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ピーチスマッシュ!コミュの6話:けじめ ?

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 小石が転がる庭。
 先ほど、雉谷と戦おうとしたあの場所でもあり、吉備子と茨城が闘ったあの場所である。
 雉谷は空手着を脱ぎ、長い髪を後ろにまとめていた。
 鍛え抜かれた雉谷の上半身の筋肉が、夕方の陽光を受けて輝いていた。
 吉備子は着替えもせず、靴だけ脱ぎ、素足で庭に立っていた。
 素足の雉谷に気遣ったのか、あるいは単純に素足であれば動きやすいのか、理由は謎であったが、これで、素手同士の戦いになったことは確かであった。
「さってとぉー、準備はOKっすか?」
 屈伸をする吉備子に、雉谷はこくりと頷いた。
「ルールはどうする?」
 二人の間に立つ猿島が、雉谷と吉備子に聞いた。
「なーんでもいいっすよ」
「ああ、何でもいい」
「……わかった」
 時間無制限一本勝負。
 眼つき、金的攻撃はなし。
 それ以外なら何を使っていい。
 猿島が提唱したルールに、二人は了承した。
「それ、モンキッキーもするんでしょ?」
 吉備子が訊いた。
 当然だと猿島は言った。
「お前さんに遠慮できねぇよ」
 ニッと吉備子は白い歯を猿島に見せ、次に雉谷に身体を向けた。
「よーし、じゃーやろーかーコケコッコー」
 スッと吉備子が拳を上げ、足を広げた。
 いつも見るアップライトな構えではない。
 腰の重心を落とし、五指を広げている。
 左手を前に、右手を後ろにし、前傾姿勢で雉谷を見ている。
 その構えはまるで――。
(ランカーシャースタイル?)
 雉谷の表情が、険しいものとなった。
「関節技で俺を倒すつもりか?」
「うん。前はパンチで倒したから、今度は卍固めしちゃおーかなーって」
 ランカーシャースタイル――。
 別名、キャッチアズキャッチキャン。
 レスリングの世界に身を置く人間にとって、これほど有名なスタイルは存在しない。
 そもそもレスリングの歴史は、紀元前約二〇〇〇年に遡ると言われている。
 古代ギリシャの時代からオリンピックの正式種目であったとされている。
 これが改良され、のちのグレコローマンスタイルのベースとなる。当時から近代的な競技体制が整備され、紀元前九〇〇年にはルールが制定された。
 古代オリンピックにおけるレスリングは、貴族階級しか出場ができず、紳士のスポーツであった。
 それゆえにルールが厳密であった。
 無論、ジェントルマンたるもの打撃、下半身への攻撃が禁止されるべき行為であり、品行方正なレスリングであった。
 このグレコローマンスタイルがイギリス・ランカシャー地方に伝わり、全身どこを使っても、どこを攻めてもよくなり、ランカシャーレスリングとして進化したのである。
 この当時イギリスには3つのスタイルのレスリングがあったとされている。その3つとはカンバーランド・スタイル、ウェストモアランド・スタイルというクラシック・スタイルと、Catch as Catch Canとも言われたランカーシャー・スタイルである。前者がグレコローマンとなり、後者がフリー・スタイルとなる。
 このランカシャーレスリングは、かの高名なビリライレージムを経て、ビル・ロビンソン、カール・ゴッチなど多くの名優を輩出した。関節技が、レスリングに最も積極的に導入されたのはこの時期であるとされている。
 なおこのランカシャー・レスリングをスポーツ化したものが、フリー・スタイルであり、どこを攻めてもいいルールには変わりないものの、関節技の使用を禁止した結果生まれたものである。
 それを、プロレスラーである猿島ではなく、吉備子が使おうとしている。
 どこで体得したのか、あるいはただの真似事か。
 いずれにしろ、プロレスラーを前にして、これほど不道徳的なことはない。
 猿島の顎に、無数のシワが寄った。
「いくぜ……」
 雉谷が構えた。
 両拳をアップライトに持ち上げ、膝でリズムを作っている。
 空手とイメージするより、ボクシングやキック(キックボクシング)に近い構えだった。
 現代空手らしい、打撃をメインとしたスタイルであった。
 閃光――。
 とでも呼ぶべきか。
 小石が派手に飛び散り、吉備子は得意の弾丸タックルを敢行した。
 眼にも止まらぬスピードで、あっという間に雉谷との距離をゼロにした吉備子が、雉谷の胴体を掴もうとした。 
 ゴッと、骨がぶつかる音がした。
(上手い)
 膝蹴り。
 カウンターで雉谷は右膝を、吉備子の顔面にぶつけた。
 鼻骨を一度折られ、ガーゼでカバーしていた吉備子の鼻から、つーっと赤い筋が垂れた。
「いったぁ……」
 顔を抑え、低い姿勢から吉備子は立ち上がり、怯んだ。
 怯んだ隙に、雉谷の手刀が、疾走した。
 肩。
 大げさに、吉備子の上半身がぐらつき、悲痛な貌となった。
「うっ!」
 えげつない連続攻撃であった。
 負傷している箇所を、故意に狙っている。
 スポーツマンシップの風上におけない最低な攻撃だった。
 しかし、これでいい。
 これを望んでいたのだ。
 スポーツではなく、“武”なのだ
 武であるがゆえ、勝つことのみに集中せねばならない。
 雉谷のやり方は汚くはない。
 むしろ、正当なやり方なのだ。
「ぬんッ」
 雉谷の足の甲が、吉備子の膝下を蹴り上げ、連続して同じ足の甲が、斜め四五度から振り下ろされた。
 ――マサカリ蹴り。
 空手の蹴り技の中でも、命中率の高い上段蹴りである。
 顔面の真横からまともに受け、吉備子の体がますますぐらついた。
「オラオラどうした!」
 左拳が吉備子の顔面を捕らえ、右拳が吉備子の腹を突き上げた。
 見事なコンビネーションである。
 強い。
 雉谷実という男は、これほどまでに強い男だったのか。
 不意をつかれ、一撃で斃された印象が、あっという間に払拭された。
 さすが源流館の大会で準優勝を果たした男である。
 まともに戦えば、これほどの実力が発揮できるのだ。
 しかし。
「いったぁいなぁもぉー!」
 ベシャッ! 派手な音がした。
 雉谷の顔面が、吉備子の小さな手によって叩かれた。
 大リーグのピッチャーのような、大きなモーションであった。
 その速度は、ボールを投げるようなスピードではなかった。
 猿島の固めの網膜には、吉備子が放った平手の残像がまだ焼きついていた。
「くぅッ」
 ガードするタイミングがない。格闘技のセオリー通りの戦いなら、どこでガードし、どこで攻撃するか感覚がわかる。
 吉備子には、それがまるでないのだ。
 素人であるがゆえ、格闘技のセオリーというものを知らないのだ。
 格闘技者なら、蹴り方一つでもすでにパターン化されている。どうやってガードすればダメージが少ないか、予めどうにか対処できる。
 だが、素人はそうはいかない。
 ムチャクチャだからだ。
 いつ、どこで、どんな技を繰り出すか、まるで予測がつかない。
 おまけに吉備子の場合、スタイル一つとっても変則的である。
 アップライトに構え、打撃中心に攻めるスタイルを持つとされていたのが、逆に中腰から投げ技をメインの攻撃スタイルも使うことができる。
 ルールに則った闘い方をしない。
 噛み付きも金的も、容赦なくできる。その気になれば、骨だって折ることもできる。
 精神性のなさにも程がある。
 外道過ぎる戦い方だ。
 ――そして。
 そういう相手と、まともに戦うからこそ、意味があった。
「ッざけんな!」
 瞼の下から吉備子の平手でもらったダメージで涙をこぼす雉谷が、中指一本拳を吉備子に放った。
 それより速く、吉備子の肘が雉谷の顎をかち上げた。
 雉谷の膝が、完全に伸び上がった。
 胴ががら空きとなった。
 吉備子のボディブローが、見事に当たった。
 へそを中心にまともに受け、雉谷の体がくの字に曲がった。
「よいしょー」
 上半身が前のめりとなった雉谷に、吉備子は雉谷の首を右腕で挟み、左手で右腕の手首を掴んだ。
 ギチギチッと肉が引き締まる音がした。
 吉備子の首筋に、太い血管や細い血管が浮かんだ。
 爪先立ちをし、挟んでいた雉谷の首を一気に締め上げている。
 雉谷の額には、シワとも血管ともとれるような筋がたくさん張り巡らせ、とんでもない人相となっていた。
「て、てめぇ……」
 完全に絞め技が極まっていた。
 空手家である雉谷に、この状態からの脱出方法は知らない。
 ボスボスと、足掻くように雉谷は吉備子の脇腹を両拳で打った。
 しかし、まるで効果は見られない。
 いくら吉備子の腹を殴ろうと、腰の入っていない手力だけのパンチでは、ダメージにはつながらないからだ。
 やがて、必死に抵抗する雉谷の眼が虚ろとなり、空手着のズボンの股間がじわりと濡れた。
「雉谷……」
 地面にうつ伏せで倒れる雉谷を見て、猿島は腰を落とし、囁くように言った。
「次は……俺だよな」
 すでに失神しているはずの雉谷であったが、そこにあった表情に、猿島は雉谷の意思を感じた。
 悔しそうな貌だった。
 本当に悔しそうで、負けたくない気持ちでいっぱいの貌だった。
「よーし、次はモンキッキーかぁ」
 腰に手を当て、吉備子が言った。
 と、猿島の巨体が、宙に飛び上がった。
「へ?」
 両足の足の裏が揃い、膝を折り畳んだところから、吉備子の肩から上の部分にかけ、水平方向に猿島の蹴りが放たれた。
 ドロップキックである。
「きゃっ!」
 思わず悲鳴を上げ、吉備子が後方に転がった。ドンッと壁に当たって尻餅をついた。
(す、すごい……)
 胸に、猿島の足の裏の感覚がくっきり残っている。
 とんでもない衝撃の、ドロップキックであった。
 一〇〇キロを超える重量が、そのままぶつかったのだ。
 普通なら、胸の骨がぐしゃぐしゃになっている。下手をすれば、肺に骨が刺さって死んでいたかもしれない。
 それを、躊躇なく猿島は敢行した。
 胸を片手で庇い、立ち上がる吉備子に、満面な笑みが広がった。
「すごいモンキッキー。めっちゃ強いじゃん」
「雉谷も、強ぇよ」
 猿島は腰を落とし、前傾姿勢の構えを取った。
「うん。コケコッコーも強いね」
 ふふっとほくそ笑む吉備子。
 と。
 吉備子の眉間に、鋭く固い何かが当たった。
 小石であった。
「いつっ」
 眼を瞑る吉備子に、猿島は吉備子に急接近した。
 隙を見計らい、手の中に隠していた庭の石を吉備子に投げつけた猿島は、吉備子の左腕を両手で掴んだ。
「うらぁ!」
 野球のバットでホームランボールを打つように、吉備子の左腕を身体ごと前に投げ飛ばした。
 肘が逆の方向にピンと伸び、折れないようにと吉備子の足が自然と投げられる方向に走った。
 走った勢いもあり、吉備子の身体が大きく吹っ飛んだ。
「あわわわ!」
 吉備子の両足が猿島の投げた勢いについていけず、次第にもつれだしバランスを失っていった。
 そのタイミングで、猿島は駆け出した。
 吉備子の首根っこを後ろから脇で挟み、その勢いで前にジャンプした。
 小石が転がる固い地面に吉備子を、自身の落下のスピードと体重を利用し押し倒し、叩き付けた。
 庭の土が、抉れた。
 ――ブルドッキング・ヘッドロック。
 吉備子の両眼が泳いだ。
「へぁ?」
 間抜けな声を上げ、吉備子は猿島を見上げようとした。
 気が付けば、ふわふわした気持ちになっていた。
 夢の中にいるかのように、体がどこにあるのか感覚がハッキリしない。
 その感覚が、徐々にハッキリしてきた。
 本当に自分の身体は、ふわふわしていた。
 猿島の両腕が、吉備子の身体をバーベル上げの選手のように持ち上げていた。
「うらぁ!」
 再び、猿島は吉備子を地面に叩き付けた。
 どしゃっと土と石が飛び散った。
 四〇センチほど、庭の土が抉れ、削れていた。 
 首から落下し、両足の爪先がエビゾリするような間抜けな格好で、吉備子は地面に倒れた。
 危険な角度であった。一般人でなくても、首の骨が折れるかもしれないような、恐ろしい落とし方だった。
 パタンと、吉備子の両足が地面にゆっくり落ちようとした。よれより先に、吉備子の両足を猿島は両脇に抱えた。
「ふんッ!」
 頭に一気に血が上り、吉備子の視界の先に空が広がった。
 上下が逆さになった。
 固い庭の土と小石が、吉備子の後頭部を迎えた。
 猿島が見せる見事なまでの人間ブリッヂ。
 ――ジャーマンスープレックス。
 プロレスに一〇年間身を投じた男の本物のスープレックスが、炸裂した。
(あー……やばいなぁ)
 意識が三度消えてもおかしくないような大技を喰らい、吉備子はぽつりと心の中で呟いた。
(めっちゃくっちゃ強いじゃん。モッキッキーてば)
 土まみれで汚れた吉備子が、ニィっと笑った。
(これで、ワンワンも強かったら、おにたいじできるなぁー)
 猿島の巨体が宙に飛び、左肘が吉備子の鳩尾に目掛けて落下した。
 エルボドロップ。
 腹の中の内容物が、上下に拡散するイメージが、吉備子の脳裏に過ぎった。
 吉備子の髪を片手で握り上げる猿島は、無理やり吉備子の身体を持ち上げ、首根っこを掴み、全身を横方向に鋭く回転移動し、右足を軸に、左足で吉備子の下半身を払うように、吉備子を前に投げ飛ばした。
 柔道でいう払い腰であった。
 体重の軽い吉備子の身体は、速い回転で背中越しに落下した。
「おい」
 地面に倒れる吉備子に、猿島は低い口調で言った。
「いい加減にしろ。いつまで俺に“遊ばせる”させるつもりだ……」
「……ばれた?」
 ペロっと吉備子が舌先を出した。
「お前が……この程度の投げ技で負けるとは思っちゃいねぇよ」
「ふーん。そーなんだぁ」
 上半身を持ち上げ、パンパンと身体中についた土や砂を払い、何事もなかったかのように吉備子は自然と立ち上がった。
「わかってんじゃん」
 猿島は、再び腰を落とし、構えた。
 ダメージは与えた。
 それも、普通人なら五回は即死するような、強烈なダメージのはずである。
 だというのに、平然としている。
 どうしてか。
 やっと、理由がわかった。
 青田道場で最初闘った時、謎に包まれていた吉備子の異常なタフネスと怪力の秘密――。
 投げ技を連発し、推測が結論に変わった。
「くそが!」
 猿島は悪態を吐いた。
 気づいたら、勝手に口がそう動いていた。
 まさか、と予感はしていた。
 足柄事務所に単身乗り込んだ時から、ずっとその予感はあった。
 だが、猿島自身、そこに信憑性はないと勝手に決め付けていた。自分の思い過ごしだ。もしも、そんな人間がいたら、そいつは人間じゃない。化け物だ。
 ――化け物が、目の前にいた。
「よーし、続きやろーかー」
 そう吉備子が言った瞬間、吉備子の顔面が猿島の両手に掴まれ、固定された。
 猿島の右足の膝が、吉備子の顔面にめり込んでいた。
 飛び膝蹴り。
 それも、とんでもない角度から見事に当たっている。
 プロレスの技ではない。かつて、猿島がケンカで使っていた不意打ちの技である。
 猿島は飛び膝蹴りが成功したその体勢から、吉備子の頭を跳び箱の要領で飛び越え、両足の踝で吉備子の顔面を挟み、身体を捻って縦にダイナミックに回転した。
 遠心力を利用した受身不可能のプロレス技。
 フランケンシュタイナーである。
 決まれば、小石が転がるこの硬い地面に叩き落すことができる。
 これで、勝負はつくはずだ。そう確信した。
 だが、猿島の身体は未だ回転途中で止まっていた。
(な、なんだと……!)
 そんなバカな。と、先に言葉が出た。
 かつて、猿島はこの技をリングの中で披露し、今まで投げ切れなかった事は一度もない。キレイに投げさせてもらえなかった経験はあったが、投げられなかった経験はない。
 ――首で支えている。
 体重一〇〇キロ以上の猿島の巨体を、五〇キロそこそこの吉備子小さな身体が、フランケンシュタイナーの成功を阻止している。
 背中が反れ、肩で息をしている吉備子の細い首。
 その首筋に張った太い筋肉と血管は、尋常のものではなかった。
 浮き上がった血管は、首の皮膚だけに留まらず、まるで大木が地面に根を張るように、吉備子の下顎の裏からキャミソールから見え隠れする乳房の付け根部分まで浮き上がっている。
「ふ、ふんがぁあああ!」
 一喝の雄叫びと共に、吉備子は前に猿島を投げた。
 猿島の巨体が、宙を飛んだ。
 ドガッと、派手に落下した。
 庭の硬い地面ではなく、投げ飛ばされた方向は、母屋の茶の間。
 障子が破れ、卓袱台が引っくり返り、並べられた犬山の手料理が畳の上に散乱した。
「あーあ、せっかくワンワンのお料理がぁもったいなぁーい」
 鼻血が垂れる鼻をぐすっとすすり、拳の甲で拭う吉備子。
 顔から手を離した刹那、ボッと、吉備子の目の前に何かが迫った。
 湯飲み。
 猿島が投げた湯飲みが、吉備子の首と上半身を大きく後方に仰け反らせた。
(もー、さっきからひどいなぁ。モンキッキー)
 左足を後ろに置き、バランスを崩さず踏ん張った吉備子が、上半身と首を前に戻し、首を横に振って、首の骨の間接をポキッと鳴らした。
 湯飲みを、食っていた。
 硬い陶器の湯飲みの口を、ガリガリと吉備子の小さな口と歯で、噛み砕いていた。
 ボトッと砕けた湯飲みが庭に落ち、噛み砕いた湯飲みの破片を、吉備子は地面に吐き捨てた。
(なんちゅう咬合力……)
 ごくりと猿島は唾を飲んだ。
 ――咬合力。
 所謂、噛む力である。
 一般的に、咬合力は運動能力に正比例するといわれている。
 重い物を持ち上げる際、口を開けたままでは人間は持ち上げることができない。
 力を引き出す瞬間、人間は口を閉じ、奥歯を噛んでいるということになる。
 一流と呼ばれるアスリートたちの奥歯は、例外なくガタガタに磨り減っているという症例がある。
 格闘技にも通じる理論である。
 パンチを受ける時も、キックを受ける時も、投げ飛ばされる時も、重い何かにぶつかる時も、ここぞという瞬間には、人間は衝撃に耐えようと上下の顎を強く噛む。
 本能だ。
 その本能に、どこまでも異常な能力を持っている。
 ――桃川吉備子。
 人間の手首の肉を一瞬で噛み千切るほどの“噛む力”を持つ彼女に、通常の打撃技では文字通り歯が立たない。
 噛む力が強いということは、首の筋力も強いということを意味する。
 どんなに殴られようと投げようと、脳が揺れない限り、決定的なダメージとはならないのだ。
 しかし。
 一〇〇キロ以上の体重をまともに支えるほど、あの首が強靭だとは思いもよらなかった。
「化け物め……」
 猿島の全身に、悪寒とも似た感触が走った。
 戦慄。
 唇の下から白い歯を覗かせる吉備子。
 あれだけ、もろにパンチや蹴りを受け、地面に叩きつけられたにも関わらず、吉備子の歯は無事であった。
 クソ――。
 猿島は悪態を吐いた。
 クソ! クソ! クソ!
 腹の中で猿島は、何度も地団太を踏んだ。
 猿島が築き上げてきた一〇年間のプロレスが、通用しない。
 柄杓で掬えるほど垂らした汗の量。
 気が狂うほどに何度も練習した技の数々。
 スクワットを何回した?
 プッシュアップを何回こなした?
 打ち込みも、受身も、寝技も、打撃も、投げ技も、人並み以上に鍛えた。
 そして、自分自身がある日強くなったと、わかった。
 最強のプロレスを、手に入れた。
 誇り高かった。
 もう、無敵だと思っていた。
 なのに。
 最強だと信じてきた猿島のプロレスが、まるで相手にされていない。
 無敵だと自負していた猿島のプロレスが、通用していない。
 ――強い。
 否。
 強すぎるのだ。
 猿島の血が滲む想いで手に入れた猿島の“強さ”より、吉備子の持つ吉備子の天然の“強さ”が、圧倒している。
 暴力に、猿島のプロレスが敗れようとしている。 
 強いと信じてきた猿島のプロレスが、敗れようとしている。 
 くそったれ!
 くそったれが!
 悪態が、猿島の胃の中で踊っていた。
「くそったれが!」
 猿島は吉備子に向かって、走った。
 拳を突き出した。拳で殴ろうと振りかぶった。
 悔しい。
 こんな気持ち、何年ぶりか。
 プロレスに負けて以来、久々の気持ちだ。
 プロレスと戦い、敗れた。
 そして猿島はプロレスラーになった。
 二度と負けたくないから。二度と涙を流さない為に。
 努力に努力を重ねた。
 肉体が砕ける限界まで、肉体を追い込んだ。
 その肉体から、二度目の涙が、出そうだった。
 全部を使っている。
 猿島自身の持ちえる限りの全部を、ぶつけている。
 勝つ為に、全力を尽くしている。
 戦うことのみに、全て費やしている。
 それなのに、まるで勝てない。
 こいつに。
 この少女に。
 この吉備子に。
 この――。
「くそったれがぁ!」
 眼が覚めた雉谷が、吼えた。
「くそったれがくそったれがぁ!」
 濁った声だった。
 眼を真っ赤に染め、ボロボロと涙をこぼしている。
「うぉおおおおおおわあああああああああ!」
 ケモノのような咆哮であった。
 雉谷は号泣した。
 否定し続けた全てを受け入れ、ようやく認めた“敗北”であった。
 ガコッ!
 吉備子の右拳が、猿島の顔面に当たった。
 ――チョッピングライト。
 まともな突きであった。
 猿島の顔面が、後方に吹っ飛び、宙を飛んだ。
 眼帯が、取れ、地面にぱさっと落ちた。
 ドスンと猿島の巨体が地面に落下し、仰向けに倒れた猿島は、そのまま動こうとしなかった。
 眼が熱くなった。
「ちっくしょう……」
 ボソリと言った。
 泣きじゃくる雉谷、ほろりと涙を流す猿島。
 二人の涙を流す男の姿を見る吉備子に笑みはなく、ただ二人を見ていた。
「くそったれ……」
 視界が涙でぼやけた。
 正真正銘の、二回目の敗北だった。
 猿島が味わう、二度目の悔しさだった。
「つぇえなぁ……おめぇ」
 カラスが、彼方の方で鳴き声を上げているのが、聞えた。
 猿島は空に手を伸ばした。
 あれほどぶちのめしたかった天井の染みは、どこにもいなかった。
 あるのは、掴みきれぬほど大きな夕暮れの雲だった。 

 〜続く〜

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