ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

イーグルスファンコミュの【星野の記憶】斎藤隆氏 「闘将」の私生活チラリ 勝負師の顔とは一変

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
野球 【星野の記憶】斎藤隆氏 「闘将」の私生活チラリ 勝負師の顔とは一変 野球


ぴかぴか(新しい)星野の記憶10〜語り継がれる熱き魂〜元楽天・斎藤隆氏 ぴかぴか(新しい)


今、私の頭に浮かぶ星野さんは、「闘将」と呼ばれたグラウンドでのユニホーム姿ではない。

娘さんら家族の前で優しい笑顔を見せる星野さんだ。メジャーから8年ぶりに日本球界に復帰し、

楽天1年目だった13年の夏。腰の状態が悪いと聞いていたので、私がお世話になっていた

腰痛治療の先生を連れて、松井稼頭央と一緒に仙台の自宅マンションにお邪魔した。

その時は今まで見たことがないようなリラックスした表情で、家族の温かい雰囲気が伝わってきた。

星野さんはとても優しく、気配りも凄かった。勝負師の顔とは全く違った。

故郷である仙台に戻り、1年目に星野さんの下で日本一になったことは、最高の思い出だ。

楽天入団が決まった12年12月末、新外国人選手とともに仙台市内のステーキ店で食事会があり、

私の隣に座った星野さんは「隆、仙台で一緒に頑張るぞ!」と言って、固く手を握った。

その年は田中が24勝0敗と獅子奮迅の働きを見せ、他にもAJ(ジョーンズ)やマギーら

優勝の立役者はたくさんいた。でも星野さんはいつも「隆がいたからや」とねぎらってくれた。

私が星野監督の下で初めてプレーしたのは、43歳の時。

実は91年のドラフト会議で大洋(現DeNA)とともに1位で指名してくれたのが、中日だった。

星野さんが2度目の監督に就任するのは96年だが、もしクジで中日に入団していたら、

もっと早く出会えて、一緒に野球ができていたのだろう。

でも、現役晩年の2年間だけでも、同じ時間を過ごせたことは私の財産だ。

現在、私はパドレスの球団アドバイザーを務めているが、機会があれば、MLBで勉強したものを

楽天に持ち帰り、ぜひ星野さんの力になりたいと思っていた。

その夢がもうかなわないのは、残念でならない。



野球忘れられない星野監督とのイタリアンランチ野球

2018年1月。年明け早々の訃報に心が沈んだ。4日に星野仙一・楽天球団副会長(享年70)が

天国に旅立った。

2010年秋から12年秋まで楽天担当として取材をさせてもらった。

最初は武勇伝ばかりが耳に入り、恐る恐る、接していたが、付き合ってみると、

まさに温かい“昭和のおやじ”。政治、経済、そして野球界のことを星野監督から学んだ。

当時独身だった記者は、仙台でランチ相手をさせていただいた。

集合場所は、監督邸近くのイタリアンレストラン。正午前に待っていると、

パナマ帽に白シャツ、ジーンズ姿の監督が歩いてくる。そしてヘッドコーチの田淵幸一さんも駅前の

ホテルからやってくる。2人の漫談のような昔話から、前夜の反省、選手への思い、

采配で疑問に思ったまでを聞かせてもらった。

岩隈(マリナーズ)が抜けた2012年は、ほとんどが20代前半の先発陣。

すでに田中(ヤンキース)は完成された投手だったが、美馬、塩見、辛島、釜田ら若い投手が、

いつも大事な終盤に痛打を浴びていた。

「もう少し、早く代えてやったらいいんじゃないですか?」と質問すると、

優しい顔で「あほ、打たれて覚えるんや。勝負どころで勝負球をちゃんと投げられるようにならんと

一人前とはいえん。

だから、俺は最後まで自分で白黒を付けさせる」。

そうして、粘り強く育てた投手陣が今の楽天を支えている。

4年前に挙げた結婚式には、日取りは伝えていなかったのに、祝電と化粧用の熊野筆が届いた。

最後にお会いしたのは昨年10月のドラフト会議。子供が生まれたのを伝えると、

「よかったな。お前にも種があったということやな。家族は大事にしろよ」と笑ってくれた。

生前に「今までありがとうございました」とお伝えすることができなかった。

星野監督なき今、野球界を盛り上げ、野球のすばらしさをファンに伝え続けることが、

新聞記者としてできる、わずかな恩返しだと考えている。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

イーグルスファン 更新情報

イーグルスファンのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング