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= 癌がん闘病日記 =【保存版】コミュの【ランチ】 すい臓がんの母と家族の闘病記

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はじめまして。

いつもコミュを見せていただいています。

闘病に伴う自分の動きを整理する意味と、
今後同じ病気と闘われる方やその家族の方に
少しでも参考になればと思い、
闘病記をつけていこうと思い立ちました。

---

僕の母は、2009年の6月に
「便が白い」「尿に血が混じっている」という
症状から病院に行き、そのまま検査入院→6/30に
すい頭十二指腸切除を行うに至りました。

手術時に動脈のリンパ?への転移が見つかり、
それが体内に残っています。
余命は半年から1年程度と伝えられました。

〜その後現在までの経過〜

●7/16 ジェムザール投与開始
●7/17 退院
●8/3  免疫細胞療法(瀬田クリニック)開始


〜母のプロファイル〜

●年齢:59歳(1949年9月生)
●身長:150センチ
●体重:術前44キロ/術後39キロ
●主な病歴:若い頃に結核、8年前に初期の子宮頸がん
●住まい:神奈川県藤沢市


〜家族のプロファイル〜

●父(59歳)藤沢市在住・母の病気を機に早期退職済み。母と二人暮らし。
●姉(33歳)千葉県千葉市在住・県職員。2歳と0歳の子持ち。
●僕(30歳)東京都目黒区在住・都内Web会社勤務。一人暮らし。

コメント(402)

書き忘れていたけど、先週から介護休暇に入り、自分が付ききりで介護できる状態になっています。いろいろと不安も多いですが、まずは腰を落ち着けられてよかった。
やっぱり寝続ける日が続いている。
ご飯とトイレ以外はほとんど寝ていて、所謂傾眠状態にあると思う。ここ一週間、くだらないおしゃべりみたいな会話はほとんどない。

また、トイレに立つだけで息苦しいようだ。
これまでもなんとなく感じていたけど、無視できないレベルまできている。

明日診察なので、酸素ボンベを使った方がいいか相談してみる。
母の容態は、かなりしんどいところまで来ている気がする。なにかのきっかけで流れを変えられないと、そう長くないうちに厳しいことになるかもしれない。
どうしたら流れを変えられるかな。。
↑の書き込みの翌日早朝、呼吸困難で救急車に乗って病院へ行きました。

CTの結果、肺転移、肝臓転移ともに腫瘍がかなり増大しており、その影響で胸に水が溜まっているとのこと。入院して何日かかけて一旦これを抜くが、癌が原因になっている場合はまた溜まってしまう。今回の入院は厳しいものになると覚悟してください、と言われました。

その後、胸の水は順調に抜けてきて多少呼吸は楽になりました。
ただ、痛み止めを点滴のモルヒネに変えているため、意識が朦朧としており、母がこれをとてもいやがっています。

母の希望もあり、入院初日から病院に泊まり込んでいます。
特になにもできないけど、せっかく介護休暇も取ったことだし。
引き続き入院中。
ご飯を食べる量がさらに減っている。
一度の食事では、擦ったりんごやパンをほんの一口か二口しか食べなくなった。また痛み止めを増やしてもみぞおちの痛みがなかなか引かず、一晩に何度もモルヒネを増量する。

父は精神科に入院中だが、一旦外泊で呼び寄せている。
もう、万事休すという感じ。
一日一日、いろんな体の機能が衰えていく。
息苦しかったり、痛みが強かったり、吐き気があったり、何もよくしてあげられなくて見ているのもつらい。
昨晩から呼吸が乱れ、今朝10時46分、母が亡くなりました。
5年間、できることはすべてやった。我ながらうまくここまで漕ぎ着けたと思います。悔いはほとんどありません。
ただ、とても仲良しだった母がいなくなってしまった事がとてもさみしく心細いです。

今は退院を終え、動かなくなった母が実家の居間に横になっています。
僕は別の部屋で仮眠を取ったのですが、母が亡くなった事実をまた見るのが怖くて、居間に行けずにいます。
仮眠から目覚めた時は気持ちが落ち込んで、布団や畳と一つになってしまったような感覚がありました。
>>[369] はじめまして ちぐさ といいます。

mixiにはごぶさたでしたので、はじめてこちらを拝見させていただきました
私も7/12に父を亡くしました。前立腺がんで8年の闘病生活でした。

年齢も病の場所も違いますが、つい自分たちと比べてしまって…
まだお若いのに、お母様のお世話を本当によくされて
お母様もお喜びだったでしょう  

これからいろんな事を片付けて行かなくてはなりません
私たちの実家はすごく田舎なので、余計に大変だったのかもしれませんが…

父が亡くなったことは本当に悲しくて、つきっきりで泣いていたかった
悲しくて何も考えられない、何も手につかない
と、思ってました。

が、いろんなしきたりが放っておいてくれれはずもなく
事務的なこと、親戚やお客様への挨拶
次々とこなしていく自分、笑顔さえ見せる自分の事が
自分自身で信じられなく、混乱してしまいそうでした

どうか今はお母様のお側でじゅうぶんに別れを悲しんであげてください
お母様の頑張りを労ってあげてください

お姉さま共々、お疲れが出ませんように

突然のカキコミ失礼いたしました
>>[369]

いつも拝見させていただいておりました。5年間にわたる介護、本当にお疲れさまでした。

私がこのコミュニティに参加したのは母がすでに他界したあとでした。ランチさんがこの5年の間にさまざまな努力を重ねてお母様に向き合ってこられたことに深い敬意を抱いています。

今はお母様との思い出にゆっくり浸ることはできないかもしれません。お父様のご様子も気がかりなことと思います。

私の母は昨年の9月に癌が判明し、この5月に旅立ちました。ランチさんの100分の1もしてやれず、後悔ばかりが残っています。ランチさんがお母様に注いでこられた愛情は、お母様の強い支えであったことと思います。

そして同じ苦しみを抱えた患者さんやご家族にとっても大きな支えになっています。

本当に長い間お疲れさまでした。ゆっくり体を休めることはできないかもしれませんが、お体にはくれぐれも注意してくださいね。

まとまらない内容で申し訳ありません。
ちぐささん ふとちゃんさん、
コメントありがとうございます。

昨晩は、姉と母の話をたくさんしました。
振り返ってみると、病気や人間関係のトラブルなど母の人生には大変なことがたくさんありました。思うようにいかないことご多かったんだと思います。それでも、「棒ほど望んで針ほど叶う」とよく本人も言っていましたが、楽しく幸せに過ごすことにいつも貪欲で、エネルギッシュな人でした。
(それでいてファニーでかわいらしくもありました。)

僕と会うといつも、「◯◯と話すと元気が出る」「◯◯と過ごすのが一番楽しい」と言ってくれて、僕はうれしかったです。

でも、僕たちは楽しいことばかりを共有して、母親のしんどかったことや悲しかったことを、どこまでわかってあげられたのか、今になって不安です。もっとできることがあったのかもしれない。
亡くなる直前、酸素ボンベの圧力を最高にしても母の体の酸素濃度の数値が上がらない状態が続いていました。
そんな中、主治医から眠ってしまう薬を投与する提案がありました。これを入れると本人は苦しみから楽になるが、意識が飛んでしまいおそらく戻ることなく亡くなるでしょう、と。

最初は賛成したけど、様子を見てるうちに少しずつ酸素濃度の数値が上がってきた。
全力疾走した直後のような息遣いの母を見ていて、母はまだギブアップしていないんじゃないかと思った。まだノックアウトされてないぞと主張しているような気がしました。

亡くなる前日も、母はもっと生きることを望んでいました。「食べないと死んじゃうから」と言って食べたくない食事を何口かでもがんばって口に入れました。

いつかずいぶん前にこの日記にも書いた、辰吉丈一郎のある試合を思い出していました。
辰吉は、何度ダウンしても、もうダメだろうと誰もが思っても、何度でもまた起き上がって来るのです。
5年前、僕はそうやって闘病していかなくてはと思ったのでした。

それで、眠ってしまう薬の投与はしませんでした。母は早く眠らせて欲しかったかもしれなくて、僕のひとりよがりだったかもしれない、わからないけど。
激しかった息遣いがだんだんゆっくりになり、間隔が広くなっていき、最後は眉をしかめて大きく二回息を吸って、そのまま呼吸が止まってしまった。そのシーンを何度も思い出してしまう。

おれこんな落ち込んでしまって大丈夫だろうか。。
大事な人を亡くして、落ち込まなかったり、泣かないほうが駄目です。
大人になると、なかなか出来ないことですが、声をあげて泣くぐらいのほうが良いです。
これ以上ないほど落ち込めば、そこはドン底です。あとは上昇するしかありません。

ランチさんたち御家族は、御本人様含め十分に闘病しました。それは、ここにいる皆が知っています。

この世を去るものが願うのは、残していく愛するものの幸福だけです。
ランチさんが出来る最後の親孝行は、幸せに生きていくことです。
お母様を無事にお見送りするため、無理にでも食べてくださいね。呑み込んでください。
眠れなくても、なるべく横になってください。
お母様の御供養、お父様の健康問題、ご自身が幸せになること、まだまだ忙しいランチさん。今は、落ち込んで泣いて良い時間です。
時間だけが、ランチさんの薬です。
ここにいる皆が案じていることでしょう。

最後になりましたが、お母様の御冥福を心からお祈り申し上げます。
まとまらない長文、ごめんなさい。
何て声をかければ良いか…
ただただ ご冥福をお祈りしております。
お母様の最期のご様子が数年前の母親とよく似ていて、心が痛みます。

ランチさん、お母様の看病お疲れ様でした。
後はお母様をお見送りですね。

私は母親を笑顔で送りました。
母親が『あんたは元気な顔がいい』と言っていたので…

もちろん、見送った後は泣きわめきましたが…

これから多忙になりますが、お身体をご自愛くださいね。
ランチさん。

ご無沙汰しております。

以前こちらで同じすい臓がんの父を持ち日記を書いていた沙羅です。

父の闘病日記を書き綴っていた頃はちょうどランチさんと同じサポーターとして勝手ながらランチさんのことを戦友だと思いながらランチさんの日記にも励まされたものでした。

父の他界後 私が日記を書くことはなくなってしまいましたが、しばしばこちらの皆さんの前向きな姿の日記を読ませてもらっておりました。

特にランチさんのお母様には同じすい臓で他界した父の分まで応援しておりました。

ランチさんの日記からもしかしたらお母様は難しいと言われているすい臓がんのサバイバーになれるかもしれないと、希望を抱きながら読ませて頂いていました。

5年もお母様頑張られたなんて こんなこと書いていいのか分かりませんが、お母様ホント凄いです!
ここまでお母様が元気にされてきたのも、ひとえにランチさんの献身的なサポートと家族の愛です。

ランチさんの心の中では、もっとこうしてあげてたら、もしこうしていたら.....と悔やむ気持ちもあろう事と思います。

私も未だにその気持ちはありますので......


でもランチさん、全ての事を全力でされてました。 頭が下がるような素晴らしいサポートでした。

お母様もやっと痛みから解放されたんですよね。

父が亡くなった時にそう思ってしまいました。父はいなくなってしまったけれど痛みから解放されてやっと楽になれたんだろうなって。

父亡き今でも不思議と父が守ってくれている事を実感する日々です。

姿はなくなれど魂って残るものなんだと感じております。

しばらくは慌ただしい日々で落ち着く暇もないかと思いますが、どうぞお体無理されずご自愛くださいね。

お父様のサポートもありますでしょうから、特にご無理されないように.....

ランチさんもお母様も本当にお疲れさまでした。

キャンさん
コメントありがとうございます。
目覚めの時だけ声をあげて泣いてしまいましたが、はっきり目が覚めれば感情をコントロールでき、普通に暮らせています。
今は姉と父が一緒にいて、母親に対してはそれぞれ別の思いがあり、それぞれの流れで悲しみがこみ上げたりしますが、お互いなんとなくいたわり合って過ごしています。

残された三人の人生はまだ続きますから、母親をがっかりさせないようにこの先も歩んでいかなくちゃと思います。

キャンさんもおくれぐれもストレスを貯めないよう、楽しく毎日を過ごしてください!
ヨッコさん
コメントありがとうございます。
僕もきっと笑顔で見送りたいと思います。

長いことこの日記に書いてきた闘病のこと、振り返ればいつも楽しかった。つらいことやしんどいことが多くても楽しかったです。
遠くの病院にセカンドオピニオンを聞きに行ったことも、治療方法をあれこれ調べて毎日のように電話で相談したことも、車椅子を押して近所を散歩したことや、母のオムツを替えたことも、最後の最後、酸素ボンベのマスクを母が取ってしまわないように押さえたことも!
今母と話せたら、「ほんとに大変だったねえ〜。でも楽しかったよね」と笑って話せる気がします。

命に関わる絶対に妥協できない問題に直面したことで、お互いの間に揺るぎない愛情があることを強く感じながら過ごすことができたからだと思います。
そういう意味では幸せでした。

まー、母は私はそれどころじゃなかったと怒るかもしれませんが笑

沙羅さん
お久しぶりです!!
また後ほどコメントしますね
沙羅さん
あの頃、ほんとに戦友という感じでしたね。
管理人のかの〜さんを始め、同じような状況の方が何人かいて
病気への向き合い方や戦い方を勉強させていただいていました。
mixiも今より活気がありましたね。

母は、本当によく頑張ってくれました。
「体を清潔に保つ」とか「毎日散歩する」「ストレスを溜めない」「風邪をひかない」といった基本的なところをかなりまじめにやっていました。

最後はがんの勢いに抗うことができない状況になってしまいましたが、
昨日の朝、苦しさや痛みからやっと解放されて、楽になれたんだと思います。
僕自身も、母のことを24時間心配するしんどさから少し解放されました。

今、母は自宅の居間に横になっているのですが、
どこから見てみても普通に眠っているようにしか見えません。
声をかけたら当たり前のように起きそうなのです。
今にもむくっと立ち上がって「さあ出かけよう!」「おいしいものでも食べよう」とでも言って
歩き出しそうです。

よし行こうぜと言って僕もまた出かけたいです。
昨日は遺影に使う写真を探しに久しぶりに自由が丘の部屋に戻った。
パソコンの中にここ数年間の楽しい写真や動画がたくさん入っている。
久しぶりの自分の部屋は居心地がよかった。
写真や動画を順に見ていたら笑ってしまったり、忘れていたシーンを思い出したりして気分がよかった。母は決してかわいそうじゃない。むしろ楽しいことあり過ぎだったな、とか思いながらテンション高めで実家に帰った。

今日はその反動か、マイナスなことばかりを考えていた。
亡くなった朝の前の晩、もっと注意深く母の呼吸を見ていたら、呼吸が乱れているのにもっと早く気づいていたら、もしかしたら今も生きていただろうか?
いくら病院に泊まり込んでも、寝てしまってそういうことに気づくのが遅れるようじゃ意味ないんじゃないか?
6月に退院してからの展開があまりにも早すぎたのは、どうにかできなかったんだろうか?
なにかのやり方が違えば、母は今も生きていたんだろうか?

すべてを完璧にするのは無理だし、母はきっと許してくれると信じているけど、どうしてもそんなことを考えてしまう。

明日がお通夜で、明後日が葬儀になる。
今、母がどんな気持ちでいるのか知りたい。
安らかな気持ちで、満足して天国に向かっているだろうか?
悔しい気持ちや不満や怒りはないだろうか?

昨日僕が書いたように「大変だったけど、楽しかったね」と思っていてくれてるといいな。
遺影の写真の相談をしているときに父が「これじゃだめかな」とぼそっと差し出してきた写真が、母がずいぶん若い頃のややアイドル風というか、女の子としてかわいく写ってる感じの写真だったので笑ってしまった。
親父にとっての母と僕にとっての母の存在はやっぱ違うんだね。おもしろい。
>>[382]  私も考えます
あの日、朝はまだ会話のようなこともできたのです。
薬も飲めました。
便意を訴え、おむつに排便するのに抵抗してました
自宅で看取るためのオムツ換えの練習の意味もあって
私たち家族の見てる前で、新人の看護師さんが苦労しながら
おむつ交換をしてくれました。
でも、すごく時間がかかったのです

シーツやら、病衣まで汚れてしまって
ほぼ裸で不自然な体勢のまま待たされてました

その後しばらくしてから、急に呼吸が荒くなって弱くなって
血圧が下がってきて…

あの時、体力を使い果たしてしまったのでは…?
とか
弱った身体にすごく負担をかけたのでは…?
とか

3週間経った今でも考えてしまいます

辛い思いをさせてしまいました
申し訳なかった
あの日を乗り切れれば、あれだけ帰りたかった自宅で
眠ることもできたのでは…?

とか
毎日そんな事を考えています
ちぐささん
ちょっとした何かの加減で、亡くなるタイミングが数日ずれる事はあるかもしれないですよね。そうしたら、今まだ生きていたかもしれない。。でも、考えてももう仕方ないですね。。
当面はご自分のことを第一に、ストレスを貯めないように楽しく過ごしてください!

葬儀にアルバムを持って行くので、今日はまた写真を整理していました。
幼い頃、若い頃の母の写真を見ると、自分の知らない母がたくさんいるようで少し妬けるような、複雑な気持ちになりました。笑




>>[386]  

ありがとうございます
今日は父の入院していた病院に行ってきました

外来とかロビーとかにまだ父が座っているようで
何度も何度も辺りを見回して、いるはずのない父を探してしまいました

こちらの患者相談室に、とても話し易い看護師さんがおられて
自分の事、父の事をいっぱい話してきたら
少しだけ気持ちがラクになったような気がします

明日は、自分の診察です
呼吸器科の先生のお話をきちんと聞いてきたいと思います
ちぐささん
> 外来とかロビーとかにまだ父が座っているようで
> 何度も何度も辺りを見回して、いるはずのない父を探してしまいました
すごくわかります。自分も、また病院へ行ったら母の姿を探してしまう気がします。
病院は、思い出の場所です。
定期検査結果が良くて飛び跳ねるようにうれしかったことも何度もありました。
そういえば東日本大震災の時も母と病院の待合室にいました。

> こちらの患者相談室に、とても話し易い看護師さんがおられて
> 自分の事、父の事をいっぱい話してきたら
> 少しだけ気持ちがラクになったような気がします
家族が病気でも、自分自身が病気でも、きっと誰かしら気持ちをわかってくれる相手がそばに必要ですよね。
自分の場合は姉とよく話しています。
話すことや、話さなくても一緒にいることでいくぶん安定できている気がします。

> 明日は、自分の診察です
> 呼吸器科の先生のお話をきちんと聞いてきたいと思います
何かしら、新しい希望に繋がる発見がありますようお祈りしています。
そして診察がどんな内容であれ、今ある毎日を大切に楽しく過ごせますように
8日に葬儀を終えてやや落ち着いてきましたが、
頭の中ではいろいろな思いがめぐり続けています。

母がいなくなってしまった事をどう認識したら良いのか、まだゆらゆら揺れています。

母はただずっと眠っているだけ。母がいなくなってしまう事はない。今まで通り、一緒に生きていくような。
ランチさん
この度は誠にご愁傷様です。
そして、ランチさん本当に本当にお疲れ様でした。
頑張り拝見させていただいていましたよ。


お母様もランチさんにこれまで沢山のサポートと、愛情を頂いて凄く感謝していると思います。

私も父が亡くなってからランチさんとお母様の頑張る日記を拝見させて頂いていました。いつ当時を思い返してもランチさんほど私は頑張ったのだろうかと思っていましたよ。。。それほどランチさんは考えに、行動に、愛情に走り続けていたと日記で伝わってきてましたよ。
本当にランチさんの行動力にはお母様も頼もしく感じていたと思いますし、何よりランチさんの行動力には大きな、大きな優しさを感じます。

いろいろな思いめぐりはすごく大切な感情ですし、お母様もそのお気持ちが届くと思いますよ!

ランチさんの行動力を考えると今もお忙しくしているのかもしれませんが、落ち着くまでは少しかかるかもしれませんね。
ランチさん自身の活力が戻る日々を遠くから願っております。
ご自愛ください。
かの〜さん
お返事遅くなってしまいすみません。
コメントありがとうございました。何度も読み返しました。
まだ整理できるとことまで言っておらず、なかなかうまく気持ちを言葉にできません。
とにかく、この日記を書く場を提供して下さってありがとうございました。
少しずつでも記録しておくことで、後から振り返ることができますし、見守ってくださる方もいてとても心強かったです。

また、そのうち書き込むと思います!
月命日を過ぎました。

今でも母が亡くなったという実感が半分くらいしかなく、亡くなる前の10日間くらいだけ夢を見ていたような、それで今はたまたまどこかへ出かけているだけのような、そんな気がしないでもありません。でも、考えてみると母は実家にいないし病院にもいないし、電話をかけてもかけても出ないしで、どこにもいないのです。

昨日はiPhoneに母からの留守電が残っていたのに気づいて聞いてみました。
長くメッセージが残っていたのは、去年の9月のものでした。久しぶりに自分に語りかける母の声を聞き、またすぐそばに母がいるような気持ちになりました。

先週、少し体調を崩して熱が出ました。けっこうしんどいと感じました。
でも母はこんなのの何十倍も毎日しんどかったんだなと思うと泣けてきました。

そんなこんなではありつつも、普段は普通に元気にやっています。
もうすぐ四十九日になるんだな。

時間が経つほど母が遠くに行ってしまうようで寂しいです。

母が生きてたら、今日で66歳。
お誕生日おめでとう!

いろんな場面を思い出して改めて思うけど、あなたはとても良い人間だったと思うよ。僕が小さい頃から最期まで、ずっと成長してたんだな。

そんで5年間、一緒に闘えて幸せだったね。
母が亡くなってから、2回目の大晦日です。

今年は一年間、前向きに楽しく生きる事ができました。
5年間最期まで母の病気に寄り添った結果、以前のように無闇に死を怖れる事はなくなった気がします。そのかわりいつも自分の隣にあるものとして、いつ自分にも訪れるかもしれないものとして感じています。

母だけでなく、父も、姉も、自分もいつかは平等に亡くなるわけです。自分が亡くなるまであとどれくらい時間があるかわからないけど、それまでにやりたいことはできるだけたくさんして、行きたいところへ行き、食べたいものを食べ、仲良くしたい人を大事にして笑って過ごしたいと思います。

言葉にすると当たり前のことだけど、そういった気持ちがとても強くなりました。

5年間の闘病生活を振り返ると、後悔もたくさんあります。

最近思うのは、腰の痛みの対応についてです。
母が腰が痛いと言い始めたのは、たしか亡くなる10ヶ月前くらいだったでしょうか。その時点では他に目立った体の不調はない状態でした。

ガンの闘病ブログをたくさん読んでいた僕は、その痛みが骨転移からきているのではと早くから疑っていました。
通常、膵臓がんで骨転移するケースは少ないのですが、それは骨よりも転移しやすい臓器として肺や肝臓があり、それらに転移すると「骨転移する前に亡くなってしまう」からです。母のように肝臓や肺に転移してからも何年も生きている場合、当然骨転移することも考えられるのだと思います。

ただお医者さんはセオリーとして「膵臓がんで骨転移するケースは稀」と学んできているせいか、病院で腰の痛みについて相談してもあまり積極的に調べようとはしてもらえず、やっと検査してもらった結果も「骨転移はない」ということで、特に予防措置は行われませんでした。
痛みは年齢から来る腰痛とかそういったものでしょう、と。

亡くなる3ヶ月ほど前、徐々に増していた腰の痛みがピークを迎え、ついに歩く事ができなくなってしまいました。当時承認前だったアブラキサン+ジェムザールを千葉の小さなクリニックで受け始めた矢先、その治療を中止してもとの地元の病院に戻らざるをえませんでした。そして検査の結果、「骨転移しています」と。一方で、肺や肝臓に転移しているがんは「驚くほど進行していない」とも言われました。

歩くこともできず、横になっていても痛みに苦しんでいた母は、背に腹は帰られずそのまま入院して放射線治療を始めました。当たり前ですがアブラキサン+ジェムザールは中止です。
1月ほど入院し、体力も落ちた母は千葉まで通院する事は難しいだろうという事で、そのままもとの病院で一度効果がなくなり中止したTS1を再開する事になりました。

長々書いてしまいましたが、上記の結果、たった2ヶ月程度の間に急速にガンが進行し、母は亡くなりました。

もし、骨転移の対応をもっと早い時点で始めていたらどうだっただろう、と思うのです。
抗がん剤の治療をストップしなくてもいい形で、骨転移の進行を抑えたり、痛みと上手くつき合う生活を工夫する手段はあったはずです。

今では当たり前のように使われているアブラキサン+ジェムザールを、母は数回しか投与できず、効果を確かめる事もできませんでした(ただし、骨転移の検査時にはがんは進行していなかった)。もし骨転移の対応が上手くいっていてアブラキサン+ジェムザールの治療が軌道に乗っていたら、その後FOLFIRINOXの使用も検討できたかもしれません。

そうしたら、TS1とジェムザールだけで5年生きた母ですから、もしかしたら今年も一緒にアハハと笑って年を越していたかもしれません。

小さな事がきっかけで治療を続けられなくなってしまい、それをきっかけに急速に病状が悪化するというのはよくあるケースのように思います。だから、本筋の治療以外のことにも細心の注意を払って生活するべきでしょう。風邪をひかないとか、食べやすいご飯をしっかり摂るとかもそうだと思います。
もし今闘病中の方がこの文を読む事があれば、参考にしていただけたらと思います。
明日、母の2回目の命日になります。

仕事も休みを取れなかったし、特に家族で集まることもありません。一応父も姉も、あと姉の妹も、明日はそれぞれに母を思うと思います。まー、それでいいんじゃないかと。

2年前の夏はもっと暑かった気がする。
木や草や空がギラギラして、虫の鳴き声もワンワン響いて、もっとドぎつかった印象です。

そんな中僕と母は文字通り息も絶え絶えの生活を送っていて、それが終わったのが2014年の8月4日でした。
8月3日は姉の家族がお見舞いに来てたんだった。

正直少し忘れてきたというか、だんだん記憶も感情も薄くなってきていると思う。母が亡くなってからも母と一緒に生きているつもりだったけど、記憶が薄らぐのは如何ともしがたく、こんな感じで少しずつ、本当に母は居なくなっていくんだろう。

千代の富士は手術から1年も経たずに亡くなってしまったけど、母は5年も生きてくれた。その5年がとても楽しかったし、今も僕の宝物だ。母にとってもきっと幸せな5年だったと信じている。
病気がわかって心から欲しかった奇跡を得ることができて、本当に神様に感謝しています。もしかしたら、僕が強く念じたからスプーン曲げみたいにそれが具現化したのかも。そして最後はその思いが、足りなかったのかも泣

本当は今も一緒に遊びに行ったり日々の出来事を話し合ったりしたいよ。
でも人間てそうゆうものなのだ。いつかいなくなるものなのだ。それをよく知ることができました。

母ちゃん、また一年間、よくよく僕や父や姉を見守っていてください。よろしくね。







ずっと精神科に通い続けていた父だが、昨日診療終了となった。服薬も終了。
ここ数ヶ月でとんとんと調子が良くなり、もうほとんど以前の父と変わらないようだ。
通院に付き添ってくれていた姉から診療終了の連絡をもらった時、泣けて仕方なかった。
父が最初に調子を崩してからかれこれもう7年半、長い間本当にお疲れ様。
たくさん傷ついてたくさんのものを失ったけど、これから少しでも朗らかに楽しく過ごしていけますように。
母も喜んでるはず。
前の書き込みから3年もたってしまった。。

今日はなかなか子どもができないので不妊相談で奥さんとクリニックへ。診察室の前で待つベンチが母と通った病院にそっくりだったのでちょっと動揺してしまった。
毎度死刑判決を聞くような気持ちを隠して、関係ないおしゃべりで盛り上がりながら待ったもんだ。

不妊相談の診察室で、顕微鏡の中を泳ぐ自分の精子を見た。軽やかに泳ぐものもいれば奇形だったり動かない奴もいる。たくさんの精子が淘汰されて、一番優秀な奴が卵子にたどり着いて着床するらしい。なんかすごい、と思ってしまった。僕の精子の中には母も居る。
うまく子どもできたらいいな。




それはそうと、母との闘病をここに書き記しておいてよかった。ここは僕の人生で一番大事な宝物だ。
もうすぐ7年目の命日になります。
この日記を少し読み返して、自分よく頑張ったなと思う。

でも1つだけ、母がもうすぐ死を迎えるということを、母が生きているうちにもっと受け入れてあげられたらよかったと今は思います。
死の1カ月前に母が「私もうすぐ死んじゃうよ、自分でわかるの」と言ったのを僕は信じなかったし認めなかったけど、「一緒にゆっくり死を迎えようね」って言ってあげられたらよかった。
そうしたらきっと、別の会話もできたんじゃないかな。
あ、もちろん僕も一緒に死ぬとかではなく。

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