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イーグルスファンコミュの“名将の孫”から「渡邊佳明」へ―― 恩師との出会いが運命を変えた

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野球浅村FA加入気持ち分かる、鈴木大地と共闘宣言 野球

浅村が、ロッテからFAで加入する鈴木大地への全面サポートを約束した。

自身も昨オフ、西武からFAで移籍。

「不安な気持ちも自分も最初はあった」と振り返るが、全143試合に出場し、

自己最多の33本塁打を記録。2年ぶりのCS進出の原動力となった。

「大地さんがやりやすいようにサポートしていければ」と、プライベートでも交流のある

1学年先輩との共闘を誓った。



野球“名将の孫”から「渡邊佳明」へ――

恩師との出会いが運命を変えた野球


ぴかぴか(新しい)名将・渡辺元智監督の“孫”として生まれてぴかぴか(新しい)

渡邊佳明は、祖父・渡辺元智さんが監督(当時)を務める横浜高に松坂大輔(現・埼玉西武)が

在学中の1997年に誕生。翌98年、佳明が1歳のとき、横浜高は春夏連覇を達成した。

生まれたときから、“名将の孫”であった佳明だが、このときから“高校野球界の名将中の

名将の孫”として育ってきた。


長年、祖母が横浜高・野球部合宿所の食事作りをしていて、幼少時代、

佳明の母が祖母から引き継いだので、そこからずっと佳明も合宿所住まい。


選手たちから「よっくん」と呼ばれ、オフシーズンになると、OBのプロ野球選手たちが

続々と顔を出しに来てくれた。

小さいころは「たまに遊んでくれる近所のお兄ちゃんぐらいに思っていた」という

プロ野球選手だが、いつしか、そのすごさに気付き、「自分もプロ野球選手になりたい」と

思い始めた。

小学2年生から野球を始めると、祖父である元智さんは、よく高校の練習後に

野球を教えてくれたという。小さい体でよく動く、野球が大好きな少年だった。


中学生になると、プロ野球選手を多数輩出している名門・中本牧シニアに入団。

バッティングセンスが良く、守備もうまかったが、体の大きい選手がそろう中本牧シニアの

中では小柄な部類の165センチで、まだまだ非力。

チームはジャイアンツカップ(中学硬式野球最高峰の大会)で3位入賞を果たしたが、

佳明自身はセカンドで試合に出たり出なかったり……目立った活躍はあまりなかった。


そんな佳明だが、高校は、祖父が監督を務める横浜高に行きたかった。

小さいころから憧れ続けてきた高校であり、お兄ちゃんたちと同じグレーのユニホームが

着たかった。

だが、横浜高は、言わずと知れた全国屈指の強豪校。

関東全域……いや、全国の強者たちが集まってくる。

それを聞いた元智さんは「身長は何センチだ? 165? 体が小さいから無理だ。

ここ(横浜高)に来てもユニホームは着られない(ベンチ入りができない)。

違う高校を考えろ」と佳明を突き放した。

違う高校であっても、ユニホームを着て活躍してほしいという、祖父から孫への愛の言葉。

それに対し、佳明は、行動で応えた。

塾に通い、必死に勉強し、一般受験で横浜高に入学したのだ。

そうして始まった“監督である祖父”と“選手である孫”の高校野球。

佳明の同級生には、中学3年時にU-15侍ジャパンにも選ばれた淺間大基、

ジャイアンツカップで優勝した飯塚ボーイズの2人、高濱祐仁(ともに現・北海道日本ハム)と

松崎建造(卒業後は立教大)、そして、関東屈指と言われた好選手・

川口凌(法政大‐JX-ENEOS)ら錚々(そうそう)たるメンバーがそろう中、

「ベンチ入りは難しいんじゃないか」という声が多く、当時コーチをしていた渡辺監督の名参謀・

小倉清一郎コーチも「頑張ってセカンドの控えだな。あとは三塁コーチャーか」と話していた。

だが、佳明は、それらの言葉をすべて跳ね返した。

入学当初からコツコツ練習して力をつけ、のみ込みも早いからどんどん吸収した。

同時に背もグングン伸びてパワーもつき、大方の予想に反して1年秋からベンチ入り。

2年時はファーストのレギュラーを獲得した。

とはいえ、淺間や高濱ら主役がいる中、佳明は、そこにはまったく及ばない脇役。

2人がドラフト候補と騒がれる中、佳明は自分の進路について「大学でも野球は続けたい。

強い大学に行っても出られないと思うから、試合に出られるぐらいのところがいいな。

神奈川大学リーグは地元で横浜スタジアムでも試合をするし、いいな」と、

そんなふうに思っていたという。

そんなとき、ある人物が佳明の野球人生に一筋の光をともした。

高校2年の夏の神奈川大会準々決勝、横浜高対桐光学園高の試合を見に来ていた

明治大の善波達也監督だ。



ぴかぴか(新しい)松井裕樹のスライダー打ちで道が開く ぴかぴか(新しい)

前年夏の甲子園、今治西高戦で、1試合22奪三振の快投を見せ、その年のドラフト候補筆頭に

挙がっていた桐光学園高のエース・松井裕樹(現・楽天イーグルス)が投げ、

淺間、高濱といった下級生に好選手がそろう横浜高が挑むという大一番。

その試合を見ていた善波監督がこう話す。

「渡辺監督のお孫さんが出ているというのは分かっていたので、どんな選手なのかなと

興味を持ちながら見ていたんです。すると、3打席目かな、あの松井くんのスライダーを

きちんとつかまえてヒットにしたんです。松井くんの、あの一級品のスライダーを、ですよ。

あれを見たとき、“渡辺さんのお孫さん”という見方は消えて、

渡辺監督に『“渡邊佳明”選手をうちにください!』とお願いしに行かなきゃ、と思ったんです」

その旨を渡辺監督に伝えると、「ほんとですか? いやー、そんな選手じゃないんだけど……」と

驚いた表情。

佳明自身は、そのことを小倉コーチから伝え聞いたそうだが、

「小倉さんには『明治から話が来たけど、無理だから断った』と聞いたんです(笑)。

『ほかの大学に行けば1年から出られるから』と言われて。

自分自身も、試合に出たい気持ちが強かったので、地元の大学がいいやってそのときは

思ったんですが、オフシーズンに善波監督がわざわざ(横浜高の)グラウンドにいらっしゃって

正式に言われたときに、行ってみようかなって思いました」と話す。

でも、佳明が明治大に行こうかなと思った理由は、こういうことだ。


「正直、大学野球のことって全然分からなくて、東京六大学も東都大学野球も

知らなかったんです。明治大のことは箱根駅伝で見て知っていたことと、

頭がいい大学だということ。

気持ち的には、『試合に出られなくても、4年間在籍していたらいいところに就職できるかな』

『有名で頭がいい大学だから、そこを卒業できれば将来安泰かな』って。

そんな感じで選んだんです(笑)」

「明治大で野球がしたい」ということではなく、「就職がいいかも」「将来安泰かも」と考えて

選んだと。

これもまた面白いところではあるが、この善波監督との出会い、

そして、佳明の決断が、その後の野球人生を大きく切り開いていくことになる。


ぴかぴか(新しい)大学屈指の名将が見抜いた実力ぴかぴか(新しい)

高校2年夏に続き、3年春の甲子園に出場したが、夏は出場できず。

引退後の8月末、佳明は明治大のセレクションに参加した。

そのとき、善波監督はこう思ったという。


「肩が強いんですよ。遠投をしたら105メートルは放っていた。高校時代は、

一度、肘のクリーニング手術をしたので状態を見ながらということだったでしょうし、

高濱、松崎、川口というすごいメンツが内野にいたのでファーストだったのでしょうが、

そのファーストの守備を見ても、難しい送球も打球もきちっとさばけている。

大学では、サードやショートもできるって思ったんです」


善波監督は、その晩、渡辺監督に早速電話をすると「入寮までの間、逆側の練習をして

おいてもらえますか」と。それを聞いた渡辺監督は再び驚く。

“逆側”つまり、ファーストやセカンドではなく、サードやショートのことで、

より高みを目指すことになるからだ。

そして、高校球界きっての名将が、大学球界屈指の名将に尋ねる。

「ほんとですか?」「本当にそういうつもりなんですか?」と。

それに対し、善波監督は「はい、ぜひ逆側で使いたいんで」。


これまで40数年の指導者経験の中で、数多くのプロ野球選手を輩出してきた

渡辺監督でも驚くオファーだったが、この10数年の指導者経験で、

引けを取らない数のプロ野球選手を輩出した善波監督の眼は、確かだった。


というのは、数年後に分かること……。

祖父から、「“逆の練習”をしておくように」とだけ伝え聞き「そっちで使いたい」とまでは

聞いてなかった佳明は、「あぁ、ファーストにはすごいバッターが来るのか」と、言われた通り、

後輩たちに混ざってサードやショートの練習を繰り返していた。


そして佳明は、初めて横浜の地を離れ――祖父のもとから巣立ち、東京・府中市の

明治大の寮――善波監督のもとへ。

「そこで試合に出られるなんて思っていない」佳明の、まさかの大学野球人生が

始まっていくのだ。


<後編に続く>

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