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高橋信次先生の八正道を実践するコミュのマルチン・ルターと親鸞

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 私はこの2人がキリスト教と仏教を大衆化した人としてとても似ていると感じたので調べてみたら、既に多くの人が同じ事を思っているようでした。

 詳しいことは、下のリンクに書いてありまししたので省きますが、
http://www.tranzas.ne.jp/~smikio/syukyoukaikaku.html

特に、
1.ルターがコラールによって、親鸞が念仏によって救いの道をより身近にした。(正信偈も歌です。)
2.二人とも妻帯者である。

 の2点はとても重要な要素のような気がします。

 仏教もキリスト教も徐々に修正が加えられていきますが、正法の視点で見ていくとその善し悪しがよく解ります。

コメント(6)

ルターの「クリスマス前夜ミサのための書簡」の普遍性

 先日買ったルターの教会歴説教集の第一説教に、「クリスマス前夜ミサのための書簡」と言うのがあってこれを読んでみると今歌っているモテットの内容とピッタリ一致するのでビックリしました。
まず、テトスへの手紙第2章11〜15節が書いてあります。
イエス
「すべての人の前に神の恵みと救い主が現れた。私たちが不信心とこの世的な欲望を捨て、冷静に、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストがご自身を私たちのために捧げられたのは、私たちをすべての不法から購いだして、良い行いに熱心な世襲の民をご自身のものとして清めるためだった。このような事をわたしたちの主キリスト・イエスにおいて宣べ伝え、戒めなさい」

 パウロはこの書簡でまず、テトスとすべての説教者が民衆に、キリストが何であるか、なぜ来たのか、私たちにどんな実りをもたらしたんかを伝えるべきで、キリストを知ってそれによって神の恵みが啓示され、栄光を与えられる、と言っています。
 神は、この世と人間の恩典に罰を下し、それが有害で、呪わしく、役に立たないものとし、これによって私たちを神の行為と恩恵を願望するように促した。私たち人間の行為と恵みを軽蔑せよと教えたのである。

 「不信心」とは本来、人が神を敬わない、つまり神を信じないし、信頼しない、恐れない、神に栄光を捧げない、神に支配させない、神である事を認めないような罪であり、これらの罪の中には、あくどい、うわべを重んずる罪人が多く潜んでいる。しかし、最も深い所には、この世と自分の前においてのみ正しく、自分の行いに頼る賢者・聖者・学者・聖職者などが存在し、神の善意と恩恵に身を捧げないで生きる者はすべて「不信心な」者である。

 すべての人たちの最初の悪は、彼らが神に背き、不信心で、恵みを受けない事であり、もう一つの悪を神は「この世的な欲望」(財・快楽・名誉・寵愛・この世が所有したいすべての者)と呼んでいる。とはいえ、私たちがこの世の財産やその使用を捨てよと言っているのではない。財は良い物で神の被造物であり、わたしたちは食べたり、飲んだり、着物を着たり、その他必要な物のためにそれを用いなければならなず、ただそれを欲望し、執着し、愛着する事が禁じられている。ここでこの世的な行いや言葉を取り除くだけでは十分ではない。この世的な欲望から離れ、この世の生活とこの中にあるすべてのものを用いて、これに気を取られず、私たちは未来を待ち望み、彼方の生に思いをはせるのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「神」は洋の東西を問わないビッグバンの神として、キリストを仏陀に置き換えてみると仏教の本質と一致すると思います。つづく
 また義とされるために人間が思いついた多くの愚かな方法を取りやめるためには、わたしたちはそれを拒絶し、断念しなければならないと人は言う。と言うのは、ある者は荒野に、ある者は修道院に、ある者は人々から離れ、からだ一つで逃亡し、不信仰とこの世的な快楽から逃げ出すから、と言う。ある者は、身体の拷問と損傷によって、飢え・乾き・徹夜の祈り・衣装・労働によって自然本性の限界を超えて苦行を行っている。・・・・
 不信心とこの世的な欲望は、あなたの心中にあって、あなたをがんじがらめに捕らえているので、あなたがどこへ行こうとしても、そこへはあなたは行けないのではないか。・・・愛する人よ、大きな刺激はあなたの内にあり、聖ヤコブが「人が罪を犯すのは、それぞれ、自分の欲望に引かれ、誘われるからである」と言っているように、あなた自身がまず脱出して、逃げ出さなければならない。

 それゆえ人は外的な罪の原因を避けるのではなく、聖パウロがここで言うように、「欲望がわたしたちの内で殺されるように、拒否されるならば、いかなる外的な刺激もわたしたちを害する事は無い。これが正しい逃げ方である。」・・・わたしたちは刺激の直っ直中に留まり、そこで欲望と不信心を拒否するように恩恵によって学ばなければならない。

 さらにパウロは、わたしたちが不信心とこの世的な欲望を捨てた後、いかに生きるべきかを示して、この世においては「慎み深く、正しく、信心深く生きるよう」に語る。

 先ず第一に、冷静さである。ここにおいては人間に関係するすべてのことを、自分自身に対して行うこととして捉える。これは欲望を抑制し、身を浄化することにある。これは聖パウロがギリシャ語でsophronと表現したもので、ただ冷静であると言うだけでなく、身体や肉体のすべての行動において、ーーー食べること・飲むこと・眠ること・着ること・話す言葉・顔つき・振る舞いにおけるーーー節度と言う意味が含まれている。これをドイツ語で表現すれば、真摯な生き方と教養のある人になろうか。それはこのような事柄において上品で、節度があり、礼儀正しく、毅然とした態度を心得ていることである。・・・

 食らったり、がぶ飲みすること、満腹な状態はこのような純潔な生き方を妨げているが、またもや冷静さはこの生き方を促し、助けになることは真実である。人間があまりにも満腹になるや、正気でいられなくなり、おなかが食べ物や飲み物でいっぱいになると、口は言葉で満ち溢れ、楽しみを聞こうと耳をそばだて、楽しみをみようと目を見張る。全身がなまけものになり、眠たげで何も乗り気がしない.あるいは抑えが利かなくなり、放埒になり、全四肢が規律や理性からはみだし、いかなる規律も、節度も失われてしまうと、経験が教えるように、五感は抑制できなくなからである。

 人間の掟によって自分自身を他と区別して、衣類・食べ物・髪の型・日にちを変えることによって霊的な良い生き方を基礎づけている人が行うように、使徒は教えていない。・・・聖パウロからいかなる振る舞いも禁じられたり、規定されたりしないで、誰でも自由にすべを行うことができることを学ぼう。だた、これらは冷静に、節度を保って振る舞わなければならない。これらの物は、禁じられているものではなく、無秩序・贅沢・濫用が禁じられている。・・・・

 それゆえ、この地上のすべての物を用いなさい。それをあなたがいつ、どこで望んでも、聖パウロが教えているように、神に感謝しなさい。ただ、贅沢・無秩序・濫用・不道徳には注意しなさい。そうすれば、あなたは正しい道を歩める。・・・

 人は断食したり、徹夜をしたり、労働したり、粗末な衣類を着たりしなければならないことがある.だが、あなたの身体に苦行や節制が必要であると思うならば、これを行いなさい。これには特定の日や場所を決めないで、いずれの日でも必要であれば、節度が求める時に行いなさい。そうすれば正しく断食を行えるし、毎日でもそれを行えるし、この世的な欲望も捨てられる。福音書はこのように教えている。これが新約聖書の民である。
第二は、わたしたちが人生において義とされることである。しかし、いかなる行いも時間も規定されないし、選ばれてもいない。もちろん神への道は自由に開かれ、[何人にも]平等である。すべてはそれぞれ個人の関心にゆだねられ、何時、何処で、何を行うかは自由で、正しいとされる。なぜなら、この箇所では、聖パウロは、わたしたちの隣人に対していかに振る舞うべきかを教えているからである。 わたしたちはこれには二重に分かれている義を負っている。「わたしたちが人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。わたしたちが人からしてもらいたくないことはしないことである。」マタイ七、十二
 つまりわたしたちは人の身体・妻子・友人・財・名誉・彼が所有する一切の物にいかなる害と苦しみを与えないことである。わたしたちを必要とするのを見た時に、身体・財・名誉・わたしたちの所有物である一切の物で助け、かつ励ますことである。なぜなら義とは、何人に対してもその人に相応しいことを行うことだからである。・・・・

 それゆえ、あなたは外的に何を行うべきかを問う必要はない。あなたの隣り人を見なさい。そうすれば、あなたの隣り人が大勢いるとすれば、行うべきことは自ずと解るであろう。あなた自身を誤った方向に導いてはならない。あなたが隣り人の脇を[平気で]通り過ぎていきながら、あなたが祈ったり、教会に出席したり、修道院と[尊い]神の記憶によって天国に行けると思ってはならない。ここであなたが隣り人の前を通り過ぎるならば、かしこでは彼があなたをさえぎり、ラザロを玄関の前に座らせた金持ちのように、あなたは天国の門の脇を通り過ぎなければならない。
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 当時は、肉体を持って生きていることが罪とされていたので、この箇所は生の肯定と平等の箇所であって助け合いの精神を説いています。勿論、天国とは極楽浄土に他なりません。
 自宅で子供たちとボウリングを楽しむルター

 話は変わりますが、ボーリング場へ行ったらこの絵が貼ってあったので、調べてみたらルターが基本的なルールを作ったそうです。たまにはボーリングをして信仰心を測ってみましょう。

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中世後半、12世紀にはいるとヨーロッパではさまざまなかたちでボウリングが広がっていきます。中でもドイツではキリスト教徒達の信仰の深さをはかるセレモニーとして行われていました。

異教徒にみたてたピンにボールを当て、うまく倒れたら信仰心が厚い人間。逆に倒れなければ信仰心の足りない異端者。と決め付けられたのです。

ボウリングのゲームのことは“ケグリング(kgling)”と呼ばれ、ゲームに勝った僧には「ケグラー」の称号が与えられ、これを祝う晩餐会が盛大に開かれたといいます。やがてこのケグリングは1個のボールでピンをどれだけ倒せるかを競う遊びとして、庶民の間でも人気を博しました。


ナインピンボウリングの原型ともいえるゲームとして“スキットルズ(Skittles)”が中世ヨーロッパで盛んに行われました。このゲームの特徴はひし形の板の上に並べられたピンを、重さ4〜7キログラムのボールで打ち倒すというもの。

ピンの数は9本であったり、8本であったりと、まちまちでした。ゲームのやり方には2種類あり、ひとつはピンから6メートル30センチはなれたところから、ころがす方法。もうひとつは、ピンが置かれている枠の線上からボールを軽く投げる方法です。

レーンも最初は屋外で、粘土や灰を敷き詰めた床であったのが、屋根が付き、木材を削って敷いたレーンを使用するなど、少しずつ変化していったようです。

英国の上流家庭ではスキットルズが流行

1366年、イギリスのエドワード3世は「ボウリングの流行は、国民の士気に重要な役割を果たしている弓術の練習をなおざりにするものである。」と批判。これを受け、議会は「ボウリング禁止令」を布告しました。

しかし、ささやかな楽しみを奪われた一般庶民をはじめ、貴族、僧侶の間からも反対の声があがることになり、まもなく「禁止令」は取り下げられることになります。

非合法化されたということもあって、ナインピンボウリングは、ルールもバラバラで人気も停滞していました。この危機を救ったのが、あの宗教革命で有名なマルチン・ルター(1483〜1546)でした。

彼は「ケグラー」の一人で、当時ヨーロッパで主流だった“ナインピンボウリング”の統一ルールを作った人でもありました。そのルールは「一列3本のピンを3列、ひし形に並べ、幅30センチの長い一枚板を地面に敷いたレーンで木製のボールをころがしてピンを倒す。少ない投球回数で倒した者が勝者となる。」というもの。日本にも明治時代に紹介され「九柱戯」と名付けられました。
 今日はハロウィンだと言って騒いでいるが、今日がルターが、
「贖宥の効力を明らかにするための討論堤題」(95ヶ条)を張り出した日だと言われているのを知っている人は何人ぐらいいるのだろうか。

 丁度今日が500年目である。
最近一日一愛運動をやってます。
感謝報恩お願いお願い虹虹
八正道の究極には
神仏と一体の真我(光)の発見があります
善念で世界を包みましょう
それがフェニックスプロジェクトです虹虹虹
世界が愛に包まれますように衝撃衝撃衝撃

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