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認識論(epistemology)コミュの推論

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推論とは…

1.西洋 【推論と論証】 「推論」という言葉は、前提から結論へと至る知的活動もしくは過程を指すこともあれば、そうした活動や過程の結果を指すこともある。「推論」とほぼ同様な意味で用いられることの多い「推理」、「論証」、「証明」といった言葉に関しても同じ二義性がある。ここでは、活動もしくは過程を指す言葉として「推論」を用い、「論証」は、その結果を指すものとして用いることにする。推論は、いくつかの前提から結論を引き出す活動もしくは過程のことであるのに対して、論証は、その言語的表現である。したがって、論証は、前提を表現する文と、結論を表現する文から成り立っている。こうした区別は、推論を人間の知的活動とみなしたときに、それがどのような機構によって成立するかといった、心理学および心の哲学に属する問題を検討する際にとくに必要となる。しかし、論理学においては、与えられた推論が正しいか否かといった事柄がもっぱら問題となる。この観点からは、推論の活動的もしくは過程的側面は捨象される。よって、論理学において、推論は、その結果の表現である論証を通じて研究されるのが通例である。
【理論的推論と実践的推論】 論理学で扱われる推論はもっぱら、一連の前提が成り立っているときに、さらにどのようなことが成り立っていると言えるかを問題とするものである。つまり、前提が真であるならば、結論も真であると言えるかどうかが、こうした推論の正しさの基準となる。だが、推論の中には、ある状況のもとで何をなすべきかを主眼としてなされるものがある。「減量しなければならない。減量には断食がいちばんだ。だから、断食しよう。」といった推論がその一例となろう。後者のようにある行為への動機づけを直接与える推論を「実践的推論」、それに対して、行為への直接的な含みをもたない推論を「理論的推論」と呼ぶ。ただし、両者のあいだには推論としての本質的な相違は存在せず、話題となっている事柄の違いがあるだけだと考える哲学者も多い。そう考える哲学者は、先の例を、「減量することは私のためになる。減量には断食がいちばんだ。だから、断食することは私のためになる」という推論だと解釈する。こう解釈された場合、前提・結論はともに真偽の言える文となり、通常の理論的推論と同様にその正誤を評価することができる。他方、実践的推論と理論的推論の本質的相違を主張する哲学者は、こうした解釈を拒否し、最初の前提(「減量しなければならない」)と結論(「断食しよう」)を真偽の言える種類の文とは考えない。このように考えるときには、理論的推論の評価とは別の評価法を、実践的推論に関して考案しなければならないことになる。
【演繹と帰納】 理論的推論とは本質的に区別されるような実践的推論を認めるべきかどうかという問題を棚上げしたとしても、理論的推論のなかに二種類のものを区別する必要がある。正しいとされる推論において、結論は前提によって支持されるものでなくてはならない。前提を認めながらも結論を認めないことが不可能である場合、この支持は全面的である。こうした種類の推論は「演繹的に正しい推論」もしくは「(演繹的に)妥当な推論」と呼ばれる。「人間はみないつかは死ぬ。私は人間だ。したがって、私はいつかは死ぬ」は、こうした演繹的に正しい推論の典型的な例である。高度に複雑な演繹的推論の例としては、数学における証明を挙げることができる。演繹的に正しい推論の場合、「結論は前提から帰結する」「前提は結論を含意する」と言われる。しかし、われわれが受け入れる推論のすべてが演繹的に正しい推論であるわけではない。たとえば、「一千年以上も長生きした人間はこれまでいたことがない。私は人間だ。したがって、私は一千年以上生き続けることはない。」という推論は、演繹的には正しくない。だが、この推論が強い説得力を備えていることは否定できないだろう。このような推論においては、前提は結論を全面的に支持するわけではないが、きわめて強い度合いの支持を与えるからである。演繹的には正しくないが、前提が結論に対して一定の支持を与える推論は、「帰納的に正しい推論」と呼ばれる。
現代の論理学は、演繹的推論の体系的研究を通じて、この種類の推論についてのわれわれの理解に大きく寄与した。しかしながら、帰納的推論に関しては、確率概念を基礎とする体系化が試みられてはいるが、演繹論理学に比肩しうる帰納論理学の体系は存在しない
【正当化と発見法】「推論」、それにもまして「推理」という語には、「論証」や「証明」という語にはない、もうひとつの意味を区別することができる。つまり、ある事柄に対して、その説明を与えるような理由を探索する過程もまた、「推論」もしくは「推理」と呼ばれる。論証や証明は、前提から結論へと進行するのに対して、ここではむしろ逆に、いわば結論から前提へと遡行する形で推論が行われる。論証において、前提は結論を正当化する。与えられた論証が結論の正当化として十全なものであるかどうかを、論理学はもっぱら問題とする。結論を正当化する前提がどのようにして発見されるか、また、そのための方法が存在するかといった問いは、論理学の主要な関心事ではい。しかしながら、発見法的推論の重要性は否定できない。古くは、数学的探究の方法論としての「分析/総合」の区別がある。この意味での「分析」は、公理から定理へという「総合」と違って、ある命題が証明されたとみなして、その証明にはどのような原理が必要であるかを考察するという仕方で、定理の証明を発見する方法である。発見法的推論の体系的研究の必要性を唱えた、より最近の哲学者としてはパースが挙げられる。かれは、演繹とも帰納とも異なる推論の第三の型として発見法的推論を挙げ、「アブダクション」と名付けた。発見法的推論は、数学的定理の証明のみならず、日常的説明から科学的理論構成まで幅広く見られるものである。したがって、この種の推論は、説明についての一般理論のなかで検討されるのがもっとも適切であろう。
2.インド インド論理学では「推理」と呼ぶ。知覚に基いて、知覚できない対象を認識する過程。インドの認識論において確実な認識手段(pramana)の一つとして広く認められたが、唯物論者だけは推理の確実性に疑問を呈した。初期においては、『ニヤーヤ・スートラ』や『チャラカ・サンヒター』等に見られるように、?胎児から交接(現在→過去)、?交接から妊娠(現在→未来)、?煙から火(現在→現在)を推理するという三種の推理が区別された。次に、ヴァイシェーシカ学派やサーンキヤ学派では推理成立の基盤として因果関係等の具体的な関係を想定したが、ヴァスバンドゥはXがなければYもありえないという〈不可離の関係〉がなりたてば、YによってXを推理できるとした。さらに、ディグナーガはYの存在領域がXの存在領域によって遍充されれば、YによってXを推理できるという〈遍充関係〉の理論を導入した。また、論証式による論証を「他者のための推理」と呼び、推理と論証の同一性に着目し、後者が前者の言語化であることを明示した。なお、ダルマキールティは〈他心〉等のように決して知覚できない存在の推理・論証を経験からの類推(アナロジー)によって正当化した。


岩波 哲学・思想事典より

コメント(3)

アブダクション [abduction]

パースによって科学的探究の方法の一つとして定式化されたもの。もともとアリストテレスの『分析論前書』におけるapagogeの英訳語として用いられていたもので、パースによればむしろ「レトロダクション」(retroduction)と訳された方が正確であったろうと言われる。日本語では「仮説形成」とか「仮説的推論」と訳されることもある。パースの科学方法論では、われわれの科学的探究は、ある仮説の必然的帰結を確定するところの演繹(deduction)と、この帰結が観察事実といかに近似しているかを検証するところの帰納(induction)とに先立って、それまで説明の与えられていない不規則的現象のうちに一つの仮説的秩序を見出す過程としてのアブダクションが遂行されるとされる。これは、ある所与の現象を有意味で合理的な全体として把握するために、その現象を仮構的に解読しようとする過程であり、その真理性には何らの論理的保証もないが、しかしその合理性を完全に否定することは科学的知識全体を不合理なものに帰着させることになるとされている。このような〈発見の論理〉については、現在その基礎をめぐって認知心理学的な研究が進められているとともに、工学的デザインその他の分野でその応用が模索されている。


岩波 哲学・思想事典より
アナロジー [英] analogy

〈類比〉ないし〈類推〉と訳す。古代ギリシアのピュタゴラス派は数学的な比例をアナロギアといったが、プラトンやアリストテレスは認識や倫理や美学の諸問題にこの概念を拡張し適用している。一般に、ある事象と別の事象がアナロジカルだということは、前者に帰属する関係が後者のそれと類似するという仕方でまさに両者が類似することであり、数学における比例はその特殊な場合だと見なしうる。思想史を通じて、アナロジーは、演繹や帰納と並ぶ一つの認識拡張の原理として重んじられてきた。すでにアリストテレスは、言葉の転用すなわち比喩の構成原理の一つにアナロジーを数えている。「善のイデアは太陽である」というプラトンの隠喩を支えるのは、善のイデア:他の諸々の認識対象=太陽:すべての生き物、という「比例」である。この限りでアナロジカルな推論(類推)は隠喩的認識であるが、それはまた〈モデル〉に基づく思考でもある。例えば近代の物理学は〈分子〉によって気体の振舞や性状を説明したが、その際ビリヤード玉の集合というモデルにしばしば言及がなされた。このモデルに帰属する明らかに不都合なアナロジーを除く残りのアナロジーが〈気体分子〉という理論概念の内容をなすのである。
西洋の中世に発達した神学では、認識拡張の原理としての〈アナロギア〉が神認識に有効かどうかをめぐる多くの議論がなされた。神が有効な人間の知性では直接知りえず、信仰者でさえ神について字義的には言表しえないとしても、神と被造物との間の何らかの類比によって神を知る余地があるはずだからである。現代においても、認識原理としてのアナロジーは、直接字義的には「語り得ぬもの」(ウィトゲンシュタイン)をいかに概念化するかという問題にとって重要な意義をもつ。


岩波 哲学・思想事典より
>インド論理学では「推理」と呼ぶ。知覚に基いて、知覚できない対象を認識する過程。インドの認識論において確実な認識手段(pramana)の一つとして広く認められたが、唯物論者だけは推理の確実性に疑問を呈した。初期においては、『ニヤーヤ・スートラ』や『チャラカ・サンヒター』等に見られるように、?胎児から交接(現在→過去)、?交接から妊娠(現在→未来)、?煙から火(現在→現在)を推理するという三種の推理が区別された。次に、ヴァイシェーシカ学派やサーンキヤ学派では推理成立の基盤として因果関係等の具体的な関係を想定したが、ヴァスバンドゥはXがなければYもありえないという〈不可離の関係〉がなりたてば、YによってXを推理できるとした。


この辺のことを今、勉強していて、とても関心があります。

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