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南紀の旅コミュの慈尊院

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 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832。
 境内は高野山町石道の一角として国の史跡に指定され、UNESCO世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一角も成している。
 弘仁7(816)年、弘法大師空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の登山口に当たる雨引山麓に伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(マンドコロ)を置いて高野山への宿所兼冬期避寒修行場としたのが当寺の始まりだとされる。
 その後、空海の母である阿刀氏(玉依御前)が讃岐国多度郡から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たものの、高野山内は七里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在して弥勒菩薩を毎日礼拝祭ながら暮らしたと伝えられる。空海は一ヶ月に九度は必ず20数kmに及ぶ山道を下って政所の母を訪ねて来たので、この辺りを九度山と呼ぶようになったとされている。
 空海の母は承和2(835)年2月5日に死去しましたが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったと謂われ、弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶ事から、この政所が慈尊院と呼ばれるようになったとされる。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、死去して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁(ケチエン)の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。
 以後、宇多法皇・藤原道長・白河法皇・鳥羽上皇・後鳥羽上皇・後宇多法皇等、多くの貴顕が高野山参拝の際に立ち寄っている。
 承和2(1171)年、放火によって多くの寺宝が焼失したが伽藍は無事だった。
 本来の境内は約1km北方の紀ノ川河畔の低地にあったが、文明6(1474)年、紀ノ川の大洪水を予期して弥勒堂が現在地の高台に移転された。実際、天文9(1540)年に大洪水が起こって紀ノ川の河道が変わり、境内の過半が水没する事態となったため、翌年、他の伽藍も現在地に移転された。
 本尊木造彌勒仏坐像は国宝に指定されているが、秘仏のため滅多に開帳されない。弥勒堂[重要文化財]前の柱には授乳・子授けを祈る布製の乳房杉が下げられている。
 多宝塔・北門・築地塀が和歌山県文化財、石灯籠・石造五輪塔・下乗石が九度山町指定文化財となっている。
 背後の山の中腹に鎮守社の丹生官省符神社がある。

*丹生官省符神社
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=18059825&comm_id=420848
*高野山町石道
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6982407&comm_id=420848 
*高野山金剛峰寺
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6963699&comm_id=420848

コメント(6)

和歌山県指定文化財の北門と築地塀です。
左;下乗石[九度山町指定文化財]
中;拝堂
右;拝堂内陣
左;多宝塔〔和歌山県指定文化財〕
中;弥勒堂[重要文化財]
右;応永八年銘石灯籠〔九度山町指定文化財〕
左;五輪石塔〔九度山町指定文化財〕
中;同上
右;訶梨帝母尊(カリテイモソン)社
左;シャクナゲ
中;鐘楼
右;下乗石旧跡

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