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地元で漱石発見コミュの夏目漱石と大阪胃腸病院

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「行人」に大阪の病院に三沢が入院した時の描写があります。
 
「院長は大概、黒のモーニングを着て、医員と看護婦を一人ずつ随えていた。色の浅黒い、鼻筋の通った立派な男で、言葉使いや態度にも、容貌の示す如く品格があった。」

「(三沢が)
『まだ旅行などは出来ないでしょうか』
『潰瘍になると危険でしょうか』
『こうやって入院した方が、やっぱり得策だったのでしょうか』
などと聞くたびに、院長は
『ええ、まあそうです』
ぐらいな簡単な返事をした。」

明治44年(1911)8月18日、「地方巡回朝日講演会」の最後として、大阪公会堂で「文芸と道徳」を講演した直後、漱石は胃潰瘍を再燃し、明治37年開設の消化器専門病院「大阪胃腸病院(初代院長湯川玄洋(1867-1935)) (35床)=大阪市東区今橋3丁目(現・大阪市中央区今橋2−5−8 日商岩井ビルが建つブロックの角地) 新築木造3階建」に入院しました。

http://ic.mixi.jp/p/8e0c914a1a1ccaee9500be049a5c870702f9dc98e2/4baab59c/album/46502066_3447838632.jpg

「行人」に描かれた冒頭部分のモチーフであった出来事と思われます。大阪胃腸病院は、昭和25年に「湯川胃腸病院」に名称変更、消化器外科が併設されました。さらに昭和36年には 大阪市天王寺区堂ケ芝(現JR環状線桃谷駅)へ新築移転(100床)昭和43年には「医療社団法人湯川胃腸病院」に改称されました。

「大阪胃腸病院」は物理学者湯川秀樹博士の奥さんの実家で、漱石の主治医となった初代院長湯川玄洋は博士の義父でした。

博士は随筆『旅人』の中で「『行人』は大正元年から二年にかけて、朝日新聞に連載された。漱石が『行人』の中で玄洋を目に浮かべながら書いていたことは確かである。」と記しています。

コメント(6)

そうそう、湯川胃腸病院というのがどこにあったのか少し気になってたんですが、これでモヤモヤが晴れました指でOK
中央区にあったというのはイメージにピッタリです(笑)
あの湯川博士の一族だけに、現在は立派な鉄筋の大病院にでもなってるのかと思ってたんですが・・・病院
ちなみにこの作品読んだ事が無いんですが、やはり主人公のモデルは漱石本人なんでしょうか?
あと天王寺公会堂の跡地が判ったのには驚きました。
何か資料が残ってるんですか?
あの湯川博士の一族だけに、現在は立派な鉄筋の大病院になってますよわーい(嬉しい顔)
http://www.yukawa.or.jp/index2.html

漱石の作品のテーマは基本的に自らの体験を発展創造させたものが多いと思います。完全に自分がモデルと思われるのは自叙伝的小説「道草」の主人公健三ですが、その他の作品でも、今回のように漱石の生涯の実体験を背景として書かれている場合は漱石自身がモデルとして意識されていると思われまするんるん

天王寺公会堂の跡地は『最新天王寺区地図:大阪市区分地図(1935年板)』に記された"天王寺公園内南西部にある公会堂”の位置と、天王寺動物園・天王寺公園のパンフレット『天王寺動物園 天王寺公園』を比較対照して、現在の天王寺動物園の"アジアの熱帯雨林ゾーン"と特定され、とりわけ、ゾウの放飼場辺りと推定されました電球
w(゜o゜)w湯川胃腸病院あるんや〜。
場所がちょっと動いたのかな?
まあ中央区と天王寺区は隣り合わせみたいなもんですが。
しかし公会堂跡が以外な所にありましたね〜(笑)
もっと記念碑とかが立ってるのかと思ったんですけどあせあせ
大阪講演の内容とかは記録として残されてないんですか?
大阪公会堂講演「文芸と道徳」全文は速記録から起こされて残っていまするんるん

インターネットでも読めます本

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/756_14962.html
なるほど速記という手がありましたか〜えんぴつ
当時はマイクやスピーカーに頼れない時代だっただけに、どれぐらいの聴衆を入れて講演したのかな〜?
今の中之島公会堂ならマイク無しでは絶対無理な広さなので、当時の公会堂はもっと小さかったのかもしれませんね。
真夏の大阪講演、どんな様子で行われたのか興味は尽きません。
朝日記者(夏目漱石は東京朝日新聞小説記者でした)と読者交流の巡回講演会(1911年7月23日〜8月18日)は、朝日の記者を講演者として、三つの班に分けて、兵庫、岡山、広島、和歌山、大阪の四県一府十数カ所で開催されました。

『朝日講演集』では漱石の講演は四分の一を占めていました。「道楽と職業」(8月13日 明石)、「現代日本の開化」(8月15日 和歌山)、「中味と形式」(8月17日 堺)、「文芸と道徳」(8月18日 大阪)です。これらの講演は後に『社会と自分』(実業之日本社 1913年2月)に収録されました。

明治44年8月18日の大阪講演は「巡回講演」の最後のクライマックスでした。その日の盛況ぶりは『朝日講演集』(明治44年11月 朝日新聞合資会社)編集者の「巡回講演記事」に描かれています。

『八月十八日午後六時大阪公会堂に一大講演会を開けり、折柄の暑熱に拘はらず、定刻前より聴衆潮の如く、階上階下は勿論、演壇の前後までも立錐の地なく危険を慮りて門を閉づる事三回、七時に至りて遂に一切に入場を拒絶する盛を見しは、本社同人の大に満足する所なり、先づ牧放浪氏開会の辞を述べ、次に高原蟹堂氏は『樺太視察談』、西村天囚氏は『大阪の威厳』、夏目漱石は『道徳と文芸』、本多雪堂氏は『財政経済根本問題』、石橋白羊氏は『日英同盟の改訂』と題し、順次に講演を了りたるは十一時半なりしが、聴衆が約五時間に亙りて始終熱心且静粛に聴聞せしは、同人の最も愉快とする所なり』

「斯う云ふ大勢の前に立つのも始めて」、「実際此の暑いのに斯うお集まりになつて竹の皮へ包んだ寿司の様に押し合つてゐては堪りますまい、また講演者の方でも周囲前後左右から出る人の息だけでも」という漱石が講演「文芸と道徳」の冒頭で述べた会場の熱気の高まりが事実そのままであったことがわかります衝撃

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