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南紀の旅コミュの天野の里

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 和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売(ニウツヒメ)神社〔紀伊国一宮〕〔延喜式名神大社〕〔官幣大社〕〔史跡〕〔UNESCO世界文化遺産〕一帯。標高460〜480m程度の小盆地になっており、天野米と呼ばれる良質な米の産地として知られる。
 この地は高野山の中腹にあるため、女人禁制の高野山に憧れた女性達が隠棲した伝説も多く残っており、丹生都比売神社の世界遺産指定に伴って整備がすすめられた。

*大念仏一結衆宝篋印塔(ダイネンブツイッケッシュホウキョウイントウ)
 丹生都比売神社の目の前にある。応永23(1416)年に大念仏衆が建立した物で、以後、この地では大念仏宗が浸透する事になった。

*有王丸の墓
 有王丸は、平清盛打倒を謀った鹿ヶ谷の陰謀(1177年)の首謀者たる俊寛(1143〜79)の侍童。俊寛は密謀が発覚して参議藤原成経・左衛門大尉平康頼と共に大隅国鬼界ケ島に流されるが、翌治承2(1178)年に成経と康頼のみが赦されて、一人島に一人とり残されてしまった。そこで、 翌治承3(1179)年、有王丸は俊寛の幼い娘の手紙を携えて鬼界ヶ島を訪れ、絶望して変わり果てた姿の俊寛に娘の手紙を渡すが、その結果、生き恥を晒す事の無様さを悟った俊寛は死を決意して食を断ち、餓死してしまった。そして、有王丸は俊寛の灰骨を持ち帰って高野山奥院に納め、天野の里で出家して師の菩提を弔いながら一生を終えたとされている。なお、俊寛の娘も12歳で出家し、天野の里に住んだとされている。

*院の墓
 人皇第74代鳥羽天皇の中宮である待賢門院(1101〜45)の墓と伝えられて来たが、実際には待賢門院に仕えた中納言局の墓だと推定されている。中納言局は、主の喪に服した後、久安5(1149)年頃に天野の里に隠棲したと伝えられる。

*西行堂
 西行法師(1118〜90)の出家後、見捨てられた妻と娘(1137〜1199)は、高野山で修行中の西行に逢う事を願って、この地に庵を結んだとされている。実際に西行と逢っていたのかどうかは不明。現在の堂宇は平成時代になってから建てられた。

*石造宝篋印塔〔和歌山県指定文化財〕
 西行の妻子の供養塔と伝えられています。右側が応安5(1372)年、左側が文安6(1449)年の建立。

*鬼王と団三郎の墓
 西行妻子供養塔の隣にある五輪塔で、曾我兄弟の二人の郎党と伝えられる。建久4(1193)年の仇討成就の後、二人は主人の遺骨を高野山に納め、出家してこの地に隠棲、主人の菩提を弔い続けたとされている。

*奥ノ沢神社
 丹生都比売大神が高天原から地上に降臨したとの伝承の地。住宅地近だが、深閑とした霊気が漂う。

*お照の墓
 高野山の奥の院に千年近くの間、光輝いている「貧女の一燈」と言われる燈籠がある。お照という少女が自分の髪を売った金で養父母の菩提を弔うために献じた一燈で、お照はその後、天野の里に庵を結び、養父母の菩提を弔いつつ生涯を終えたと伝えられている。天和2(1682)年、妙春尼により供養塔が建てられ、貞亨5(1688)年に天野の郷供僧(サトグソウ)淨意が女人の苦しみを救うために、代受苦の行を十年間勤め、ここに碑が建てられた。

*笠松峠
 紀ノ川流域と天野の里を結ぶ標高470m程度の峠。

★高野山町石道
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6982407&comm_id=420848
★丹生都比売神社
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=18093622&comm_id=420848

コメント(7)

左;大念仏一結衆宝篋印塔
中;有王丸の墓
右;院の墓
左;西行妻子石造宝篋印塔〔和歌山県指定文化財〕
中;鬼王と団三郎の墓
右;イロハモミジ
左;奥ノ沢神社
中・右;貧女の一燈お照の墓
 上記の写真は5月5日火曜日撮影です。

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