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イーグルスファンコミュの<今こそノムさんの教え>「上り坂、下り坂、まさか」

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野球ロッテ−楽天戦が降雨中止 先発予定の本前郁也は3日にスライド予定野球

<ロッテ−楽天>◇2日◇ZOZOマリン

ロッテと楽天の13回戦は降雨のため中止となり、5日に試合が組み込まれた。


野球中日小笠原慎之介−ヤクルト小川泰弘ほか/3日予告先発野球

3日のプロ野球予告先発は以下の通り。

<セ・リーグ>

DeNA阪口皓亮−巨人メルセデス(神宮=時計17時45分)

中日小笠原慎之介−ヤクルト小川泰弘(バンテリンドーム=時計14時)

広島大道温貴−阪神伊藤将司(マツダスタジアム=時計14時)

<パ・リーグ>

日本ハム上沢直之−ソフトバンク・マルティネス
(沖縄セルラー那覇=時計17時45分)

西武今井達也−オリックス山崎福也(メットライフドーム=時計17時45分)

ロッテ本前郁也−楽天涌井秀章(ZOZOマリン=時計14時)


野球<今こそノムさんの教え>「上り坂、下り坂、まさか」野球

浮き沈みのある人生でも、幸運や良縁に恵まれたり、喜ばしい出来事に
立ち会ったりする「まさか」の瞬間がある。それはたゆまぬ努力がもたらす。
頑張る姿を見てくれている誰かが必ずどこかにいて、いつか手を差し伸べてくれる。

人間は何をもって満ち足りるのか―。
深遠な問いの答えを野村さんが身をもって教えてくれた。
「ふふふ、この輝き、いいだろう?」。
野村さんは東北楽天担当の記者たちに、高級腕時計を「お宝拝見」させた。
これでもか、と装飾された宝石に目がくらむ。ジェイコブ、フランクミュラー…、
セレブ御用達のブランド品ばかり。どれも軽く数百万円はする。
「自宅に山ほどある」とさらりと言う。
 桁違いの大人買い。気分転換のつもりなのに、つい財布のひもが緩むのが悪い癖。
だから「お宝拝見」は自戒のぼやきとともにいつも後味悪く終わった。
「俺は弱いな。すぐ欲しくなって買っちゃう。幼少期に貧乏で育った反動なんだろう、
この成り金趣味は」

太平洋戦争で父親を失った。病気がちな母親が身を粉にして働き、育ててくれた。
戦後間もなく中学生だった頃、野球部員で唯一ユニホームを持っていなかった。
ランニングシャツと短パン姿。劣等感を抱きながら集合写真に収まった。
 プロに憧れたのは「母親に楽をさせたかったから」。
南海(現ソフトバンク)では現在の育成選手や裏方に近い立場のテスト生から始まった。
超一流に成り上がると金に困らなくなった。

「日本人初の年俸1億円選手はたぶん俺。
1970年代に南海で兼任監督だった時にもらっていた」と後に明かした。
87年の落合博満(当時中日、秋田県男鹿市出身)が初の年俸1億円日本人選手として
話題になるよりも前。パリーグが日陰の存在だった頃の昔話だ。

振り返れば栄光から転がり落ちもした野球人生。
そのせいか「いつ、どんな想像し得ないことが起こるか分からない」と披露した
語録があった。

「人生には三つの『さか』がある。上り坂、下り坂。そして、まさか、だ」

「まさか」の一つが、高卒でのプロ入りを目指した時。54年南海入団テスト、
野村さんは遠投の試験で苦しんだ。合格基準の距離にどうにも達しない。
苦闘する18歳を見かねたのか、試験官がこっそりささやく。
「少し前に出ていいぞ」。野村さんは遠慮なく踏み切り線をはみ出す。
白球の放物線は見事、合格ラインを通過。九死に一生を得た。

80年に45歳で引退。その後評論家として野球解説に革命を起こした。
テレビ中継でストライクゾーンを画面に表示する「野村スコープ」を導入。
バッテリーと打者の勝負のあやをひもといた。次の球種やコースをクールに推測し、
ずばり当てる姿は予言者のよう。結果論や経験則だけで語る評論家と一線を画した。

広島と近鉄が初の日本一を争った79年日本シリーズ第7戦。
広島の抑え投手江夏豊は九回無死満塁から逆転を許さず、栄冠を手にした。
その神懸かり的投球こそがプロ野球随一の名勝負「江夏の21球」。
故・山際淳司さんの著作はスポーツノンフィクションに新たな地平を開いた。
比較的知られていないが、テレビドキュメンタリー版も名作の誉れ高い。
そこで江夏の投球の妙をつぶさに語ったのが、野村さんだった。

評論家になって9年。次なる「まさか」が訪れる。
89年、さしたるつながりがなかったヤクルトから監督就任要請が来た。
「解説のお仕事に感心していました。本物の野球を教えてください」。
相馬和夫球団社長は言った。
「俺のことを見ていてくれた」。野村さんは野球理論を高く評価されたと感謝した。
77年に南海の選手兼任監督の座を追われて以来、監督復帰が目標だった。

「まさか」とは努力の積み重ねが引き寄せた幸運や良縁のようなもの。
野村監督は見えない力を信じるからこそ、人生論を最優先で説いた。
「人は他人の評価で生きている。そして努力する姿をきっと誰かは見ている。
だからどんなときも気を抜かず頑張り続けなくてはいけない」

当然「見る」側になっても目を光らせた。ヤクルト監督5年目の94年秋。
明大の選手だった息子・克則(現東北楽天育成捕手コーチ)が出場する
東京六大学リーグの試合を見に訪れた。そこで相手校・法大の左打者が活躍していた。
間もなくドラフト会議がある。何かを感じた野村さんは球団に獲得を進言した。

その選手は稲葉篤紀。大学通算6本塁打のうち、野村さんの目の前で2本を放っていた。
野村さんの直感通り、稲葉は入団1年目の95年、主力として日本一達成に貢献。
日本ハム移籍後には通算2000本安打も達成した。
「俺が見ていたからプロに入れたんだぞ」。こう言われながら努力を重ねた
野村門下生は引退後の今、東京五輪の野球日本代表監督を務める。

2009年のクライマックスシリーズ第2ステージ。東北楽天は日本シリーズを
懸けた戦いで日本ハムに屈した。通算24年間の監督生活の終幕、
脱力感に見舞われていた野村さんに予想外の出来事が起こる。
チーム全員で応援席のファンに感謝のあいさつを終えたところ、
日本ハムの顔触れがにわかに集まってきた。

「監督、さあ胴上げですよ」。勇退の花道を飾る粋な演出。
中心で音頭を取ったのは稲葉だった。両軍の教え子たちが呼応し、
感謝の気持ちを込めて背番号19を担ぎ上げる。
「まさか、俺は敗軍の将なんだぞ…」。
5度宙を舞いながら、野村監督は恍惚(こうこつ)の表情を浮かべた。

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