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近代文学合同研究会コミュの第10回シンポジウム開催のお知らせ

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12月19日(土)にシンポジウム「高度成長と文学」を開催します。詳細は下記の通りです。入場無料ですので、興味のある方は是非お越しください。


〈近代文学合同研究会 第10回シンポジウム開催のお知らせ〉

テーマ :  高度成長と文学
日 時 : 二〇〇九年十二月十九日(土)午後一時より
会 場 : 慶應義塾大学三田キャンパス 第一校舎三階 一三四教室

(会場までのアクセスについてはhttp://www.keio.ac.jp/access.htmlをご参照下さい)

○スケジュール
午後一時〜三時  パネリスト(三名)による発表

豊かさの証明――松本清張「拐帯行」から高度成長期の暗部を探る試み  大塩竜也

「団地」をめぐる言説――大岡昇平『遥かなる団地』を中心に  鈴木貴宇

「終末」の書き方――大江健三郎『洪水はわが魂に及び』  服部訓和

三時〜三時三〇分  休憩、及び質問用紙記入、提出

三時三〇分〜五時三〇分  質疑応答


【発表要旨】

豊かさの証明――松本清張「拐帯行」から高度成長期の暗部を探る試み  大塩竜也

 本発表では松本清張「拐帯行」(『日本』 一九五八年二月)を分析し、小説が高度成長期の暗部を描出することによってもたらされるものを検証していく。「豊かさ」への憧憬が犯罪動機となる同作は、いまだ達成されざる成長に向かう一九五〇年代後半の社会を舞台に同時代の「豊かさ」の指標となる事物や「豊かさ」のロールモデルとなる登場人物に彩られた小説である。また、そうした「豊かさ」と対比される「貧しさ」が耐えることのできない悪として描かれる。すると同作は「貧しさ」が悲劇の根源に据えられているように見える。しかし、勤務する会社から死を覚悟の上で集金を横領、逃走する主人公の「貧しさ」とは明日をも知れぬ、食うに事欠くような貧窮ではない。サラリーマンとしての身分はあり、犯罪に手を染めねばならないような境遇にいるわけではない。主人公の考える「貧しさ」とは「贅沢でないこと」であり、犯行の動機も「贅沢」への志向ということになる。だが、彼が死に臨んで実行した贅沢とは、輸入品の服を着てその地区で高級な宿に泊まることであり、決死の状況下でなされるにしては被害総額の小さな犯行=贅沢である。つまり「拐帯行」に描かれる犯行とは、貧困窮まってやむを得ずなされたものでもなければ、死ぬことを決意して最後に巨万の富を狙うものでもない、犯罪小説としてはスケールの小さな話である。そして物語の結末部において、検事は自首して人生を生き直す決意を語る主人公に執行猶予を論告することを決意する。即ち、主人公の犯行には同情の余地があるとの判断である。

 このような小説がリアリティをもつとすれば、そこには食うには困らぬ貧しさを悪しきもの、嗜好品にかける金額を増す贅沢を羨望されるものと見なす同時代的了解がなければならない。本発表では、まだ社会が完全に豊かさを自覚する以前の高度成長下における貧しさと豊かさの形成過程を辿り、小説が「豊かさ」への志向を犯行動機=成長期の暗部、及び同情の余地のあるもの=成長への肯定として両面から描くことで得られたもの、同時に失ったものを照射していきたい。


「団地」をめぐる言説――大岡昇平『遥かなる団地』を中心に  鈴木貴宇

 大岡昇平が1967(昭和42)年に発表した戯曲、『遥かなる団地』(初出「群像」、1967年12月)には、こんな独白をつぶやく唐沢文雄なる登場人物が出現で始まる。「団地はすばらしい。モダンな建物、完全に舗装された道路、手入れの行き届いた芝生、通る人もみんなどことなく上品だ。(略)お伽話の国、別世界に来たような気がしちゃったな」。「現代喜劇」と大岡によって性格を特定された同戯曲は、この唐沢という26歳の青年をトリックスターとして、団地およびそこで展開される生活――当時の用語で言うなれば「憧れのダンチ族」生活――の虚妄性が浮かびあがるように仕組まれている。「遥かなる団地は遠くなりにけり」とは、武田泰淳が同戯曲に寄せたパロディ俳句であるが、ここで注目すべきは1967年時点で「団地」生活が「過去」の対象として捉えられている視点ではなかろうか。

 21世紀の現在、「団地」はすでに高度成長の遺産を象徴するノスタルジーの形象でしかない。しかし、大岡がこの戯曲を発表した1967年時にあっては、まだ「団地」は誕生してから10余年の歴史を持つに過ぎない、きわめて「新しい」住居形式であった。日本住宅公団の設立は1955年、経済成長に伴って出現しつつあった「サラリーマン層=中間層」の住まいを大量提供するため、団地の建設が急速度で始まる。そこに住まう家族のかたちは「サラリーマンの夫」と「専業主婦の妻」により構成される「核家族」のイメージを伴って、「ダンチ族」の名称で流布していく。それはまた、伝統的共同体の記憶から切断された、戦後民主主義下のマイホーム像を含意するものでもあった。換言するならば、「団地」とは高度経済成長期に生きた人々の欲望を体現した居住形態であったわけだが、そのことは「敗戦」にまつわる記憶から切断された空間で日本国土を覆うことと同義でもあった。

 こうした社会状況を背後に『遥かなる戯曲』を考察してみると、冒頭に登場する唐沢という登場人物は、記憶喪失者の徴を付されることで、戦後日本社会に生きた人々が集合的に、そしておそらくは意識的に行った「忘却」を告発する性格を持っていることがわかる。本発表は、同戯曲の分析を通じて、「団地」という空間に投影された同時代的な欲望の痕跡を浮上させる試みである。


「終末」の書き方――大江健三郎『洪水はわが魂に及び』  服部訓和

 高速道路、マイ・カー、スーパー・マーケット、団地、テレビ、情報化、マス化、農村の解体・・・。国土と人々の生とを否応なく再編した、高度成長という事象を象るに際して、もっとも祝福された表現の形態はおそらく写真ではなかったか。濱谷浩『裏日本』、長野重一『ドリームエイジ』、森山大道『にっぽん劇場写真帖』、あるいはオリンピック、万博等々の無数の記録写真、そして今日陸続と公刊される団地や廃墟の写真集まで、高度成長を象る写真群は、不在の時間を照射する定点観測写真に似て、建造物群が空を切り裂いていく瞬間を、そして人の生の根拠が押し流されていく瞬間をとどめている。

 瞬間といえば、東京オリンピックの第二号・第三号ポスターは、ランナーがスタートを切る瞬間と、スイマーが水を切る瞬間とを捉えていた。富山晴夫のシリーズ写真「現代語感」が、刻々と変容する高度成長の世相を一葉の写真と一つの言葉の組み合わせの妙でもって表現していたことも想起される。翻って文学の周辺に眼を転じれば、高度成長期の後期に流行を見た終末論的な物語は、来るべき「終末」の瞬間を核として紡がれたものと言えなくもない。むろん瞬間への関心は近代の始発期にまで遡りうるのだろうし、その脈絡は一様ではありえないにせよ、この時期、それは変貌する同時代を象るものとしてあらためて焦点化されているようなのである。

 本報告では、こうしたきれぎれの断想を念頭に、大江健三郎『洪水はわが魂に及び』を、とくに瞬間のイメージに着目して検討してみたい。というのはどうやらこの、武蔵野台地の核シェルターで、「樹木と鯨の代理人」を「僭称」して「終末」を待つ男の物語もまた、瞬間をめぐる表現に貫かれていると言えそうだからである。たとえば「鯨の木」の夢想。大江文学において重要な役割を果たす樹木は、ともすれば大江の故郷に端を発する神話的な「森」と理解されてきたが、しかし「鯨の木」の書き方には明らかに、瞬間をめぐるイメージの最たるものとしての原子爆弾のすがたが影を落としている。そのことの意味を、「GNP世界第二位を自慢しているあいだに、自然も、人心も、荒廃の極に達していた」(滝沢克己「「終末論」流行の背後にあるもの」)というような、同時代の高度成長批判の文脈に置きながら考えることで、とかく疎外論に閉ざされがちな、文学にとっての高度成長の意味を再考する契機にできればと思っている。


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