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サザンオールスターズ コミュのサザンのコンサート

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皆さん、明けましておめでとうございます。
ふつつか者ですが、本年もよろしくお願いします。
新年最初はサザンネタです。

 昨日は横浜アリーナに27歳になる息子と二人でサザンのコンサートを聴きに出かけた。サザンには「応援団」というファンクラブがあり、そこの先行予約で一発で引き当てた。ぼくはなぜか昔からチケット運が異常にいいのである。よくチケットの取れない人からはうらやましがられるが、これまで当たらなくて悔しい思いをしたという覚えがほとんどない。昨日も基本的には首都圏では独演会をやらない柳家喬太郎さんの独演会のチケットを引き当てた。
 1978年、サザンがデビューしたときからの筋金入りのファンである。いまだに「勝手にシンドバッド」のドーナツ盤のレコードを大切にしまってある。来る日も来る日も毎日、サザンを聴き続けて今年で37年になる。
 息子は小さい頃から大のお父さん子だった。息子も小さい頃からサザンを聞いて育ったので、自然にファンになったのだろう。以前、息子が中学生のときに反抗期になり、しばらく口も聞かなかったことがあった。しかし、険悪な雰囲気を救ってくれたのがサザンとビートルズの音楽だった。息子もサザンやビートルズが好きになって、音楽の話をするようになり、関係が修復し、元の通り、大の仲良しになったのである。息子とは親子というより、友達のような関係である。
 サザンのデビュー当時、TBSで黒柳徹子と久米宏司会の「ザ・ベストテン」という歌謡番組があって、よくサザンと世良公則とツイストが出演していた。あの頃、サザンとツイストはライバルと目されていた。桑田も「ザ・ベストテン」に出演し、「ツイストはライバルです」と語っていた。桑田と世良は互いにエールを交換し合っていた。しかし、それから37年経ち、サザンとツイストはお話にならないぐらい差が付いてしまった。あの頃、サザンがこれほどの大物になるとは誰が予想しただろうか。当初はコミックバンドとさえいわれていた。その後もヒット曲を連発し、「いとしのエリー」で人気は不動のものになった。
 大体、桑田佳祐は天才である。サザンの初期に「タバコロード」という曲がある。「タバコロードに、あんたぁ、セクシーばあちゃん」という歌である。これを聴いたとき、桑田には生涯勝てないなと思い知った。自分にはそんな言語感覚はない。
 一昨年のコンサートで、桑田が会場で10代から70代のお客さんいますか、と拍手を取りながら聞いていた。驚くべきことにまんべんなくいるのである。40代と50代が一番拍手が多かった。
 浮沈の激しい音楽業界にあって、常にヒット曲を連発し、世代を超えて愛されているミュージシャンというのは、他にはユーミンぐらいしかいないのではないだろうか。
 桑田の姉貴が亡くなったときは悲しんだし、桑田ががんにかかったときは我がごとのように心配した。こうしてコンサートを迎えることができて、本当にうれしい。
 

2014年12月31日(水) サザンオールスターズ

「年越しライブ2014 ひつじだよ!全員集合!」

横浜アリーナ

セットリスト


01. Big Star Blues(ビッグスターの悲劇)
02. フリフリ'65
03. 希望の轍
04. 気分しだいで責めないで
05. 匂艶THE NIGHT CLUB
06. メロディ(Melody)
07. 逢いたくなった時に君はここにいない
08. あっという間の夢のTONIGHT
09. JAPANEGGAE(ジャパネゲエ)
10. 死体置場でロマンスを
11. Computer Children
12. 鎌倉物語
13. BLUE HEAVEN
14. LONELY WOMAN
15. SAUDADE〜真冬の蜃気楼〜
16. ごめんよ僕が馬鹿だった
17. ラブユー褒章
18. 涙のアベニュー
19. 思い出のスター・ダスト
20. シャ・ラ・ラ
21. LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜
22. ピースとハイライト
23. 東京VICTORY
24. 爆笑アイランド
25. 愛と欲望の日々
26. イエローマン〜星の王子様〜
27. 怪物君の空
28. BOHBO No.5
29. ボディ・スペシャルII(BODY SPECIAL)
30. 勝手にシンドバッド

一月一日
<アンコール>
31. 天国オン・ザ・ビーチ
32. ロックンロール・スーパーマン〜Rock'n Roll Superman〜
33. 栄光の男
34. Oh! クラウディア

 最初から桑田は「NHKの中継が入る」ということと「カウントダウンは『勝手にシンドバッド』の『ラ、ラ、ラ、ラ、ラ』で迎えます」とネタをばらしていた。
 最初から全員がスタンディングである。途中、紫綬褒章を見せて、「ラブユー東京」の替え歌で「ラブユー褒章」を歌った。「じゃ、5000円からはじめます」とオークションをやりそうになったとき、場内は大爆笑。「LOVE AFFAIR〜秘密のデート〜」のあと、紅白の中継に入る直前、桑田はチャップリンのようなヒットラーのようなちょびひげを付けて、「みなさん、盛り上がっていることにしてください」といって、「ピースとハイライト」と「東京VICTORY」を歌った。「ピースとハイライト」はサザンにはめずらしい政治的メッセージの強い曲である。わざわざ紅白にこの歌を選んだことの意味を噛みしめた。その何曲かあとで、安倍内閣を痛烈に批判した歌を歌った。「ピースとハイライト」よりさらに政治色が濃い、直接的な歌詞だった。「衆院解散総選挙」という言葉もあったので、最近、作った歌である。ぼくはサザンがここまで歌うのかと衝撃を受けた。
 そして、「勝手にシンドバッド」でカウントダウンのとき、場内は最高潮に達した。新年が明けると、天井から色とりどりの風船が降り注いだ。「年の初めのためしとて」と「一月一日」を歌った。
 それから着替えてアンコール。最後は「Oh! クラウディア」だった。桑田は「愛してるよ!」「死ぬな!」と叫び、投げキッスをしながら去って行った。

 いつか死ぬ直前、自分の半生を振り返ることがあったら、昨日のサザンのコンサートは確実に入るだろうな、そんな一生の記念になるような素晴らしいコンサートだった。

 サザンの歌を聴きながら、ぼくはある人の姿をしきりに追想していた。これは以前にも書いたネタだが、初めての人もいると思うので、また、書いてみる。 
 サザンの桑田の恩師と飲み友達だった。通称、ガンさん、本名を岩坂義樹さんという。鎌倉に建長寺が運営している鎌倉学園(通称・鎌学)という中高一貫私立があるが、ガンさんはそこの美術教師で美術部の顧問だった。桑田は鎌学で美術部に入っていたのである。鎌学はいまや進学校だが、ぼくや桑田の頃(桑田はぼくより2つ上)は誰でも入れる学校だった。お寺がやっている学校なので、質実剛健で硬派の学校だった。当時の鎌学から青学というのは優秀なほうだった。逆に原坊の通っていたフェリス女学院は名うての進学校だったので、フェリスから青学は普通だった。当然、桑田夫妻の結婚式にもガンさんは呼ばれた。「高校時代の桑田君は目立たない子だった」とたしかガンさんはいっていた。
 いまから30何年前、サザンがこれほどの大物になる前(ま、当時としても十分に大物だったが、いまほどではなかった)、ガンさんと鎌倉の酒場で飲みながら「鎌倉でサザンのコンサートをやりましょう」という話をよくしていた。それは酒の席では盛り上がるのだが、ぼくもガンさんも実際には動かなくて、幻のコンサートになってしまった。あのとき、本腰を入れていれば、といまでも悔やまれる。
 ガンさんは教師をやりながら、絵を描いていた。「死んだ烏を描いた」という絵を見せてもらったことがある。実に暗い筆致の絵だった。
 鎌倉でガンさんを知らなければもぐりか、この10年ぐらいで新しく鎌倉に来た人たちである。ガンさんは鎌倉中の飲み屋を飲み倒し、鎌倉の呑み助ならばかつて知らない人はなかった、伝説的な呑兵衛である。
 小林秀雄と飲み友達で、小林さんの葬儀のときに棺桶を担いだというのが自慢だった。

 ぼくはガンさんに鎌倉のさまざまな飲み屋に連れて行ってもらった。「長兵衛」、「トムズ」、「バーのとの山」、「侘助」……数え上げたら切りがないが、随分と紹介してもらった。初めてガンさんに会ったのは30年以上前だろうか。
 ガンさんには当然、多くの飲み友達がいたが、ぼくは格別に親しかった。というのもガンさんのお母さんとぼくは同じ教会に通っていたのである。以前にも書いたが、その教会は鎌倉山教会といい、牧師は朝日新聞学芸部の名物記者の門馬先生だった。門馬先生の故郷は福島の相馬で、ガンさんのお父さんと同郷で二人は親友だった。お父さんは日本画家で30代で夭折していた。ガンさんは戦争中の子供の頃、門馬先生からヘビやカエルを食べさせられたという。ガンさんはそんなわけで門馬先生には全く頭が上がらなかったし、ぼくの面倒は本当によく見てくれた。

 ガンさんは女好きで、よく美女を侍らせていた。初対面の女性にも必ず「姫」と呼んだ。学校が終わると、夕方からの早い時間から飲んでいた。ハシゴを重ね、ベロベロになり、最後は鎌倉駅そばの扇ガ谷にある、お母さんの家になだれ込んだ。もうその時点で深夜0時は回っている。お母さんは嫌な顔せずに、我々におつまみなど出してくれ、そこでまたひとしきり酒盛りがはじまるのである。お母さんの家は実に趣のある古くてステキな鎌倉らしい日本家屋だった。
 そのうちにガンさんは「オ○○コ」と四文字言葉をお母さんの前で連発しだし、二人して大げんかになり、お開きというのがパターンだった。そして、ぼくはひとり深夜の鎌倉の道をトボトボ歩いて帰るのである。一体、何回、それを繰り返したことだろう。ガンさんのお母さんの家まで連れて行かれるというのは飲み仲間でも数は限られていた。かなり親しい間柄でないとそこまではしなかったと思う。ガンさんは当時、50歳を超えていたが、お母さんに甘えきっていた。お母さんは早くに旦那を亡くし、女手一つで看護婦をやりながら、子供たちを育て上げたのである。

 10年以上前だろうか。ガンさんはがんを宣告された。と同じ時期に酒をやめるように忠告され、久里浜のアル中の病院にも入った。それ以来、酒をぷっつりと止め、鎌倉の飲み屋街からガンさんの姿が消えた。晩年は全国を旅しながら、写生旅行をしていたようである。ガンさんは死期を悟っていたのだと思う。飲み仲間にも一切連絡を取らなかった。ぼくはお母さんを通じて行状を知っていた。やがて、がんが悪化し、亡くなった。それが5、6年前だったか、7、8年前だったか。
 いまでも鎌倉の飲み屋でガンさんと飲んだ人たちと時々お目にかかる。しかし、お母さんの家まで行ったという人はなかなかいない。お母さんは90歳なかばで、去年、亡くなられた。ガンさんの妹から「母の葬式で司会をしてほしい」と頼まれた。しかし、ぼくは先約があって友達に代行してもらった。

 ちなみにサザンの原坊の兄貴は中高の先輩である。サザンに「あなた、悲しや、天ぷら屋」という歌があるが、原坊の実家は横浜・関内の駅前にある「天吉」という、明治の初期から100何十年も続いている老舗の天ぷら屋なのである。いまも兄貴がやっており、ぼくは中高のOB会やお店で何度か兄貴とお目にかかったことがあり、面識がある。かき揚げがおいしい、リーズナブルな店である。サザンファンの間では聖地になっている。
 桑田夫妻は大の落語好きと聞く。いつかぼくのやっている鎌倉はなし会にもいらしてくれないかなと密かに願っているのである。原坊の兄貴にそう打診してみよう。 「天吉」に行かなくちゃ。いつか桑田とガンさんの思い出話に耽ってみたい。そんな日が来れば、最高である。ぼくはサザンと同時代に生きることができて、幸せである。
 

コメント(14)

ねたみなのか、そう考える神経の方が異常。会場は業界筋ルートで特別に撮らせてもらっただけ。FBではそんな反応をする人は皆無なのに、ミクシィは異常。もうここでは二度と書かない。
mixiでコメントなんて久々です。
僕もライブ楽しまさせていただきました本当に素晴らしい時間でした。
大変失礼な言い方ですが、本当にライブ会場の写真など撮影やましてや公の場に出すなのは考えた方がいいと思います業界筋ならなおさらです。
他は問いませんがFBでもお友達に聞いてみたほうが良いです。
きちんと答えてくれるお友達がいると思います。
>>[11]

同じく(笑)
5行目当たりで読むのやめましたあせあせ
文章きもちわり\(*‘ω‘ )/
人に読ませようとしている文章ではないですね。

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