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音声詩 コミュの音声詩の音源紹介

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まずはWANDELWEISERより以下の一枚を紹介する。


<EWR 0107>
Antoine Beuger (speaker)
Antoine Beuger - calme étendue (spinoza)

review
http://www.timescraper.de/





まずはじめに言っておかねばならないことは、この一枚に代表されるようなWANDELWEISER学派の音楽解釈を、音声詩というカテゴリーの内において考察しようとする試みは、ある意味で非常に困難なことかもしれないということだ。

とりわけ上記の一枚においては、目的とされている音楽の主体のために、不必要なあらゆる音楽的要素(メロディや音色、リズムなど)を極限まで排除した結果として「声」というマテリアルが選択されているかのように思われる。
けれどもむしろそれは、ここではたったひとつの音楽的要素であるその「声」ですら、ひとつの空間に向けられた現象を音楽作品として対象化するためにやむをえず使わざるをえなかったものであるかもしれず、このような言い換えが可能であれば、これは『言語』のみを音楽の対象とした作品なのだといえる。

その意味で、これまでなかなか省みられてはこなかった音声詩の側から、このような時間構造をもつ音楽について何か捉え直すことはできないだろうか?



この作品において演奏者(読み手)のボイガーは、スピノザの『エチカ』のドイツ語のテクストにおける音節ひとつひとつを、約8秒に区切り読み上げる。途中、長い沈黙が何度かはさまれ、再び同様に8秒、再び長い沈黙・・・それが70分15秒に渡って続けられる。

ひとまず、あまりにも情報のすくないこの作品を理解するために、ボイガー自身がインサートに記しているテキストによると

『spinoza「Ethics」にアプローチする私の試み 
 
音楽的な私の第一歩は、この本のすべての単音節、合計40000の単語を読んだままの順にすべて書き写すことでした。この方法は、その仕事の流れに多くの力を働きかけた経験それぞれの詳細を理解するつもりでなければ、非常に注意深くまた慎重にテキストを始めから終りまで読む機会を、そしてそれが伝える明確な人生を確言する態度を私に与えました。

calme étendue (spinoza)のパフォーマンスでは、単語は非常にリラックスしたテンポ(1つ辺り8秒)と、とても静かな声で話されます。パフォーマーは、強調か抑揚によって、個々の単語またはグループの単語特有の感覚を示してみせるべきではありません。

話されたセクションは沈黙のセクションと交替します。
これらの静かなセクションでは、何もしないで、パフォーマーはただ静かに座っています(穏やかな集中)

calme étendue (spinoza)のパフォーマンスは約180時間続きます。

1997年8月、ついにわたしはレバークーゼンのschloss morsbroich博物館でこのパフォーマンスを完全に行う仕事の機会を得ました。連続した26日間、博物館の開館時刻に従った6〜10時間です。

このCDのバージョンは、はじめに9分の沈黙を加えた約70分ほどの長さがおさめられています。』

とある。そしてこの作品は「エチカ」を紹介してくれた彼の友人の心理学者に捧ぐ、とだけ記されている。つまり、ここにおいて、理解のほとんどは聴き手に、手放しに委ねられている。このような特色をもつ作品において考えてみると、それは意外にも思われるのだが、彼らの音楽に代表される特徴は、何らかの聴き方があらかじめあって、それを聴き手に強制しようというのではない。だからこそ、国籍や人種、あらゆる聴き手の立場から、その時間と空間の響きに耳を傾ける必要がある。



よってわたしは、ここで自分がもっとも興味のある視点を明らかにしなければならないと思う。実のところそれは、音楽的な構造ではない。楽譜でそれを解釈し、音楽的理解に何かしら新たな可能性と展望を望んでいるのではない。
そういったことは、国内ではすでに杉本拓氏らが実践しているように思う。(例えば彼は「方丈記」をその題材に用いていたはずだった)

仮にここで音声詩の領域からその考察を深めるならば、真っ先に興味がわくのは「ドイツ語を正しく理解可能な人間がこれを聴いたときに、いったいどのような印象を受けるだろうか?」という疑問である。

自分は専門家ではないので正確ではないかもしれないが、例えば「die」という女性単数の主格がある。これは、後にくる様々な単語とともに用いられることで、場合によってはそれが複数を指すものであるかが決まる(はず)のだが、「die」の後に続く8秒の間、わたしたちは常に不確定な曖昧な意味の空間において、それが何を指し示しているのか待機し続けなければならない。

もう一点。いくつもの音節で構築された長いセンテンスがあった場合、それらをひとつの意味のある文として認識することはできるものなのだろうか?
(例えば12の音節でつくられたひとつのセンテンスがあるとして、すべて読み上げられるのに8×12で96秒もかかることになる)


上記の意味で、まずわたしが感じたことは、この作品を音楽的な知覚と認識によってのみ聴取することは、実のところ、やはり困難なのではないかということだ。むしろ、重要だと思われるのは、あくまでも用いられる「言語」の構造そのものが決定的に、わたしたちの音への知覚に関わっていて、それらがどちらも切り離して考えることのできない何かでしかないのではないかということである。そういった知覚と言語との関係に横たわる奇妙さを感じたうえで、はじめて論理的考察によって対象化された文脈的な音楽として理解することが、この奇妙な「8秒」について考えることが、可能となっていくのではないだろうか。

誤解をおそれずに、以上のことをふまえてなお断言してみる。
それは音楽が、まぎれもない<時間>という名の「器」に注がれる「水」であるということだ。そして、わたしたちは耳の前に現前した音楽に対して、それらを「器」と「水」のように区切り、認識することはできない。ケージが「4分33秒」でわたしたちの前にさしだしてみせたのは、「器」である<時間>そのものを思考の対象にするために「水」を注がないという選択肢だった。

そして多くの音楽家が中身である「水」に対するアプローチ(水の味や色などが何に対応しているのかはそれぞれの想像にお任せするとして)をとっているのに対し、ここでボイガーが試みているのは、音楽化を排除した「言語」によって異物な中身としてそれを代入することで「器」そのものを破壊することである。

同時にボイガーはここで、哲学的理解を要請する従来の読解ではなく、声をもつ音声言語として「エチカ」を読もうと試みる。それは、読むという「行為」そのものにおけるまったく異なるひとつの可能性を提示していると言えるだろうか。
確かにいくつかの疑問もそこには存在する。それは「エチカ」でなければならなかったのだろうか?前日の朝刊の三面記事ではだめだったのだろうか?
「エチカ」を読み上げるということが、その行為を通じて彼自身と二重化することで、異なる意味が想起されるものであってほしいのはわたしだけだろうか。

この辺りの問題はデリケートであるがゆえに、好みの問題からでなく、様々な角度から今後も考えてみたい。

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