、主戦場が遠くヨーロッパであったために、日本は直接何らの戦禍を被ることもなく、いわゆる漁夫の利を得たのでした。
具体的にこれを見ると、大戦中の数年間に我が国の諸産業は驚異的な発展を遂げ、工業生産、貿易、資本等の統計数字はこの期間にいずれも4倍から5倍と異常ともいえる伸張ぶりを示しています。

こうして資本蓄積が進み、大戦後には、日本は近代資本主義国家として世界の五大列強の一つにのし上がりました。

この大正期(1912-1926)の社会的背景としては、一般的に言えば、明治期(1868-1912)とは一種違った形での文明開化の短い時代でした。それは「今日は帝劇、明日は三越」との言葉が流行したように、都市への人口集中が進み、都市市民の欧化主義が現れ、広範な中間階層としての都市市民層が出現したことでした。

それは洋館、洋装、洋食、デパート、映画館、劇場、ダンスホールやカフェなどの盛況が新しい都市風景として、如実に証明しています。

文化的には新しい美術や、建築が現れ、そして映画、演劇も盛んになり、「サンデー毎日」などの週刊誌の発刊、大衆雑誌の「キング」が驚くことに100万部に迫る発行部数を誇るなど、大衆文化状況が成立し、併せて個人主義が広まり、社会主義思想がインテリ層に大きな影響を与え、いわゆる「大正デモクラシー」が新しく成立した現代都市空間に生まれました。

スポーツも普及し始め、大正初めに現在の東京、駒沢に我が国最初のゴルフクラブが創設され、野球も現在の甲子園高校野球の前身の選抜中等学校野球大会が大正13年(1924)に、東京六大学野球が同14年に開始されました。

以上の事例は、すべて大正デモクラシー時代の華やかな面ですが、その一方で暗い面としては、世界大戦後の不況があり、その不況のもとでのインフレによる諸物価高騰の為に庶民は苦しみました。

とりわけ米価の急騰は、凶作によるものではなくて、投機的な動機に起因したために、それに怒った庶民は大正7年7月に富山に始まった米騒動はたちまち全国へと広がり、そして1、000万人もの人々を巻き込む我が国最大の民衆暴動に発展し、その鎮圧に全国120地点に軍隊が出動しました。

この米騒動と時期を同じくして、社会主義的思想の影響もあって、賃上げ要求をめぐる労働争議も頻発しました。

しかし何よりも大正期に発生した大事変は、あの関東大震災でした。
この大地震は大正12年(1923)9月1日午前11時58分に発生し、首都圏を襲った大地震とそれに伴って発生した大火災は、それまで江戸の名残をなお色濃く留めていた東京、そして幕末の開国以来外国人たちが築き上げてきた横浜をほぼ完全に破壊してしまいました。

この大震災が、我が国の政治、経済、産業、文化をはじめあらゆる分野に甚大なる被害をもたらしたことは記すまでもないことです。

首都圏におけるガイド業界はホテル業界などとともに、完全に復興が果たされるまで厳しい冬の時代に入りました。
しかし、幸いに首都圏以外の地域では、それほどの悪影響はなく、順調に推移しました。

ここで我々日本国民が忘れてはならないことは、この大震災のニュースが世界各地に伝わると直ちに、各国から我が国に見舞いが寄せられ、また大々的に義援金や救援物資が集められたことです。アメリカ大統領は「米国政府は、米国赤十字社をして日本における今次の震災救助につき、最大の努力を為さしむべし」との宣誓書を発表し、9月16日までに義援金募集高は800万ドルを超えました。

更に、アメリカのアジア艦隊や在マニラアメリカ陸軍なども、食料、医薬品、天幕、寝具などを積載して日本に急送しました。イギリスもまた同様な行動をとりました。フランスでは、9月7日パリ全市が歌舞音曲を停止して弔意を表し、また全国的に多大な義援金が集められました。ロシアは日本への輸出品の関税を免じ、救援物資の運賃を免除しました。

中国も義援金、米、医薬品などを日本へ急送しました。ローマ法王、スエーデン、メキシコやその他の諸国からも義援金が寄せられました。

*大正期における近代ツーリズムの波について

この期の特徴は、世界周遊船の我が国への寄港が増えてきたことです。
これは寄港地において接遇にあたるガイドにとっては、その活躍の場を得て誠に喜ばしいことでした。

大正2年(1913)アメリカのクリーブランド号の寄港が最初でした。翌年にパナマ運河が開通し、これが世界周遊に拍車をかけ、トーマス・クック社、アメリカン・エクスプレス社などの旅行業者が組織する周遊旅行者は、大体130日から140日間をかけて豪華船で世界を一周し、その途中で、我が国へも立ち寄り、そしておよそ10日間から2週間程度滞在して、東京、横浜、鎌倉、箱根、日光、松島、京都、奈良、神戸、宮島、雲仙などを観光しました。

これらの観光客が滞在中に消費する費用は莫大なものでした。
第一次世界大戦の影響で世界周遊は一時、ほとんど途絶えてしまいましたが、大正6年頃から再び活況を呈するようになりました。

訪日外客数は、日露戦争(1904-1905)以降順調に伸びてきて、大正2年(1913)には2万人を超え、第一次世界大戦中には一時減少しましたが、大戦後の大正9年(1920)には3万2、105人と順調に増加しています。
これは観光業は明白に平和産業そのものであることを示しています。

この大正期に、ジャパン・ツーリスト・ビューローは、アジアの日本は戦乱に見舞われず、国内は平和であり、また観光資源は豊富であるとの宣伝を海外に対して盛んに行い、海外の博覧会会場や主要都市に案内所を設けるなどして、日本への観光客の誘致を積極的に働きかけました。

日本ホテル協会も、大正2年から海外への連合広告を開始し、内閣の鉄道院も英文の「東亜案内叢書」を同じく大正2年に創設しています。
更に、翌大正3年には東京中央停車場即ち現在の JR 東京駅の落成、そして大正4年には東京ステーションホテルの開業もあり、観光施設面の整備も図られました。

前述のような官民あげての訪日観光客誘致の広報活動が漸次その効果を挙げ、訪日観光客やビジネスマンの来訪が大正5年以降急増し、空前の好況期を迎えました。これは日本国内は平和で安全であり、日本人は外国人に好意的で親切であり豊富な観光資源にも恵まれていることが海外にも広く知れ渡ってきたからです。

ホテル業界やガイド業界もこの好況期にはその恩恵を大いに享受することができました。

*国際観光への認識の高まりについて

大正3年(1914)から7年(1918)まで続いたヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の結果、ヨーロッパでは王侯貴族の勢力は相対的に低下し、中産階級が著しい躍進を示し、観光面でもその裾野が拡大しました。

我が国でも、観光は近代産業の一つであるとの評価、認識がしだいに高まり、また国際関係面に果たす役割の重要性も改めて見直され、政府もようやく国際観光振興をその重要政策として取り上げるようになりました。

このような経緯から、大正5年8月、大隈内閣の諮問機関である経済調査会は、訪日外国人客誘致の方策確定を急務として、その特別委員会がまとめた国立公園やホテル、道路など観光設備の整備に関する6項目からなる「外客誘致に関する具体案」を決定しました。国際観光事業の振興を、政府の諮問機関が正式に決定したのはこれが最初のことです。

この6項目のうちの一つは「案内業者(ガイド)」についてのものであり、極めて重要ですので、いささか長くなりますが、この「具体案」の全文を引用してみます。

*「外客誘致に関する具体案」

1.観光外客誘致に関する各般の施設を完備せしむる為め、官民関係者をもって組織する常設調査機関を置き、適切なる方策を考究せしむべきこと。

2.我が国民中、往々漫遊外客を厚遇するを非難冷笑する偏狭の見解を懐くものあり、これ等は不知不識の間に漫遊外客誘致の事業に障害を与えるのみならず、外人をして本邦文化の程度  並国民性を誤解せしむるの原因をなすのおそれあり、故に将来は一層普通教育程度の教科書、 又は教育学若しくは学者名士の講演等により、一般国民に対し本事業に関する正当の観念を与えその公徳心の養成を図ると共に、遠来の外客を厚遇する良風美俗を馴致せしむべきこと。

3.観光外客の宿泊に供すべき内地の「ホテル」は今後ますます発達を期するの要あり、然るに現在は収支の関係上、その改善を望むべからざるもののみならず、概ね経営困難の状態にあり故に政府及び地方公共団体は、これに相当の保護奨励を与え、その経営を便ならしむると共に国有鉄道及び地方公共団体は、必要の地に「ホテル」を建設し、これを直営するか又は低廉なる料金をもって確実なる営業者に貸与する等により、漫遊外客の便利を図ること。

4.「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」は我が国に於ける外客誘致の機関として、その事績見るべきもの多し、故に政府は今後その組織を強固ならしむると共に、その事業を保護し、 且つ関係者をしてますますこれを援助せしむるの方針をとり、将来一層その活動を促すべきこと。

5.案内業者(ガイド)は内務省令による取締りと、営業上の必要による自制心と相まって漸次従来の弊風を矯正せしむるの現状にあるも、尚ほ今後は一層その改善を図り、一方にはます ますこれが取締を厳にし、その弊風を除去すると共に、他方には可及的その営業上の利便を 図り、もって彼らをして自主向上の精神を涵養せしむるに努むべきこと。

6.政府は我が国自然の風致と人工の美の維持保存に関し、従来諸般の施政を行い来れり,然して漫遊外客の誘致に関し、特に本邦が他に優越せる便宜を存するも,又畢竟その風光の明媚、その気候の温和にして神社仏閣の古建造物並びに古代美術品の観るべきものの富めるによる、故に将来ますますその施設を改善すると同時に、国内交通機関改良及び各般の文明的施設の完全を図り所謂天然と人工相まって漫遊外客の利便を増進し、慰安享楽の目的を達せしむるの途を講ずること。

大正8年3月には、第41議会の衆議院で「外客誘致及び待遇に関する建議案」が提出され、可決採択されました。議会でこの問題が取り上げられたのも、この時が最初でした。

しかし、これらの決議が、現実の行政に具体的な形で反映されるのは昭和に入ってからでしたが、ともかく訪日外国人客数の著しい増加と国際観光への認識の高まりが背景となり、第一次世界大戦による特需景気がもたらした漁夫の利による好景気と相まって、ホテル建設ブームが出現しました。

これはガイド業界にとっては極めて好ましいことでした。

この時期にジャパン・ツーリスト・ビューローは、機関誌「ツーリスト」(和・英)を発刊し、外国人用乗車券の発売や旅行小切手の発行、さらに日本ホテル協会と協力して、入港する外国航路の船に無線でホテルの客室予約状況を通報するなど、訪日外国人客誘致に尽力しています。

このサービスは大正9年10月20日に横浜入港の日本郵船の北米航路、鹿島丸から開始され、以後3年間にわたり189回実施されました(日本ホテル略史による)。

なお、大正11年(1922)モナコで開催された万国ホテル会議には、日本ホテル協会理事長種田虎雄が出席し、この会議で万国ホテル同盟が設立され、日本ホテル協会もこれに加盟しました。

この当時は、まだガイドの国際団体は設立されていません。これが設立されたのは20世紀に入ってからですので後述します。

*大正期における外国人の旅券、査証制度について

我が国の国際観光は、大正期に入って飛躍的な発展を遂げていますが、それにはいろいろな要因が好影響をもたらしています。

明治32年7月の条約改正以後、我が国への条約締結国の外国人の入国は全く自由でしたが、大正7年1月に内務省令第1号「外国人入国に関する件」が制定され、これによって初めて旅券,査証の制度が整備されました。

但し、当時、中国は日本人の中国への入国に旅券を必要としていなかったので、中国人の我が国への入国に関しては無旅券が認められていました。

更に、大正13年に内務省令が改正され、「本邦人ノ入国ニ対シ査証ヲ必要トシナイ国ノ国民ニ対シテハ査証条件ノ規定ヲ適用シナイ」としました。

これは、現在も国際的な「査証相互免除協定」として普遍的に実施されています。
この大正13年当時において、下記の19カ国とこの「査証相互免除協定」を締結し、我が国への旅行を容易にすることが図られました。

ベルギー、スイス、イタリア、リヒテンシュタイン、香港、オランダ、スペイン、ドイツ、スエーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、アイルランド、エストニア、リトアニア、チェコスロバキア、ラトビア、ハンガリー、カナダでした(法務省入国管理局「出入国管理の回顧と展望」昭和55年版)。

2014年現在我が国との「査証相互免除協定」締結国は144ヵ国です。
これは我が国の国際的な地位を反映したものであって、それだけ評価され価値あるものです。

(続く)

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