ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

実は創価学会ですコミュの妙観光の大臭講頭のお粗末な三呆論が完璧に破折されていた証拠資料

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
日蓮消宗・退席痔派の天魔日犬のイヌとして、キャンキャンとシッポを振っていた妙観光の大臭一男とか称する講頭がいました。
その大臭は、妙観光の機関誌「行商(暁鐘)」でお粗末な歪曲論文を公表したら、学会地区幹事(当時B長)のS氏に完璧に折折されて、惨めな敗北の姿を世界に晒されたのです!
恥の上塗りでしかないですが、その大臭講頭は、嫉妬と恨みにかられて、S氏への誹謗中傷を続けていることが判明しました!

S氏が大臭講頭をどのように破折したか、その具体的な内容を読めば、退席痔派のウソ八百が明らかになりますので、以下に全文を示します。

−−−−−−−−−−−−−−−−
平成7年9月18日
大 草 一 男 殿

 前略
 初めて直接お手紙をお送りしますが、既に原進君から相談を受けて、彼と私との対論の内容を御存知のはずなので、御挨拶は割愛し本題に入ります。
 不肖の弟子の原君が、作成した文書の大半を割いて、貴君の三宝破壊の邪義の論文を愚かにも引用したので、貴君の弟子の不始末の責任を取って貰うためにも、以前「暁鐘」誌上に掲載された、歪曲だということで有名な「血脈誹謗の異流儀を破す」の後半の僧宝に関する部分について、文証を以て破折し、挨拶に代えましょう。内容、経緯についてご不明の節は、原君に確認して下さい。
 なお、貴君の論文の文章は原君の手紙をそのまま引用します。

┌───────────────────────────────────┐
│ 僧宝とは、仏の代理者あるいは後継者として、仏の説かれた方(ママ)を伝承・│
│護持し、世に弘通していく方のことであり、その重大な役割について、『四恩│
│抄』には │
│ 「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無けれ│
│ば草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば、正法・像法│
│・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」 │
│ また日寛上人の『当流行事抄』には │
│「仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も、若し之れを伝えずんば即(ママ)│
│ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや」 │
│と仰せである。 │
│ すなわち、仏宝・法宝(仏宝は御本仏日蓮大聖人、法宝は大聖人御所顕の大│
│曼荼羅御本尊、この仏宝と法宝とは体一である)は三世常住というも、僧宝が│
│あってはじめて地球上に久住し、万年の衆生を済度せられるのであって、換言│
│すれば、仏宝・法宝の地球上における久住を助け支えていくのが僧宝の存在で│
│あるといえよう。 │
└───────────────────────────────────┘
 ここでは貴君は、単に一般論としての「僧宝」について、得意の切り文を交えながら解説しているようだが、端的に言って、大草君が理解できていないのは、三付属のうち「守護付属」については、在家の使命であるということであろう。日寛上人は

 「三には守護付属。謂く、国王・檀越等、如来一代所有の仏法を時に随い、機に随い、能くこれを守護して、法をして久住せしむるなり。」

と、在家による守護付属を、「令法久住」として、二箇相承(弘宣・伝持付属)と並べて意義付けられている。令法久住とは、決して僧侶のみの使命ではないばかりか、明確に在家の使命であるとされているのである。
 後述する「末法下種の僧宝」に、僧侶だけでなく在家が含まれる理由も、この「三付属」の立て分けに基づくのだ。
 このため「観心本尊抄」には、本化地涌の菩薩が折伏を行ずる時には、在家の王となって愚王を責め、摂受を行ずる時には僧となって正法を弘持(弘宣・伝持)する、と説かれているのである。

「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。」

 こうした大聖人の言葉を無視して、坊主ならば無条件に尊敬するべき、などと考えること自体、絶対に仏法の価値観ではなく、おそらく釈迦在世のバラモン教の末裔だと自らを恥じるべきである。日寛上人が、

「故に知んぬ他宗の僧はかえって是れ俗、当宗の俗はかえって是れ僧なり、勝劣知るべし。他宗の僧なお当宗の俗に劣る、況や他宗の俗をや。当宗の俗なお他宗の僧に勝る、況や当宗の僧をや。しかるに予が如き徳行ともに欠けたり、恨むらくは当宗の俗に劣る」

とまで言われ、勝劣を決定するのは「事相の髪を剃る」ことではなく、「内心の髪(謗法の黒心)を剃る」ことであると、明確に断言されているのもご存じないのだろうか?

 そしてもう一つ、貴君が頻繁に悪用する切り文を指摘しよう。貴君は、日寛上人の『当流行事抄』の
「仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も、若し之れを伝えずんば即(ママ)ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや」
を引用して、一般論としての僧宝の依文にしているが、これこそ切り文の典型である。この文の前後を目を開けて明らかに見よ!

「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり、仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も、若し之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや・然れば則ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり、宜しく之れを敬信して仏種を植ゆべし」

 おぞましいほど見事に、貴君の切り文が明らかになったではないか!天魔の犬の証明として、貴君は、引用部分の前後に明確に示された僧宝(根本として敬信するべき「久遠元初の僧宝」)の正義を切り文して、一般論としての僧宝にまで貶めているではないか!これこそ摧尊入卑と呼ぶのだ!!!

 『四恩抄』の一文も、もっともらしく引用しているので簡単に破折すれば、 日寛上人は『三宝抄』の中で、『四恩抄』のこの文を引用された直後に、

「又予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」

と「僧宝の一分」としての自らの立場を述べられている。このことは、同じく『三宝抄』の中に、

「然れば則ち吾が日興上人・嫡々寫瓶の御弟子なる事分明なり。故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来、日目・日道・代々咸く是れ僧宝なり、及び門流の大衆亦爾なり。」

と、「末法下種の僧宝」として日興上人を筆頭に、代々の法主、門流の大衆までも僧宝と位置付けられているところから明らかとなる。即ち、『三宝抄』に示される如く僧宝にも種々ある中で、日蓮正宗においては、根本として尊敬するべき「久遠元初の僧宝」と、正法を守り伝えるべき存在としての「末法下種の僧宝」とを定めているのである。
それ故に『当流行事抄』には、

「『久遠元初の結要付属』云云、自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付属豈僧宝に非ずや、久遠元初は仏法の根本なり故に根本を信ずと云うなり、後三別明とは久遠元初の仏法僧則ち末法に出現して吾等を利益したもう、若し此の三宝の御力に非ずんば極悪不善の我等争か即身成仏を得ん、故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし」

と、根本として尊敬する信仰の対象である御本尊に一体として備わる三宝を「久遠元初の三宝」と定められたのである。このことを更に具体的に確認できるものとして、『三宝抄』に「三宝の勝劣」について説明された箇所がある。

「此れ須らく分別すべし、若し内体に約せば実に是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり・故に一念三千即自受用身と云うなり、又十界具足方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に寫す故に師弟亦体一なり、故に三宝一体なり。若し外相に約せば任運勝劣あり。所謂仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故なり。故に法宝を以て中央に安置し、仏及び僧を以て左右に安置するなり。」

と、「久遠元初の三宝は一体」であるが、自ずと優劣があり、法宝である御本尊が中心に、仏と僧とは左右に安置するという、「別体三宝式」という化儀の由来を述べられている。例えば、日顕が破壊しようとしてる大客殿には、御本尊を中心に左右に大聖人と日興上人の御影を安置していたのがこれに該当する。
 したがって、この日蓮正宗の正義に基づいて、代々の正師は「久遠元初の僧宝」を日興上人唯御一人と定め、御歴代ほか僧俗のうち正しく信行を持つ者を「末法下種の僧宝」として、「僧宝の一分」と位置付けて来たのである。
 このことは例えば『日蓮正宗要義』にも明確に示されており、
「広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝であるといえる。しかし、尊信の対象としては、右に述べる如く中心(日興上人)に要括すべきである。」
と、まったく何の疑義も差し挟む余地がない。
 また、御承知のとおりの日達上人の指導にも、このことは明確に示されている。

「わが日蓮正宗においては、三宝はすでに宗規において定められておるごとく、大曼陀羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし、血脈付法の人日興上人を僧宝とするのである。(中略)そこで日目上人は一閻浮提の座主と申し上げるのであります。以下歴代の法主は、日目上人の座を広宣流布の暁までお護り申し上げているのであります。」
「別体三宝式として中央に御本尊を安置し、その御本尊に向かって左に仏宝として宗祖日蓮大聖人の御影を安置し、右に僧宝として二祖日興上人の御影を安置し奉り、左下座に日目上人の座がしつらえられて、その座において大衆檀信徒の参詣を三宝に取り次ぐ姿において読経するのが、歴代の法主であります。」(昭和五十二年十一月二十七日 法華講連合会大会)

 繰り返しになるが、ここで僧宝とは「久遠元初の僧宝」である日興上人、そして一閻浮提の座主が日目上人、御歴代は日目上人の座席を広宣流布の日まで守り、三宝への取り次ぎ役を果たす「末法下種の僧宝」(日寛上人が「僧宝の一分」とも呼ばれた存在)になるのである。
 なお、末法下種の僧宝は、従浅至深して「随一」は日興上人であり、根本の僧宝となるが故に「久遠元初の僧宝」として尊信の対象とされるのである。これらのことを解り易く整理すれば以下のとおり。

  (1)久遠元初の僧宝           =開山日興上人唯御一人
  (2)末法下種の僧宝
   �ヽ�山日興上人 =僧宝の随一
   ��一閻浮提の座主=日目上人 = 以下僧宝の一分
    �8耄鯊紂¬舂�大衆、檀信徒
   (正しい受持信行、随力演説が条件)

 なお、��については更に若干の解説が必要であるのでいずれ述べることとするが、基本的には貴君はこの分類を正確に理解しないから邪義に堕ちてしまったのである。






コメント(17)


┌───────────────────────────────────┐
│ ゆえに日蓮大聖人は、御入滅後の令法久住を鑑みられ、唯授一人の血脈相承│
│をもって、第二祖日興上人に法体と仏法のすべてを委ねられ、僧宝の任を与え│
│られたのである。このことは『日蓮一期弘法付嘱書』(ママ)に │
│「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべき│
│なり」 │
│と仰せられ、また『当流行事抄』に │
│「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり。(中略)吾が開山上人は智は先 │
│師に等しく徳は諸弟に超えたり。故に塔中伝授の秘要を付して本門弘通の大導│
│師と称し、末法万年の総貫首と定め、二箇の相承を授けて延山の補処と為す」│
│と示されている。 │
└───────────────────────────────────┘
 ここは、「久遠元初の僧宝」である日興上人のことについて述べた箇所である。
 『当流行事抄』に示された『身延相承書』の「本門弘通の大導師」とは、「末法下種の僧宝の随一」即ち「久遠元初の僧宝」である日興上人のことであり、これを切り文して「大導師」は僧宝(又は仏)だから御歴代も僧宝(又は仏)である、などと言う妙観講の摧尊入卑は絶対に許してはならない。
 同様に、「久遠元初の結要付属」も「久遠元初の僧宝」である日興上人のことを指しており、単なる「結要付属」を依文に、御歴代も僧宝である、などという歪曲も許されないのである。
 それにしても、『当流行事抄』を引用するのに、「中略」の部分があまりにも長過ぎて、別の意図を持っていることがばれてしまうのだ。

「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり、仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も、若し之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや・然れば則ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり、宜しく之れを敬信して仏種を植ゆべし」

のとおり、中略の部分は、前段に示した「当流行事抄」の、己義を展開するのに都合の良いところのみを切り文した箇所ではないか!貴君が自らの己義を正当化するために、如何にお粗末な引用をしているかがここでもまた明らかになったではないか!大聖人が厳しく指摘された「少し自義に違う文有れば理を曲げて会通を構え以て自身の義に叶わしむ」の輩にならないように、貴君はくれぐれも我が身を反省することだ!

「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし」

 どうやら、貴君の身に天魔が入っていることが徐々に明らかになってきたようだ。


┌───────────────────────────────────┐
│ しかして日興上人の後は、『文底秘沈抄』に  │
│「而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す。今に至るまで四百余年の間│
│、一器の水を一器に移すが如し、清浄の法水断絶せしむること無し」 │
│と示されるように、日目上人、日道上人等の御歴代が、あたかも管の中を水が│
│流れるごとく唯授一人の血脈を継承されてきたのであり、この意義において、│
│総じて御歴代上人方をまた僧宝と仰ぐのである。ゆえに日寛上人は、『当家三 │
│衣抄』に │
│「南無僧とは若し当流の意は・・・ │
│ 南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無│
│一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡嫡付法歴代の諸師」 │
│と仰せである。 │
└───────────────────────────────────┘
 ここは、今度は「末法下種の僧宝」のうち、歴代の法主のみについて述べた箇所である。本来ならば、正しく受持信行する僧俗も全て「末法下種の僧宝」に該当することを述べるべきであったが、明らかに意図的に、ここではまだ記載していない。この辺りがトリックのトリックたる所以である。
 「総じて御歴代上人方をまた僧宝と仰ぐのである」と総別の範囲に関する定義を曖昧にしたままで、「末法下種の僧宝」についての定義も正確にしないで述べているところが歪曲のもとである。
 まず『文底秘沈抄』に示された「清浄の法水断絶せしむること無し」の文は、「蓮祖の御心」である「戒壇の本尊」「三大秘法随一の本門の本尊」が伝えられて来たことを示すものであり、相承の中でも「法体相承」と呼ばれるものである。
 この法体相承故に、歴代法主は「末法下種の僧宝」とも呼ばれる訳であるが、このことを法主の「権利」と捉えることは正依に照らして明らかな誤りである。例えば日興上人は『富士一跡門徒存知の事』において、大聖人の弟子(六老僧)が御本尊を護らねばならない理由について述べられている。

「同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋ね有らん期まで深く敬重し奉る可し。」

 即ち、一閻浮提広宣流布の時が来て、地涌の菩薩である国主が御本尊を求めて尋ねて来る時まで大切に守って行かなければならない、という法主の使命を明示されているのだ。この使命を果たす限りにおいて、御歴代は「末法下種の僧宝」として尊敬されることとなるのである。
したがって、『当家三衣抄』に述べられた「末法下種の僧宝」の御文についても、

「南無僧とは若し当流の意は・・・
 南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、
 南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、
   嫡嫡付法歴代の諸師」

と、「末法下種の僧宝の随一」である「本門弘通の大導師」には「南無日興上人」と、二重に「南無」を冠され、日目上人には「南無一閻浮提の座主」と、その位にのみ「南無」を冠され、歴代の諸師には「南無」を冠されていないのは、「末法下種の僧宝」にも勝劣があることを明らかにされたものである。
 確かに日目上人までは国家諌暁を繰り返し、正法正義を興隆されたが、日道上人の時代以降は、相承にまつわる内部抗争等により宗運が著しく衰微したという歴史的事実が存在する以上、法体相承の故に「末法下種の僧宝」ではあっても、日目上人と比べればはるかに劣る存在であることは否めないのである。


┌───────────────────────────────────┐
│ 昨今、本宗の本尊観に対して、「形あるものは必ず滅するのが諸行無常の理 │
│であり、御本尊といえども紙や板に認められている以上は、やがて姿を消すこ│
│とになる」等の批判をなした者があるが、それは僧宝たる御歴代上人の存在と│
│、その重大な役割を無視した浅見といわざるをえない。なんとなれば、御本尊│
│の法体は僧宝たる御歴代上人方によって護持・伝承されてきているのであるか│
│ら、万年の外、尽未来際までも、御本尊は血脈付法の御歴代上人に支えられ、│
│この地上に久住せられるのである。 │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、科学的な(かどうかは検討が必要のようだが)法則に基づいた主張と、信念に基づいた主張とを対比させた、時間軸のオーダーが異なるまったくすれ違いの答弁で、はっきり言って駄文である。
 前者の法則を前提とした主張の想定する時間は、数百万年か数千万年か、おそらく地球が温暖化して人類が存在できなくなる頃までを考えているのだろうが、後者はたかだか数千年から数万年程度の、現在の人類が順調に生存可能と推測される(実は科学的事実とコンピュータによる計算結果は、もっと急速な、21世紀前半からの人類の激減を予測しているが)期間を想定しており、もう少し緻密な議論をしたらどうかと提案したい。
 その上で、後者は結論を「久住せられるべきである。」と修正すれば、相手を説得することが可能となろう。要するに、御宝蔵にある弘安2年の大御本尊を謹刻する等の対応をすれば、本門戒壇の大御本尊の久住は技術的に可能となる、と主張すれば良いのである。それを何やら万世一系の天皇制のようなことを言うから、狂信的な信者以外は誰も素直に聞かなくなってくるのだ。

┌───────────────────────────────────┐
│ さて、このような僧宝の意義に迷い、前の『当流行事抄』の │
│「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり」 │
│等の文を挙げて、僧宝とは日興上人ただ御一人のことであり、日目上人以下御│
│歴代上人は僧宝に含まれない、と強弁する輩がある。 │
│ それならば、同じく前に引用の『当家三衣抄』に、日興上人のみならず、日│
│目上人以下嫡々付法歴代の諸師までを、南無すべき僧宝のうちに含められてい│
│るのは、いったい、どうしたわけか。『当流行事抄』も『当家三衣抄』も、い │
│ずれも日寛上人の『六巻抄』の中の二編ではないか。これを、一を知って二を│
│知らぬ外道の偏見、というのである。           │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、明らかに反対者の主張を歪曲して反論しているもので、貴君は反論したつもりかも知れないが全く反論になっていない。
 最初から指摘しているように、僧宝について論じる時には、「○○の僧宝」と正確に表現することである。そうすれば、こんな無意味な文章を書かずに済んだであろうに。『当流行事抄』には、

「久遠元初は仏法の根本なり故に根本を信ずと云うなり」

と、信仰の対象としての尊敬・尊崇はあくまでも「久遠元初の三宝」に限り、その意味で「久遠元初の僧宝」は日興上人唯御一人である、という定義は間違いなく日蓮正宗の正義なのである。だから宗規第4条第2項にもそう定めているし、『日蓮正宗要義』にも明示されているのだ。

「本宗は、・・血脈付法の人日興上人を僧宝とする」(宗規第4条第2項)
「尊信の対象としては、右に述べる如く中心(日興上人)に要括すべきである。」(『日蓮正宗要義』)

 これに反論するためにわざわざ「御歴代は僧宝に含まれない」などと、有りもしない批判を持ち出すのは、まるでペテン師のようなやり口ではないか。正しく「久遠元初の僧宝」「末法下種の僧宝」と拝せば、当流行事抄も当家三衣抄も掌の内にあるではないか。まったく何の矛盾も無いのだ。
 逆に貴君の主張に基づけば、日達上人が指導されている、

「わが日蓮正宗においては、三宝はすでに宗規において定められておるごとく、大曼陀羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし、血脈付法の人日興上人を僧宝とするのである。(中略)そこで日目上人は一閻浮提の座主と申し上げるのであります。以下歴代の法主は、日目上人の座を広宣流布の暁までお護り申し上げているのであります。」
「別体三宝式として中央に御本尊を安置し、その御本尊に向かって左に仏宝として宗祖日蓮大聖人の御影を安置し、右に僧宝として二祖日興上人の御影を安置し奉り、左下座に日目上人の座がしつらえられて、その座において大衆檀信徒の参詣を三宝に取り次ぐ姿において読経するのが、歴代の法主であります。」(昭和五十二年十一月二十七日 法華講連合会大会)

との言葉も、「歴代上人は僧宝に含まれない、と強弁する輩」「一を知って二を知らぬ外道の偏見」ということになる訳だ。先師否定も日顕と同類だということがよく理解できた。これこそ「一を知って二を知らぬ外道の偏見」と呼ぶのだ。

 日蓮正宗の正義に基づいて僧宝について正しく表現するならば、
「御歴代は僧宝の一分である(御歴代も僧俗も僧宝の一分でしかない)、即ち末法下種の僧宝であり、その場合は正しく受持信行する場合に限り僧宝としての資格を持つ」
 この「正しく」の基準が「法門相承」によって明らかになるのだ。したがって、たとえ「法体相承」を受けた法主であっても、大聖人、日興上人ともに「誤れる師は捨てよ」と御指南されているのである。

「補処と云うと雖も何ぞ必ずしも謬り無からん、例せば慈覚等の如し」
「但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり」

 世間の道理にも仏法の道理にも背いた日顕を捨てるのは理の当然である。更に経文には、

「比丘等の四衆を誹謗するは波羅夷罪(教団追放の罪)なり」

とあるとおり、純粋な学会員を誹謗中傷した日顕は、絶対に追放しなければならないのだ。まして本化国主たるべき学会員を誹謗した坊主どもにおいてをや、である。
 また、日興上人も、

「日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還って失にて候と申す法門なり」

と全く同様の御指南をされ、更に日興遺誡置文には、

「時の貫主或は習学の仁に於ては設い一旦の婬犯有りと雖も衆徒に差置く可き事」
「此の内一箇条に於ても於かす者は日興が末流に有る可からず」

とあるように、淫乱法主を速やかに退座させないような輩は日興上人の末流ではない、天魔の末裔だ!


┌───────────────────────────────────┐
│ また、すでに述べたごとく、僧宝とは、仏法を後々の世の中にまで伝えてい│
│く方のことである。それを、もし、日興上人ただ御一人のみが僧宝、というな│
│らば、『当流行事抄』に  │
│「之れ(仏法)を伝えずんば即(ママ)ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信│
│受することを得んや」 │
│と仰せのとおり、日興上人が御遷化された時点で、仏法は断絶して後世に伝わ│
│らなくなってしまうではないか。 │
│ このような説は、僧宝の意義というものをまったく弁えない妄見、といわざ│
│るをえないのである。ここに、正しい意義に基づく僧宝の立て方を、重ねて、│
│詳しく述べておこう。 │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、前項の内容で十分理解できることと思うが、要するに「一般論の僧宝」と「末法下種の僧宝」と「久遠元初の僧宝」とを区別して書きなさい!の一言で十分であろう。
 それにしても、性懲りも無く『当流行事抄』の「久遠元初の僧宝」に関する御文を切り文して
「『之れ(仏法)を伝えずんば即(ママ)ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや』と仰せのとおり、日興上人が御遷化された時点で、仏法は断絶して後世に伝わらなくなってしまうではないか。」
とは、本当に恥知らずも程々にしたらどうか。

「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり、仏恩甚深にして法恩も無量なり。然りと雖も、若し之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷ぞ此の大法を信受することを得んや、豈開山上人の結要伝授の功に非ずや・然れば則ち末法出現の三宝は其の体最も明らかなり、宜しく之れを敬信して仏種を植ゆべし」

 これほど明確な「久遠元初の僧宝」の定義の依文を、「日興上人が御遷化された時点で、仏法は断絶して後世に伝わらなくなってしまう」という己義の根拠に使おうというのだから、貴君の厚顔無恥には本当に呆れてものが言えない。
 せいぜい一般論としての僧宝の依文である、
「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば、正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」
ぐらいに止めておけば、邪義であることがばれなかったかも知れないのに。

┌───────────────────────────────────┐
│ まず、御本仏日蓮大聖人より法体の血脈を直授相承された御開山・第二祖日│
│興上人こそ、大聖人御入滅後の後継者にして、僧宝の随一であらせられる。 │
│ さらに、日興上人は、御自身の後継者として日目上人を第三祖と定めて血脈│
│相承され、以来、日目上人は日道上人へ、日道上人は日行上人へと、順次に展│
│転相承されてきた故に、御歴代上人方をまた僧宝と仰ぐのである。そうでなけ│
│れば、大聖人の仏法は、大聖人の御入滅後、七百星霜を経た今日まで正統に伝│
│わらない。 │
│ また、これをさらに押し広げて考えるならば、血脈嗣法の御歴代法主上人の│
│弟子として、正法正義を研鑽し師伝する本宗御僧侶方も、総じて僧宝に連なる│
│立場であり、さらに広くいえば、その御僧侶方より法義を学び、世の人々に弘│
│宣していく本宗信徒も、皆、僧宝の一分の意義をもつといえよう。 │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、「末法下種の僧宝」の立て分けをしている箇所であり、くれぐれも正確な表現をするように貴君に忠告しておきたい。
 「御歴代上人方をまた僧宝と仰ぐのである」ではなく、「・・をまた僧宝の一分、末法下種の僧宝とするのである」に修正しなさい。
 また、「本宗信徒も、皆、僧宝の一分の意義をもつといえよう」についても「・・皆、僧宝の一分、末法下種の僧宝の意義をもつといえよう」に修正しなければならない。

┌───────────────────────────────────┐
│ ただし、“宝”という字が表わすように、僧宝とは、単なる客観的概念では │
│なく、宝として尊ぶという、信仰上の尊信の対象である。信仰上の尊信とは、│
│自ら身を低くして、下から上を仰いで尊ぶことであるから、もし、自らを宝で│
│あるとしたならば、そこには信仰そのものが成立せず、かえって 慢謗法に堕│
│することとなる。 │
│ ゆえに、それぞれの立場における信仰・尊信に約していえば、信徒の立場か│
│らは二祖日興上人以来の御歴代上人および本宗御僧侶方を、御僧侶方の立場か│
│らは二祖日興上人以来の御歴代上人方を、そして御歴代上人の立場からは二祖│
│日興上人を僧宝と仰ぎ尊ぶことが、正しい在り方となるのである。 │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、妙観講の得意な「文証もない道理」という代物である。
「ただし、宝という字が表わすように、僧宝とは、単なる客観的概念ではなく、宝として尊ぶという、信仰上の尊信の対象である。」
については、「宝」が尊信の対象となるならば、すべての生命は経文に照らせば三千大千世界の財宝よりも尊い宝ではないか。御書をよく読みなさい!貴君の主張から結論されるのは、「一切衆生の生命は宝であり、信仰上の尊信の対象である」ということになるが、これで間違いないのだな?
 大聖人が、僧の恩だけに限らず一切衆生の恩を説かれている理由をよく考えれば、意外にそのとおりかも知れないぞ。大聖人の仏法は平等の法だということが理解できない権教の猿智恵では、難信難解の法華経は体得できないようだ。その基本の歪み故に、次の貴君の歪曲が始まるのだ。
「信仰上の尊信とは、自ら身を低くして、下から上を仰いで尊ぶことであるから、もし、自らを宝であるとしたならば、そこには信仰そのものが成立せず、かえって 慢謗法に堕することとなる。」
 権教の輩の主張は、結局このような大聖人の仏法から遠く離れた外道の価値観を仏法の中に取り込み始めるのだ。己義を構えるにしても、せめてキチンと経文を引いてからやったらどうだ。
 日興上人の遺誡置文には、

「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。」
「身軽法重の行者に於ては下劣の者為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。」
「弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。」

等と、信仰とは貴君の言うような「自ら身を屈めること」ではない、ということと共に、「仰いで師匠とする基準」「信敬を致す基準」について明確に述べられている。それは、「我より智勝れたる者」、「身軽法重の行者」、「弘通の法師」であり、宗門内での位階などでは絶対に有り得ない。「教弥よ権なれば位弥よ高し」との大聖人の御指南を拝すれば、宗門内での位階も、僧俗も、社会的立場も、年齢も、全ての外的な条件を超えて、ただただ妙法流布・一切衆生救済のために学び、行動し続ける者を「宝」と仰ぐのが大聖人の末流の大原則である。
 普通ならば、人間として高みにある人物に対しては、誰もが自然に仰ぐものである。わざわざ身を屈めなければ高さが感じられないような相手は、仰ぐに値しない人物であることは言うまでもない。
おそらく貴君のまわりの僧侶達は「自ら身を低くして、下から上を仰いで尊ぶこと」を強いなければ仰げない程度の、レベルの低い人物たちばかりなのだろう。だから、池田先生のような高みにある人物を嫉妬し、追放して、自ら無明の泥沼にはまり込んだのだ。「自業自得果のへんは・すくいがたし」である。
 これで貴君の主張が権教であることが簡単に証明されてしまった!信徒→末寺僧侶→御歴代→日興上人という信仰(?)の構造とは、何のことはない、仰ぐに値しない坊主たち(日顕も含む)を敬わせるための「民衆のアヘン」のような邪義だったのだ。
 おまけを言えば、『日蓮正宗要義』でも、
「尊信の対象としては、右に述べる如く中心(日興上人)に要括すべきである。」
と、一言のもとに貴君の誤りを破折している。貴君のように論理の矛盾を内包したままで、自語相違を続ける者を「法義惑乱の輩」と呼ぶのだ。

 余談ではあるが、A県の日顕宗B寺の檀家総代(講頭)を20年以上勤めてきたT氏は、坊主が信徒の供養で飲んだくれて寺を全焼させて焼死した体験や、次の住職の不知恩と謗法の振る舞いや、檀家たちの葬式信心(邪宗葬式仏教か!)に対して、やり場の無い怒りを率直に私に対して語ってくれた。そして正しい信心をさせることが如何に困難なことか、今の寺にはそんな信心は存在していないこと、そして、全世界に大聖人の仏法を広めた池田先生は偉大だと、彼の本音を述べておられた。やはり純真に大聖人の仏法の実践に挑戦された方だけあって本質を見抜かれていた。しかし、既に腐乱死体のようになってしまった法華講にいては絶対に救われないではないか!余りにも可哀想な話で、何とか救ってあげねばならない、と心から感じた次第である。


┌───────────────────────────────────┐
│ また、上一人の御法主上人から下全僧俗までを含む日蓮正宗という立場にお│
│いて、僧宝を規定する場合には、右の筋道を要括して、二祖日興上人をもって│
│僧宝と立てる。それは要するに、それぞれ別々の立場における信仰に約すか、│
│日蓮正宗全体を一体としての信仰に約すか、だけの相違であり、その意義に何│
│らの異なりや矛盾はないのである。 │
│ それが、同じ『六巻抄』の中の『当流行事抄』と『当家三衣抄』の、二様の│
│御教示となっていることを知るべきであろう。 │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、完全な己義であり、試しに邪宗日蓮宗にこの論文を投げ込めば、泣いて喜んでくれるに違いない。そして「二枚舌僧宝論」として歴史的な事実を多数挙げて反論して来るに違いない。かつての日開も愚かな論文を宗門機関誌に掲載したために、降格の憂き目を見た訳だが、貴君は信徒だったから助かったようだ。法主も狂っていた時でもあったし・・。
「日蓮正宗という立場において、僧宝を規定する場合には、右の筋道を要括して、二祖日興上人をもって僧宝と立てる。それは要するに、それぞれ別々の立場における信仰に約するか、日蓮正宗全体を一体としての信仰に約すか、だけの相違であり、その意義に何らの異なりや矛盾はないのである。」
と、よくまあシャアシャアとこんな己義を構えられたものだ。
 要するに日蓮正宗の宗規に定める教義とは別に、それぞれ別々の立場においては適宜変更となることもあります、ということではないか!
 こんなお粗末な論法を他にも適用させるどうなると思うのかな?第1章の宗綱には当然三宝以外の宗義の根本が述べられているが、例えば、日蓮正宗全体としては法主は本仏ではないが、それぞれ別々の立場においては本仏となる、とか、経釈章疏の正依については、日蓮正宗全体としては宗祖遺文等であるが、それぞれ別々の立場においては日顕語録であって御書は傍依とする、とかいうふうな、ペテンだサギだと呼ばれても何も反論できない事態さえ予想されるイカサマがまかり通るではないか!
 こんないい加減な邪義を垂れ流すから、弟子どもも惑乱して、黄倉支区幹事などは、
《「久遠元初の僧宝」、「宗規で定める僧宝」は、信仰の上から、尊信の対象としてさだめられた僧宝であり、「日興上人以下御歴代上人は大聖人が未来万年に正しく仏法を伝承するために定められた僧宝」であるという道理があって初めて相反するように見える文証があっても筋道の通った文証として拝することができるのだ。》
などと、全く狂乱したとしか考えられない邪義を、口からカニの泡の如く吐き出しているのだ。これらを整理すれば、
┌─────┬──────────────┬──────────────┐
│ │ 宗規で定める僧宝・日興上人 │ 宗規で定めてない僧宝・歴代 │
├─────┼──────────────┼──────────────┤
│大草真理教│ 正宗全体の信仰に約す │ 各々別々の立場の信仰に約す │
├─────┼──────────────┼──────────────┤
│黄倉心理狂│ 信仰の上からの尊信の対象 │大聖人が定められた仏法伝承者│
└─────┴──────────────┴──────────────┘
ワッハッハッハッハと大爆笑だ!

 しかし考えてみれば、こんな二枚舌を平気で使うのは貴君の本質でもあり、純粋な信仰を利用して支部幹事だった旧姓荒生純子女史のみならず、数多くの女性を快楽の道具として来たことは、全国の心有る方々は皆知っている。要するに、全体の信仰としては講頭と講員の関係だが、それぞれ別々の立場では男と女、あるいは貴君のセックスの道具とする価値体系の中で貴君は生きている訳だ。仏法は体・世法は影、体曲がれば影ななめなり、まさに仏法は生命の法則である。貴君の女性問題の歪みも、結局は宗義の根本である三宝を破壊したことに起因するのではないだろうか。いや、過去世からの正法誹謗の故に、是仏在世の六師外道の弟子の再誕とするのが正しそうだ。
 被害に会った純子さんの日記が私の手元にあるが、これを読めば、貴君が女性を口から出任せの舌先三寸で自分に都合のいいように操っているのがよく理解できる。こんなことが妙観講の中で許されるのも、「自ら身を低くして、下から上を仰いで尊ぶこと」を巧妙に大聖人の仏法に抱き合わせて強制し、完全な邪宗教となっているからに他ならない。

 それにしても、日蓮正宗全体と別々の立場とを使い分けるなどというアホなことを平気な顔で言って、誰も何も気がつかずにアホを仰ぐから、妙観講はアホだと宗門内からも呼ばれるのだ。「その意義に何らの異なりや矛盾はない」どころの騒ぎではない。明らかな法義惑乱である。まさしく、宗門全体の教学が根本から狂う原因となる解釈ではないか。だから妙観講の出現以来、日蓮正宗の教学が狂い始めたのだ。
「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし」
の経文がこれほどピッタリ当てはまる例も希ではないかと思われる。
 そして妙観講及び愚かな宗門の坊主の皆さんには
「私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり」
の御指南をお送りしよう。本当にこれからの貴君たちの未来が思いやられて可哀想でならない。


┌───────────────────────────────────┐
│ こうした、僧宝の正しい意義と立て方を弁えてみれば、日蓮正宗の宗規に │
│「血脈付法の人・日興上人を僧宝とする」 │
│               (『日蓮正宗宗規』第一章宗綱第四条2項) │
│と規定され、また日蓮正宗の宗義書たる『日蓮正宗要義』にも │
│「大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする」 │
│と示されている所以、さらに御当代日顕上人猊下の御立場において │
│「基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります│
│。そういうところからするならば、歴代法主は僧宝以下の立場」云々 │
│                  (昭和五十八年三月三十一日お言葉)│
│と述べられ、また御僧侶方に対する御指南として │
│「仏教の中に“三宝”という言葉がありますが、その中の一つに僧宝というも│
│のがあって、僧侶はすべて世の中の宝である、という意味の言葉があります。│
│しかし、そういう意味があるからといって、『自分は僧侶であるから、世の中 │
│の宝であり、偉いのである。だからもっともっと尊敬しろ』というふうなこと│
│を考えたり言ったりするならば、これは大きな間違いであります」 │
│ (昭和五十五年三月二十八日お言葉)│
│と仰せられながら、一方、信徒に対する御指南として │
│「仏宝は僧によって住するのでありますから、御本尊様の功徳を拝するときに│
│、やはり御本尊に具わる三宝の意義、いわゆる仏の宝、法の宝、そして法体を│
│正しく伝えるところの僧の宝を正しく認識して、その上に僧俗一致という麗し│
│い僧俗の関係を作ってこそ、はじめて真に大法が伝わり、また、即身成仏の功│
│徳が具わるのであります。もし、それを無視して、自分は御本尊を信心してお│
│るのだから、僧侶はいらないというような自分勝手な考えをもって、ただ御本│
│尊の功徳だけを戴こうとしても、それはまったく梯子なくして高所のものを取│
│らんとするような、誤りの見解に堕する次第でございます。ゆえに『三宝の恩│
│を知る』ということは、仏法僧の意義を深く認識してこそ、はじめて存するの│
│であり、僧宝をないがしろにするところには、仏宝・法宝に対する信解もまた│
│正しからざるものになってしまうということを、深く考えていただきたいと思│
│います」    (平成三年七月二十八日お言葉)│
│と御教示せられている所以も、じつに筋道正しく、信解されるのである。 │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、すでに私が述べた内容で全部がクリアーになったと思う。
 とにかく三宝論について論じる際には、
  (1)久遠元初の僧宝=開山日興上人唯御一人
  (2)末法下種の僧宝
   �ヽ�山日興上人 =僧宝の随一
   ��一閻浮提の座主=日目上人 =以下僧宝の一分
    �8耄鯊紂¬舂�大衆、檀信徒
   (正法の受持信行、随力演説を条件)
以上の立て分けを常に頭に置きながら、キチンと定義を確認することを怠らないことだ。したがって、すべての「僧宝」という単語には「○○の僧宝」という区別をつけることを大原則とするべきである。
 そうすれば、宗規は「久遠元初の僧宝」の日興上人、日蓮正宗要義は「末法下種の僧宝の随一」の日興上人となる訳である。
 また、すでに示した日達上人の御指南は、法華講員に対するものだが、宗規に基づき僧宝は日興上人とされている。この矛盾をいかに会通する?
 邪師となった日顕の言葉を連ねているが、
「『自分は僧侶であるから、世の中の宝であり、偉いのである。だからもっともっと尊敬しろ』というふうなことを考えたり言ったりするならば、これは大きな間違いであります」
との日顕の言葉は、絶対に自らに当てはめるべき言葉である。まさに日顕は「大きな間違い」を犯してしまったようだ。
 更に、先師日達上人が、
「御本尊において三宝相即であります。各自みなさま方の仏壇に御本尊を安置して朝夕に信心を励む。それで三宝を敬っておる充分の姿でございます。」
と御指南された内容とも矛盾するが、やはり法義を主張する時は、正依を根本とするべきであろうと忠告しておく。


┌───────────────────────────────────┐
│ しかるを、もし、僧宝の正しい意義と立て方に迷い、これらの規定や御教示│
│を解釈すれば、それは悉く論理的整合性を失って、支離滅裂の怪釈とならざる│
│をえない。 │
│ 例せば、「宗規に定まるとおり、僧宝は日興上人以外にありえない。歴代上 │
│人も僧宝に含まれるというなら、我々信徒も歴代上人と同じく僧宝である」「 │
│僧宝とは、本来、信仰者の集合体のことであり、今日においては創価学会のこ│
│とである」「『当家三衣抄』では、“日興上人”の御名の上に南無を冠している │
│が、その後の“日目上人”の御名と“嫡々付法歴代の諸師”の語には南無が付│
│いていない。ゆえに、日目上人以来御歴代は尊信すべき僧宝に含まれない」 │
│「『当家三衣抄』の当該箇所は僧宝(あるいは三宝)について述べたものでは │
│ないので、『当流行事抄』の方を用いるべきである」等々・・。 │
│ かくのごとき、自説中の前言と後言が互いに矛盾するような、また中学校程│
│度の国語力すら疑わせるような無理な怪釈、これを法義惑乱というのである。│
│大いに恥じ、慎むべきであろう。 │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、目クソが鼻クソを笑っているような感があるではないか!!!大いに笑える文章ではある。まず教義を歪曲した貴君自身が「法義惑乱」を大いに恥じ、慎むべきであろう。あまりに稚拙な内容なので、あえてコメントはしない。


┌───────────────────────────────────┐
│ 日寛上人の『三宝抄』にのたまわく、 │
│「吾が日興上人・嫡々寫瓶の御弟子なる事、分明也。故に末法下種の僧宝と仰│
│ぐ也。爾来、日目・日道・代々咸く是れ僧宝也。及び門流の大衆亦爾也云々。│
│(中略)又予が如き無智・無戒も僧宝の一分也。」(研究教学書十巻) │
└───────────────────────────────────┘
 この箇所は、すでに示したとおり「末法下種の僧宝」についての依文である。これで何を言わんとしているのかはよく理解できないが、無益な解説をしなかっただけ救われたようだ。

 以上簡単に、貴君の三宝破壊の邪義のうち、愚かな弟子の原進君が引用した箇所を破折した。
 ついでに、「法道院信徒209名離籍の真相」に紹介された、貴君のあまりの基礎教学力の無さを証明する駄文を掲載する。可能ならばちゃんと一言一言反論するように。

「我々末法の衆生が主師親(注:仏の三徳=仏)と仰ぐのは、久遠元初・下種の御本仏日蓮大聖人様(注:仏宝)だけであり、そして、御本仏日蓮大聖人様の御生命の当体たる戒壇の大御本尊様(注:法宝。ここまでは正しい。)、唯授一人の血脈を受けられた御法主上人猊下のみ(注:正しくは日興上人。なぜ久遠元初の僧宝を無視するのか?やはり日顕宗だ!)が、我々の成仏得道のための主・師・親(注:三徳=仏。正しくは「仏・法・僧」の三宝。)にあらせられるのである。我々、法華講は、指導教師の御僧侶のもと(ちゃんと指導を受けなさい!)、僧俗一致(同床異夢の間違いか?)で仏祖・三宝尊(注:日顕も含まれてしまったのか?オエー!)を「我等が主師親」と拝みまいらせていく(ミソとミソとを混ぜてクソにしている。こういうのを摧尊入卑と呼ぶ。)ところに信心があると思う。」

またまたワッハッハッハッハと大爆笑だ!
 全く何回読んでも明らかに基礎教学が理解できていない、無智無学のオカルト的な狂信者の言葉としか考えられない。「オウクサ真理教」と呼ばれる理由がこれで全国の皆さんにも理解できたことだろう。まさか、これが法華講の一つの支部の責任者である講頭の作文とは!日本語としておかしい(確かにおかしいが)だけであるならばまだ許せようが、仏法の基本中の基本である三宝について、完璧に混乱していることが明白ではないか!完璧に狂っているようだね、貴君は!悔しかったらキチンと反論すること。絶対に逃げるんじゃないぞ!!!
 反論文書の送付期限は、平成7年9月29日(金)(必着)とする。もしも送って来なかった場合は、貴君は自らの邪義を認めたものとみなす。そして、妙観講は邪義であるために、たかが創価学会の壮年B長から逃げ出したということが全国に明らかになるので、くれぐれも覚悟しておくこと。

                      草々


ワハハハハハ!(爆)

大臭講頭はこれだけコテンパンに邪義を破折されてしまって、メンツを丸つぶれにされたので、妙観光の大臭講頭の手下たちは、ひたすらS氏を貶めようとあらゆる工作をし続けたのです!

そして、未だに10年以上も昔の偏執動画をネット上に貼り付けて誹謗中傷を重ねている訳です。

しかしこの手口は、対論の当事者以外が意図的に誹謗中傷する目的でアップする行為は名誉棄損にならないのか?

S氏を知る一人の人間として、その犯罪性を告発したい!あまりにも卑怯で卑劣な妙観光の手口ではないか!

それも惨めに文書でぼろ負けして反論不可能だった腹いせだと言うのだから、そのあまりの品格の低さには呆れるばかりである!




ログインすると、残り2件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

実は創価学会です 更新情報

実は創価学会ですのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。