草太郎クラブコミュの草太郎　第八章

姨捨山の下山は過酷を極めた。
ミレコは何しろ大食らいである。
近くにいる生物を餌と判断し、照準を合わせる。
川を渡るとき、山道を下がる時、
ランランと輝いた目で草太郎を見つめ、涎を垂らす。
一瞬でも気を許そうものなら、
襲いかかってきそうな緊迫感から
草太郎は排泄することすらままならなくなっていた。

「嫌な化け物だ」
かかわるべきでは無かったんだ。
こっちが関わるのが嫌でも、
出くわしてしまったら殺るか殺れるかの選択しかなかった。
しかし殺るだけの力は草太郎にはなさそうだ。
なんといっても全長３ｍを超す鋼の筋肉をもった獣である。
「キッキ」
ミレコの背に乗り、秀吉が採って来た木の実を頬張った。
木の実は渋い。
ぺっと草太郎は吐き出した。
草太郎は苦労を知らないまま
これまで生きてきた。
何でも望めば簡単に手に入ったから、
強烈に欲して手に入れた喜びも無い。
苦しい現実を味わったことが無いから、
生きているリアリティも無い。
段々と空腹で疲労感が増し、
ミレコの毛を掴む手も痺れて血豆が出来ていた。

「この手を離せば、どうなるんだ」
死ぬってどういうこと？

「秀吉よ、俺は死ぬなんてこと恐れちゃいない。」
草太郎が弱音を吐いた瞬間だった。
「バシっ！」
秀吉が草太郎の顔を叩いた。
「バシっバシッバシッ！！！」
秀吉は猿だから言葉が話せない。
でもその瞳は篤く燃えていた。
（草太郎よ
こんなところで弱音を吐くな！）
渾身の力で秀吉は叩き続ける。
「バシっバシッバシッ！！！」
「畜生！痛いわ！」
「バシッ！バシッ！バシっ！」
秀吉の前足は止まらない。
草太郎の顔は、
鼻水と鼻血でぐちゃぐちゃになった。
相変わらずミレコの毛を掴んでいる手も痛くて、
お腹も空いていて
尿意も便意も抱えていて
、頭の中がわけがわからなくなった。
「うわーーーん」
せきをきったように涙が溢れた。
子供みたいに草太郎は泣きじゃくりながら、山を下った。
子供の頃だって一度だって、
困ったことなんてなかったから
泣いた記憶なんて一つも無いのに。
草太郎は泣いた。
そして手の力が弱くなると、
秀吉が力いっぱい殴ってくるので
ミレコの身体から転げ落ちることなく
下山することが出来た。
下山には二日ほどかかったが、
一年よりもこの二日の方がよっぽど長く感じた。
姨捨山の麓を降りると
キラキラと輝く群青色の海が草太郎を待っていた。
ドッドッドと波間へ嬉しそうに走りこむミレコ。
「ホヒホヒ」
ミレコはアザラシだったのかと思えるほど、自
然に海に入って泳ぎだした。
地平線の彼方に瑠璃色の島が見えた。

一方、その頃アランは戸惑っていた。
今夜までしかスミエのことを「お婆さん」と呼べない。
明日になったらなんて呼べばよいのだろうか。
どういう顔をしてお婆さんに会えばいいのだろうか。
「草太郎サン」
一人旅で淋しい思いをしているだろう草太郎。
やっとのことで帰って来ても、
もうお爺さんはこの世に居ないのだ。
草太郎はお爺さんの死に目にも会えず、不憫だった。

このまま目を閉じて眠ってしまってはいけない。
安易に明日を迎えてしまってはいけない。
アランは自分のベットから起き上がると、
心をきめてスミエの部屋へ向かった。
アランはスミエの部屋の前に立った。
もう寝てしまったのだろうかと躊躇していると、
「誰？」
暗闇の中からスミエの声が聞こえた。
「お婆さんスミマセン。
草太郎さんが心配で眠レナイんです」
「アランは優しいのね」
「お婆さん、そのまま聞いてください。」
「草太郎サンに早ク帰ってモライマショ。
草太郎サンはナニも知らない。お爺さんは居ないけれど
お婆さんとアランで迎えてアゲタイデス」

お爺さんだけいないけれど
何一つ変わらぬ笑顔で草太郎を迎えてあげたい。

「わかったわ。アラン
あなたも慣れないことで疲れたでしょ？お休みなさい
私も今日はぐっすり眠れそうよ」
その優しい声にアランはほっと安堵して、自分の部屋へと戻った。

お婆さんの言うとおり、とても疲れているのだろう。
アランの意識はすぐに眠りに落ちた。

そして夜が明けた。
アランはいつもどおり早朝に起きて、女中たちと共に庭の掃除を始めていた。
澄んだ空気、雲ひとつない空。

広大な庭の薔薇のアーチを潜って、見知らぬ青年が玄関にやってきた。
アランにも勝るとも劣らない長身の男の髪はブロンド、
肌は陶器のように白かった。
「ここは私有地デス」
アランがの言葉に、人形のように美しい青年は微笑んだ。
「マダムスミエはまだ眠っているの？」
嫌な予感がした。