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宮本常一コミュの宮本常一「調査地被害」を参考に『開発倫理(学)』を考えてみましょう。

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tomcatさん、みなさんこんにちは。

しばやん@愛知です。

さて、最近おもしろい本を読みましたので紹介させてください。
外部ではありますが「ブログ版 歩く仲間」で以下の書評を掲載しました。

『宮本常一+案渓遊地 『調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本』 2008年11月12日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-38a2.html

すでにmixi「開発民俗学−地域共生の技法」(http://mixi.jp/view_community.pl?id=2498370)というコミュでもとりあげましたが、民俗学(民族学)や開発(国内外を問わず)を語るときどうしても避けざるを得ない非常に重たいテーマでもあると思います。

もともと開発援助業界で働いていたときに、宮本常一氏の著作を知ったので、ついつい自分の仕事と絡めて論考しておりますが、みなさまの率直なご意見や感想を聞かせていただけたらなあと思います。


では、よろしくお願いいたします。

コメント(3)

わざわざ外部のブログにはいっていただくのも失礼なので、全文を転載しておきます。  しばやん

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出版直後に見かけてはいたのですが、ようやく購入しました^^?

宮本常一+案渓遊地『調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本』 みずのわ出版、1000円 2008年4月

お薦め度: ★★★★★

一口コメント:

学術的なフィールドワーカーのみならず地域研究や開発援助に携わる人(特に日本人)は必読。

ロバート・チェンバースを読んで感動している場合ではない。

という2つ目のセンテンスは極論ですが、元開発コンサルタントとして、特に開発途上国の開発に携わるコンサルタントなどの実務者に限らずいわゆるお上の人にも読んでいただきたい一冊です。

A5サイズで、事項索引を入れても、わずか118ページのブックレットですが、その訴えるテーマは古くて新しいというか、ずばり「開発倫理」の本です。

歩く民俗学者、歩く仲間の大先輩の宮本常一氏が、1972年に、『朝日講座・探検と冒険 7』に著した小論「調査地被害−される側のさまざまな迷惑」(のちに未来社版 『宮本常一著作集 第三一巻に、「調査地被害」として再録)を第2章に全文を引用して、直接、宮本氏から指導を受けたフィールドワーカー(研究者)である案渓氏が、日本の南の島々でのフィールドワークで体験(経験)した、今なお続く調査地被害、特に調査‘される側’の声をふまえて考察した論文を再録しています。

なお、宮本氏の「調査地被害」という論文については、『歩く仲間−歩きながら考える世界と開発』のブログ(HP)の中で何度も取り上げておりますので、私の立場と理解についてはこちらを参照ください。

>われわれの物語を紡ぐために: 文化人類学への問い。(2005年7月3日)http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00028.htm

>文化人類学の1990年代を振り返る  (2005年7月3日) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000281.htm

>ブームの宮本常一?  (2006年4月1日)http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00030.htm

>人類学者の皆様に 〜援助の‘効率化’って何?〜 (2007年2月10日)http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog051.htm

>人類学者の皆様に(補足1) 〜援助‘する’側、援助‘される’側の認識について〜 (2007年2月18日) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog052.htm

>実務者不在の議論(その1) (2007年4月14日) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog063.htm

>実務者不在の議論(その2) (2007年4月14) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog064.htm

実は、3月に日本に一時帰国して、大型書店で平積されたこの本をみたとき、宮本氏の論文の再掲ならば、わざわざ買う必要もないと思ってあえて購入しなかったのですが、今回、案渓氏の論文を読んで、‘いまだに’調査地被害が、日本で続いていることに暗然たる気持ちになりました。

上の私の論考でも触れていますが、今の開発援助に関心のある勉強しているはずの若い人たちの間でも、本多勝一の「殺す側の論理」と「殺される側の論理」の議論についても知らない人が多い。既に時代遅れの二項分類ともいわれていますが、これは、ロバート・チェンバースのいう「アッパー」と「ローワー」の議論と同様以上に重要な概念だと思います。

ともあれ、人文科学を目指す人のみならず、広く(地域)社会に関わろうとする人たちは必読の小冊子です。

そうそう、蛇足かもしれませんが、一言で上記の問題を語れば、

「人として」ということではないのかなとも思います。「倫理」と大きな声でいうものではなく、人の迷惑や痛みを考えることとは、人として当たり前のことでもあります。

それを「学問」や「開発」のためというのを錦のお旗というか言い訳にするのは、どうしたものかと思いますね。あなたも私も社会に対して‘上から目線’になっていませんか。自分への戒めとして^^?

P.S.

別のところでも書きましたが、宮本氏のフィールドワーク論(方法論のみならず倫理を含む広い意味での)を編集した『旅に学ぶ』は、フィールドワークに関心を持つ人はぜひ手元において味読していただきたい論集です。



宮本常一 『宮本常一著作集 旅に学ぶ』 第31集

未来社 1986年 2800円

お薦め度: ★★★★☆

一口コメント:

ちょっとお値段が高いのがキズですが、現場で何をみればよいのかなど、どれを読んでも氏の鋭い視線を感じます。

「あるく みる きく 考える」は氏のモットーでもありましたが、フィールドワーカーである『歩く仲間』の必携書ともいえるでしょう。
上記で紹介している記事のひとつです。いちばんキモの部分です。 しばやん

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歩く仲間Blog. B052 <2007年2月18日(日)>

人類学者の皆様へ(補足1)
〜援助‘する’側、援助‘される’側の認識について〜

前回の記事「人類学者の皆様へ」について、以下の補足を行いたいと思う。明らかに舌足らずで誤解を与える恐れがある(既に与えている?)と、私も思うからだ。

前回の記事は、特定の人類学者を対象に個人攻撃や議論を仕掛けるものではないが、以下の論文に刺激されたのは事実である。

岸上伸哲(民博)共同研究会「開発と先住民族」 「開発と先住民族」 (総論と問題提起) 2005.10.8 のレジュメ



この論文を拝見して、あまりに「文化人類学の社会的な活用」ということが強調されていることに関して、開発コンサルタントの立場から一言申したかったのである。

私がおやっと思った事を論点として、一点一点、説明していきたい。

その1.

「‘援助する側’と‘援助される側’の違いを、どこまで‘援助する側’が認識しているのか。その力を「過信」しすぎていたり、もしくはわれかれの‘立場’の違いにあまりに「無意識・無自覚」すぎるのではないか?」

‘援助される側’と比較して相対的に‘力’を持っているであろう‘援助する側’のアクターになろうとしている「人類学者」に対して、すでに‘援助する側’のアクターの最右翼である「開発コンサルタント」の立場から、自分のもつ‘力’をどこまで自覚しているのかについて、まずお伺いしたい。

「学問」の世界と「援助」という世界とは現実かなり違っているし、「学問する側」から「援助する側」に身を置き換える際には、当然、もっともっと考えるべきことがあるのではないかということを、今の段階で問題にしたかったのである。

例として取り上げたいのは、俗にいう「する側/される側」の論理である。

特に日本の人類学者の方々におかれては常識以前の問題であると一笑されるかもしれないが、1970年代に、つまりベトナム戦争のまっただ中で、ジャーナリスト、ひとつの実務家である本多勝一と、文化人類学の論客、山口昌男が公開口論を行ったことがあった。

本多勝一 1970 「調査される者の眼−人類学入門以前」『思想の科学』102号
山口昌男 1970 「調査する者の眼−人類学批判の批判」『展望』 142号

なお、わたしは両者の論文を読んだわけではなく、本多勝一 『殺される側の論理』 朝日新聞社 朝日文庫版のいわば本多の論考を元に文化人類学をみたわけであるが、調査される側の迷惑や、調査‘する’側と調査‘される’側の、認識の違いに違和感をいだいたのは本多のみに限らない。

宮本常一 1972 「調査地被害 される側のさまざまな迷惑」 
(『旅にまなぶ』 (宮本常一著作集31) 未来社 1986 に再録)

(続く)
(続きです)

この問題の経緯は、祖父江孝男 『文化人類学入門』 中公新書1979(増補改訂版 1990)の「第十章 残された諸問題」のなかで「調査される側の論理(231頁)」として簡潔にポイントがまとめられているので、ぜひ参照いただきたい。またその前後の「フィールド・ワークについて(227頁)」、「調査者はどこまで客観的たりうるか?(228頁)」、「研究の倫理(234頁)」、「文化人類学の目的と役割(235頁)」の部分も内容的に文化人類学の問題の核心をついているので、あわせて読まれたい。

詳しくは、それぞれの論文を読んでいただきたいが、私なりにポイントを3つにまとめてみる。

1.調査する側には、「主観的」、「客観的」を自分で語ることはできない。すべからく「主観的」に調査される側と関わっているのであり、「透明な外部者」では論理的にも現実的にもありえない。(主に本多がいろいろな論文で表明しているいわば彼のテーゼのひとつ)

2.つまり、外部者として、その特定の‘調査される社会’に関わる(ろうとする)場合、必ず‘外部者’としての責任、義務が生ずる。(本多、宮本)

3.いくら「客観的」によかれと思ってその‘社会’に介入、もしくは「透明な外部者」たらんとしたところで、まったく調査する側の想定もしていなかった‘混乱’や’迷惑’を、‘調査される社会’に持ち込んでしまう。(どちらかというと宮本が非常に強調している点)

⇒ ではどうすればよいのか。実は、どうすればというところまで本多も宮本も具体的な触れていない。だからこそ、それが祖父江のいう「残された諸問題」たるゆえんでもあるのである。

この‘人類学に関する議論’を、「開発援助」のあり方の議論として考えることができるし、その必要がある。

通例というか、現実の可能性として普通に考えて、‘調査される社会 なぜか途上国が多い’にわざわざ赴こうとするのは、先進国の‘人類学者’か、‘開発専門家’でしかないでしょう。

だからこそ、「調査する側」とか「開発する側」の‘倫理’というか‘あり方’が問題になってくるのである。

そこのいわば出発点に立ったとき、今の人類学者の方々は自己をどう考えているのかについて、岸上論文にその立場の確認がないことに対して、非常に私は危機感をもったのである。(⇒ 私の危機感の詳細は、引き続きその2で取り上げたい。)

単なる言葉の言い換えという向きがあるかもしれないが、わたしはあえて「開発民俗学」という言葉をつかって、「開発される側」が主体的に‘自分たちを知ること’により、それぞれの身の丈にあった「開発」のあり方を‘外部者’である‘われわれ’と地元の人たちで共に考えていくことをめざしている。

しかしながら、実務者(特に開発コンサルタント)側からの経験の発表の機会はあまりに少なくクライアントとの守秘義務規定もあり、コンサルタントの本当の生の声は書かれたものとしては、実態に比して極端に少なすぎると私は感じている。

私はまず開発援助を考える際に、その中で自分をどう位置付けるか、自己認識の部分がいろいろな考え方や行動を意識的にせよ無意識にせよ規制すると考えている。

だからこそ、人類学者が開発をやることが、その「人類学者」にとって、どのような意味があるのか、彼の仲間である現地の人たちにとってどのような意味があるのか、また人類学者が、どういうスタンスで開発援助の‘アクター’として関わろうと考えるのか、まず、そこから自覚してほしいと思ったため、あえて前回の問題提起をさせていただいた。

繰り返しになるが、「する側/される側」の考え方は、特に人間が相手の国際交流(援助もそのひとつ)を考えるときに、非常に重要な概念であると思う。

人類学者に限らず、特に日本人で開発援助を考えたり実務家をめざす人には、1970年初旬に既に日本の社会の中で、本多と宮本が積極的にこのような問題提起をしたことを‘歴史的’な事実として押さえておいてほしいと思うのである。

(この項 了)

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