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逓信省コミュの逓信省による無線電信教育について

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第1章 無線電信講習所設立の歴史的背景

第一節 無線電信法の誕生

一九一五年(大正四年)四月、独立した無線電信法が制定され、同年十月施行されるまでは電信法を準用した。
一九〇〇年(明治三十三年)十月十日逓信省令第七十七号
   電信法ハ第二条、第三条、第二十八条、及第四十八条ヲ除クノ外之ヲ無線電信二準用ス。
一九一四年(大正三年)五月十二日逓信省令第十三号
   電信法ハ第二条、第三条、第二十八条、及第四十八条ヲ除クノ外之ヲ無線電話ニ準用ス。

電信法第一条二「電信及電話ハ政府之ヲ管掌ス」と、電気通信事業の絶対的国営主義を宣言しているが、これは明治初年、わが国が電信通信を開始するにあたって、日本の電信事業権を獲得しようとする外国電信会社の動きを予見して、政府は廟議で、電信事業を国営と決定し、外国からはもちろん国内からの電信事業私営の申請を全面的に拒否したことを示している。通信の秘密保護と公益に対する国の権威確保の思想から出た確固たる国策であった。

無線電信業務上必要な規則として、一九〇八年(明治四十一年)四月無線電報規則制定。同年六月外国無線電報規則制定。いずれも同年五月から銚子無線電信局(海岸局)と天洋丸等の船舶無線電信局との問で公衆無線電報の取り扱いを開始するため及び七月から国際無線通信を開始するための必要から無線電信法に先立って施行されたものである。六月にベルリンで締結の万国無線電信条約同附属業務規則が公布された。この条約は一九〇六年(明治三十九年)十月ベルリンで開催された第一回万国無線電信会議(無線電信連合、加入国二十七、日本も加入)で締結されたもので、無線電信機器の機能についての考慮と、無線通信従事者の技能についての要求が含まれていた。とくに無線通信従事者には既に序章において触れてあるが、(一)一定の速さの欧文モールス符号送受信能力、(二)無線電信機器の調整能力、(三)通信の秘密を守る宣誓、が要請されていた。逓信省は七月一日を期して国際無線通信を開始するにあたり条約上の第一級資格者を養成して無線局に配属した。

1-1 海上人命安全条約

一九一二年(大正元年)六月ロンドンで第二回万国無線電信会議が開催された。この年四月英国豪華客船タイタニック号が処女航海において北大西洋で氷山に衝突して沈没したが、タイタニック号が発信したSOSは無線電信を持った貨物船カルパシキ号が受信して、五十カイリの距離を必死に航走して救難に向い、タイタニック号の船客・船員二千二百二十三名中七百三名を救助した。当時タイタニック号から二十カイリの距離に無線電信を持たない貨物船が在り、また十五カイリの近距離にあったカリフォルニア号は無線通信士が寝ていたため、いずれもタイタニック号遭難を知ることができなかった。もしも全船舶が無線電信を装備し、SOSの聴守が義務付けられていたらもっと多くの人命を救助し、犠牲を最少限に止め得たであろう。無線電信による救助は一九〇九年リパブリック号遭難とタイタニック号の二例であるが、この悲惨な実例は、海上の安全のための無線電信の重要性を認識させ、英、米その他の海運国では一定の大きさ以上のすべての船舶が無線電信を備えることを必要とする法律を立法化した。これを反映して、ロンドン会議では海上人命安全条約が締結され特定船舶の無線電信設備が義務付けられることになった。

1-2 無線電信法の制定

ロンドンで締結した「海上人命安全条約」は一九一五年(大正四年)一月から発効し、塔載人員五十名以上の外国航路船はすべて無線電信を設備しなければならないことになった。これによって、わが国は同年四月新たに無線電信法を制定し、六月十九日公布、十一月一日から施行され、これに伴って私設無線電信規則及び私設無線電信通信従事者資格検定規則も施行された。無線電信法はその第一条に「無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌ス」と政府専掌主義の根本は踏襲されながらも、ロンドン条約に適応するため及び無線通信の国際性という観点から第二条で大幅に私設を認め、従来の絶対的政府専掌主義の一端を訂正した画期的な立法といえる。

この無線電信法は一九二一年(大正十年)四月、第二十九条「航空機の無線電信、無線電話への準用」、第三十条「本法適用について航空機を船舶と看倣す」及び一九二七年(昭和二年)ワシントン第三回万国無線電信会議で締結された万国無線電信条約の一九二九年(昭和四年)発効に伴う一部改正、の二回だけの改正で一九五〇年(昭和二十五年)六月一日、電波法が施行されるまでの三十年余の間無線通信の統制法規として存続した。

1-3 私設無線通信始まる

無線電信の初期における逓信省の考え方はあくまで有線電信の補助的通信手段で、有線電信回線のない地域の(海上を含む)公衆電報取扱い(この場合、官報も公衆電報とみなす)を第一義とした。

ロンドン条約の精神はこれとは別で、無線電信を、他に通信手段のない航行中の船舶の通信に優先的に利用させることから進んで、船舶の遭難通報及びこれによって人命救助に有効であることを実例から認識し、船舶(後に航空機も)無線電信を海上人命救助及び航行の安全(危険防止)のための設備として、必要とする船舶全部に無線設備を義務付けることにあった。その内容としては、遭難通信、航行安全通信(広義には気象通信、衛星通信、医療通信を含む)を第一義とし、ついで海運業務に必要な通信、その次に船客、乗組員の私的電報いわゆる公衆通信、新聞等の文化通信と、通信順位が変わった。そして無線電信局は国または電信会社の営業所でなく、船主が施設する純然たる船舶の救難、航行の安全、船舶の事業用の設備となった。船客、乗組員の私用の電報(公衆電報)は船主(無線電信の施設者)が逓信省の委託を受けて(公衆無線電報取扱所)取り扱うことになり、わが国の官設の無線電信局も新しい通信順位によって通信を行うことになった。

ここで、少し無線電信法の条文を引用してみると

一九一五年(大正四年)十一月施行された無線電信法第二条
第一項 航行ノ安全二備フル目的ヲ以テ船舶二施設スルモノ
第二項 同一人ノ特定事業二用ウル船舶相互間二於テ其ノ事業ノ用二供スル目的ヲ以テ船舶二施設スルモノ
第三項 電報送受ノ為電信官署トノ間二施設者ノ専用二供スル目的ヲ以テ電信、電話、無線電信又ハ無線電話二依ル公衆通信ノ連絡ナキ陸地又ハ船舶二施設スルモノ
第四項 電信、電話、無線電信又ハ無線電話二依ル公衆通信ノ連絡ナク前号ノ規定二依ルヲ不適当トスル陸地相互間又ハ陸地船舶間二於テ同一人ノ特定事業二用ウル目的ヲ以テ陸地又ハ船舶二施設スルモノ
第五項 無線電信又ハ無線電話二関スル実験二専用スル目的ヲ以テ施設スルモノ
第六項 前各号ノ外主務大臣二於テ特二施設ノ必要アリト認メタルモノ


この条文を見ても分かるように、船舶に重点を置いた幅広い私設無線電信が認められるようになった。

この無線電信法の適用を受けて外国航路で塔載人員五十人以上の船舶は全部無線電信の施設を義務付けられたが、当時第一次世界大戦が勃発していた事情もあって、危険海域を航行する船舶は義務付けられなくても無線電信を必要としていた時代で、船舶所有者は無線電信の施設を急ぎ、無線電信機器メーカーは船舶用無線機製造に追われた。ここで問題になることは通信従事者の獲得であった。初期には逓信官吏練習所無線科修了者の一部が私設無線電信局に転出したが、やがてメーカーが無線電信従事者の養成を行い、機器と従事者を供給するようになったのである。

船舶無線施設(航空機も同様)が先鞭をつけた私設無線通信は、その後、電波の質の研究と利用方法及び利用範囲の拡大に伴って、陸上における各種特定事業、新聞報道、放送、その他産業、文化、学術等各方面、更に人類全体が参加し得るアマチュア無線へと発展し、社会人の日常の活動、生活、保安等に直接あるいは間接的に役立つようになった。

なお参考として、私設無線電信通信従事者資格検定規則(日本無線史第四巻より)をあげておこう。
その検定制度の概要を摘録すると次の通りである。

(イ)受験資格者

満十七歳以上の男女、学歴を問わず。

(ロ)資格の種別

第一級 私設無線電信の主任。
第二級 無線電信法第二条第三号に依る施設の補助、その他の主任。
第三級 無線電信法第二条第五号に依る施設の主任、その他の補助。

(ハ)資格検定の種別

試験検定、銓衡検定

(ニ)検定科目

(a)無線電信学-第一級に限る。
(b)無線機器の調整及び運用-第一級、第二級に限る。
(c)電気通信術-第一級和文八十字、欧文二十語。第二級、第三級和文五十字、欧文十二語。
(d)無線法規-無線法令(第一級、第二級に限る)、私設無線法令(第三級に限る)。
(e)英語-第一級、第二級に限る。

(ホ)銓衡検定

実務経歴に依る銓衡

1、二年以上無線電信に依る公衆通信に従事した者は第一級以下。
2、同軍用通信に従事した者は第二級以下。
3、二年以上電信に依る公衆通信に従事した者は第三級。
4、第二級資格者二年以上無線電信法第二条第三号に依る無線施設の補助通信に従事した者は第一級。
5、第三級資格者二年以上私設無線電信の補助通信に従事した者は第二級。

学歴に依る銓衡

逓信省所定の区別に従い無線電信の学術を修業した者は第一級以下。

(へ)検定手数料

第一級 二円、
第二級及び第三級 一円
書換又は再渡 三十銭。
手数料は収入印紙を申請書に貼付して納付する。

また、第二級資格者の通信従事範囲の拡大は、大正九年十一月逓信省令百二十号を以て、第二級資格者は無線電信法第二条第三号に依り施設した私設無線電信の和文通信の主任たり得ることに従事範囲を拡大した。

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2-2 政府へ無償譲渡

電信協会の管理であった無線電信講習所が官立に移管されたとき、果してこの財産がどうなるかについて問題になったことがある。当然電信協会は解散する手筈になっていたが、当時の隅野久夫逓信省電務局無線課長から次のような提案があったということである。ただこのことは、隅野無線課長が自ら考えられたのか、それとも他の誰かが隅野無線課長を通じて逓信当局の了解を得て、若宮貞夫電信協会々長に話されたのか未だに不明であるが、一説によると無線同窓会を社団法人に改組して、社団法人電信協会所有の無線電信講習所の土地並びに建物一切を継承させ、その土地と建物を逓信省が借り受け賃貸料を無線同窓会に支払い、その金で生徒の寄宿舎や食堂などを経営させてはどうかということであった。

しかしこの案は残念というべきか、とにかく実現しなかった。評価額はその当時の金額で約百六十万円であったが、若宮会長は何もかも無償かつ無条件で国に寄附したいとのことで承知されなかったのである。

ところで無線通信士の養成機関として国策に沿ってきた、わが無線電信講習所は、官立への移管時に「国家に買上げられた」といういい伝えがあるが、これは多分にその真実性を欠いているので説明をしておく必要がある。

当時電信協会の会長は若宮貞夫先生であったが「目黒の無線講を官に売り渡した」という報道が流れた。若宮先生はこのことについて、はなはだ遺憾の意を表明をされた。すなわち先生は大臣及び次官達といろいろ会談し結局一九四二年(昭和十七年)の二月になって、若宮会長から時の逓信大臣に対して「無線電信講習所の施設一切の寄付申請書」なるものが提出されたのである。もちろん、本信は戦時中のことでもあり、あとになって焼却されてしまい再見することは出来ないが大体の内容は次のようなことであった。

「社団法人電信協会は長い年月に亘り、主として船舶、航空機、陸上で社会に貢献してきた通信士の養成の使命を達成してきた。しかし今般、政府に於ては協会と同じ趣旨のかつ又社団にまさる大規模な計画を進めつつあることを知り、むしろこの際協会は、その計画に没入することによってこそ目的達成の近道であると信じ、当協会所属無線電信講習所の施設一切を教職員及び生徒を含めて国家に引取らせ、聖業の継続を期待し、ここに施設の寄付受納方を願い出た次第であります。」

これを受けて逓信省側は早速、省議を開催し、右の如き寄付申請の受納を決定し、その旨協会に示達されたのであった。それから数日して、この行為に対して政府より感謝状と藍綬褒賞の授与が決定した。ところが、この内達を行った隅野無線課長に対し若宮会長は極めてつよくこの褒賞を固辞された。その理由として次のように答えられている。

「私は一心に使命達成に努力して参りましたが、それは多くの役職員一同の絶大な協力によって、成果を得たものであります。このたびその事業が国家によって継承されることとなったことは、その事自体だけでも無上の名誉と思います。その上藍綬褒賞という勲章まで授与されることは、とんでもないことでありますので、これは是非ともあしからず辞退申しあげます。」

こういう先生の固い決心から、さすがの豪放らい落の隅野課長も、この時ばかりはしょんぼりと肩を落され戻って来たが、若宮先生の立派な考え方、態度そしてその人格等について痛く感激されたとのことである。もちろん、いろいろととりなしをしてくれた方々もあり各方面からの説得も効を奏することなく、結果的に宮崎理事(教育部長)と杉理事(会計部長)に褒賞が授与されることになって一件が落着をみた。

この伝達式には大臣不在で手島栄次官から手渡されることになり立会者は吉田弘苗秘書課長と隅野無線課長、石川事務官などであった。式のあと若宮先生は末輩の席まで立廻られ「関係者がこんな栄誉を受けることになり、本当に申し訳ありません。」との挨拶に参列者はことのほかの感激に涙したのであるが、自分のことしか考えない現代の風潮に比較して若宮先生の高潔な風格が思い出されてならないのである。

かくして社団法人電信協会管理の無線電信講習所は国家への移管については一銭たりといえども金銭の授受はなく完壁に無償で譲渡されたのである。あくまで「買い上げられた」という報道は事実無根であったことを敢えてしるしておく。

このことは戦後の一九四八年(昭和二十三年)G・H・Qのメモランダムによって当官立無線電信講習所が文部省に移管するに当って、逓信大臣と文部大臣間にかわされた覚書にも明らかな通り、「当時の電信協会管理無線電信講習所は逓信省に無償で譲渡されたものである。」と記されている。

このことは若宮会長が「電気技術の振興によって人類社会に貢献する」という理念一本で貫かれたものであることを知るべきである。

第三節 移管後の学制と諸改革

 官民一体の熱望に依って、その成果はみのり官立無線電信講習所は誕生したのであるが、これが開設に当っては、さきに述べた民間側の意見をもとり入れた事はもちろんであるが、官側としても学校名の問題、そして幹部間で最も討議されたことは修業年限の問題であった。同じ逓信省所管である高等商船学校とすべて同じ形式、同じ格式で行うことに対しては反対が強いばかりでなく風当りがかなり強力であった。

しかし本講習所は逓信部内の従業員を養成する逓信講習所や逓信官吏練習所などと異なり、卒業生はすべて一般の民問企業の従事者として就職するものである点においては、医科、工科系の一般専門学校と同一視しうるものである。従って本来は文部省所管となるのが本筋であるが、本講習所において養成する無線通信士は、その取扱う業務面につき逓信省が全面的に指導、監督を実施する必要があった。これと関連して通信士資格の付与や無線局に対する選任事務についても一貫統制を行っており、又船舶並びに航空機の無線電信はその殆んどが公衆通信に供用されている関係もあって逓信省の所管とすることが望ましかった。更にまた無線通信施設の増加、並びに船舶・航空機などの建造計画に合わせて通信士の養成計画を立てる必要もあった。これらのことを考え合わせる時、諸般の事情(教員、教育施設、実習現物等)にかんがみ逓信省において直接その経営に当るのが妥当であると認められ、同省の管轄下におかれることが決定したのである。

3-1 陸・海・空の三部制に

まず本題に入る前に設立の目的というものを知っておく必要があると思う。それは日支事変が、大東亜戦争にまで拡大し、無線通信士の国家的要請は、その量と質的両方面にわたって格段の向上を必要とするに至ったからである。従来逓信省においても派遣講師の面について助成してきたのであるが、その設備を国家に移管することによって必要なる拡充をはかり、本邦内はもちろん、大東亜共栄圏内において、必要とする無線通信士を一元的に養成するのが目的であった。

以上の如き目的をもって従来は、本科、選科、特科の三科制であったものを、陸・海・空の、三部制の学制に改定したのである。

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(一)養成計画の大要
  イ、一ヶ年間における収容人員及び修業年限
    第一部(船舶向け通信士)
       高等科 五〇〇人   三ヶ年(席上課程ニヶ年、実習課程一ヶ年)
       普通科 五〇〇人   二ヶ年(  〃  一ヶ年   〃  一ヶ年)
       特科   二〇〇人   一ヶ年(  〃  六ヶ月   〃  六ヶ月)
    第二部(航空機向け通信士)
       高等科 一○○人   三ヶ年(席上課程二ヶ年 実習課程一ヶ年)
    第三部((陸上無線局向け通信士)
       高等科   五〇人   二ヶ年(席上課程二ヶ年)
       普通科   五〇人   一ヶ年(  〃  一ヶ年)
  ロ、入学試験の課目及びその程度
    1 試験科目(初年度についてのみ、次年度については変更される予定)
        国語(講読、作文)
        英語(和英、英和)
        数学(代数、幾何、三角)
        物理学
    2 試験の程度
      高等科、普通科に於ては中学校(五年)卒業程度
      特科中学校二年修了程度、または国民学校高等科卒業程度
  ハ、入学資格

高等科並びに普通科については中学校第四学年修了者(これは当時の各種専門学校、高等学校、大学予科、並びに陸軍士官学校、海軍兵学校においても同様であった。)
特科生については、中学校二年修了者、または国民学校高等科卒業者


なお、修業年限については当初、高等科の席上課程を三ヶ年にせよとの世論が極めて強く、これを立案した電務局にしても、この与論に賛成であったが、管船局側の強い反対もあり、また時局下通信士の人手不足という実情のためニヶ年ということに落ちついたものである。

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(二)授業課目
   1 無線電信無線電話学
   2 無線電信無線電話実験
   3 電気理論及び電気機械学
   4 電気通信術(送信・受信)
   5 通信実践
   6 内国無線電信無線電話法規
   7 外国無線電信無線電話法規
   8 船舶概要(第二部生については航空概要)
   9 水産概要(特科生についてのみ)
  10 国語
  11 英語
  12 仏語(高等科生についてのみ)
  13 公民(倫理)
  14 交通地理
  15 気象概要
  16 法制経済
  17 高等数学
  18 体育及び教練

官立移管前は、本科及び選科においては十四単位であったものが、移管後は教養課程において、倫理と法制経済学が追加され、更に国語、高等数学、気象学などが新しく採用され、また専門教育が充実されるにいたった。通信士にとって必要欠くべからざる電気通信術は一週間あたり十八時間(毎日受信二時間、送信一時間)おこなわれ、部科によって異なるが一週あたりの授業時間は三十四〜四十時間であった。しかし戦争が熾烈となるに及んで、通信士の補給が急を要する事態となった一九四三年(昭和十八年)後半頃からは席上課程が六ヶ月間短縮せられ(第一部高等科、第二部高等科生)或る種の科目(仏語、国語、倫理など)を休講して、繰上げ卒業させざるを得なかったのである。

(続き)

三)官制
昭和十七年四月一日をもって公布された官立無線電信講習所の官制定員は次の通りである。
     教官   奏任官     十四名
           判任官   六十一名
           事務官      一名
           書記        六名
           技手        三名
       合計         八十五名
所長は開校当初は中村純一郎電務局長の兼任であったが、問もなく専任となり、斎藤信一郎、熊谷直行など若手の所長が着任した。しかしこれまた任期が短く、やがて津田鉄外喜、鶴田誠という閣下を所長に迎えることとなった。

当時は時局切迫の折であったので、所長・教頭の短期交替もやむを得ないものであり、教官達も従軍または応召などが頻繁で、教務当局は教官の補充手配に並々ならぬ苦労を強いられたのである。
3-2 民間からの派遣講師

官立無線電信講習所に移管されてから、昭和十七年四月初めての新入学生がその門をくぐった。すなわち船舶科の高等科並びに普通科生が各三百名、航空機科の高等科生が百名、そして陸上科の高等科及び普通科生が各五十名ずつ合計八百名を迎え入れた訳である。このほかに電信協会管理時代の本科、選科、特科生を加えれば、おおよそ千二百名を超えていたと思われるのである。このため狭小な学内の施設に収容することができず、やむなく二部授業を余儀なくされたのである。このため高等科と本科生は午前八時から午後二時まで、普通科生の全部、そして選科生と特科生の一部は午後二時半から午後八時半までの時間割で施行せざるを得ず、官側からの派遣講師も相当戸惑った筈である。

当初の年間養成計画(本所)の千四百人のうち、千二百人は船舶に乗組む通信士であるため、民間特に船舶の移動通信について、実際通信の経験豊かな人を講師に迎えて、実践科目を担当させることは極めて有意義であり、講習所内においてもそのような意見が沸騰した。とき恰も教官の出征や応召に依って人手不足でもあり、このことは過去の講習所において官側からの講師を招へいしたのと逆コースではあったにしても民間の各船会社から、官立無線電信講習所に講師を派遣することは時代の推移というべきであったろう。

ともかく船舶は特殊な社会であったし、その中で心の生活を教授することはもちろん、まず制度や慣習から教育すべき関点に立たされていた訳である。極論するならば船内生活を熟知した上での通信実践を指導することが、最も意義あることであり、この作業は官側よりもむしろ民間側に適していたというべきである。

その第一回派遣講師は次に掲げる諸氏であった。

日本郵船……………・……・香西昭
大阪商船……………………野沢明一
三井船舶……………………茂泉和吉郎
山下汽船……………………堀満

いずれも本講習所の先輩であり、後輩の指導には骨身を惜しまなかった。船内生活の諸規律はもちろんのこと、私生活におけるタブーの問題やら、冗談をまじえて語る船内のユーモア話に、学生はひたすらな瞳をむけるのであった。

担当科目は主として通信実践であり、国際・内国法規を主軸にした実際通信の指導が主たるものであり、呼出、応答、電報送受の基本から、遭難、緊急、安全通信にいたるまで、各部門を網羅したのである。特にQ符号の使用方法や例外規定は、実際通信を経験した人でなければ判らぬ程の苦労が惨み出ていた。例えば「QSA?に対してQRKで答えてもよい」とか、必ずしも「呼出、応答符号は三回叩かなくてもよい」ということは当時の電波管制下にあって的を射ていたともいえるのである。

このことは官制時代におけるコチコチ教育から一歩離脱したとはいえ、民間よりの派遣講師制度はきわめて民主的英断として評価されたのである。

3-3 生徒の軍籍

一九四一年(昭和十六年)十二月八日ハワイ真珠湾奇襲によって端を発した大東亜戦争は、当初日本軍は有利かに見えたが、戦局は大本営発表より遙かに深刻化していた。その中でもっとも脅威の目を見はらされたものは、翌昭和十七年の官立移管直後、すなわち四月の十八日に突如として、米軍空母ホーネット号から発進された陸上爆撃機B-25による東京への初空襲であった。大勝利の報道にかくされて枕を高くして寝ていた日本国民にとって、東京を含む名古屋・神戸地区への米軍機の飛来はまさに青天のへきれきであったと思われる。ついでこの年の六月にはその雄を誇った帝国海軍は、ミッドウエー沖海戦に於て四空母を失い、帰還するに母艦なき戦闘機は次々と海中に自爆するしか道がなかった。これを転機としてA・B・C・D(アメリカ・英国・中国・オランダ)包囲陣は北上を開始し同年八月には日本軍の南方主要拠点であったガダルカナル島に上陸し、翌年二月には同島の日本軍は玉砕し、多数の日本商船隊を失ったのである。

かつて日・独・伊の防共協定を締結していたイタリアはムッソリーニ首相が失脚するとともに、同国は九月八日連合軍の前に無条件降伏し、戦局はただならぬ方向へと転換しつつあった。こんなとき、全国の大学・高等学校・専門学校の生徒の徴兵猶予の停止措置がとられ、三万五千人の角帽・白線帽たちは、同年十二月一日あとに残された級友や後輩に送られて校門をあとにした。誰もが「人生二十五年」と心に決め海軍予備学生を志望した若者も少くはない。そのすべては海軍航空隊に配属され、速成の飛行訓練を受け特攻隊員となって青春を華に散らしたのである。

(以下は次のサイトへ)

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/6-3-3.htm
3-4 官給食と生徒への特典

日支事変がはじまった昭和十二年からは統制経済となっていたが、諸物資は内外の軍事関係者に最優先される結果、国内の物資は極度に不足していった。非合法な闇商売でかせぐ商人、そして官僚、ボスの「顔」が世の中に幅をきかせ、配給の品を買うのに行列をつくっているのは「馬鹿」正直な庶民だけであった。ついに石鹸、ろうそく、ちり紙まで配給制となり、配給でないものはなく、これでは最低生活でさえ維持できなかった。

三百万人の工場労働者が軍隊に動員されたため、物資不足は当然となり生産にとっては大きな障害となった。このため男子労働者に代って、一九四四年(昭和十九年)四月より満十二才以上四十才までの未婚女性が「女子挺身隊員」として軍需工場に動員された。軍と軍需産業に若手の労働力をとられた農家は米作が平年作の三割近くになり、国民への配給は一日につき二合一勺(約三百グラム)に減らされた。それも米の粒はごく僅かで押麦や高梁入りが主で、米は軍関係へ流された。

主食である米がこのありさまであったから野菜や鮮魚についても同様だった。東京では一人あたり三日にねぎが三本、五日に一度魚一切れ--これが副食物の配給であった。生きて行くための自衛手段は自給自足しかなく、堀れるところはどこでも畠にした。空地や庭はもちろんのこと、国会の前庭も電車通りの歩道さえも自作の菜園となったのである。敵国の遊びとして禁ぜられていたスポーツとしてのゴルフ、そして野球、これらの土地はすべて芋畠と化した。

この頃から街には雑炊食堂というのができた。自由に出入りすることができたので、配給では物足りぬ一般庶民が押しかけ、空腹に耐えかねた人々が山をなすような行列をつくったのである。玄米のカユに野菜や魚肉などが、ほんの申訳程度にチョッピリと浮かび、一人一杯二十銭なりの口をうるおす苦労は並大抵のものではなく、自分が着席する順番を待つ時間の何と長かったことか!! これと同時に左党派を喜ばす"国民酒場"の行列はいうまでもないことだった。ついでながら生徒には余り関係のないことではあったが、煙草は成人男子に限り一日に六本の配給制がとられていた。

      雑炊食堂
ならんでいる  ならんでいる  黙々としてならんでいる
戦争は遂にここまで来た  雑炊食堂の前にならんでいる
男・女そして老人こどもまで  ならんでいる
あり得ない   この行列の中に一人でも
きげんのいい人間がいるということは

とにかく国民すべてが空腹であった。この当時、東京在住の講習所の生徒達は、その多くが地方から出てきた下宿生活者であった。しかし次々と下宿を断られるものが多くなってきた。その原因は自分達でさえ食料の確保がむずかしいのに、下宿する生徒の分までとても手が回らなくなってきたからである。朝から芋がゆをすするような食事では、たちまち空腹となり体操や教練どころか、学科授業の時間でも空腹に耐えかねて居眠りする生徒が多くなり、まことに憂うべき状態となってきたのである。たまたまこんな状況を知った郡部に所属する生徒の両親は何とか息子のために食糧を運んでやろうとしても、食料特に米や餅に対する取締がきびしく、この監視をくぐり抜けようとする人々はさまざまな苦心をした。いまとなってはエピソードの部類に属するが、ある母親は「英霊の白木の箱」に白米をつめて、首にぶらさげたということである。この箱には米はわずか三升しかはいらないけれども、これを見た人々は多く敬礼をもって見送り、列車内でもまずつかまることは絶対にないといってもよかった。さぞかし首の骨が痛かったであろうと想像する。

ところがこの年の四月から実現を見た海軍の予備練習生制度とのからみで、生徒に対する軍籍の件もあり陸海軍当局と盛んに交渉がもたれていたので、あわせてこの際、食糧の問題を提起し討議した結果次の如く結着を見たのである。

一、軍籍について

1 陸軍
官立無線電信講習所高等科卒業後六ヶ月の訓練を経て陸軍少尉に任官せしめる。
        〃    普通科卒業後六ヶ月の訓練を経て陸軍曹長に任官せしめる。
以上については在学中陸軍予備生徒と呼称する。

2海軍
官立無線電信講習所高等科卒業後六ヶ月(海軍通信学校教科)を経て兵曹長に任官させる。
        〃    普通科卒業後六ヶ月(     〃     )を経て上等兵曹に任官させる。
以上については在学中海軍予備練習生と呼称する。


(続き)

二、一般的特典について

官立無線電信講習所の在学生及びその卒業生に対する特典の主要なものをあげれば次の如くである。
1 在学生に対する特典
  イ、授業料は一切徴収しない。
  ロ、授業用品の一部を支給する。
  ハ、寄宿舎を設備し学生は全部これに収容する。
  ニ、兵役関係に於ける徴兵猶予、将来軍籍について特典が考慮されている。
2卒業生に対する特典

卒業後は無試験で次の資格が付与される

  イ、高等科卒業生第一級無線通信土
  ロ、普通科卒業生第二級〃
  ハ、特科卒業生第三級〃
3修業生に対する特典

修業生に対しては無試験で次の資格が付与される

  イ、高等科修業生(席上課程二ケ年)第二級無線通信土
  ロ、普通科修業生(〃一ヶ年)第三級無線通信士

三、食糧の支給

講習所生徒に対する軍籍問題の解決にともない、陸海軍合同で米や大豆が食糧として支給されることとなり、魚貝類や野菜についても特配の証書を交付され、それぞれの市場まで受取りに行くこととなった。このことに依り講習所はにわかに活況を呈した感があった。なお、これらの食糧並びに副食は陸軍の予備生徒や海軍の予備練習生用のものなので、教官や講師には流用できないものであった。しかるに東京の支所二千六百名の生徒のうち、毎日風邪やその他体力の消耗で休校するものが平均三、四十人を数えるにいたったので、これらについても軍当局に訴えたところ、生徒を含めて教官や講師にも支給してもよいということになった。つい昨日までは芋の二、三本を弁当として持参していた老若の先生たちの顔にも、ようやく生気がよみがえった感じであった。ちなみに翌昭和二十年の正月用の特配は、餅が三百グラム、酒一升、ビール二本、数の子五匁などであった。

四、手当の支給

官立無線電信講習所生徒が陸軍もしくは海軍の軍籍を持って在学することに依り、軍当局からそれ相当の手当が支給されることになった。このことは全く軍管理(陸海軍に所属する諸学校)なみであり逓信省の所管とは考えられぬ面もあったが、生徒にとっては食糧の心配もなく、まるで陸軍士官学校や海軍兵学校なみの待遇であったから、ますます士気は高揚していった。当初、軍から支給される給与は月額五円(現在の貨弊価値からいえば三万円位に相当する)であったが、昭和二十年四月より一挙に三倍の十五円に増額れさたのであった。しかし金があっても思うように物資が購入出来ない時代であったので、現代のように金銭に対する価値観はなかったといえよう。
3-5 卒業生への諸制度
官立無線電信講習所卒業生に対する諸制度といえば、大雑把に分けて軍関係の特典と、もう一つは無試験によって無線通信士の資格が得られたことである。軍関係に於ては時局に対応した官・民あげての熱望により、前項一から四に述べた制度が実現を見るに至ったので、本項に於ては卒業生に付与された資格についての変遷を記述してみたいと思う。

そもそも無線通信に従事する者は国際電気通信条約によって各国政府の発給した免許証を有するものでなければならないことになっているが、免許の発給については各国の政府がそれ相当の裁量にまかされた形となっている。わが国ではかって国内法であった無線電信法時代の無線通信士資格検定規則に、また現行の電波法においては無線従事者国家試験および免許規則において詳細に規定しているが、この二法におけるいちじるしい違いは前者に於てその需給関係から銓衡検定制度を設けたことであり、後者の場合は、すべて試験至上主義においたことである。ここではその歴史が主眼であるのでむしろ前者のことについて記述することと致したい。

無線通信士となるための資格検定規則は一九一三年(昭和六年)七月一日より施行され、この検定試験は年に一回定期的に実施された。この定期検定試験の他に銓衡検定試験が随時、各人の申請によっておこなわれた。その対象となるものは次の二種類に限定された。

(1)無線通信士としての業務経歴によるもの
(2)あらかじめ認定された学校を卒業したもの

(2)による対象学校としては次のものがあった。

対象学校 資格
電信協会管理無線電信講習所 一級〜三級
逓信官吏練習所 一級〜二級
東京高等商船学校 聴守員級
神戸高等商船学校 同右
横須賀海軍通信学校 二級〜三級



無線電信講習所関係等について詳述すれば次の通りである。

第一級無線通信士の免状を付与するもの

(1)一九三一年(昭和六年)七月一日以降、電信協会管理無線電信講習所本科を成績甲で卒業した者
(2)一九三七年(昭和十二年)十二月一日以降、電信協会管理無線電信講習所本科を卒業した者

第二級無線通信士の免状を付与するもの

(1)一九三一年(昭和六年)七月一日以降、本科を成績乙で卒業した者
(2)一九三七年(昭和十二年)十二月一日以降、本科を修業した者
(3)一九三七年(昭和十二年)一月二十九日以降、選科を卒業した者

第三級無線通信士の免状を付与するもの

(1)一九三七年(昭和十二年)十二月一日以降、選科を修業した者
(2)一九三二年(昭和七年)九月一日以降、特科を卒業した者
これは大日本水産会の各社で養成したのが殆んどで、現在の漁業無線界の大部分の通信士はこれであり、通信士を経て漁撈長となりまた船主へと進展している者が多い。

電話級通信士の免状を付与するもの

(1)一九三七年(昭和十二年)十二月一日以降、特科を修業した者

聴守員級の免状を付与するもの

(1)一九三一年(昭和六年)七月一日以降、東京高等商船学校航海科において無線電信に対する学術の卒業試験に合格した者
(2)一九三一年(昭和六年)七月一日以降、神戸高等商船学校航海科において右に同じ


以上の銓衡検定試験はいずれも無試験で行われたものであり、従って講習所の卒業試験表は全部「無線通信士資格検定委員会」に提出され、その成績によって甲、あるいは乙、または「修業」などの判定を受けたのである。

なお海軍通信学校卒業者については、当時の軍部のことは文民の制度とのつながりを公示することは避けられていたが、当局同士の約束で、高等科卒業者には二級無線通信士、普通科卒業者には三級無線通信士の資格を付与していたのである。

終戦後も軍関係を除き、しばらくこの制度が続行されていたが、一九四八年(昭和二十三年)一月十日連合軍司令部よりの命令によって、今後一切銓衡検定制度を廃止し国家試験制度に一本化されたのであった。しかしおおよそ十年余の歳月を経た一九六〇年(昭和三十五年)関係省令の全面改正を機会に「学校等の認定制度」が新設され、予備試験の免除及び一定の業務経歴に依り一部の科目を本試験から免除するという銓衡制度を変形して復活し今日にいたっている。

第四節 無線同窓会、社団法人となる

社団法人無線同窓会は昭和十七年七月十八日に発足した。これは、電信協会管理無線電信講習所が同年四月一日より官立無線電信講習所と衣を替えたことに伴ったものと見るべきであろう。時は第二次世界大戦の渦中にあり、同窓会の社団法人化もこれとは無縁ではない。社団法人無線同窓会はおびただしい讃歌の渦から誕生したのである。逓信省電務局無線課長隅野久夫氏は設立の意義について次のように語っている。

社団法人無線同窓会の設立を祝す

大東亜戦争勃発以来我が忠勇なる皇軍将士は、世界史上類例を見ない赫々たる戦果を挙げ、大東亜共栄圏建設上絶対不敗の有利な条件を確保しつつあるのであるが、吾々の最も誇りとすることは此の戦果の蔭に我が無線通信が絶大なる貢献を為しつつある事であり、我が親愛なる通信士諸君が将兵と共に敢闘しつつある事である。

現在無線通信の聖業に携り居る通信士は凡そ七千数百名に及んで居るが、此等の殆んど凡ては電信協会管理無線電信講習所の卒業生である。本年四月右講習所が官立に移管せられ益々多数の無線通信士を養成することとなったのであるが、将来の無線通信界を背負って立つのは前述の電信協会管理無線電信講習所卒業生と官立無線電信講習所の卒業生の両者であって、之等の者は一団となって、協力して運用の任に当る事となるのである。無線通信の運用は常に送受側両者の意志を疏通し、提携協力して奉公の念に終始するに非らざれば其実績挙げ得ないのである。即ち通信の業務は相対的業務なる為、一方が幾ら優秀なる技倆者でも、対手方が未熟者であれば、之に支配され十分なる効果を発揮することが出来ない。従って無線通信士は其の技芸の向上には他に比類なき緊密なる協力を要し、常に相提携して普段の精進を要する特異性を有するのである。

無線電信講習所に於ける訓育も之の点強調するを要するのであって卒業後仮令個々に分散して任務に就く場合と雖も、緊密なる連絡を保持する如く精神的教育に努力せねばならぬ次第である。従来卒業生間の連絡を図り、技芸の向上に関する任務を有機的に果して来たのは目黒無線同窓会である。

然るに今回講習所が官に移管せられ無線通信士の育成事業を一層拡充強化することとなったのに伴い、之が背後に於て、否、表裏一体となって協力推進の任務を有する同窓会も亦之に順応して組織を改め、拡充強化せらるべきは当然のことである。依って今回従来の同窓会を発展的に解消して、新に官立無線電信講習所を母体とする之に相応わしい内容の充実せる同窓会を設立し一層其の効果を挙げんとせらるるのは洵に国慶に堪えぬ次第である。

茲に些か同窓会の特異性其の他を記し之が発展を希念し度い。

一、本同窓会の性格と監督官庁に付て

無線同窓会は専ら会員の便益を図り会員相互の進歩向上に資する為の知識の普及を図ると共に一般無線通信の発達に寄与せんとするものにして公益を目的とすること明らかである。而して其の存続と運営に対する会員各自の自覚と協力を強からしめんとする主旨と、且は固定的財産の存するなく其の維持は専ら会員の会費に依存するものなるを以って、社団となしたるは蓋し当然であり、然
も其の外的信用保持と存続の安固とを期するため法律上の人格を具有するの必要があるのであって公益社団法人として設立せられたのは最も妥当である。

尚、本会は実際的な事業をも経営することとなって居るが其の企図するところは、全く、会員及無線電信講習所乃至は無線通信界全般の便益のためにのみ活動せんとするものであり之に依り営利を挙げ会員に分配せんとするが如きものではないので民法第三十四条の公益法人として設立せられたのである。

本会の監督官庁に付ては、本会の構成員は逓信省所管の無線電信講習所卒業生及其の在学生であって逓信省に於て一元的に指導監督の任務を有する無線通信士及通信士たらんとする者のみならず、其の目的とする事業に付ても凡て逓信大臣の主掌する無線通信事業に関するもの又は官立無線電信講習所と密接不離の関係にあるもののみであって、本法上の主務官庁は会員の性格、事業の性
質の双方より考え当然逓信大臣である。
(続き)

二、本同窓会の特性と法人許可条件に付て

本法人の特質の第一は評議員会に対し重要事項の議決権を付与したる点にあるのである。

安ずるに本同窓会の会員は其の殆ど大多数が、海上勤務者なる関係上総会を召集する場合等も充分なる会員の集合は期し難い実情にある。よって評議員なる役員制を設置し、之に代議人的地位と権能を付与し之に対し本会の議決権を付与したるは蓋し妥当なる施策なりと解せらる。

茲を以て右評議員は本法人中重要なる地位を有することとなりたる関係上、一般法令に依り届出の義務ある、理事、監事の外右評議員に付ても其の氏名、住所の届出を要することとせられたのである。

特質の第二は相当の実際的事業を経営する点である。由来同窓会の如きは会員相互の連絡の為機関誌の発行、同窓大会の開催程度の事業を出でないのが常例であるが、本会は其の規則に見る如く多数の事業を行うのみならず、定款、規則に表現せられてない事項でも相当大なる事業が、計画せられて居る。且其の事業運営の可否が直接無線電信講習所の経営と不可分の関係にあるもの多く、就中無線電信講習所の寄宿舎、食堂の経営受託及売店等の経営に至りては普通一般の同窓会の事業としては全く異色たるのみならず、営利的傾向に流るるの虞なしとしない。一面又其の経営が妥当でない場合に於ては無線電信講習所に於ける通信士の養成事業に影響する所大なるものあるを以て充分に其の運営を監視するの要ある次第を考慮し、毎年予算案を逓信省に提出することとせられたのである。

三、本会維持の確実性に付て

無線電信講習所の卒業生は一般学校の卒業生と異なり、卒業後凡て無線通信事業に従事するものなる関係上、会員の集結には特に苦労を要しない点が特徴である。

然して現在迄の卒業生は既に七千数百名に達して居り其の大半は従来の目黒無線同窓会会員たりしものを其のまま継承するものであって社団たるの前提を為す会員数の点に於て既に確実性十二分と言わねばならぬ。然も全在学生を準会員とし教職員を特別会員と為し学校と卒業生の緊密なる連係を図ると共に会長には講習所長が当り且役員中にも教職員を選任し之が運営の確実を期して居るの事情等に徴しても本会は極めて強固なる基礎に立ち居るものと言えよう。

本会の収支関係は一般会計と特別会計の二本建となって居るが、特別会計は本会の附帯事業に関するものにして全然別扱のこととし、同窓会本来の収支と混清することを避けたのである。

又一般会計の収支状況は、本年度予算案を見るも明らかなる如く奨学金或は救済資金を容易に捻出し居るの好況にして、財政的見地よりするも、本会は洵に基礎強固なりと言えるであろう。

今や大東亜共栄圏の伸展と共に、我が無線通信の分野は日に月に拡大せられ、通信士の任務は益々重要性を加えつつあるの秋、無線通信士の殆ど全員を網羅したる本同窓会の結成を見たるは、洵に慶賀に堪えぬと共に、其の発展に付ては全会員相協力し役員を鞭鞍援助し、一大強力なる無線通信士団体に育成し、以て無線電信講習所の発展の為、無線通信界全般の向上の為、将又無線同人の福利増進の為、大いなる貢献を致し得る様成長せしめられん事を希求するものである。

尚役員各位に於かれては一般御座成りの会の如く竜頭蛇尾に堕せざる様特に積極的御活動を希望して止まぬ次第である。

この論文は『無線同窓会誌』第十号に掲載されている。第十号には、社団法人となった無線同窓会への讃歌に満ちており、巻頭言は「無線同窓会の発展を祈る」とし、当時の寺島健逓信大臣の文が飾られている。ここで採りあげた隅野氏の論文は比較的冷静なもので、社団法人化の意義、内容について適確に語っているといってよいだろう。

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社会の出来事 昭和十八年二月二十三日陸軍省「撃ちてし止まむ」のポスター五万枚を配布。
昭和十八年三月二日八月一日から朝鮮に徴兵制施行の兵役法改正。
昭和十八年四月十八日山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死。
昭和十八年五月十二日アッツ島に米軍上陸、五月二十九日山崎部隊二千人が玉砕。
第五節 私立無線学校の吸収

5-1 統合の閣議決定

全国の私立無線学校を廃止し、すべて官立無線電信講習所に統合するという閣議決定が下されたのは昭和十八年八月二十日のことである。公平信次氏はその経緯について次のように述べている。

官立無線電信講習所が発足して以来、無線通信士の養成は着々と軌道に乗ってきたのであるが、一方太平洋戦争はますます熾烈となり、無線通信士の大量急需を訴えるに至ったことは別項でも述べた通りであるが、政府は各種私立無線学校対策を之に結びつけて考えることとなった。というのは、全国私立無線学校の生徒は一万数千人も居るにも拘らず資格を取得しうる者はまことに僅かであって、この時局下においては人的資源の遊休存在と目されるに至ったからである。ついで、企画院、文部省、陸軍省、海軍省及び逓信省は協議の上、これら私立無線学校を全廃閉鎖し、現に在学する生徒は、官立無線電信講習所及東京芝浦高等工芸学校に収容し効率的仕上げをして、無線通信士の急需対策の一つにするという根本方策を樹て昭和十八年八月二十日閣議決定をみるに至ったのである。この政策の実施に当って、きわめて立派な態度で協力を申し出で率先して、すべての施設を提供して国策遂行に協力したもの(東京高等無線電信学校、校長中村梅吉氏、後の国会議員、法務大臣)あり、或は頑強に抵抗し、調査員などの調査を妨害し、その校舎を使用しての支所開設を拒み、最後まで非協力だったもの(中野高等無線電信学校、校長高木章氏)等色々の事情や経緯はあったが九月二十八日ついに官制改正となり、官立無線電信講習所に凡てを包含することとして、全国的規模のスタートとなったのである。

全国二十五校の生徒約一万五千名の中から一万一千二百八名が入学移籍考査に合格し、次のような分類で各支所に入学許可され、夫々課程を経て卒業していったのである。

別科中学卒業程度の者 第一級(修業期間一か年)
選科中学三年修了程度の者 第二級(修業期間六か月)
実科国民学校高等科卒業の者 第三級(修業期間三か月)


現在、閣議の詳しい内容を明らかにはできないが、以上の引用から決定にいたるまでの経緯、その後の決定内容の実施から、その意義を思うことはできるであろう。これは、閣議決定という一つの事実からして国策的なものであったと言えるのである。ともかくも戦時下において何よりも一定水準以上の通信士が必要であった。この要請に対して爆発的と言える程急速にその策は実施されていったのである。

5-2 生徒引継と支所の設立

『無線電信講習所報』は官立時代の公的文書としては、現存する唯一のものだが、支所の設立についての記事がみえる。

支所開設ニ関スル件(無線電信講習所報第五十一号昭和十八年十月二十日発行)

先ニ閣議決定ヲ見タル無線通信士ノ計画養成方策ニ基キ在来ノ私立無線電信学校ノ全部ヲ閉鎖シ、其ノ在籍生徒ノ中ヨリ必要員数ヲ別表ノ通リ銓衡シ之ガ素質ノ向上ト現下ノ急需トニ即応スベク本所ニ於テ急速ニ之ガ養成ヲナスコトトナリ取運ビ中ノ処十月一日東京ニ二箇所、大阪ニ一所ノ三支所ヲ開設シ四谷分教場ト併セ一斉ニ授業ヲ開始セリ
其ノ設立経過及現況概ネ次ノ如シ
一 設立経過

八月三十一日

逓信省電務局長ヲ委員長トスル無線通信士臨時養成実施準備委員会初会合

九月七日

文部省専門学務局ニ於テ私立校生徒引継ニ関スル打合

九月十日

文部省ニ於テ企画院、文部省、逓信省、陸海軍省各関係官列席各私立無線電信学校々長ノ集合ヲ求メ文部次官其ノ他ヨリ現下ノ情勢ヲ説明シ私立無線電信学校ハ之ヲ閉鎖スベキ旨ヲ示達シ、之ニ関シ具体的事項ノ協議ヲナセリ本所ヨリ長津教頭出席

自九月十五日 至九月十八日

私立無線電信学校生徒ノ錠衡試験ヲ各当該校ニ於テ執行ス(電気通信術、英語及数学) 受験者総数一一、二〇八名

自九月二十四日 至九月二十八日

文部省(東京高等工芸学校)及厚生省トノ間ニ収容生徒ニ関シ打合

九月二十八日

銓衡試験合格者発表 合格者総数六、四八二名

九月二十八日

本件臨時養成ニ関シ臨時職員設置制中改正勅令公布

九月三十日

支所設置及本所規則中改正告示公布

十月一日

本所(四谷分教場収容生徒ニ対シ)及各支所ニ於テ入所式挙行

十月四、五日

本所及支所ニ於テ体格検査執行

十月六、七、八日

組編成其ノ他ノ必要ニ依リ学科再試験(電気通信術、英語、数学及電気学)ヲ執行

十月十一日

再試験ノ結果発表

十月十二日

授業開始

十月十四日

東京第一支所ニ於テ支所開所式挙行、陸海軍支部其ノ他関係官庁、東京高等無線、武蔵野無線各学校関係者其ノ他ヲ招待東京支所、分教場ノ生徒出席

十月二十五日

大阪支所ニ於テ同支所開所式挙行

二、現況

1 支所、分教所在地

東京第一支所 東京都板橋区練馬高松町一 元東京高等無線電信学校
東京第二支所 東京都渋谷区幡ケ谷原町八三〇 元武蔵野高等無線電信学校
大阪支所 大阪府中河内郡矢田村 元大阪無線電気学校
四谷分教場 東京都四谷区四谷四丁目



2 生徒銓衡状況

区別 人員数
私立校在籍生徒数 一三、三三四
(通信科生ノミ)
受験者総数 一一、二〇八
厚生省体格検査不合格者 五一六
学課不合格者 四、二一〇
学課合格者 六、四八二
不参者 九四九

(続き)

これらの記録から読み取れるものは、東京で二支所、一分教場、大阪で一支所が支所設立発足時の陣容であるということ、私立無線学校在籍者の八割以上が選考試験を受験し約六割が合格したことの二点が重要と考えられる。この時の合格者数は六千四百八十二名であり、毎年度一万人以上の卒業生を出せという軍の要請からはまだ遠い数字と言える。その後、支所は北海道を除くほぼ全国にそれこそぞくぞくと開設されていったのである。
なお、この臨時的措置が終わっても、各支所は閉鎖することができず、むしろますます増設の一途を辿り最盛期には次表の如き状況であった。


全国的支所の分布状況(最盛期の昭和20年6月)
支所名 所在地 収容人員 備考
東京第一支所 板橋区 1,885人 東京高等無線電信学校々舎
東京第二支所 渋谷区 1,227人 武蔵野高等無線電信学校々舎
四谷支所 四谷区 391人 四谷郵便局
高輪支所 芝区 300人 明治学院高等部
仙台支所 仙台市 200人

弘前支所 弘前市 100人 仙台支所分教場的支所
大阪支所 大阪府守口 1,591人

防府支所 三田尻市 200人

熊本支所 熊本市 400人

大州支所 大州市 200人

藤沢分教所 藤沢市 200人 本所第一部高等科専用



また、当時本所長から支所長への通達が『無線電信講習所報』に残っている。
これは支所長の地位・権限を指し示す資料として興味深い。
   達第二十七号
                                    各支所長
無線電信講習所支所長分任規程左ノ通定メ昭和十八年十月一日ヨリ之ヲ施行ス
    昭和十八年九月三十日
                              無線電信講習所長斉藤信一郎

          無線電信講習所支所長事務分任規程
第一条

無線電信講習所支所長(以下支所長ト称ス)ハ無線電信講習所長委任規程第三条ニ依リ左ノ事項ヲ分任スヘシ
一、部下職員ノ服務ヲ指定スルコト
二、雇傭人ヲ傭役スルコト(大阪支所長ニ限ル)
三、部下職員ノ帰省、看護、墓参、転地療養並ニ受験願ヲ処理スルコト
四、部下職員ノ除服出仕ヲ命スルコト
五、共済組合支部局事務ヲ処理スルコト
六、在学生徒ノ休学、退学願ノ処理並ニ各種証明書ヲ発行スルコト
七、資金前渡官吏ニ交付サレタル資金ノ範囲内ニ於テ左ノ各項ヲ専決施行スルコト(大阪支所長ニ限ル)
  (イ)庁費ニ対シテハ物資ノ引当ヲ要セズシテ購入又ハ修繕シ得ルモノ但シ将来永続的ニ経費ヲ要スル物品ノ購入ヲ除ク
  (ロ)校舎保導上緊要ヲ要スル軽微ナル小被修繕
  (ハ)市内及隣接市町村ヘノ日帰リ出張
  (ニ)常用雑費ノ支出但シ諸謝金ハ一件五十円ヲ超ユルモノヲ除ク
八、授業料ノ分納又ハ延納許否ヲ決定スルコト
   但シ其氏名、事由等ノ報告ヲ要ス
九、其ノ他前各号ニ準ズル軽易ナル事項

第二条

支所長ハ前条ノ分任事項ト錐モ重要ト認ムルモノ又ハ異例ニ属スルモノハ所長ノ決裁ヲ承ケ、分任ノ範囲ニ属セザル事項ト雖モ軽易ト認ムルモノハ支所長限リ処理スベシ

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社会の出来事 昭和十八年九月四日上野動物園の猛獣、空襲時に備え射殺。
昭和十八年九月二十三日閣議で勤労対策として店員、車掌、改札係、理髪師など 十七職種の男子就業を禁止、女子に代える。
昭和十八年十月二十一日学徒出陣壮行大会、神宮外苑競技場で挙行。
昭和十八年十一月一日国民兵役を四十五才まで延長。
5-3 藤沢分教場の建設

藤沢分教場の建設までの経緯については、公平信次氏によれば、次のようである。

藤沢支所については、昭和十八年度の計画として大蔵省に予算要求したが、ほとんど認められず、ようやく六十三万円が成立したにすぎなかった。しかし、校舎の建設は急を要したので、藤沢市の市債により二百六十万円を調達することとなった。(これは、二十五か年賦で償還することの約定となった。)

その計画は、本館、校舎、学生寮、講堂、武道館などあわせて二千坪に及ぶ膨大なものであるが建設に着手してから戦局はにわかに不利となり、資材の調達は困難をきわめた。或る日の会議の席上、海軍省の石原中佐は次のように発言したことがある。

「大日本海軍が後援することに決定している、これしきの施設の資材についてあれこれ云うのは恥ずかしいが、実際は今、電車で来るとき車窓に見てきた二、三室住いの木造の家でも、さかさにして海に浮かべたいと云う心境です。出来るだけはやるが、自主的方途についても格段の努力を期待する。」


実はこの藤沢支所(俗称鵠沼校舎)は海員専用とし、平和回復後は本部本所をここに移す計画があつたので、当時割方融通のきいた陸軍には応援を求めて行けぬ義理あいであった。

時折、艦載機の機銃掃射を受けるようになった昭和十九年の初秋、ようやく教室と寮とを合せて延べ二百坪のもの二棟が竣工したので、目黒の本所より約二百名の学生と数名の教職員を移転収容し、やつと開校式を行うことができたのである。その後、食糧事情の緊迫に加えて寮用の燃料の調達等のため教職員はその方の奔走に疲れ果て、学校の建設はまことに困難をきわめたが、ついに終戦とともに閉鎖するのを止むなきに至った。

藤沢分教場が開場したのは、正確には昭和十九年八月二十五日である。また本館の所在地は、藤沢市辻堂浜見山である。当時の困苦はどれほどのものであったろう。そしてその生みの苦しさにもかかわらず、ほぽ一年後の終戦とともに一時閉鎖された(なお、昭和二十年四月一日、藤沢分教場は藤沢支所に改名された)。
5-4 芝支所の増設
第二次世界大戦の戦線拡大とともに、南方各地との通信連絡を充実するため、軍部は無線電信の全面的採用を決定。そのための要員の大量養成をいかにして行うかを、逓信省と協議して無線電信講習所を全国的規模で拡充することが実施されたのである。そのため養成定員は万を越したのであるが、その後戦運われに利あらず、今思えばむなしく数多くの諸先輩が第一戦で尊い命を、散らして行った。拡充された各支所の命も、したがって、二年足らずと短かった。

芝支所は、昭和十九年十月二十日、東京での支所拡充の一環として通信院告示第四八七号をもって設立されたが、他の支所が私立無線学校を廃止しその設備を利用したのと異なり、芝区内の私立中学の校舎を借用したのである。
  芝第一支所(高輪中学校)          芝第二支所(慶応大普通部)
  芝第三支所(正則中学校)          芝第四支所(芝中学校)
そして、二十年四月一白に芝第五支所(明治学院)が設立された。

設備の点では全くのところ十分とはいえず、いかに速成であっても通信要員を送り出さねばならなかったとしても、やっつけ仕事であったことは否めない。私立無線学校接収といい、尋常小学校、高等小学校の卒業生等わずか十四才の紅顔可憐な少年たちが、養成期間六ヶ月という短期間ののちに、ぞくぞく第一線に投入されて行ったのである。

ちなみに、昭和十八年の学制を記してみる。

選科 (中四年修) 修業年限ニケ年 無線通信士二級付与
特科 (高小卒) 〃    六ケ月 〃     三級付与
実科甲 (中三年修) 〃    四ケ月 〃     三級付与
実科乙 (高小卒) 〃    六ケ月 〃     三級付与
実科丙 (尋小卒) 〃    八ケ月 〃     三級付与
選科 (中四年修) 〃    一ケ年 〃     二級付与
別科 (選科卒) 〃    一ケ年 〃     一級付与


当時の支所の一つの側面を、佐藤鉄雄氏(昭和十九年五月板橋実科丙)は次のように記している。

(要約)
"昭和十八年当時は十四才であった。日本は国民総動員令が発令され、国家総力戦に突入していた。同郷の仲の良かった先輩が学徒出陣で戦場にたって行った。神宮競技場は小雨に煙っていた。送られる者、送る者の涙は雨と混り合った。神宮の森に学徒兵の靴音が轟いた。戦局は頓に急迫し強力な米軍を相手に激しい消耗戦を強いられ、軍部の動揺は焦りと変っていった。

無線通信士の早期養成もこうした時局を背景として決められていった。私立無線を廃止し、官立無線に吸収、軍籍に組み入れ、動員員数の確保を容易かつ確実なものとしたのである。私も私立から官立に移った者の一人である。十八年九月一日、実科丙、幡ケ谷支所へ入所。厳しい授業は当然のことであったが、一つ余計な神経を使うことを、官立になってから余儀なくされた。それは本科生(目黒の本所)との接触である。本科生は官帽に海軍式チューニック服、襟元には白く映えるホーロー引きの「官」の襟章。それにひきかえ、私どもといえば、学生服、国民服や教練服。よれよれの戦斗帽と巻脚半。襟に「官」の襟章をつけてはいるが、薄い真鍮製の粗悪なもの。授業が終る頃、正門近くに本科生が待っていて、「全員グランドに集合」の声がかけられる。往復ビソタは恒例となった。「気を付け」。「動作が遅い!」。「目が動く!」。全く通学するのが嫌になる程であった。小雪の舞う冬の夕刻。グランドに整列させられ、全く訳も分らずビンタをとばされたこともあった。本科生達は大声で、「貴様ら、たるんどる。目黒魂を打ち込んでやる。これが官立魂だ!分ったかッ!」と喚きながら、容赦なく殴りつけていった。誰がこうした風潮を許していたのだろうか。軍隊の亜流的なこの悪弊は卒業まで続いた。

就職は学校の斡旋であった。○○航空、○○陸軍通信隊とか言って可成り選択の余裕はあった。南方通信を私は選んだ。マニラにある南方軍通信隊司令部行で、軍属雇員、月給五十円であった。原隊である相模ヶ原本部第八十八部隊に十九年六月十三日入隊、七月十三日には門司港から輸送船吉野丸に乗船壮途についたが、途中バシー海峡で米潜の魚雷攻撃を受け遭難、数多くの友人を失ってしまった。"

芝支所はその後昭和二十年四月一日、官制改正に伴い目黒本所と各支所がそれぞれ独立の講習所となったのを機会に、逐次廃止されていった。

昭和二十年五月十日 芝第二支所、芝第三支所廃止。
昭和二十年十二月五日 芝第四支所廃止。
昭和二十年十二月十四日 芝第五支所廃止。
昭和二十一年三月三十日 芝第一支所廃止。

5-5 女子部の設置

約三十年にわたる無線電信講習所の歴史の中で、目黒の門をくぐった女子生徒は、この時の女子部の生徒だけであった。昭和二十年の敗戦以降、特に女子に対して特定の分野への進出を妨げるということは少なくとも「たてまえ」として許し難いことという理念が正しいとされるが、戦前の家父長的社会では、女子に実務的な教育を行うという発想は皆無であったといってよい。この女子部の設置も決して女子を一流の通信士に育てようとした訳ではない点でその考えの延長にあるが、戦争という危急時に際して、男子が足らないために速成通信士としてではあるが、進出の場が与えられたといえるであろう。しかし、この女子部の設置は、日本の国家意識の崩壊を象徴する「一つの惨めさ」を指し示しているともいえるのである。そもそも、女子を直接的な戦役につけないという国家意識がその禁を犯さざるを得ない窮地にまで追いつめられた。これがこの出来事の本質である。

さて、ここでも当時指導的立場にあった公平信次氏によれば女子部の設置の経緯、及びその後は次のようである。

太平洋戦争の戦果が拡大し、占領地域が広がり各地に於ける施設工作などが進むに伴い、無線通信従事者の需要はその極に達した。昭和十九年三月卒業の生徒配分会議などは全く喧嘩腰ですさまじいものであった。のみならず、陸軍(接触する主任は中原大佐)、海軍(接触する主任は石原中佐)は双方ともよい生徒を選り抜がんとしてあらかじめひそかに教務科長より成績表を提出させるなどめこともあって、その間「陸、海、大陸、国内の四方向の調整をとることは、之また並々の仕事ではなくなってきた。

一方、逓信省所管の無線電信局がらも吏員が続々と南方に行く、さてその穴をどうするか。あたかもサイパン島などでは講習所の練習生四十名を含めた大損耗を受けるなどのことがあり、また教官の中からも次々と南方の司政官として派遣者が出る有様であった。
講習所としては臨時に生徒を募集しても、一般中学校の卒業期以外は殆んど応募者が無い有様であった。もっとも、ぶらぶらしていれば徴兵か、徴用か、いづれかにひっかかる時代なので無理のないことである。

そこで、女子部の設置に踏み切ることとなった。正直云って、開講まで陸、海、空、大陸、民間船舶方面等の配分計画は未完のまま、差向き無線電信局、電話局の欠員充足を主目的とした企画としてスタートし、卒業期まで最終方針を確立するごととなった。

当時、高等女学校出の良家のお嬢さん方は、学校卒業と同時にお嫁に行くか、あるいは徴用で工場などに行き、筋肉労働に従事せねばならなかった。しかし早々に結婚すればたちまち若後家となる可能性も強く、全く困迷の時代であったといえるのである。そうした社会一般のムードが影響してか無線電信講習所女子部の生徒募集はきわめて好結果で、募集人員百名のところ応募者は全国から三百六名という盛況であった。学科試験のほか、次のようなぜいたくな条件で生徒の選考ができたのは全く予想外であったのである。

(1)容姿端麗であること
(2)壮健なこと
(3)高女の成績3分の1位以内にあること
(4)学科試験が優秀なこと(算数、国語、英語の平均八十点以上)
(続き)

やがて、百名の立派な生徒が決定し、昭和十九年九月十五日から授業が開始された。校舎は本所より権之助坂寄りに百五十メートル程の所にある日の出高女の校舎を借用することとなった。(日の出高女は疎開して空校となっていた)制帽に制服は一見威厳あり、よく見ると華麗さがあり、なかなかユニークなものだったが、日の出高女の疎開で淋しがっていた町の人々の目をびっくりさせたのは事実である。びっくりしたのは町民ばかりではない。本所の男子生徒の心を侵害させた事も事実である。その為に全校生徒の成績が向上するようであれば幸甚なれど、皮肉にも宮内生徒監より教務科の方にきつい申し入れがあった。その内容は、本所より女子部へ、また女子部より本所への連絡に生徒を使わぬようにということであった。修業年限は六ヶ月とし、第三部特科と呼称することとし、卒業後は第三級無線通信士の免許を渡すこととなった。

担任の先生は、一組室井氏、二組野辺氏と決定されたが、両女史とも東京中央電話局から特に強引に割愛して頂いた方で担任兼英語の先生ということである。授業課目は次の通りである。

無線電信電話学
無線電信電話実験
電気通信術
無線電信電話法規
英語
体練

卒業後は東京中央電信局、中央電話局、気象台、東京逓信局などに配属になったのである。なかには船に乗せろ、飛行機に乗るんだ、話が違うなどと駄々をこねて教官を困らせた方もあった。これら卒業生は総計百一名で(入学者数より一名多いのは謎)その中には引続いて今日まで在職し、郵政省や日本電信電話公社の幹部となっている方もいる。

女子部の第二期生は、同じく百名とし、日の出高女が空爆で焼失したため、第一支所近くの富士見高女を借用して開講することとなった。開講予定日を昭和二十年九月一日として入学許可書を発送後に終戦となった。その後はあの通りの混乱で、開講取り止めの通知が届かなかったり、行き違ったりして、実際に上京した方々も相当数あった。

一時は、練馬の第一支所を使って少数でも一組編成して開講することを強調された教官もあったが一切取り止めの命令が来たのが八月二十八日であった。以上のようにして第二期生はついに誕生しないで終ったことになる。


この引用の文脈をたどれば、ほぼ女子部の全容は把えられたといってよい。「かくの如く」女子部はあった訳で、その歴史は公平氏の掌中から解き明かされたのである。しかし、もう一つの側面、つまり生徒からの肉声も我々は"幸いなことに"把えることができた。断片的ではあるが、座談会からその肉声を拾うことにしよう。

加藤皎子 (私は看護婦になるつもりでしたから)看護婦になれば外地勤務は覚悟していたから。出来るならば何もこんな狭い所にいないで、それこそ外地に行きたいという気はあったですよね。
三谷和子 でも最終的には段々、「三級は船に乗ったとしても漁船ぐらいなものですよ。」といわれたわ。
前田京 最初の入学試験当時には何も言わない訳よ。
三谷和子 そうよ、それで一級ぐらいでしょう、飛行機に乗れたのは。二級、三級は船なのよ。
高野一夫 それをいわれたのは、入学してまもなくですか。
三谷和子 そうです。
長岡美登利 押しかけて行ったのね、職員室に……
三谷和子 「皆は、船に乗りたいだの、飛行機に乗りたいだのというが、皆さん三級だったら漁船程度で、もう、あらくれ男と一緒になってやるんですよ。」なんていわれて、驚き。やっばり、私なんか船にあこがれていましてね。それで、じゃ横浜へ行くんなら船舶無線会社に行こうなんていってね。船舶無線に行ったらいくらか船に乗せてもらえるんじゃないかなと思ったら、とんでもないですよね。
高野一夫 それで、長岡さんがちょっとお話しになりましたけれども、押しかけたといいましたが、何処へ行きましたか。
長岡美登利 職員室へ。本所の方の職員室へ皆で押しかけて行きました。飛行機に乗せて下さいとか、船に乗せて下さいとか、皆で押しかけていったんです。
前田京 何だか、血判を押して行くとかやっていましたね。私も入れといわれたけど、とてもこれは出来そうもない相談じゃないかと思っていたから。
三谷和子 私達、愛国心にあの時燃えていたのよね。看護婦さんになるか、むしろ、女だてらに…
加藤皎子 第一線に行きたかったのよね。
(続き2)

この女子部には、ほぼ全国から生徒が集まった。これは新聞紙上において公募したことも一つの理由となっている。公平氏は昭和十九年九月十五日に授業が開始されたと述べているが、実際にはその年の十二月一日に始まり、彼女達第一期生は昭和二十年六月に卒業している。藤田光子氏は、その在学から就職、終戦当時の生き様について次のような話を寄せてくれた。

女子部一組  藤田光子

母が新聞で無線講の女子生徒募集の欄を読み、私に受験する事をすすめました。母は自分の夢を私に託したのでしょう。

合格した私は女学校とは全然違った教科に興味を持ち、私なりにかなり一生懸命勉強したものでした。殊に自宅でオシレターでの送信の練習は想い出深いものがあります。

卒業しまして、私達十二人は陸軍気象部隊に配属され、ジャンケンで勝った二組の人達は高円寺の馬橋にあった本部へ、負けた一組の六人は気象台の分室に、そこで送信、受信に分れ、私は野村さんと受信の二班に属することになりました。この二班は非常に居心地がよく優遇され、雑用は一切しなくて済み、ただ仕事のみ一生懸命していればよかった所で、感度はよいが雑音が多く受信機の調整の大変な北支、中支、南支。感度の悪いウラジオストック、ハバロフスク。感度が悪い上に途中欧文の入る(軍略数字の中に欧文が入るとまことにまぎらわしいのです)マニラ、グァム。本数字なのでブルンブルンと感度明瞭の関東軍司令部、張り切って毎日を過ごしました。

終戦近くなりますと、夜勤が終りほっとして仮眠室で寝入り鼻に空襲、夜が明けて寮に帰ると一室に集められて見習士官からの訓話、居眠りすると容赦なく指名され本当に眠いのが辛かったです。食事の悪さ(軍なので民間よりは良かったらしい)と寝不足のため骨と皮でしたが、気持ちだけは気丈なものでした。

間もなく終戦、復員する時「万一のときに」と青酸カリを貰い家族の疎開先の花巻へ、軍用列車に大勢の復員兵と一緒に乗って帰りました。

戦争も個人にとって天変地異の一つといえるなら、この女子部の生徒もそれに巻き込まれた一例としてよいであろう。彼女達の"ほんろう"は一つの時代を明示するが、彼女達の生き方に対する様々な思いは、それとはまた別といってよい。四谷信子氏は「女子部の生徒とは」という問に次のように答えてくれた。

女子部というのは、当時の国策として設置されたと思うんですけれど、目的はどうあれ、やはり講習所を受験し、そこで勉強した婦人たちは、何かを求めて積極的に行動を起こしていったということでこれは非常に評価されていいんじゃないかと思うんです。そして、しかも現職で働いている人がいるんですから、これは非常にすばらしいことだと思いますし、そういう意味では女子部に入った一期生というのは、それなりにきちんとした意識を持ちながらその期間を勉強し、卒業されてからもそれなりの生き方というものを私はやっているんじゃないかと思うんです。そういう意味で、この女子部というのは高く評価されていいと思います。それこそ今日的にも一定の評価を受ける何ものかを持っていた人達といわれてもよいと思います。

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社会の出来事 昭和十九年一月二十六日内務省、大都市で防空法による建築物、強制取り壊し開始。
昭和十九年二月東京都、雑炊食堂を開設。(十一月二十五日都民食堂と改称)
昭和十九年三月五日警視庁、高級料亭、待合、バーなど閉鎖。
第六節 支所とその独立

官制改正によって昭和二十年四月一日、東京目黒の本所は「中央無線電信講習所」と改称され、板橋、大阪、熊本、仙台、新潟の各支所も独立の無線電信講習所となった。さらに岐阜と岡山の一部、山口(防府)の一部が板橋へ合流した。独立の経緯を記した資料はないが、それぞれの支所がそれぞれ独立の無線電信講習所に「昇格」したと表現したメモがある。

元来、地方支所の設立は主に漁船乗組みのための第三級無線通信士の需要の増大に対処するためのものであった。また、第一級、第二級無線通信士の培養源ともしたのである。それが独立昇格によって定員増と上級の二級通信士の養成が図られた。

熊本電波工業高等専門学校創立三十周年記念誌(昭和四十八年十月)によれば、………

"昭和十八年十月五日、財団法人熊本無線電信講習所が設立されたが、同年十一月一日逓信省移管となり、官立無線電信講習所熊本支所となった。特科(修業年限一年・第三級無線通信士資格付与)を設置。

昭和二十年四月、従来の支所から独立して、官立熊本無線電信講習所となり、特科を拡充したばかりではなく、普通科(修業年限二年・第二級無線通信士資格付与)が中心となっての大量養成が、陸海軍の強い要請で実施された。第五高等学校、熊本中学校、熊本商業学校などの教室を借り入れ各分校とし、生徒は市内の代表的旅館を、多数借り入れて宿舎とした。当時一般の学校'はすべて授業を休止し、軍需工場へ動員され、当所のみが授業していた。"

しかしながら、独立した地方の官立無線電信講習所が、実質的にその本来の目的に即して機能したのは、敗戦までの半年にも満たない期間であった。支所の卒業生に特に戦死された方が多く、しかも何の身分保障もない軍属としてであった。卒業式での卒業生総代の答辞「死んで参ります。」の言葉は、今でも重すぎるほど重い。パシー海峡での輸送船の遭難、ルソン島での栄養失調死、沖縄地方での戦死等々、目黒の本所を含めて卒業生が数多く戦死、病死、負傷、抑留されたのである。遺族への補償、慰霊祭の具体的な事例は皆無である。

他に大洲支所の事例がある。目黒へ入学した生徒の中から、四国、九州地方の出身者を疎開させ授業をうけさせるために、昭和二十年六月二十七日、県立大洲中学校内に、官立無線電信講習所大洲支所が開所した。本科(一級通信士資格付与)を設置。目黒本所の高等科に相当。その後半年余で閉鎖され、二十年十二月二十日、大阪無線電信講習所に吸収された。

支所設置から閉鎖までの時の流れは、………

18.10.1   東京第1支所(板橋)
  〃    東京第2支所(渋谷)
  〃    大阪支所(大阪)
18.11.1   熊本支所(熊本)
  〃    仙台支所(仙台)
19.4.1    東京第1支所を板橋支所と改称
  〃    東京第2支所を四谷へ移し四谷支所と改称
  〃    渋谷支所を新設
19.8.25   藤沢分教場
19.10.20  芝第1支所(高輪中)
  〃    芝第2支所(慶応)
  〃    芝第3支所(正則中)
  〃    芝第4支所(芝中)
20.3.31   四谷・渋谷支所閉鎖
20.4.1    芝第5支所(明学)
  〃    藤沢分教場を藤沢支所と改称
  〃    無線電信講習所を中央無線電信講習所と改称
  〃    板橋・大阪・熊本・仙台各支所の独立
  〃    新潟を新設
  〃    岐阜・岡山・山口(防府)の一部を板橋へ合流
20.5.10   芝第2・芝第3支所閉鎖
20.6.21   仙台の弘前支所新設
20.6.27   中央無線講大洲支所
20.11.30  仙台・弘前・新潟の閉鎖
        再試験で仙台再発足
20.12.5   芝第4支所閉鎖
20.12.20  大洲支所閉鎖
21.3.30   芝第1支所閉鎖
21.3.31   板橋閉鎖,中央無線電信講習所板橋支所とする
22.3.31   板橋支所閉鎖

第七節 実習生、戦場へ

大東亜戦争突入以来、各地で戦勝を重ねてきた日本軍も一九四二年(昭和十七年)六月五日、ミッドゥエー海戦に於てわが海軍は四空母を失い、これを境にして戦局は転機と化した。同年八月アメリカ軍はガダルカナル島に上陸したが同島への補給に参加した輸送船団は海・空からなるすさまじい攻撃に依り輸送路は絶たれ多数の船舶を喪失するにいたったのである。孤立化したガダルカナル島は戦うに弾薬なく、守るに兵卒なくして翌年二月ついに同島からの徹退を余儀なくされ南方区域の制空・制海権も次第に米軍の手におちていった。しかしこのまま見逃しておくわけにも行かず、わが軍は南方諸島に増派して敵の北上を食いとめるしかなかった。

この頃官立無線電信講習所の第一部普通科第一期生は席上課程をおえ、昭和十八年四月勇躍して陸上(海岸局、無線関係工場)あるいは海上へ、実習課程へ、校門を後にした。これに続いて席上課程を三ヶ月短縮された第一部高等科生は翌年一月より、一普二期生は三月よりそれぞれ学窓を離れ、実習生として戦場に派遣された。これより先、前年の十二月には徴兵猶予の廃止により学徒出陣が行われ、混迷化する戦局に立ち向って行ったのである。

7-1 一部(船舶)

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/6-7-1.htm

7-2 二部(航空)

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/6-7-2.htm

7-3 三部(陸上)

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/6-7-3.htm

7-4 少年軍属の活躍

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/6-7-4.htm

とても辛い時代ですね。
第八節 物資不足下の学生生活

急速に物資が緊迫を告げ出したのは一九四一年(昭和十六年)十二月八日の大東亜戦争開戦時からであった。それまでは不足といってもそれ程の深刻さはなかった。無線電信講習所の在校生徒はそのほとんどが地方の出身者であっただけに、下宿生活を余儀なくされたが、この頃の下宿の料金は二食つきで三十五円程度であった。この下宿のあっせん等は昭和十六年四月に設立された報国団の生活部で面倒を見ていたが、一九四四年(昭和十九年)以降あいつぐ空襲で家を焼かれ絶対数の不足から生徒自身が部屋探しに奔走せざるを得なかったのである。生徒達は親戚や縁者を頼ってかけめぐり寝宿(ねぐら)を求めた。また、ある者は下宿先を焼かれ着のみ着のままで茫然自失、一時郷里へ引揚げることさえあった。

学校当局も下宿や宿舎の手配には最大限の尽力をした。私立無線学校の統合にともないそれらが使用していた寮を利用することになり、一部の生徒は寮長の指導により毎日規則正しい寮生活を送り、ここから目黒の本校あるいは各支所へ通学していたのである。また、海軍予備練習生制度が発足して海軍を志願した者は新装成った鵠沼の校舎(ここは全寮制)に移った。

日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり主食、調味料、魚貝類や肉そして野菜にいたるまでの食品は一定量に制限され、石けんやマッチまでも自由に求めることができなかった。また、衣料品も点数切符制度となり重衣料からタオルや縫糸までその範囲に及んだのである。以下はその学生々活の断片である。

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…食生活…
主食である米麦が配給制度になってからは、地方の生徒はその居住地から転出証明書なるものを市町村役場から発行してもらい居住地の世帯に転入届をする必要が生じた。こんな関係から下宿屋は特別の好意を持たれている以外は賄付が姿を消し、生徒達は外食券によって食事をとらねばならなかった。この外食券は甲・乙・丙と三種類あり、その労働量により主食の配給量が異なっていた。すなわち職種により軽・中・重労働に仕分けされ、学生や一般サラリーマン及び主婦は一日二合三勺と決められていた。しかし、戦局が激しくなるにつれてこれらの主食の代替として小麦粉やパン類、さつまいもが配給されるようになり、米の配給は一月のうち十日ないし十五日位になってしまったのである。このため外食券を必要としない雑炊食堂には学生を含めて餓えた人々が朝から立ちならび、飯粒の浮いたスイトン汁をすすっては腹を満たしたのである。しかしこれも長くは続かなかった。

食い盛りの生徒達は一日二合三勺の主食で済む訳がなく、外食券二枚を一食にとるいわゆる"二丁盛り"をやっていたせいか、一ヶ月分の外食券が二十日位でなくなり、翌月分にまで手をつけてしまう有様であった。そしてニッチもサッチも行かなくなると食糧休暇をとって帰郷し、ふたたび上京の際は米やイモ等をどっさり背負い込んだ。しかし主食が配給制となってからはこれらの移動が禁止され、車中や駅の改札口では警察官の荷物検査がたまたまあり、見つかれば没収ともなるので、監視の目をくぐり抜けて下宿まで持ち帰ることは並大抵の仕わざではなかった。だから外食券がなくなれば、ふるさとに主食の救援を依頼しての自炊生活となり細々と炊煙をあげていた。こんな状態であったから自然に欠席者が増え、また、授業を受けていても血色が冴えず居眠りをする生徒が増加した。

やがて生徒達に朗報がとび込んできた。すなわち一九四四年(昭和十九年)九月期の入学生より陸海軍の予備員制度が在学中から適用され、生徒には重労働級の丙食(一日に米食四合)の配給となった。この増量によって生徒の顔色もみるみるうちによくなり、おまけに一ヶ月当り二十五円の給料が軍から支給されるとあっては申し分がなく、全くの給費生であった。ちなみにこの頃の通信士の初任給は月額八十円、大学卒が七十円、中等学校卒で四十円であった。その上、予備生徒としての証明があれば駅に長い行列をして切符を求めなくとも自由に窓口で乗車券を買うこともできたのである。

…服装…
食生活がかくの如くであったから肌身につける衣料品も意のままにならなかった。靴下一つをとって見ても今日のようなナイロンの耐久性のあるものではなく、あちこちが裂けてはツギをあててはいた。上着やズボンについても然りである。軍事色が強くなつてからは、背広を着た人々は非国民扱いにされ街では見られなくなった。これに代ってカーキ色をした国民服が愛用され、一般的に菜っ葉服が作業着や外出着として流行したのである。

わが無線電信講習所の制服は蛇腹つきの紺のチューニックで官立になってからは襟に黄金色の「官」の文字が入り、その辺にある怪しげな私立無線学校の生徒と区別されていた。このことは「おいらは違うんだゾ……」といった自意識を働かせ胸を張って堂々と歩いていた。確かに彼等から見た場合この「官」文字は羨望の的であったことは事実である。帽子も恰好よかった。しかしこの姿も長続きしなかった。せいぜいこの輝ける制服に身を包めたのも昭和十八年が限度であった。翌年になると衣料不足から自由自在の服装になり、紺サージがあるかと思えばカーキ色の詰襟あり、霜降りもあれば色あせたピンク色もあるといった多種多様で、まさに服装から見る限り烏合の衆であった。特に私立無線学校が廃校となり統合されてからは、襟に輝いた「官」の文字はなくなり、コンパスマークの帽章も先輩達のものより二回りも小さくなった。そしてコンパスマークの中に描かれた「R」という文字も、敵性語の頭文字であるということで片カナの「ム」に変化してしまったのである。服装がかくの如き状態であったから帽子についてもマチマチであった。卒業生から譲って貰ったのであろう無線電信講習所の初期のものや学生帽、はたまた戦闘帽もある始末で無帽の生徒も何人かいた。

ただツギハギだらけの衣裳ではあっても心は錦とばかり、空腹つづきの食に耐え、そして何度も焼け出されては手狭な住で息をしながら、戦勝の祈願を一生懸命していたのである。

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…空襲警報発令下の学校生活…
空襲警報発令中でも敵機が頭上へ来ない限り授業は続行された。一九四五年(昭和二十年)はじめの東京大空襲の際ももちろん授業中であり、席を立ったり騒ぐと教官に叱られるので、横目で窓越しに市街地等の炎上する煙を望見したものである。

当時一般学生や生徒(中等学校や高専、大学)は勤労奉仕に駆り出され、女学生等は女子挺身隊と称して軍需工場に勤労を余儀なくされていたが、無線電信講習所の生徒は特別扱いで、在学中一〜二回近くの飛行場へ整地作業に動員されたのみにとどまった。これも国からの計いで、教官から「勤労奉仕もなく然も給費生として勉強させて貰っているのだから、空襲警報下であろうと授業は続行する。そのためには一日も早く学業を修得し、実戦に役立つ通信要員として完成するよう努力せよ。」と刻苦勉励を命題にされたのであった。
8-1 軍事教練

一、陸上教練

官立無線電信講習所に軍事教練課目が正科として採用されたのは一九四三年(昭和十八年)の四月からであった。初代の配属将校には川上陸軍大佐、同教練に久保山教官(陸軍中尉)がそれぞれ就任した。何といっても目黒の本校々庭は狭あいなため、各個教練しか実施できず、従って実戦教練となると広大な土地を必要とするため戸山ヶ原(山手線新大久保駅下車)まで赴いて行われたのである。

大体において支那事変が勃発してから、各中等学校では教練が正科にとり入れられていたので、本校入学者はそのほとんどが軍事教練の経験者であったし、基礎訓練から実施する必要はなかったわけである。実技教練のほか、軍事学がとり入れられたが、これは官立無線電信講習所に陸軍予備生徒や海軍予備練習制度が適用されてからの教科であり、当然のことであつた。教官は前述した川上明陸軍近衛大佐でこの人は陸軍幼年学校から陸軍士官学校そして陸大とエリートコースをすすんだハエ抜きの軍人であった。みるからに軍人らしくキリキリっと引き締った端正な容貌は謹厳そのもので「動かざること山の如し」で、さながら昔の武将そのものであった。

昭和十八年からは富士の裾野において数日から一週間にも及ぶ野外演習が行われ、まるで実戦さながらの訓練であった。この演習場には他の大学生もいて、野営そして炊事と困難を克服し、常日頃の軍事教練の成果を確かめることに意義があったのである。特に昭和二十年になつてからの野外演習は極端に食料事情が悪化し、ひなびた蕗であるとか、さつま芋の茎などが食用に供され、まことに戦場を思わせるものがあった。

このほかに持久力を訓練するものとして、錬成行軍もしばしば実施され一億国民火の玉となって戦争の遂行に励んだのである。以下は一生徒が記録した行軍記である。

錬成行軍記
昭和十八年七月五日。曇天。七時五十分部隊編成、八時十五分校門を後に蘆花公園に向う。隊伍を整え、歩調を揃えての堂々の市街行進である。わが第三中隊第一小隊も靴音高く颯爽として続く。ニヶ月振りの行軍に全員の緊張も物すごく歩度も相当に速い。世田谷太子堂付近で最初の小休止あり。

太陽こそ顔を出していないが七月の暑気に身体はしっとりと汗ばんで来た。拭うひまもなく出発、以後しばしば現れる電車線路の踏切はすべて駈足である。これに加えて舗装道路の照り返しの熱気に漸く疲労の色を見せ始め、小休止を繰り返した。

出発後少時にしてついに甲州街道に出た。拡張中の道路を軍歌の声にはげまされ、ばく進にまたばく進、雲間をついて照りつける太陽はヒリリと痛い。既に顎は出、尻は後れて難行軍、しかし落伍は小隊の名誉にかけてもできない。「頑張れ、もうすぐだ」と互いに無言の中に励まし、敢闘精神に燃えて頑張りつづける。路傍の停留所に電車を待つ人々の顔は、ホームから柵越しに我々の全身流汗の姿を見て、その烈しさに打たれたように頷いている。やがて正面に緑畑が展け、その向うに黒い森が見えてきた。目指す蘆花公園である。踏み出した豆の痛さも忘れて急に元気が出た……。時まさに正午。大休止一時間をとり昼食となる。

公園の緑蔭で弁当を頬ばりながら、先頭小隊の者の語る所を聞けば、汗が目に泌みこんだせいか迷路隘路へ踏みこんで予定より六キロ近く多く行軍したとのことである。十三時に全員再び点呼をとり集合、更に大宮八幡に向う。甲州街道を逆に戻り上高井戸よりそれて北上する。浜田山を通過する頃、疲労はその極に達したが、軍歌を高唱し歩調を揃え歯を食いしばっての強行軍だ。この時道路の両側に亭々とそびえる杉の並木が現われた。一瞬疲労を忘れて武蔵野を讃美する。道は担々としてど、こまでも続き、歩いて歩いて歩き抜いた。

十四時三十分目的地に到着、一同厳粛裡に八幡宮に参拝、境内の杉木立の中に集結して講評を受ける。「………おおむね良好」との教官殿の声に一同息をこらしホッとした。

「本日の行程では良好なのは当然である。近々更に強度の行軍を実施する予定である。」と生徒監殿の講評を我等は肝に銘じた。そうだこれしきの行軍は行軍の中には入るまい。遠く前線の将兵に思いを致すとき、そして幾千里昼夜を分たぬ行軍を偲ぶならば、我々は更に一段と奮起せねばならないのだ。

晴れあがった空にまた雲が拡って来た。蝉の声が聞えてくる。汗ばんだ頬をさっと風が撫でて行く。
二、海洋教練

陸上教練が正科であったのに対し海洋教練は自主参加であった。海洋国である日本にとって毎年、海洋教練並びに海事講習が実施されたことは誠に意義深いことであった。短期間の合宿訓練ではあるが、ハードなスケジュールのもとに参加者は大いに意欲を燃やし、よく耐えよく勉学にいそしんだのである。毎朝六時起床と同時に海軍体操が行われたが、この体操は相当猛烈なもので、初心者は三十分位でヘトヘトに疲れ汗ビッショリになって、翌日は体の節々が痛む程であった。

日課は午前中が座学、午後は訓練として短艇操練、水泳等がギッシリと組込まれていた。学課としては航海術、運用術大要、海図使用法などであるが、短時間のことゆえ極めて概略だけであったが、船位測定にしろ速力算定、海図の見方など一応良く呑みこめるものであった。午後の実技訓練の前には再び海軍体操が始まり、本教練の参加者一同は相当きびしい訓練を受け、一時は立って歩く事にさえ苦痛を感じた程である。期間はたとえ短くとも実に有意義であった。
8-2 課外活動

昭和十六年四月一日、学友会が解散して報国団が結成されるや、新体制のもとに報国団鍛錬部が発足し、相撲、柔道、剣道をはじめとして十五班が設けられ、全校をあげて体育鍛錬に務めるようになった。これらはすべて課外に行われたことはもちろんであるが、夏期休暇や冬期休暇を有効に活用してもっばら体力の育成につとめたのである。その活動たるや活発を極めたことはいうまでもない。その尊い記録を、ここに紐解いてみることとした。

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海洋班
報国団鍛錬部海洋班が結成されるや大日本海洋少年団に加入、同少年団へ加入の東都各種大学専門学校学生生徒合併により大日本海洋学生団を組織することになり本格的に訓練を開始した。初代の班長には生徒監補小川教官が海軍生活の経験から迎えられた。毎週の土曜日には月島の東京高等商船学校内ボンドに繋留してある海洋少年団カッターを借用し、猛訓練を重ねたのである。 この結果、規律と訓練に立派な結晶となって現われ、他校生の驚歎の的となった。なお、その訓練内容は以下の如く広範囲なものであった。
訓練

一、練習艦船訓練
二、航海術、運用術、通信術
三、海洋航空術
四、カッター、ヨット、和船操法
五、機動艇訓練
六、海軍諸学校及び海兵団訓練
七、海洋道場における訓練

海洋・講座

一、海上努力史
二、海軍戦略
三、海洋国防国家論
四、大東亜共栄圏経済研究
五、現代海運論
六、水産事業事情
七、造船、造兵、造機事項の研究
八、海洋文学について
九、海洋航空一般

この成果について述べれば、昭和十七年二月十一日海洋建国式典に参列し、漕艇態度につき日暮海軍少将より讃辞あり、四月には海洋講座「大東亜共栄圏経済について」及び「現代海運論」についての座学、五月「海軍戦略と日露戦争」及び「海上努力史」に毎回十五人ずつ参加聴講。六月「機動艇の構造と原理について」の座学を研修後、王子の日本機動艇協会に於て機動艇実習を行い、同月二十四日の水上練成大会(於隅田川)では出場選手諸君の健闘により準決勝まで進出したが、惜しくも明大に破れ去った。七月十五日より二十一日までの一週間、海の記念日の行事として第一回学徒海洋展覧会を銀座三越で開催、本所より二点を出品して多大の好評を博した。この問七月二十日には横浜沖に航海練習船「日本丸、海王丸」を訪ね、第一本科生七人が乗船訓練を受け東京湾を巡航した。

また、この年の夏期休暇を利用して全国の各鎮守府、各高等商船、普通商船学校、水産学校に於て夏期訓練を実施し、海洋訓練と海洋精神の徹底を期し、海に志す者にとっての意気を昂揚したのである。

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野球班
何としてもグランドを持たないことは大きな欠点であったが、キャッチボールと軽いトスバッティングの練習に重きを置き、もっばら試合という実戦に臨んで技を練った。無線講野球部は、その昔から対官練試合において伝統を持っているせいもあり、 ひたすら猛練習に励んでいた。班長木村先生の指導のもと、一年生から練習に熱心な者のみをピックアップし、チームワークに重点を置いていた。

昨年芝浦グランドにおいて挙行された対官練試合に華々しく活躍した、大石、有村、拒鹿、栗山の四先輩を送り出したとはいえ、岸田、藤田、笹野、加藤、近藤、木村、田中、田代の八人を残し、岸田の攻守に加藤の好打が加わり、かつまた、ノーヒットに封じた記録をもつ田代、藤田のバッテリーを擁して破竹の勢いを示していた。対官練試合を目前に控えた本所チームは明電舎チームと対戦(昭和十六年六月二十二日)し八対○とシャットアウト勝ちしたのである。そのベストメンバーは次の通りであった。

8 岸田
7 近藤
3 加藤
2 藤田
1 田代
9 太田
4 須藤
5 笹野
6 長南

しかし翌年の対官練試合にはメンバーが一新したせいもあって11A対1と大敗を喫し二年振りの優勝とはならなかつた。しかし戦局がとみにきびしさを加えつつあったこの頃、野球は敵国のスポーツ扱いとされ、また、食糧不足を補うため、野球場という野球場は耕されて農地と化していったのであった。
籠球班
学友会籠球部も新体制のもとに報国団鍛錬部の翼下に入り籠球班として従来からの活躍を維持していた。班長には当所の先輩であり中堅教師として尽力されている岸本末吉先生をいただき、二十余人のハリキリボーイをもって完壁なる陣営をひいていた。報国団の編成とともに、新運動場の開設に着手、また、第四号館建設のため従来のコートは無くなつた。

しかし対官練試合に連勝の栄を有している当所は、新入生をまじえ練習に励もうにも根本的要件たるコートがない。このため班員の努力に依り近所の、田道国民学校のコートを放課後に限り使用できるはこびにまで漕ぎつけたのである。班員諸君は熱心に夕暮れがせまるまで練習をした。

待望の校内大会を六月に開く予定であったが、田道国民学校のコート借用の許可は得たもののついに不可能となった。七月に入って、ポールドの注文ができ上り、臨時的に朝礼を行う場所に、不完全ではあるがコートをつくり、遅まきながら試合を開始したのであった。校庭のコートであるため雨天となれば使用できず、天を仰ぎみる日が多かった。このため本科一、二、選科一、二の予選は施行できたが、天候不順のためリーグ戦のはこびとならなかったのが残念であった。

翌昭和十七年九月六日、日頃の練習の成果が問われるときがやってきた。先輩達が築いた勝利の伝統を立派に保持したのである。炎熱のもと黄塵を蹴ってボールを追い、あるときはまた肉体のあらん限りの熱汗を振りしぼって白線上を走り廻った鍛錬の賜であったともいいかえることができる。とにかく勝ったのだ。そして対官練試合に於ては堂々連勝不敗の金字塔を打ち建てたのであった。ちなみに本試合のスコアーは42対24である。

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相撲班
相撲はわが日本の国技でありその伝統たるや神代の昔にさかのぼり、武士道の精神を養うには最適の競技である。日光に、大気に、その赤銅色の肉体をさらし、肉と肉がぶつかり技と技が火花を散らす。そのもっとも男らしい姿こそ戦時を飾るにふさわしいスポーツであった。
その最たる目的は鍛錬にあった。しかし錬成の成果を検討するため各班の各科予選を行い六月二十八日にはその決勝戦が行われたのである。本科からはD組の岡本、古家、田岡、川上、野口、選科からは旧選B組の富田、宮原、木村、古藤、東、特科からはA組の徳久、手塚、中村、高木、下夷等の堂々たる体駆の力士が選出された。各科から選抜された選手だけに真剣さがあふれ、熱のある敢闘絵巻がくりひろげられた。各科からの割れるような声援のうちに結局は旧選B組の優勝となったが、相撲班がかくも盛大なるうちに、その成果があがった最大の理由は、日本古来からのスポーツであり、春秋の二場所、国技館で開催される大相撲の人気の強さにあったことといえる。

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蹴球班
団体精神の涵養、体力の練磨から見て青空の下でのびのびとした気持で競技をたのしめるその一つでもあるが、悲しいことにわが無線講にはこれまたグランドがない。このせいもあって学友の入班を大いに歓迎したくともできない理由がそこにあつた。そのため春の校内大会もついに中止のやむなきに至ったのである。されど昨年の再設以来、月々の練習にさえ事欠く状態の本班としては当然のことながらグランドの入手が最大の課題であった。
幸いにして、学校当局もグランドを完備するように聞いていますので、過去のハンディキャップを征服し、よりよき強力な鍛錬班にすることを期待していたが、課外活動としての実りは少なかった。
剣道班
「自我を去り大我に生きる」は剣の心である。この剣を通じて通信士たらんとする肚の練磨に充実を見てきたのが我が剣道班であった。特に剣道師範として、剣道界の第一人者たる宮沢先生を迎えたことは班員の大きな喜びであった。

鍛錬道場として近く建築される道場の完成まで講堂を借用することになり、泥だらけの所を毎日の清掃により、かなりのところまで磨きあげることに成功した。道具は当初稽古用六人分、試合用六人分、木刀五十本、竹刀多数を整備し、人的物的に見ても錬鍛部の大班としての陣容を備えていた。この問、校内大会を開催し、各クラス七人の対に依る優勝戦を行い、青年の意気と負けじ魂とに元気のあふれる試合が随所で見られた。

翌年一月、木の香も真新しく新設された武道々場で大寒中に行われた寒稽古には五十人の班員が参加し、班長中野先生の指導は身心両面に痛烈なるものがあった。何といっても剣の極意は校内大会などでは物足らず、毎秋開催される対官練試合にすべてを賭けていたのである。そのためには酷寒あるいは猛暑さえいとわず、班員は放課後、道場へ通いつめた。

その日がやってきたのは意外と早く感じられた。わが無線講剣道班は全技を発揮すべく、九月六日敵方剣道場に乗りこんだのであった。試合は双方十一人ずつ出場、すなわち十一回の組合わせとなり三本勝負の対抗試合である。結果的に見るならば左記の戦績が物語るように実力はあくまで伯仲していた。

戦績
   無線講 5 -- 官練 6
(先鋒)   井上---◎南風原
     ○植野---◎古瀬
     ◎河上---須藤
     ◎和田---岸本
       北沢---◎上野
(中堅) ◎矢野---小林
     ◎橋本---〇志岐
       山鹿---◎浜田
     ◎沢田---〇松本
副将    宮下--- ◎花房
大将  ○小林 --- ◎元吉

この結果、我等の先輩が先年苦心さんたんして得た優勝旗を再度官練に渡してしまった。

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柔道班
古来武士道の精神の中にも「柔よく剛を制す」という言葉がある。この精神にのっとり、わが柔道班は報国団の結成を見ざる前に中尾道場より同場主催の紅白試合参加の招待を受けた。当時本所には道場もなく、班員の有志はこの設立を当局に依頼した結果、新築校舎四号館の送信室に畳を敷きつめ仮道場ができ上ったわけである。このため試合期日まで、幾日もなく充分なる練習が積めなかったにもかかわらず、それなりの成果があったことは選手諸君の奮闘の賜であった。

試合後問もなくして、大野先生の御尽力により中尾先生を師範として迎え、七月二日より十三日まで暑中稽古を行い、納会には本科対選科の紅白試合は当所柔道班史の一ぺージを飾るにふさわしいものであった。下目黒の旧競馬場跡に堂々たる錬武の殿堂が建設されてからは酷寒、酷暑の夏冬を問わず年中意気に燃えた若人の気合いが漲り、窓外にまで聞えてきたほどであった。

絶えず高等商船学校等と大いに戦いを交えた経験を生かして、対官練試合始まって以来、最初の柔道戦には見事、六対三でこれを撃破した栄誉は賞されてしかるべきであろう。これこそ毎日夕闇の迫る頃まで畳を血に染めて頑張り通した汗の結晶でもあった。
以下に官練試合の戦績を紹介しよう。

   無線講 6一官練 3
(先鋒) ○竹中----前田
     ○阿部----松野
      古田部----○八塚
     ○泉地-----川島
(中堅) ○福田-----鈴木
     ○井原-----河田
      田島----○玉木
(副将)  三隅----○中田
(大将) ○飯田----伊集院

弓道班
弓道もまた、古来から武士道精神を涵養する上においては主たるものであった。息の音も聞えない静寂に浸り、その心を、おもむろな動作の内に一点に集中する。気持がうわついていたり怒っている時、そして悲しんでいる時等は決して本当のあたりは出ないのである。矢を射ることは自分の心を鏡にうつしているのと全くおんなじである。

学校当局の弓道班に対する御助力と、森謙吉先生の寸暇をさいての熱心な尽力により、あるいは特に師範として来校された船田先生の指導のもとに、その技能も着実に向上し、班員も百余名を有することになった。七月十八日には講堂裏の弓道場で弓場開きが行われたが、一般班員の礼射、また余興として源平競射などが終ると、一滴の神酒が各員にさずけられた。本弓道場は実に粗末なものであるが、これは先輩の残した尊い、また、親しみ深いものである。すなわちこの場所は初め池のあった所で、先輩諸氏の協力により埋立てられたもので、この業績がやっと開花したのである。

昭和十七年の秋には柔剣道とともに弓道も準正科として取り上げられ、班員が膨らんだせいもあり、練習できない生徒が数多く続出した。これと時を同じくするかのように、九月の六日対官練試合には堂々と、三四対二〇という好成績で快勝したのも日常の鍛錬が物をいったと断言できる。

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庭球班
当班が結成されてから、何等目立った活動はなく半年間は無為に終った。それというのもいくつかの班にあったように練習すべきグランドとかコートのないことであった。やむを得ず貸コートを使用して技能を伸ばすことに専念したが思うに任せなかったことは事実であるし、対外試合においても大きなハンデを背負っていた。
九月六日の対官練試合においてもそれがいえた。昨年電研コートに破れて以来、雪辱を期したのであるが、彼我の差は余りにもありすぎた。各選手は練習不足をものともせず善戦したが、完敗に終ったことは何よりも残念だった。

 無線講 0          官練 5
河原、古川組 1------4 正木、吉川組
須藤、山岸組 3------4 津島、征矢組
小林、長野組 2------4 田島、松本組
阿藤、内藤組 1------4 田舎館、田中組
脇本、山口組 2------4 中田、大野組

官練試合が終れば、我等のコートも生まれ出る。そのときこそ庭球班も新生すべき時である。
卓球班
卓球班においては班長に柏崎栄太郎先生の指示のもと、各々放課後及び休憩時間に技を磨き、忠実に身体を鍛えてきた。また、対官練戦に出場すべき選手達は昨年の雪辱を果さんものと、他の者の数倍も練習し、設備不充分にもかかわらず、各選手達は数段の進歩を遂げたのである。何しろ班員は各部各科を合せて数百名を擁する大世帯であった。

正確にいうならば昭和十七年六月末、対官練試合が定まるや、折出主将を中心に松田、日比谷、近藤、川辺、大塚、八戸、杉本の諸君は放課後、あるいは日曜日に勉学の余暇を割き猛練習を開始し、大日本卓球連盟の篠田氏をコーチに迎え必勝の信念も固かった。夏期休暇中、わずかの休養のあと、中電チームに挑戦して試合度胸を培い、総仕上げの猛練習が続けられた。

鍛錬部における重要行事の一つである対官練戦は卓球のみではなく、各種の競技でその覇が競われたのである。残暑に汗ばむ九月六日その幕は切って落された。わが方の猛練習にもかかわらず、相手の巧妙な攻撃は鋭く、左記の戦績を残して昨年に続き敗退したのである。

第一回戦 官練 6--1 無線講
第二回戦 官練 6--1 無線講

敗因を考えるとき、敵のカット、スマッシング、ショートと非常に変化のある球に悩まされ、足場が定まらずして失点を重ね、自滅を招いたといえる。わが選手はストレートに数日の長があり、力よりも技に屈したといっても過言ではない。

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陸上班
これまた、グランドがないのが大きな悩みの種であり、また、機器類も何一つとして揃っていなかった。将来は運動場も目黒の競馬場の方にできる予定と聞いているので何かと楽しみである。わが校においては、陸上競走というと一寸縁がなさそうに聞こえるが、これからの社会と国家を背負ってゆくためには、健全な精神はもとより頑健な体力も必要なのである。

これといった活動はなかったが、敢闘精神だけは他校に劣ることはなかった。

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以上、鍛錬部各班の課外活動について当時の模様を概略説明したが、錬成の成果を各班それぞれに対官練試合に投入したことは事実であった。このほか、山岳班は、官練の諸君と北アルプスを走破したり、水泳班は館山へ合宿訓練と、夏期休暇を利用しての鍛錬に励んだのである。

報国団団誌二号(昭和十七年)より、守屋勇一氏による「報国団規則等改正に就て」をあげておこう。

今般報国団規則等改正させられ九月二十九日より施行のこととなったが、右は時局下青年学徒の錬成益々重大性を加えつつある実情に鑑み、報国団の使命を一層発揚し之が積極的活動を計る為必要なる改正を加えられたもので其の概要は以下の如きものである。

一 報国団事業部各班を左の通編成替し各部の均衡を計ると共に其の活動の積極化を期することとしたること。
一 従来鍛錬部所属の剣道班、柔道班、弓道班、海洋班及滑空班を国防訓練部に、力行班の一部を生活部に移管し新たに排球班及山岳班を設けたること。
(以下省略)
第九節 終戦と授業再開

9-1 授業再開

昭和二十年八月十五日、苦しく長い悲惨な戦いの時代は、真夏のカラッとした暑い日、途切れ途切れの玉音放送とともに終った。大日本帝国はポツダム宣言を受諾、連合軍に無条件降服した。戦さに敗れたのである。

物心つく頃から戦争の中で日々を過し、あらゆる物の乏しさ不自由さに耐え、「人生は二十五年」と、恰好よく死ぬことだけを教えられた世代はここで、荘然自失なすすべを知らなかった。多感な青春の一時代を無線講で過し、あるときは苛烈きわまりない軍事教練によろこんで耐え、その反面、あるときは文科系の講義で、当時はご法度であった外国文化のユニークな一端にふれ、四合五勺(一般配給は二合三勺)の麦まじりの飯に満足しつつ、ついに滅私奉公、七生報国もままならず、「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死」ねず、戸惑いながら全く価値感の異なる世代へ押し流されるのを余儀なくされてゆく。

とは言え、ここで諸先輩の、虚しかったが尊い「死」のあったことを、儼然とした重い事実として忘れてはならない。今、同窓後輩として享受しているこの豊かな平穏な日々が、先輩諸氏の犠牲によってもたらされたことをいつまでも心にとどめよう。限りない希望を抱いて万斛の涙をのんで散っていった、数多くの先輩、安らかに眠れ。

在校生の「敗戦」の迎え方は実にさまざまであった。全国的規模で拡充されたそれぞれの支所を含めて、在校生たちは、夏期休暇でようやく帰省した故郷の実家で、鵠沼海岸藤沢支所の炎天下で、臨時の疎開先の殺伐とした栃木県の田舎の分教場で、目黒夕映が丘の暑く焼け爛れたアスファルトの校庭で、心ならずも病に倒れた病床で等々、ある者は驚愕し、また、ある者は動揺し、激怒し、人によっては荘然自失、そのなすところを知らなかった。B29の空襲もなく、グラマンの地上攻撃もなく、静かな明け暮れがよみがえったが、この虚脱状態の中でその行動は全く統制のとれないものであったのである。講習所当局側の指令が、この混乱の中で全在校生に徹底する筈もなく、昨日までの軍直轄の純軍事学園がどう処置されるかは、全く予測できないまま、授業再開の目途は暗胆たるものがあった。

当時の無線電信講習所のありようを窮い知る上で、目黒会誌「めぐろ」(第七十二号・昭和五十二年三月)へ寄せられた、斉藤佐々雄(昭和十一年四月本科卒)の次の小文は恰好のものである。氏は、昭和二十年四月新潟に新設された、新潟無線電信講習所の教官として赴任し、同年十一月敗戦縮小前に退官された。

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"新潟無線電信講習所のこと
昭和二十年に入り、京浜方面の空襲がますます激しくなり、適当な校舎も見当らなくなり、疎開の意味で、仙台と弘前、新潟に昭和二十年四月講習所を設立。その他関西方面は大阪、詑間、熊本だった。小生は新潟へ船舶運営会から派遣された。講習所は最初、旧制新潟高等学校の校舎の二つの教室を借用して授業し、生徒は約八十人で二クラスであった。所長は逓信省から大川千春さんが来、教官はほとんど逓信省からの人で、一部は信越電波監理局から講師として、三、四人、合計十四、五人であった。広島、長崎が原爆に見舞われてから、今度は新潟の番だとの噂が流れて、以後生徒たちの勉強も身が入らず、所長以下教官、講師ともに心痛の結果、新潟市から三島郡宮本村に急拠疎開、宮本村小学校の二教室を借り、小学校低学年の授業終了から講義が始まって、終了が午後五時。生徒は村の農家に三、四名ずつ振り当てられ宿泊していた。教官、講師は村にただ一軒あった旅館を借用。月曜から土曜日まで、普通。日曜日は作業用具を農家から借りて、農作業の手伝い、村道の整備で、毎日休養の暇のない程の強行作業であった。終戦当時は生徒の混乱烈しく、数日間講義ができなかった。

十月に入り逓信省の意向とかで、講習所を整理することとなり、仙台、弘前、新潟の生徒全員を再入学試験を行って、合格者を仙台に入学させることになった。小生は新潟閉鎖前、昭和二十年十一月船舶運営会に復帰のため辞職した。"
(続き)

学校側、生徒側ともに暫らくは混乱のまま、講習所そのものの存否如何が問われているという噂の中で、八月十七日、当時の熊谷直行鵠沼支所長から、「課目の改廃、縮小を行う方針である。また、生徒に対しては就職が困難の見通しのため、進退をよく考えるよう促したい。教官の減員もあるやも知れず。」とおぽろげながら将来指向への所信の表明があった。確たる講義が行われないまま、八月二十五日にいたり、九月二十日まで全講習所休講となり、善後策が討議されることとなったのである。

授業再開は、公式には昭和二十年十月一日であった。ここに、断片的な敗戦の頃のメモがある。

二十年八月十五日(水)   正午御勅語拝聴、午後授業中止。
       十八日(土)   臨時休講。
   九月二十五日(火)   授業再開、七期生全員。
      十月一日(月)   始業式。五期、六期生組替え。
    十月十五日(月)   女子部再開。

戦時中、敗戦、そして授業再開への道程は、その人、その人によって異なるところがあったが、在校生の平均的な様子を、次の回想録は語っている。

(以下次のサイトへ)

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/6-9-1.htm
9-2 閉鎖された講習所の生徒の引継

大正七年船舶通信士の養成機関として発足した無線電信講習所は、第二次世界大戦の勃発による陸.海.空からの需要の激増に伴い、私立の養成機関では到底これに応ずることが困難になったので、昭和十七年はじめ逓信省に移管され、官立無線電信講習所として再発足した。その後は軍部からの要請もあり、全国的な規模に拡充され発展、すべてが軌道にのって運営されようとした時には、既に敗戦の色濃く、ついに昭和二十年八月十五日を迎えることになったのである。

官立無線電信講習所の通信士養成機関としての華やかな時代は、敗戦とともに、ここに終焉した。
この時の官立無線電信講習所は、当然のことながら戦争に全面的に協力し、あまつさえ、生徒はすべて軍籍(陸軍は予備生徒・海軍は予備練習生)を持っていること、更に戦争による船舶の大量の喪失、民間航空の停止等、無線通信士の需要がほとんど無くなってしまったこと等で、逓信院は院議として講習所を廃校とすることになっていた。しかし、時の宮本吉夫電波局長(後、昭和二十一年三月十七日講習所所長を兼務)と、同じく電波局太原彦一技師(昭和二十年十二月講習所教頭として赴任)のお二人の大変なお骨折の末、その努力が実り、官立無線電信講習所はその存続が果たされたのである。

宮本局長は、「将来再び無線通信士養成の必要があること。」「廃校によって現在の講習所の生徒が失業することに堪えられないこと。」「講習所創設者である若宮家に対する恩義から言っても廃校するに忍びないこと。」等の複雑な心情から、占領軍の廃校指令があれば止むを得ないとしても、万策を尽して存続を計ることを決意された。

松前逓信院総裁は存続には初め消極的であったが、局長の粘り強い説得で漸く局長に一任された。

しかし、従前のような無線通信士の養成機関としての存続では、生徒の就職はおぼつかないので、制度はそのままとして、教科内容を改革し、無線通信技術者としての再教育が開始されることになった。無線機の修理から、将来の製造のための要員として役立たせようとしたのである。通信実践や法規関係等は縮減され、その代わり、機器の製造修理に役立つ無線通信に関する技術の科目が充実された。教官の配置、実験施設等一応の準備が整えられ、講習所改組は軌道にのった。このとき在校生は一人の脱落者もなく、全員この改革に応じたのである。

目黒にあった中央無線電信講習所は、市内の各支所(除板橋無線電信講習所)を藤沢支所を含めて吸収し、板橋無線電信講習所は、岐阜・岡山を吸収し、また、仙台・大阪・熊本は、そのままそれぞれの地名をつけた無線電信講習所として存続することとなった。

ここに、「電気通信大学」への発展の芽が、ごく小さいながらも吹き出しはじめたのである。

一方既に第一線にあった卒業生は、厳しい辛酸をなめたン連抑留者を含めて逐次復員したが、その戦後は極めてつらいものであった。それは到底筆舌に尽し難いものであるが、その極く一端を公平信次元教官の一文でうかがうこととしたい。

(続き)

講習所卒業生の終戦後の苦労など。
第二次世界大戦直前のわが国保有船腹は、630万トン・2、693隻、之に戦争中の建造船舶、掌捕再用船を加え、365万トン・1、433隻、合計995万トン・4、126隻、之が戦争中の総船腹量と推定されている。

一方、戦争による損粍は、実に、843万トンという大きな数に達し、敗戦直後は僅か、150万トン・873隻にすぎず、しかもその半数以上が航行不能の状態で、外航適格船にいたっては、わずか10隻という状況であった。

船舶の数は「軍用資源秘密保護法」により、全く発表されなかったし、沈没した軍用船の船舶局からは廃止届も提出されなかったので、統計的な数字を出すことは困難であるが、終戦直後における船舶局数は総数で六百局に過ぎなかったと推計されている。

これらの船舶は、すべて連合国軍の管理下におかれ、昭和二十年九月から二十二年末までは貸与米船とともに海外同胞の帰還輸送に従事したが、船舶局の通信は復員局関係の通信事務で忙殺された。

二百隻の貸与米船もわが国船員が乗務し、日本船舶とともに船舶運営会が運航に当ったのである。

ここで一と言、電波通信についての進駐軍のとった措置について述べたい。もちろん敗戦とともに、局の運用、設備に関する戦時規制は大部分解除され、無線設備の規格を定めた船舶保護指示第十一号も、昭和二十一年一月に廃止された。

一方、昭和二十一年九月には、連合軍総司令部の指令により、わが国の無線局の全部に対して、使用周波数、呼出符号の再指定が行なわれ、船舶局も周波数の変更を一斉に行なわねばならないこととなった。昭和二十一年十月には、更に総司令部から無線局の統制強化について指令があり、船舶局においても、

(1)新しい周波数許容偏差に適合しない送信機は昭和三十三年三月までに改装すること。
(2)空中線電力は、総司令部発行の「電波周波数一覧表」に掲載されている通りに改めること。
(3)新たにSCAP番号を付した許可書を発行し、その有効期間を三年とすること。

と定められたのである。

さて、この中(1)の周波数の許容偏差は、後に国際電気通信条約にとり入れられた数値であり、当時としてはきわめてきびしいもので、短波帯については従来の主発振方式では、到底規定値を保ち得ない状況であった。その結果大部分の船舶の送信機が、水晶制御式に改装されたのであるが、何さま、現場の通信士としては、猛勉を強いられながら、とんだ苦労を重ねたものであった。

ついで、昭和二十三年十月より、国際条約の決定で、従来日本に割当てられていた呼出符号のJシリーズ、JAAからJZZまでが、JAAからJSZまでに削減された。船舶局の相当の部分の呼出符号の変更が行なわれることとなり、自他共に新符号に馴れるまでの間、必要以上にまことに過大の心労を被むったのである。

一方、無線機器の生産保守に要する生産資材は、「臨時物資需給調整法」に基く配給統制をうけることとなったので、無線局の新設はもちろん、工事設計の変更、機器の取替えにも、すべて経済安定本部の認証が必要となった。またひとつ事務的にも厄介な関門ができ、万事頭痛の種であった。かくのごとく、敗戦直後から昭和二十四年頃までの、総司令部のわが国無線局に対する監督と統制は、実に厳重なものがあり、ために船舶局の検査、無線通信士の再勉強指導等については、中央、地方とも非常に努力を払ったものである。

破壊から再生への混乱期における、通信士各位の功績はまことに大きいものがあった。

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社会の出来事 昭和二十年八月十五日正午 終戦の詔勅放送される。
座談会 無線講習所編

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/zadankai.kousyujo.htm

座談会  無線電信講習所女子部編

http://ssro.ee.uec.ac.jp/lab_tomi/uec/uec-80/uec-60/zenpen/zadankai.joshibu.htm

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以上が全国に出来た学校から、電信協会が管轄しやがて逓信省管轄の官立無線電信講習所の歴史を書いてきました(卒業生には作家の新田次郎もいます。昭和17年無線電信講習所本科卒業後、中央気象台(現:気象庁)に入庁。富士山観測所に配属)が、「逓信講習所」(現在の郵政大学校)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E6%94%BF%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
や「逓信官吏練習所」について情報をお持ちの方はこちらのトピへの書き込みをお願いいたします。
電気通信大学 電気通信学部が平成22年4月より「情報理工学部」と改組されました。

このように、無線電信講習所として、発足した電気通信大学は通信から情報へ軸足を移して参りました。

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1918(大正7)年12月8日 社団法人電信協会管理無線電信講習所を創設(東京市麻布区飯倉町)
1920(大正9)年12月15日 校舎を移転(東京府荏原郡目黒村)
1942(昭和17)年4月1日 無線電信講習所を逓信省に移管
1945(昭和20)年4月1日 中央無線電信講習所と改称
1948(昭和23)年8月1日 官制改正により文部省に移管
1949(昭和24)年5月31日 国立学校設置法施行により電気通信大学を設置
電気通信学部を設置
船舶通信専攻、陸上通信専攻、電波工学専攻を設置別科(通信専修)を設置

1949(昭和24)年7月15日 開学式典を挙行



2010(平成22)年4月1日 学術院を設置
情報理工学部を設置(電気通信学部を改組)
総合情報学科、情報・通信工学科、知能機械工学科、先進理工学科、先端工学基礎課程(夜間主)、共通教育部
情報理工学研究科を設置(電気通信学研究科を改組)
総合情報学専攻、情報・通信工学専攻、知能機械工学専攻、先進理工学専攻、共通教育部
宇宙・電磁環境科学センターを設置(菅平宇宙電波観測所を改組)
先端領域教育研究センターを設置
フォトニックイノベーション研究センターを設置
ユビキタスネットワーク研究センターを設置
先端超高速レーザー研究センターを設置
全学教育・学生支援機構を設置(大学教育センター、学生支援センターを統合)
大学教育センター、学生支援センター、アドミッションセンターを設置
実験実習支援センターを設置
ものつくりセンターを設置
教育研究技術職員部を設置(技術部を改組)
eラーニング推進センターをeラーニングセンターに改称
国際交流推進センターを国際交流センターに改称

http://www.uec.ac.jp/about/profile/history.html
各地方に無線電信講習所支所として開設され、学制改正後は仙台・詫間・熊本電波工業高等専門学校も合併により、「電波工業高等専門学校」の名前が消えてしまいました。

・仙台高等専門学校

沿革
昭和18年1月22日
(財)東北無線電信講習所
昭和24年5月31日
国立仙台電波高等学校
昭和46年4月1日
仙台電波工業高等専門学校に改組
電波通信学科(2学級)
昭和52年度
電波通信学科1学級を電子工学科に改組
昭和53年度
情報工学科を新設
昭和60年度
電子制御工学科を新設
平成元年度
電波通信学科を情報通信工学科に改称

http://www.sendai-nct.ac.jp/college/pages/000040.php
・香川高等専門学校

沿革


高松工業高等専門学校 詫間電波工業高等専門学校
昭和24(1949)年
  官立無線電信講習所を詫間電波高等学校と改称


昭和37(1962)年 機械工学科2学級,電気工学科1学級からなる国立高松工業高等専門学校を創設

  
昭和41(1966)年 土木工学科1学級を増設

  
昭和46(1971)年   国立詫間電波工業高等専門学校を設置


昭和51(1976)年   電波通信学科2学級,電子工学科1学級に改組


昭和55(1980)年   電波通信学科2学級を電波通信学科1学級,情報工学科1学級に改組


昭和60(1985)年   電子制御工学科1学級を増設


平成元(1989)年   電波通信学科を情報通信工学科に名称変更


平成2(1990)年 機械工学科1学級を改組し,制御情報工学科を設置

 
平成6(1994)年 土木工学科を建設環境工学科に改組

 
平成11(1999)年 専攻科(機械電気システム工学専攻,建設工学専攻)を設置

 
平成13(2001)年 電気工学科を電気情報工学科に名称変更

 
平成16(2004)年 独立行政法人国立高等専門学校機構高松工業高等専門学校に移行
事務部に施設課を設置

独立行政法人国立高等専門学校機構詫間電波工業高等専門学校に移行
専攻科(電子通信システム工学専攻,情報制御システム工学専攻)を設置

平成20(2008)年 詫間電波高専事務部と再編し,香川地区事務部を設置

高松高専事務部と再編し,香川地区事務部を設置


平成21(2009)年 高松高専と詫間電波高専を高度化・再編し,独立行政法人国立高等専門学校機構香川高等専門学校を設置


http://www.kagawa-nct.ac.jp/prospectus/development/enkaku.html
・熊本高等専門学校

昭和18年10月5日 財団法人熊本無線電信講習所として設立
昭和18年11月1日 逓信省所管となり、官立無線電信講習所熊本支所となる
昭和20年4月1日 官制改正により、官立熊本無線電信講習所として独立
昭和21年6月1日 熊本大江町居屋敷539の4に移転
昭和23年8月1日 逓信職員訓練法(昭和23年法律第208号)の施行により、文部省に移管
昭和24年5月31日 国立学校設置法(昭和24年法律第150号)の施行により、熊本電波高等学校と改称
昭和26年7月11日 熊本市大江町渡鹿に移転
昭和46年4月1日 昭和46年4月1日 国立学校設置法の一部を改正する法律(昭和46年法律第23号)の施行により、熊本電波工業高等専門学校となる。
電波通信学科設置
初代校長に熊本大学教授福井武弘が就任
昭和46年10月5日 高等専門学校開校記念式典挙行
昭和48年3月31日 熊本県菊池郡西合志町須屋2659の2の新校舎に移転
昭和49年4月1日 部課制の実施により、庶務課、会計課、学生課の3課設置
昭和52年4月1日 学科の改組が行われ、新たに電子工学科を設置
昭和54年4月1日 新たに情報工学科を設置
昭和55年4月1日 第2代校長に熊本大学教授工学博士岡田正秀が就任
昭和62年4月1日 第3代校長に大阪大学教授工学博士中村勝吾が就任
昭和63年4月1日 新たに電子制御工学科を設置
平成元年4月1日 電波通信学科を情報通信工学科に改称
平成5年10月12日 創立50周年記念式典挙行
平成6年4月2日 第4代校長に熊本大学教授工学博士上野文男が就任
平成12年4月1日 専攻科(電子情報システム工学専攻、制御情報システム工学専攻)を設置
平成13年4月1日 第5代校長に熊本大学教授工学博士江端正直が就任
平成16年4月1日 独立行政法人国立高等専門学校機構法(平成15年法律第113号)の施行により、独立行政法人国立高等専門学校機構熊本電波工業高等専門学校となる
平成17年8月3日 フィンランドのオウルポリテクニックと国際交流協定を締結
平成18年5月8日 JABEE対応教育プログラムが日本技術者教育認定機構から認定された。
平成18年8月12日 第1回JABEE認定プログラム終了証書授与式挙行
平成19年2月5日 アンテナ評価/EMI用電波暗室設置工事竣工

平成19年3月28日 独立行政法人大学評価・学位授与機構から機関別認証評価において高等専門学校評価基準を満たしていることが認定された。

http://www.knct.ac.jp/site/view/contview-57659.jsp.html

http://www.kumamoto-nct.ac.jp/general/school/history.html
詫間電波工業高等専門学校(現 香川高等専門学校)の沿革を補足します。

沿革

・官立大阪電信講習所

 昭和18年10月   『官立無線電信講習所 大阪支所 』開設
     (大阪府中河内郡矢田村 )
 昭和20年4月   『官立大阪無線電信講習所 』に改称
 昭和23年8月   文部省に移管
 昭和24年4月   香川県三豊郡詫間町 に移転
  本科・第一別科・第二別科 の3科を設置

・詫間電波高等学校

 昭和24年5月   『詫間電波高等学校』 に改称
 昭和26年4月   「詫間電波高等学校 専攻科」 設置
 昭和28年3月   「詫間電波高等学校 第二別科」 廃止
 昭和46年4月   『詫間電波工業高等専門学校』 設置 
 昭和47年3月   「詫間電波高等学校 第一別科」 廃止
 昭和48年3月   「詫間電波高等学校 本科」 廃止
 昭和49年3月   「詫間電波高等学校 専攻科」 廃止
 昭和49年6月 『詫間電波高等学校』 廃止

・詫間電波工業高等専門学校

 昭和46年4月   『詫間電波工業高等専門学校』 設置
   「電波通信工学科」  1学科 3学級
 昭和46年10月 『詫間電波工業高等専門学校開校記念式典』 挙行

 昭和51年4月 「電波通信工学科」 3学級のうち1学級を 「電子工学科」 に改組

 昭和55年4月 「電波通信工学科」 2学級のうち1学級を 「情報工学科」 に改組
 昭和60年4月 「電子制御工学科」 1学級を増設

 昭和61年11月 『創立40周年記念式典』 挙行


 平成元年4月   「電波通信工学科」 を 「情報通信工学科」 に名称変更
       
 平成5年11月   『創立50周年記念式典』 挙行

 平成16年4月  『独立行政法人高等専門学校機構詫間電波工業 高等専門学校』 設置
         専攻科 「電子通信システム工学専攻」 「情報  制御システム工学専攻」 設置


http://www.takuma-ct.ac.jp/syoukai/enkaku.htm

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