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江戸アケミコミュの当時の時代的背景ということで書いてみたけど演劇映画関係者だったので音楽シーンにたいする描写がありません。

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アンダーグラウンド世界

今はアンダーグラウンドてゆーとネット世界のハッカーとかウイルスだのワレズだのあと薬物だの爆弾だのカルトだのみてーな裏情報指す用語のようになっておりますが、もともとは60年代に発したサブカルチャーの総称でした。

ちなみに柴田恭平も、大杉蓮も小林薫もみんなそのアンダーグラウンド世界の住人だったんです。

当時 彼らがテレビに出るなんて全くもって考えられないコトでした。

つまりテレビ=大衆文化=体制の洗脳文化て構図があってあくまでもアンダグラウンドと称されるものはそれに拮抗するために存在してるみたいな共通の認識があったからです。

しかもアンダーグラウンド劇団てのは当時のアンダーグラウンド世界の花形的存在でもありました。

なんとなれば当時のサブカルチャー自体がそれまでの社会システムを否定するところから始まっていてそれはアメリカで端を発したヒッピームーブメント、日本の全共闘、などで人類が幸せ暮しうる最終的システムとして認識されていたマルクス主義(共産主義)が商業主義としてお金のやり取りをイマイチ捉え切れないところに脆弱な根っこがあったんですね。*註1

一応美共闘なんて表現者主体にした闘争組織もあって彫刻だって絵画だってそりゃいろんなジャンルでアンダーグラウンド世界は存在したんだけどそういうことからか基本的にお金儲けてはけなかったんです。

映画なんて無茶苦茶カネかかるジャンルだってのに殆どカンパで制作されてましたもんね。

(しかもできたところで殆ど上映できる館がありませんでした。日本中の映画館の殆どは映画独占企業である5社 東宝 東映 松竹 大映 日活の上映館だったからです。ま、いまでも根本的なところはそんなに変わっていません。)

でも演劇だけはその伝統からか堂々と木戸銭を要求できた。

だから唯一カネになってなんとかでもやっていける演劇ってジャンルはとても人気だったんですよ。

それになにしろなんでもありありだったから色んな才能を一気に集約できたしテント公演とかって形態そのものがなんだか当時のあてのない自由を象徴しているようでステキでしたし・・・。

その代表格だったのが当時新劇主流でそれもソビエト演劇みてーなのを喜んでやっていたお寒い時代に自らカブキモノと称し魔都新宿を本拠に花園神社に紅いテントおったてて興行してた状況劇場だったんです。

ちなみにいまもありますね、この劇団。

唐十朗サンが座長で人形師になった四ッ谷シモン、駱駝館の麿赤児 小林薫 根津陣八 李礼仙 アト今鉄の彫刻とかやってるクマさんてここでポスター書いてたんですよ。

この状況劇場て当時のアンダーグラウンドを一番具現化してておかげで地方にもエピゴーネンみてーな劇団がいっぱいできてましたね。

時代は70年代に入りそれも半ばをすぎようかというころになるとベトナム戦争も終了し、新左翼も解体をはじめましたがアンダーグラウンド劇団(アングラ劇団に以後略しますね。)はその地盤を確立して生き残り、その公演だけで成立するようになってきていました。*註2

雨後のタケノコ程あった劇団は整理され状況劇場はモチロンのこと、大杉蓮を有する夜行館、

黒テント(俳優・斎藤晴彦、演出家・佐藤信、によって運営される劇団です。)

天井桟敷(かの寺山修司の劇団です。良く状況劇場と比較されてました)

早稲田小劇場(鈴木忠志サン率いる劇団です。稽古見にいきました)

曲馬館(彼らとは色々思い出があります。天皇制粉砕を旗印に掲げた非常に政治的な劇団でした。)

演劇団(こっち出て来て最初にやったお芝居の稽古場が一緒でした)


位が有名どころとして活動していました。

(つかこうへい事務所なんかが活動しはじめたのもこの頃だけど彼らの存在はアングラ劇団とは一線を画するものでした。理屈抜きで楽しめるお芝居てカンジで。なにしろアングラってどうにも理屈でガチガチに縛られテルトコがあったしね。あくまでも偏見だが東京乾電池とか劇団2重丸なんかはこういった系列に入るものであれは80年代に発生した小劇場ブームの産物でアンダーグラウンド世界とは別物だと考えております。)

その頃関西では東京のアングラ劇団の華々しい活動横目で睨みつつ代表的なところで4ツのアングラ劇団が存在していました。

大阪の劇団アルバトロス、やはり大阪の劇団日本維新派、奈良の第4世界劇軍で、当時唯一の若手劇団だったガソリン館77。

と、異様に前置きが長かったけどこっからが本編です。

さてと・・

その関西とゆーとっても狭いエリアの中で特に凶暴をもって知られていたのが天王寺辺りを縄張りにしていた劇団アルバトロスでした。

なにしろ座長 うことくじ (名前漢字忘れました)が基本的に凶暴です。

(だってすでに肉連の時点で突き100ポンとか蹴り100ポンなんだもの、間違い無く武闘派だったよな、ヤツら・・。)

まだ、維新派の松本サン

(このオッさん沖縄遊びに行ったトキに洞窟で骸骨<人間の>拾って来てそれを自分の公演のトキに舞台におったてた竹ざおの先につけたとかで警察に捕まったりしてました。先輩のことつかまえてこんなコトいうのもなんですけど 鬼畜ですね・・)

のほうが穏やかだといわれてたくらい当時若手だった私達からみればおっかないヒトでした。

なにしろもめ事大好きでしたしね・・。

で、ある日かの状況劇場が「唐版 風の又三郎」の天王寺公演できたんだが、どうもうこさんのところには招待状が届かなかったらしい、ただでさえ東京嫌いの典型的大阪型小市民であるうこさんは鬼神のごとく怒り狂い状況劇場天王寺公演の徹底的粉砕を心に固く誓ったんです。

モチロン後輩であるワレワレにもお誘いがかかったんですがなにしろ唐サンから招待状来てましたし、当日上手い具合に全員病気になれたので現場行かずに済ませることができました。

で、不幸にも引きづり出されたヒトのハナシによると・・・

当日うこさんと劇団アルバトロスの主要メンバー(総勢10名前後)は誰よりも先に並んで最前列(かぶりつきという)の席を占拠。

芝居が始まるや否や野次飛ばしまくってたそうです。

それも下手に演劇関係者ですから相手のマをよんで台詞出す寸前にえげつない野次とばすもんだからサスガの状況劇場の役者サン達も演技どころではありません。*註3

芝居開始から20分も経たないウチに状況の唐サンが切れ

「おい ちょっとうるさいよ、」

てやったら待ってましたとばかりにアルバ全員が立ち上がり一触即発状態です。

すると大久保鷹(状況劇場の名優、唐の片腕と言われていた)がでてきて2人の間に割って入りうこさんに

「お客サン、ここはヒトツオレの顔に免じて引いて貰えませんか?座長の非礼は変わってこのオレが謝りますから・・」

とやったらうこさん納得したのか

「よっしゃ!わかった!ここは鷹はんアンタの顔たてときましょ。おぅ!みんなおとなしいせんかい!!」

って兵をひきました。

ソレ以後は野次を飛ばすことも無く風の又三郎を堪能されたそうです。
で、後日談として

まーあの大久保鷹がやなぁ、オレに向かってアタマ下げよったんや。そういうことやったらやっぱり顔たてたらんとなぁ

とうこさんは語っておりかの大久保鷹はその著作のなかで

かつて天王寺野音での公演のトキにいきなり日雇い労働者の集団にからまれたことがあった。

サスガは天王寺だ。

日雇い労働者までもがお客で入って来るのは彼の地ならではのことであろう

てなコトを書いていたそうです。

サスガのうこさんもコレ読んで相当落ち込んだらしく以後東京モンが招待券ナシで公演にきてもいちいち攻撃にはいかなくなったようです。

しかし・・劇団関係者どころか日雇い労働者だったのね・・・。オレの先輩達・・(涙)。



註1 ようはお金払って見に来るってこの資本主義を前提にした世界ではどこか責任を回避してしまうようなところが少なからずあったようなんです。
作る側はなんでもおかまいなく作り見る側もイマイチ集中できねーみたいな。面白くなくってもまー只なんだし仕方ねーかみたいな・・。
モチロンスゴイものも沢山あったけどただ、思い付きと勢いだけでアトは理屈でカバーするってのが本当に多かったんです。
そりゃ今の劇団みたいに兎に角笑わせようとかするのもなんだと思うけど少なくとも作家が責任を持たねーあるいは持ちづらくなるようなつまんない方向に向いていたのは結構多かったんです。

註2 当時のアングラ劇団のなかでも早稲田小劇場とか夜行館などは海外でもその独自性が高く評価され海外公演やったりしていました。
それでも国内での集客には苦労されていましたが。
で、この前ウチの猿クンが黒テントの佐藤サンの印度公演で舞台たたせて頂きました。
まー佐藤信サンがmixyやってるとはとても思えませんけどこの場を借り手お礼申し上げます。

註3 どんな野次かというと例えば根津陣八がでてくると「よっ!!後家殺し!!」とか、まーそんなカンジでしょうか?

おマケ
元を正せばベトナム戦争からの反戦運動アメリカで端を発したヒッピーカルチャー、ポップなどいろいろな要因の影響から始まったのですが全てに共通していたのは反=アンチテーゼであったように思えます(かなり乱暴なくくりかただけど)。

でもそれで構築できたものとそれゆえ脆弱な基盤にたたざるおえなかったものがあって一過性に終わったモノも数多く存在しました。

ただ、それゆえこの国独自の在り方をかいまみたように思えます。

そのベースになる思想は明らかにマルクス主義だったが、生み出されたものは必ずしもそれにそったものではありませんでした。

その代表格にあたるものが舞踏ではアスベスト館の土方サンで演劇では状況劇場の唐版風の又三郎でした。

映画も色々撮られてはいて特に当時のATGが頑張ってはいましたが個人的には大和屋竺監督の「荒野のダッチワイフ」をあげることができます。



とまぁ、アケミに直接関係はないんだけど私やアケミがいた時代を理解して頂けたらということで随分前に書いたものを復活させてみました。

これもシリーズ化するかも・・・。

御意見質問感想等ありましたら書き込んでやってくださいませ

コメント(40)

マンタムさん
こんにちは。いつも楽しく拝見させて頂いてます。
「アングラ」とか「インディーズ」という言葉の意味が
当時とはずいぶん変わってしまい、時の流れを感じます。
是非シリーズ化してください。

話は変わりますが、今度CSで「闇のカーニバル」「ロビンソンの
庭」がOAされますね。
「闇のカーニバル」で太田久美子さんがクラブで踊り狂ってるシーンが良かったです。そこでアケミさんも踊ってましたが、某レコード屋さんの看板に書かれたアケミさんの言葉を思い出しました。
そのレコード屋さんでは今でも「インディーズ」のにおいがぷんぷんします。

次回を楽しみにしてます。
さぶさん

いつも書き込みサンクスです。

ちなみに大田久美子は一応プロダンサーでウチの看板役者でもありました。

技術的にはそうたいしたものはなかったが見せるセンスはずば抜けてましたね。

タしか闇のカーニバルの冒頭(だと思ったが)でナベちゃんが 

「リズムマシーンと結婚すればいいんだよ」

てセリフがあるんだがこれアドリブでしかもホンネですね。

ちょうどそのころアケミの日本パンク戦略(もしくは日本ロッカーズ計画)のなかでジャガタラをバックにした女性ボーカルのパンクバンド作るって計画(生理不順てバンドね)があって それで久美子使いたいってハナシが持ち上がったんですよ。

ただね 誤算があって 久美子のあまりにも常軌を逸したリズム音痴のおかげでジャガタラのメンバーは相当苦労したようです。

特にベース担当のナベちゃんの苦労はなみなみならぬものがあったと計画がスベテ破綻したあとアケミが語っておりました。

ちなみにこの件でもマッタク懲りなかった久美子はその後吉祥寺で共同生活していたリブ(ウーマンリブね)のグループとバンド組んだりしてましたがあまり長続きしなかったようです。

で、闇のカーニバルがドイツ映画祭で上映されたことで(これの経緯はまたそのうち)あちこちのメディアから取材が入り何故か私の部屋まで押し掛けられたことがありましたね。

まぁ なんだろう

闇のカーニバルは当初出演頼まれてたんだが 山本の人間性にほとほと愛想がつきてたコトもあって断わったりとかいろいろあったんでちょっと複雑な思いですね。

山本とは結局アケミの通夜以後顔も見ていませんがとりあえず今度あったらぶん殴ることにしております。
あああ、たまらん、たまらん
東京80年代夜明け前の香り。
(小生も東京の隅で思春期、夜明け前)
全共闘やヒッピー文化の70年代から断絶して
パンクやテクノの80年代が始まったのかと
誤認しちょりましたです。

これで木戸銭無しとはもったいない。
けれど厚かましく次作を期待してしまいます。
マンタムさん

私もこの時代、芝居をしていたので
ぜひぜひ続きを楽しみにしています!

時間がないので今日はこれで失礼しますが
読んでていろいろ思うところがありました…
らまさん

いつもありがとう!

続きはマイナーネタです。

少し前のとかぶるけど大きい心でみてやってくださいませ!

オネエさん

思うところをぜひ書いてください

反論も歓迎です。

様々な立場や視点から見て行かないとどうしても一方的なものになるだろうしこの一文だってめっさ偏見のアメアラレですから。

私はもともと関西で劇団とかやっててこちらではあまり他の劇団とかかわるまえにやめてしまいましたからこっちの芝居状況なども気になるところです。
>マンタムさん
大変楽しく読ませていただきました。

僕が状況劇場を初めてみたのが1986年「ねじの回転」大阪公演でして、18才春のことでした。
それまではW県S市という辺境の地でヤンキーなのかパンクなのかよくわからないアイデンティティのまま、70年代の「あんぐら」に胸ときめかしてました(恥)
あと15年早く生まれてたら、頭脳警察も村八分も生で観れただろうにと思いにふけ、東京では「タコ」だの「じゃがたら」だの「GISM」だの、まだまだ面白そうな魑魅魍魎が百鬼夜行の如く蠢いているのを宝島などの少ない情報を参考書に誇大妄想悶々の日々を送っていました。
高校時代は京都の大学を卒業したばかりの教師に演劇部にひっぱられ、どっぷり芝居につかり、地元に合宿に来ていた白虎社の公演も観にいきました。
田舎にいると都会はどえらいことになっているものとばかり思い、高校卒業後、町蔵を生んだ町大阪へと大いなる夢をもって出てきたものの、世はバブルの兆しが見え出した頃で、汚い身なり(わざとなんですが)の自分は疎外感を感じ、西成のライブハウスにいりびたりました。
芝居もよく観にいきましたが、小劇場ブームのまっさかりで、げんなりすることしばしば。面白かったのは「満開座」ぐらいのものでした。自分でも劇団を作って1本公演したのですが、5歳年上で大学時代芝居中に腹にナイフを刺した傷を持つ基地外に突然「お前とは絶交だ」と宣告され、芝居とはすっぱり縁を切りました(笑)

ラフィンノーズがデビューしてブルーハーツがバカ売れし、チェッカーズがラバーソールを履いて歌番組に出て、アケミが死んだ。
思い返せば僕の中でロックが死んだのはその頃。

>らまさん
ご無沙汰してます。
こんなところにいたんですね。
おくじさん

書き込みありがとうございます。

満開座 名前は聞いたことがあるような・・・。

そういや大阪アトしたときに未知座てのができたとか聞いたけどどうなったんでしょ?

ブルーハーツのギターて名前わからないが何年か前まで友人の目地屋で働いてましたね。

カナリのロクデナシ具合だと聞かされてました。

また書き込んでやってください。
>さぶさん
サンチャのあそこかしら。
ずいぶん前に一度だけ入…ろうとして通過したことあります。
存在し続けて頂きたいもんです。

>おくじさん
ごぶさたです。だって最近、
あっちで相手にしてもらえなくなっちゃったんだもん。
(てわけでも無いんすけどね、笑)
>マンタムさん
お返事ありがとうございます。
「未知座」は名前しか知りませんわ。観たことないです。
「満開座」は立命館大学がらみの劇団で70年代後半に旗揚げしたようです。
映画「ガキ帝国」に出てた趙方豪さんが所属してた劇団です。
そういえば「転位21」や「新宿梁山泊」なんてのも面白かったですね。

>らまさん
あっち・・・。
きびしい状況でしたね。確かに。
結局どうしたかったんでしょうかね(笑)
もういいですけど。
今後ともよろしくです。
>らまさん
はじめまして。
そうです。サンチャです。
ホームページにもアケミさんの事が書かれています。
 ノイズといえばメイダイマエにすてきなレコ屋がありますね。ビルがマンションに変わってから1度行ったきりですが、サンチャともども続いてほしいです。
>おくじさん

転位21の山崎さんはたしか演劇団の流山児さん(名前あってるかしら?)の紹介でいっしょにエロテープ作ったコトがあります。

ちょうど転位21立ち上げで資金がいるとかでその資金稼ぎで。

山崎さんが台本書いてそれをウチの女優さん使って作るってハナシだったが納期が間に合わなかったのでテープができたとこで台本が届いておりました。

団地妻深夜の欲情 盗聴 なんてアホな仕事にちゃんと台本をおこして来た彼の仕事ぶりに深く感銘を受けたのを覚えております。

そういや転位の旗揚げ公演で何故か緊縛指導にかりだされた記憶が・・・。

で、結局一度も見に行かない不義理なヒドイオトコでしたね、ワタシ。
流山児さんとは流山児事務所の流山児祥さんですよね。
「悪魔のいるクリスマス」大阪公演のバラシ手伝ったことありますわ。金払って観にいってバラシ(泣)

エロテープ(笑)とは懐かしいですね。
エロ本の怪しい広告やナイスなおもちゃ屋さんとかで売ってたんでしょうね。そうか・・・芝居関係者が作ってたのか・・・
感慨深い話です。

「転位」はシリアスで好きでしたわ。
今でもやってると聞いたことありますが、もう観に行くことはないです(笑)

マンタムさんはキンパク師でもあったんですね。
うーん、あんぐら。
>おくじさん

金払って見に行ってバラシ・・良くあることです。

ウチも公演終了時よく見かねたお客様に手伝ってもらっていましたがそのかわりちゃんと打ち上げには御招待させて頂きました。

流山児さんてそういうことには結構気を使うヒトだから声かかりませんでしたか?

当時(今から30年程前だけど)関西のアングラ劇団は土方か(日本維新派ね、ユウキチさんの実家が土建屋だった)スーパーや地方デパートの屋上でウルトラマンや仮面ライダーのショーやってたが東京の劇団(状況劇場や土方さんのところ)はキャバレーとか回ってた稼いでたようです。

70年代はまぁそれでもオトコは土方 女はキャバレーでしたが80年代にはいって暗黒舞踏系(主に駱駝館関連)の人達が大量にストリップになだれ込んで来ましたね。

で、そのころ仕事でストリップ用の緊縛ショーみたいな舞台を作って広く出演者を集めたことがあったんですが当時のアングラ劇団や舞踏系の人達で結局ミイラ取りがミイラになるみたいなカッコウでそのまま居残ってしまったヒトは結構いるようです。

山本なんかが私に接触してきたのもそういった世界に利用価値を見い出したからというのが大きいとおもいます。

だがもともと内部で誤解の多いかの世界をいくらかでも健全にすべく動いていた私の立場からみれば気持ちはわかるけれど彼の感性はとても容認できるものではなくて結局はじき出してしまったんですけどね。
> おくじさん
> 結局どうしたかったんでしょうかね(笑)
なんか同時に音沙汰無くなっちゃったんで
結局、同一人物だったのかなあ… なんて邪推してます。
てのは、夏休みに彼(女)らの所属コミュや発言を読んでみたんすけど
仲良過ぎですわ、あの人「達」(笑)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1003714
とか。
>もういいですけど。
私も。(笑)

・・・て、別コミュの話をタラタラと感じ悪いすよね。
申し訳ありません、マンタム様。
ちなみに
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7946803&comm_id=746
でのことですた。
>山本なんかが私に接触してきたのも…(省略)
いやぁん、このへんも、楽しみん。
>マンタムさん
>流山児さんてそういうことには結構気を使うヒトだから声かかりませんでしたか?
昔のことなんで覚えてないですが、声かかった覚えないですね(笑)
頼まれたのも大阪の役者になんで・・・

>だがもともと内部で誤解の多いかの世界・・・
苦笑・・・なぜ、そうなってしまうんですかね。よく言えば他の業界にくらべて真剣度が高い?悪く言えば勘違い野郎の巣窟だと思ったりもしますけど。意見が違うだけであんなにいがみあうのもしんどい話ですが、妥協をしないとうのはご立派ですわ。僕はもう結構ですけど(笑)

>らまさん
同一人物説!おもしろいですね。
共謀罪スレも読みましたけど・・・
まあ、この話はやめときましょ。
マンタムさん、ごめんなさい。
あ、私もOMで「聖テロリズム」見ました。
イカさん、はじめまして。
確か紀伊國屋の並びのビルで「闇のカーニバル」見た時に
このチラシをもらった気がします。
OMは一時期、集中して行きました。
ブタがドカドカ殺されて行く奴(タイトルは失念)とか
ほかにはえ〜と、、、う〜んと、、、
当時は「モザイクが入ってない」てだけで得した気分でした。
「聖テロリズム」観てないんですよ。残念無念。

>らまさん
>ブタがドカドカ殺されて行く奴
松井良彦の「豚鶏心中」ですかね?
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/cineymbw/page002.html
おくじさん
>松井良彦の「豚鶏心中」ですかね?
あ、これこれ。
よくわかりますねえ、スゴイ。

>「聖テロリズム」観てないんですよ。
「タンポン・タンゴ」は?(笑)
「タンポン・タンゴ」??????

と、検索してみました。

がーん。これは知りませんでした。
若いころは必死ににアンテナはりめぐらせてたつもりでしたが(所詮、マイナーメジャーどまりですが)
勉強不足です。ショックです。
もう観れないんでしょうね。くやしい(笑)

ミチロウのAV(監督:アラーキー)は見たとありますけど・・・
ってメジャーすぎて自慢にもなりませんわ。くやしい(笑)
おくじさん
貸してあげたい所ですが、私のエロビデオおよびビニ本コレクションはカミサンと一緒になったとき捨てられてしまったので、もうないです。
町蔵がチンポでギターを弾いて歌う、
「に〜ほんは〜へ〜いわだあ〜」
てのは、こんな時代にこそ聞きたいけど。
>勉強不足です。
何の勉強なのやら(笑)

>イカさま(!?)
ちゃんとした映画館ではなく、
テナントが入る前のコンクリートむき出しのフロアでした。
映画の雰囲気にはあってましたけど
椅子も無くて、寝転がったりして見てたけど
最後にはケツが痛かったです。
そういえば「ぶぎうぎうっきん」の時は渋谷のビルの一室でコタツに入って見たよな記憶があります。

とはいっても、同監督に対して興味はあっても
敬愛しているわけでもありませんから
醜聞含めて色々聞きたいです。> マンタムさま
>カミサンと一緒になったとき捨てられてしまったので、もうないです。

きえー!
覆水盆に反らず!
皆様 おひさでごザイマス

イカさんはじめまして。

まぁ、それでは呼ばれて飛び出てってコトで。

聖テロリズム・・はちらっと出てます。久美子と一緒に。

あと極一部監督もしてます。

タしか飯田くん相手にストリップ劇場の楽屋で石油で1発あてるハナシしてますね、アドリブで。

飯田君の相手役をルビがやったと思うけど後の私の相方(ショーまわりの)のヒトリです。

松井さんは山本の紹介で一度会ったコトがあります。
トンケイシンジュ撮る前だったか最中だったかで新宿の劇場の楽屋に遊びにきてそのまま近所の公園にいってお昼食べたの記憶しとります。
彼はロリコンでまだ青くて細い大腿についてアツク語ってくれましたね。
鬼畜じゃねーかと思いましたが(笑)。
タしかそのしばらくアトでファンの女子高生を襲ったトカで警察に厄介になったと山本が言ってたけど・・本当に鬼畜になったんだねって・。
でも ホントだったのかしら?

「タンポン・タンゴ」てたぶんAVで山本がゼンゼン食えてない時に受けた仕事だったような..とりあえず女の穴になんか詰めりゃいいんだろうってタンポンマンてキャラ作ってたのを聞いております。

そのあとどっかの会社の新入社員教育ビデオ撮るとかいってて なんか 壁にむかっておじぎするサラリーマンの絵撮って これは意味がアリマセン なんて解説はいるようなのだったとか・・・。

ついでですがNO.13で私が山本を排撃したのはストリップ世界からで それは彼が自分の作品の付加価値をあげるために土足で業界に踏み込もうとしたからです。

かの業界は当時だれも好き好んで入るような世界ではなく踊子さんやスタッフのほぼ全員がなんらかのスネにキズ持つある意味とても厄介な人間の集団だったんですよ。

山本の勝手な行動パターンは一歩間違えれば大きなトラブルをひき起こしかねないもので、その場合どちらもタダで済まなくなる結構シンドイもんだったんです。

私は当時ストリップ世界を建て直すなんてコトで大阪から東京のストリップ屋に招聘された身で 山本は私の紹介でストリップをはじめとする裏世界に入って来てましたらそのまま見過ごすわけにはいかなかったと理解してください。

基本的に表現など自我の問題だし、山本に関してもそのアタリで論議するつもりはありませんので誤解無きよう。

で、続きなんだが 山本はパワーはあったがとってもトラブルメーカーで目的のタメには手段を選ばぬというよりはわざとそういうことを自己に課していたような印象さえありますね。

つまり トラブルをワザと作り出し抱え込むことで超え太ろうとするような・・。

闇のカーニバルでマルイのローンで高額商品買ってすぐソレを質屋に持って行って換金して ってのはそのまま当時のヤツの生活手段でしたからね。

映画の資金もそうやって作っていたし聖テロリズムなんて8ミリなのにたしか300万くらい金がかかってしかもその殆どがスタッフとの飲み食い代だったと記憶しております。

この時ってまだプロデユーサ−とかいなかったからスグに資金が尽きて撮影が難航して・・当時イメージフォーラムの学生なんかをよくひっぱって来てたんだが来るとそいつらからまず保険証を借り出してそれで丸井のカード作ったり当時まだ走りのサラリーローンから本人から(モチロン)無断で金をひっぱったり・・・。

一度撮影中に助監が2人ほど行方不明になったコトがあって警察に捜索願いを出してみたら2人とも留置所にはいっていたなんてコトがありましたね

で、ワケを聞いたら前の日に山本に金はないけどなにがなんでもフィルム手に入れて来い、でないと明日映画が撮れなくなる といわれて ヨドバシカメラでフィルム万引して捕まったんだそうです。

映画監督っていろいろなパターンがあるが山本は結構押さえ付けるタイプで助監とかは特に大変だったろうと思います。

まぁ、当時のコトもあってしばらくイメージフォーラムではボロクソだったかな?

私の感想としてはデッカイワガママ坊主だったけど。

ウチの現場助監で来てもらって手伝ってもらったコトがあったんですがとても気のツクいい助監督でしたよ。

少なくとも飯田君よりは。

と今日はこんなカンジで。
イカさん

なつかしいチラシありがとうございます。

まぁ、しかしよくとってあるもんですね。

このプロダクションソドムってたしか溝口が使ってた名前じゃなかったけか・・・。

聖テロリズムのチラシも良く見てみたらちゃんと私の名前が出てました(笑)。
イカさま
すごいですねえ、20年以上前ですよね〜

マンタムさま
溝口さんてアケミのわきでポケットに手を突っ込んで歌っていた人ですよね?
チンピラっぽい雰囲気がカッコよかったです。
何者なんでしょ。興味しんしん・・・
でも、小出しにして頂かなくても結構ですよ。(モッタイナイ)
どこをとっても楽しいネタの宝庫であることは
ここまでで、じゅうぶん理解できましたし。w
直接、江戸アケミや関係者が出なくても、当時の雰囲気だけでも
(少なくとも私にとっては)じゅうぶん貴重だし刺激的です。
「暗黒大陸じゃがたら」以降は「じゃがたら」のコミュもあるわけですし、
こちらでは時間がかかっても、大いに周辺から攻めて大作に仕上げて頂きたいです。
次作、期待してます!
ラマさんいかさんありがとうございます。

えーー溝口君ですよね

彼はたしか溝口洋(ミゾグチヨウ)と名乗っていたと記憶しています。

もともと山本が主催していた自主製作自主上映の団体だった斜眼帯に所属してましたが結局彼がメガホンを取ることは無く製作など裏方を主に担当しておりました。

ちなみに斜眼帯は

山本政志 

飯田譲ニ(字が違ってるかもしれない アナザ−ヘブンの監督)

奥村均ニ(本当にいい男だったがとても不器用でした。ロビンソンの庭でケンケンッパってしてますね。斜眼帯が事実上解体したあと私のカラミで三鷹にあった黄金劇場にいてその後行方不明でしたが90年代初頭にムサビを中心に組織した破局映像倫理構成委員会の招聘で一度だけ作品もって遊びに来てくれたことが・・。いまどうしてるんだろう・・)

で、溝口洋

ちなみにこの男の存在がなければ山本と私は出会っておらず結果 闇のカーニバル も ロビンソンの庭も作られることはなかったかもしれません。

新宿のモダンアートてストリップ小屋の新企画として金曜深夜を自主公演でやることになり 当時売り出し中だった シティボーイズ そのモダンアートで独自のスタイルで公演してた一色涼太(字違ってるかも)と5人囃子の公演にまざって 堂々と自分の作品を上映していたら なにを血迷ったか 感動したといって握手を求めて来たチンピラがいてそれが溝口だったんです。

で、後日アケミと山本があらわれお互いイメージフォーラムで上映して当時の彼らのなんだかななサロン気質が非常にむかついていたなんてのもあって意気投合して ってのがなにもかものはじまりだったんです。

アケミと山本は布団屋のアルバイトで知り合ったとかいってような・・。

当時はフリータ−などと言うコトバは無くいい年をして就職もしていないのは役者志望だとかミュージシャンだとか作家とかめざしてて就職しようにもできないヒトタチが殆どでだからそういったバイト先で面白そうなヤツってのは大抵なんかそういう刺激的な連中が多かったんです。

で、溝口なんだが金曜深夜劇場のトキには製作を担当、で、それがそのままプロダクションソドムになったと記憶しております。

山本が裏世界的なものを刺激的でおもしろそうなものと理解しそれを作品的に自我にとりこもうとしたのに対して溝口はそのものに強い憧れを持っていたような印象がありましたね。

スタイルは彼の憧れのヒトであった松田勇作そのままで実家は継母なのでいづらくて飛び出して仕事は政治絡みの特殊な仕事をしているとの売り込みでしたが

まず名前は偽名で

政治絡みの特殊な仕事は新聞配達だったし

名古屋の彼の実家で世話になったときに山本がお母さんに

「継母だと大変でしょう?」

てきいたら激怒され

「あれは間違い無く私がオナカをいためて産んだ子だ!!」

と溝口に蹴りがはいっていたそうです。

見栄っ張りで自分に甘くなにごとも適当な男でいたるところでトラブルをひき起こして最後にはヤクザに追われて日本一周の旅とかしてましたが同時にどこか憎めない男でもありました。

山本のところでは結局お荷物になって割と早い時期に放り出され そのアトはアケミが面倒みてましたがそれもヤクザに終われるまででしたね。

ロビンソンの庭はもともと太田久美子ではなくてこの溝口主演でという企画だったんですが 女溝口ということで 久美子がやることになったんです。

ちなみに溝口はロビンソンの庭で久美子がファミレスにいるシーンで走る男で出演しております。

いろいろなことが終わってズイブンたってから一度あったときはAV男優をしていました。

まぁ希望通り正真正銘のドチンピラになれたようですが本当にそれで良かったのかしら?

てか 生きてるのか?
>ファミレスにいるシーンで走る男

はは、あのちんぴら具合、本物ですわ。
演技というか、こんなちんぴらどこで見つけてきたんだろう?
と映画観ながら思ってたことを今、思い出しました(笑)

当時はややこしい人間は見ためからややこしかったということですね。
まぁいかなドチンピラであれ当時の大切な仲間なんですけどね。

考えてみればヤクザに追われて日本一周の旅ができるてのはそれだけ彼をかくまって逃亡を助ける人間たちがいたということでもあり 彼の人望(?)を物語るものでもあるんですよ。

なんだか面倒で大変なヤツとは思っていてもヒトトナリを理解していれば思わず手を貸してしまうような根本でのヒトノヨサみたいなところがあったんでしょうね。

普通なら本気になったヤクザの追い込みを1年にも渡って逃げ切ること等まず不可能でしょうから。

まぁこの件は本当にいろいろあったが結局ヤクザがおいきれなくなって手をひいたんですよ。

そりゃースゴイコトなんです。

まぁ、ナニゴトにもストレートな男で出会った頃は虚言癖なところも目立っていたがトキがたつに連れ現実の行動がそんな些末なウソをハルカに上回るようになってましたね。

好きになった外人女性のために英語を学ぼうと30万もする英会話教習テープを借金していきなり購入したり人目惚れしたブラジルダンサー追いかけてリオのカーニバルにいって空港に着いたソの時点で財布からパスポートから身ぐるみ強盗に剥がされ泣きながら電話してきたり(て山本が申しておりました。とりあえずお金送ってやったそうです)・・・。

コトの善悪はともかく一途でナニゴトも怖じけることなくあまり誉めるわけにはいかないが彼が臨む世界へ身体をはって飛び込んでいったんだなぁと思います。

たしかロビンソン出てた頃ってのは初の懲役を終えたばかりのころだったと思います。

私があったのはヤクザの追い込みが終わってなんか仕事ないかしら?みたいなハナシだったと思うんだが・・。
いかさん

まーー話せば長くなるけどヒラタク言えば麻薬の密輸かな。

インド行ってるって聞いてて なんだか全然帰って来んなぁー−と思ってたらある日の夕方のニュースで麻薬密輸組織一網打尽なんて報道があったんです。

で、それなんとなく見てたら 堂々と溝口の顔がアップでTVに映りやがって折角の楽しい夕食がダイナシになってしまいました。

結局これがヤクザに追われるきっかけにもなったんだが当時あまりのいい加減さにちょっと仲間内四面楚歌だった溝口くん 麻薬がらみで知り合った売人経由でヤクザのお先棒担ぐようになり そのままインドに麻薬を仕入れに行かされたんだそうです。

で、まぁ、100万ほどの仕入れ金もたされてインドいってその100万で豪遊のカギリを尽し(一番高い服買ってガンジス川に飛び込んだり 高級ホテルにバクシーシーの団体引き連れて乱痴気パーティやったり・・・。)

で、そんなことでヒトツキくらいで見事に100万を使いきりボチボチ潮時かーーとインドで知り合ったヒトタチから借りられるだけ金借りてそれで買えるだけハッシッシを買い込んで それをバッグのソコに忍ばせて日本に帰ってきたんです。

ところが空港で自分のバッグだけ出て来ない、聞いてみたらどうも違う飛行機にのせてしまったようなので後日連絡するから改めて取りに来てくださいと担当官に言われました。

シバラクたって約束通り電話がかかって来て喜び勇んで取りに行ったら警察が待っててそのまま麻薬密輸の現行犯で逮捕。

それまでの麻薬所持やらなんやらでまとめて懲役がついてそのまま帰らぬヒトになってしまったんですね。(あくまでも山本からの情報だけど)

ちなみにTVの報道は誤報で後日実際に捕まった密輸組織と溝口を警察が勘違いして情報流してしまったからのようでした。

で、この消えてしまった麻薬の件でムショでてから約1年程ヤクザに追われてたんですよ。

犬とか猫とかって今と過去しか理解出来なくて未来が予測できないっていうけど溝口は未来は勿論過去から学ぶことさえできない男だったんですね。

まーいかにも溝口らしいわーーと思うけどこれと前後してやはり知人が麻薬の密輸で新聞賑わしてましたね。

ウチは麻薬等一切御法度だったので類が及ぶようなことはありませんでしたがそのかわり四六時中公安がはりついてましたっけか。

70年代を経て80年代に入りいろいろなことが様変わりしたけどあの頃はまだ整理つかないことが多くてなんだかバタバタしていたなぁ・・・.

元気にしてるかなぁ・・・。
忙しくて土曜出勤したのに、
結局、一日じゅうマンタムさまのHPを読んで終ってしまった…
肥えて森総理そっくりな溝口さん、
2002年にじゃがたら関連のトークイベントで「座って」ましたよ。
「出演」というには…一言もじゃべらなかったんじゃないかな、
山本監督と対照的に。ただ黙々と酒を飲んでました。
クールなチンピラ風の時も、異常にハイなファミレスのシーンも、寡黙な森総理になってからも、
とても同一人物とは思えません。

それにしても魅力的なキャラクターですね。笑
らまさん

>一日じゅうマンタムさまのHPを読んで終ってしまった…

ありがとうございます・・てどのHP読んだんですか?

寡黙な森総理・・・・。

想像もつかないけど向こうも今の私見たらだれかわからないと思います。

ざっと20年は会ってないもの・・・

でも元気で生きてるのなら良かった。

ホントにあの勢いと考え無しではいつどこでおっ死んでてもおかしくなかったものなぁ・・・.
マンタムさま
>どのHP
ご職業に関する日記あたりから入って
迷宮のように、さまよって気がついたら夜、
文章のリズムがよくて引き込まれました。

イカさま
はい、ロフトプラスワンですね
何回目なのかは?です。
らまさん

おつかれさまでした。
きっと店いってそこから迷宮に・・・。
出口ないとこが何カ所かありますからね・・・。
感想などあればよろしくお願いします。

イカさん

伊藤コウ&フールス・・

たしかにアケミとタイバンすることが多かったし溝口や山本なんかとは親交があったからハナシは聞いているけど私は直接面識とかはなかったんですよ。

で、基本的に困ったハナシというか ヤバいハナシが多いんです。

だからあくまでも当時山本か溝口あたりから聞いたウワサ話しとして書いておきます。

まぁ もう20年以上前のハナシですからどちらにせよスベテが時効になっているんでいいかしらと・・・。

けど、あくまでもウワサ話しですから主人公はKクンです。

Kクンは当時とてもロックで態度もでっかい男でした。

まぁあまり好かれてはいなかったかな・・。

よくマイナーでライブやってる時にふらっとあらわれるんだが気がついたらいなくなっていてしたら売り上げ金が何故かなくなっていてよくK
クンのせいにされてましたね。

まぁそんな日々が続いていて なかなかメがでなくて それなりに人気はあるんだけどもともと身勝手が売りのようなところもあったからか仲間内ともそううまくはいっていなかったようです。

で、ちょうどその頃山本なんかが 下北沢シンドロームなんて言ってた ちとシンドイ事態が当時の私達を囲い込んでしまったんですよ。

具体的な理由はこれといってはないんだが周囲の人間達が何故か精神的に参ってしまってクスリに手をだしたり強迫概念に取りつかれて家から一歩も出れなくなってしまったり・・。

で、とある自主製作映画の結構メインで活躍していたスタッフのヒトリが突発的に4階の窓から飛び下りたことでこの出口のナイ迷宮は更に拍車がかかってしまいました。

なんで下北沢シンドロームかって言うと当時インディーズ系で良く動いていた連中の溜まり場が下北沢だったからなんだけど 山本のグループもアケミもじゃがたらのメンバーも調子が悪く 結果だけどアケミの発症はもろにこれを契機にしていましたね。

ウチ(当時は劇団で自主製作映画撮ってました)はそのあたりからグルジェフあたりを調べ始めて一時期魔術教団みたいになってたし・・。

今考えてみれば現在のなんでも魔法ブームのベースになった神秘主義がそろそろと蔓延しはじめたのもこの時期からでした。

それまでこの国ヨ程の好きものじゃなければ誰も知らなかったクロウリ−の著書が出版されたのもこれの少し前だったし・・。

かのアサハラショウコウなんかがヨガ教室やってて評判になってたのもこの時期でしたね。

で、70年代のマリファナだとかせいぜいLSDだとかのまだ牧歌的な

(もちろんヘロもコカもあったけど少なくとも仲間内ではまず見ることのナイ薬物でした。そういうのを扱っているのはプロのヒトタチで当時のルートは米軍からチョコ>ベトナム経由 ヒッピー系の連中がタイ アタリで買い付けて来るハッパ&チョコ程度でしたから。値段もプロのヒトタチにくらべればずっとリーズナブルでした)

のものとちがって覚醒剤なんてタチの悪い薬物がいままでとは比較にならないイキオイで蔓延していったのもこの時期でした。

残念なコトですがその覚醒剤をはじめとする薬物は確実に仲間達にも広がっていて逮捕者なんかも出してしまってたんです。

もちろんこの状況はKクンもかわらず当時彼は覚醒剤に手を出していたそうです。

その頃の彼は無名で日々金もなく野望だけは人一倍だがその方法も見出せずライブもそうできるわけではなく彼女と2人でアパート暮らしでした。

その頃ESPブームにハマっていた山本(私も一度カードのやらされたことがある)がある日遊びにいったらちょうど喧嘩の真っ最中だったとかでフォークとかナイフとか金属のモンが手も触れて無いのに飛び交ってたというんだが私はそんなコト信じておりません。

しかもこのアトその彼女が払えるはずも無い覚醒剤の代金のカタとしてヤクザに攫われたてハナシだがこれも事実はわからない。

ヒトヅテになんとかならないかと言われタブンアソコだろうって事務所に連絡入れてみたけどそういう該当者はいなかったし・・・。

コウを最後に見たのはアケミの通夜の席でしたが フールスて殴り書きしたバンで仲間と乗りつけて会場のなかをハイテンションではねまわっていたのを覚えております。

でもあの頃はコウが生き残るとは正直思っていませんでした。

ちなみにヤマザキとタコはもっと思っていなかったけれど(笑)。

まぁ、その程度なんで申し訳ないけど・・。

アトはちょっとかけないなぁ・・・。

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