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認識論(epistemology)コミュの真理について

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真理についての議論です。

【真理論】

1.西洋論理学の諸説 真理論には、〈対応説〉、〈整合説〉、〈余剰説〉、〈合意説〉、効用説、あるいは定義不可能説等様々なものがある。
【対応説】 真理は、文・言明・命題等と事実との対応(correspondence)にあるとの説。「有るものは有ると語り、有らぬものは有らぬと語ることが、真である」とのアリストテレスの主張(A)が、対応説の古典的定式とされる。現代ではラッセルが、文や判断が真となるのは、それに対応する諸対象の複合体である事実が存在する場合だと主張した。また前期ウィトゲンシュタインによれば、名前の連鎖である文が真となるのは、(i)各名前と対象とが1対1対応し、また当の文中の名前の配列が対象の配列と構造上同型(文が事態の写像)で、かつ(ii)その事態が現実に成立する場合である。だが対応説は、真理の担い手、文や言明からの事実の独立性、真なる文に対応する事実の一意的確定可能性、嘘つきのパラドックス、といった多くの難問に曝される。
【整合説】 言明・命題の真理は、事実との対応ではなく、無矛盾な別の言明・命題群との無矛盾性・整合性(coherence)だという説、合理論的・観念論的形而上学においては、しばしばある命題の真理性の規準は、包括的な整合的体系の他のすべての命題との整合性に求められる。O.ノイラートら一部の論理実証主義者も、特に分析的・数学的命題の真理性を無矛盾な公理体系との整合性に求めた。だが整合説に対しては、同じように整合的で包括的な体系が複数可能であり、従ってそうした体系は等しく真だから、真なる包括的な体系は一意的には決まらないという難点が指摘されてきた。
【定義不可能説と同値テーゼ】 フレーゲは真理の担い手を文の意義・思想に求め、また「思想Aは真である」の表現する思想は思想Aと同一で、「真である」という真理述語は何ものも付加しない、と主張した。だが彼は真理述語が消去可能であるとの余剰説を採らず、循環に陥る故に真理を定義不可能で単純かつ根元的なものと見なした。フレーゲは真理定義の充たすべき制約、〈同値テーゼ equivalence thesis(E)〉:「Aが真なのは、Aの場合その場合に限る」、特に「思想〈雪は白い〉が真なのは、対象[雪]が概念[白い]に属する場合に限る」を提出した。アリストテレスの定式(A)も同値テーゼと解しうる。
[余剰説] F.ラムジーのように、「命題・信念 p は真である」はp自身と同義的で、真理概念はそれなしに済ませられる余剰(redundancy)だと主張する場合も、「命題・信念 p が真なのは p の場合に限る」との同値テーゼがまさにその論拠となる。また真理と意味を切り離す近年のホーウィッチらの真理「デフレ理論」も、同値テーゼこそが「真理」の意味を完全に説明すると主張する。
【真理定義】 事実概念の問題性、量化の処理、嘘つきのパラドックス等、伝統的な対応説の諸困難を克服する画期的提案が、1933年ポーランドの論理学者A.タルスキによってなされた。1つの言語中のすべての文に関する同値テーゼ(E)の導出可能性こそ、彼の真理定義の正しさのための必要十分条件を形成する。真理定義は、(1)従来の真理概念の内容を適切に含み、かつ(2)嘘つきのパラドックスを避ける、形式的に正しいものでなければならない。(2)は、メタ言語/対象言語という言語の階層性と、対象言語の形式化によって達成される。(1)は、次のような制約を充たす「真理規約T」によって保証される。第一に、対象言語(例えば英語)中のすべての文に対し、たとえば次のようにメタ言語(日本語)中での翻訳を与える等値式が、真理定義から導出可能であることである。
(T)「Snow is white」が真なのは、雪は白い場合
その場合に限る。
また第二に、「and」その他の論理語が複数含まれる場合も、次のような(T')文を繰り返し適用することより、複合文の真理条件を確定することができる。
(T')「Snow is white and sky is blue」が真なのは、
「Snow is white」が真で、かつ「Sky is blue」が真の場合かつその場合に限る。
第三に、こうした各(T)文自体が真、つまり、たとえば「雪は白い」は「Snow is white」の正しい翻訳、でなければならない。第四に自由変項を含む述語「x is white」は、それが対象の無限列によってかくて無限個の対象に関する「すべて」「ある」といった量化の問題も対処可能となり、真理定義は「充足」関係に還元される。したがって、対応は事実や属性に訴えずに、対象の無限列に関与するのみでよい。しかし、言語の階層性により、「真理」概念は階層毎に体系的多義性を示す。この難点克服のための試みが近年のクリプキらの提案である。また翻訳概念を前提するタルスキの真理定義を逆転用し、真理概念から意味理論を導こうというのがデイヴィドソンである。彼は近年我々の整合的な信念体系は大局的には真だとの整合説中に対応説を包摂する特異な真理論を主張している。
【合意説】 すべての探求者による同意が真理だとのC.S.パース説は、J.ハーバマースにより理想的な発話状況下での討議によって根拠づけられた、合理的な合意(consensus)説に洗練された。しかし合意説、また命題の真理性がその帰結の効用によって決まるとの効用説も、逆に当の命題が依拠する前提によって決まるとする検証説、また近年のH.パトナムの理想的な合理的受容可能性条件説、さらには、整合説さえも、真理の定義というよりは、命題の真理性が充たすべき必要条件・規準に関わっていると言うべきであろう。
一方、対応説は、なお克服すべき難点があるとはいえ、「ある言明が真なのは、それによって真となるような何かが存在するときに限る」という対応原理、ミニマムな実在論的原則(ダメット)という、真理概念の直観的理解の核心を含み、また同値テーゼはいかなる真理定義も充たすべき一般的制約を表していると言えよう。
2. インドの場合ー西洋との対比 サンスクリット語では知識に関する「真理」に相当する言葉はプラーマーニャ(正しい認識手段に基づいていること)、プラマー(正しい認識)、サンヤグジュニャーナ(正しい認識)などである。また、真理の担い手としては、〈認識〉すなわちジュニャーナが挙げられることが普通である。「真理」に相当する言葉の定義が各学派によって試みられたが、それらを現代の西洋哲学における真理論の分類に沿って分けることが可能である。
【〈正しい認識〉の諸説】 まず、真理の〈対応説〉に与すると考えられるものは、ニヤーヤ学派やミーマーンサー学派のバーッタ派である。例えばニヤーヤ学派による定義の代表的なものは「〈正しい認識〉とは、対象に従った認識である」とあり、またミーマーンサー学派バーッタ派では「〈正しい認識〉とは、それまで知られていない、ありのままの認識」とする。また、ニヤーヤなどの文献の中には「他の認識との整合性」という表現が見られ、真理の〈整合説〉のような考えがあったことも示唆されているように思えるが、実際は体系全体での整合性が説かれたわけではなく、ある認識と、その後の別の認識との間の整合性が説かれたに留まっている。仏教論理学派はこの「整合性」という語を、自らの真理の「効用説」に与する考えを説明するのに用いている。彼らの定義は「〈正しい認識〉とは整合性を欠くことのない認識である」というものであり、「整合性を欠くことのない」とは〈効果的な働き〉をもたらすということであるとする。
【定義の不可能性】 このような〈正しい認識〉の様々な定義に、ドイツの哲学者フレーゲによる「真理」の定義不可能性の議論を思い起こさせるような徹底的な批判を加えた哲学者が、ヴェーダーンタ学派不二一元論派のシュリーハルシャである。彼は、各学派の与えた様々な定義を順番に批判していき、〈正しい認識〉は定義不可能であると主張する。彼によれば、事実と認識の間の「対象に従った」ということで〈正しい認識〉を説明しようとする試みは成功しない。すなわち、この場合の「対象」とは事実の側にあるものを意味しているが、その対象と認識の間にどんな類似性があると言うのかと彼は問うのである。もし類似性があるとすれば、それは?@全体として類似しているか?Aある部分で類似しているかのどちらかであり、対象と認識という異なったものに?@は不可能である。また、?Aだとすれば、どのような対象であっても、それとどのような認識の間とでも、我々は広い意味で何らかの類似性を想定することが可能なので、Aに対して「これはBだ」という認識が正しいことになってしまう。また彼は、〈正しい認識〉の定義がその〈正しい認識〉を前提とした表現でなされる場合を度々挙げて、それが循環論法に陥ることを指摘した。
【〈自ら〉説と〈他から〉説】 ミーマーンサー学派のバーッタ派は、どのような認識にとっても、それはその認識〈自ら〉〈正しい認識〉と理解される、という真理の〈自ら〉説を唱えた。これは認識は〈他から〉〈正しい認識〉となるというニヤーヤや仏教論理学派の唱えた〈他から〉説に対するものであるが、〈他から〉説のような正当化の観点からの説と解釈すると、馬鹿げた説と捉えられるであろう。しかし、これを西洋における「真理の〈余剰説〉」のように、我々が下す〈判断〉〈主張〉というものには、すでにそこに「これは真理だ」ということが含意されているということを説いているのだと解釈すれば、そこに意義を認めることができるであろう。


以上、岩波 哲学・思想事典引用〜

コメント(2)

上記のようなことを踏まえた時、
「とりあえずの真理」
であるとか、
「認識の限界」
を考えずにはいられません。


トートロジー【tautology】…辞書によると…命題論理で、要素となる命題の真偽がいかなるものであっても、常に真となるような論理式【a statement that is true by necessity or by virtue of its logical form.】

ここには暗黙のうちに定義域、そしてその境界線(不可避的に出会うものであれ、恣意的に設けられたものであれ)が含意され、その中において、同一性の獲得をする作業に他ならないのではないか?

同一性…辞書によると…事物が時や場所を超えてそれ自身に同じであること。
これはすなわち、特定の条件下で、認識する主体が、認識される客体を「客体そのものとして」捉える事であろう。

認識する主体とは「人間」なのであるが、動植物においても「認識」は起こっている。我々とは異なる認識システムによって。
そしてこの構図は生物に限らず、物質における、「刺激」「反応」の形式の延長線上にあると考えるのが妥当なのだろうか。



lower class への細分化、多元化…
upper class への敷衍、からの俯瞰…

「分ける」という二分法の域からは出られないのでしょうか。
ゼノンのパラドックスの、アキレスと亀宛らに。
>インドの場合……西洋との対比
サンスクリット語では知識に関する「真理」に相当する言葉はプラーマーニャ(正しい認識手段に基づいていること)、プラマー(正しい認識)、サンヤグジュニャーナ(正しい認識)などである。


『ニヤーヤ・バーシュヤ』は、真理の認識は至福を達成するためだと規定する。
そしてその場合、真理とは12種の対象についての真理のことだという。すなわち、
アートマンと
身体と
感覚器官と
対象と
意識と
思考器官と
活動と
欠陥と
転生と
結果と
苦と
解脱だ。

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