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織豊から徳川への歴史コミュの第三十三章 大阪冬の陣

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家康がとった作戦は、秀吉を使うことでした。

秀吉のためならば、間違いなくゼニを使うはずだ・・・そう睨んだ家康とブレーンの読みは的中しました。

秀頼と淀君は家康にけしかけられ、山城・摂津・近江などの寺院を再興させ、多くの社寺の修築・造営をせっせと行いました。

これすべて、亡き太閤殿下の供養のため・・・そう甘言されては、世間知らずの秀頼と淀君は頷くしかなかったのです。

そして極めつけが、秀吉が生前力を入れて建立した方広寺大仏殿・・・。

ここが地震のため崩壊したままだったので、家康は二人に再興させました。

この復旧作業には、1610(慶長15)〜1612年(慶長17)かかり、出費も相当なものに・・・。

この大仏殿造営の末期には、さしもの大坂城の財産も底をつき、加賀の前田家に借財するようなってきました。

家康の狙いが、ぴたりと決まったのでした。

  

一方で、幕府は畿内・西国の統制を厳しくしてゆきました。

有事の際、周囲からの寝返りがないようにするためです。

まず京都所司代の地位を強化し、畿内の大名を厳しく監視させました。

そして西国大名から500船以上の軍船を没収し、以後の建造を禁止しました。

これまた、有事の際に、兵糧などを運ばせないようにするためでした。

1611年(慶長16)と1612年(慶長17)には、幕府統制の遵守・反逆人隠匿禁止・反逆人召抱え禁止を誓詞として提出させ、反乱分子が全国へ波及しないよう手を打ちました。

大名統制は、この時点で初期のピークとなった感があります。

  

そして幕府は慎重居士の家康らしく、念には念をいれた手を講じていきます。

1612年(慶長17)には長崎奉行所に命じて、イギリス・オランダから、大量の大砲・鉄砲・鉛などの軍需品を輸入させています。

さらに・・・とどめの一発を放ちました。

キリスト教禁止令。

まずは1612年(慶長17)に直轄地に、そして1613年〔慶長18)には全国的に発布されました。

なぜでしょう?

ぼくはこの点が、学生時代最も合点がいかなかったことでした。

これはつまり・・・豊臣系大名に、キリスト教徒が多くいたからなのでした。

浪人となった彼らと大名を取り締まる上で、実に巧みな方法と言えましょう。

織田信長は積極的にキリスト教を導入しましたし、秀吉も特に気にかけることもしなかったから、当然といえば当然のことです。

こういうことを歴史の時間に教えて欲しかったなあ・・・つくづくそう思います。

  

こうして幕府の対大坂政策は、着々と進行してゆきました。

家康の健康が年々悪化しており、それで急いだとも言われています。

そしてこの段階では・・・徳川四天王は完全に中央の政策から離れていたのです。

功労者として最高の待遇を受けていたとはいえ、この頃の家康が最も重きをなしていたのは本多正純、天海僧正や崇伝僧正でした。

文字通り戦国時代は、終わりを告げようとしていたのです。

織豊時代・・・教科書では安土・桃山時代と教わった時代は、もう過去のものとなりつつあったのです。

いくさ場で数々の修羅場を経験した大物譜代の時代は終わり、新参譜代の時代となっていったのです。

そしてそれを実に巧みに操った家康・・・凡人であったからこそ、人を操ることに長けていた・・・そう言えるのではないでしょうか。

そしてその師匠となったのは・・・他ならぬ秀吉でした。

家康という男は、最後まで他人の方法を模倣してきた男でもあったのです。

   

   

2)大坂冬の陣

   

  

1614年(慶長19)春・・・方広寺大仏殿は完成し、堂供養と開眼供養を行うばかりになりました。

想像ですが・・・江戸幕府の圧力に内心穏やかならずとも、成人した秀頼と淀君は小春日和のような気持ちになっていたことでしょう。

しかし、時代は容赦ありませんでした。

堂供養と開眼供養まであと数日というところまできた8月、突然幕府が供養延期を申し入れてきたのです。

理由・・・それは言いがかりであり、インネンをつけただけのものでした。

  

「方広寺大仏殿の鐘銘にある『国家安康』『君臣豊楽』は、家康公を断じ、豊臣家の再興を願うものとしか思えない。」

「上棟の期日も吉日ではない。」

  

これまで駿府の家康との間をとりもってきた片桐旦元は度肝を抜かれ、ただちに駿府に赴きました。

しかし門前払いを食い、家康公は激怒しておられる、早々に大坂に戻りあい伝えよ・・・と申し付けられたのでした。

また秀頼と淀君は、大野治長の母大蔵卿局を片桐旦元とは別に家康の元に派遣したが、家康は今度は丁重にもてなしました。

そして本多正純と崇伝僧正から、

「こたびの一件は、秀頼殿の起請文で済むことではござらぬ。善処されるよう・・・。」

と言い渡されました。

この一件はたちまち大坂城内を大混乱に陥れ、強硬派と穏健派が激しく対立しました。

片桐旦元は、

○証人を出す

○秀頼か淀君が江戸に詰める

○大坂城を明渡す

の3つの提案をしましたが、強硬派は片桐旦元が徳川に通じているとして、暗殺を企てたそうです。

密告を織田信雄から受けた片桐旦元は大坂城を退去し、領国の茨木に帰ってしまいました。

果たして片桐旦元が本当に徳川に通じていたのか・・・それはわかりません。

しかし片桐旦元は豊臣秀吉存命中家康付きだったとも言われており、かなり家康に心が傾いていた可能性はあります。

いずれにしても、大坂方は有能な家臣を失ってしまったのです。

片桐旦元に従うように、穏健派の武将たちも大坂城を去ってゆきました。

淀君を筆頭とする強硬派で占められた大坂城は、江戸との決戦へ突入してゆくのでした。

   

この頃・・・豊臣恩顧の大名は、浅野長政・加藤清正・堀尾吉晴・池田輝政・浅野幸長が死去。

他の大名も高齢となり、秀吉の栄華を知る者は少なくなっていました。

今を生きねばならない彼らにとっての「天子様」は、間違いなく幕府の長である徳川将軍となっていました。

大坂方は、秀頼の名で豊臣恩顧の大名に激を飛ばしましたが・・・大名である者は、前述した理由により、いずれも荷担しませんでした。

加賀の前田利長や薩摩の島津家久ら、かつての豊臣奉行家や大大名は、すでに家康と親交を結んでいました。

太閤殿下に恩義があれど、家康公にも大恩あり・・・そういう理由で断ってきました。

激情家で豊家を最も愁いていた福島正則ですら、淀君の頑固さ我侭さに愛想を尽かせていたのです。

彼は淀君が証人として駿府か江戸に趣き、豊家と秀頼の長久をはかるべしと主張しました。

大坂方の態度は憤懣やるかたなきものであり、態度如何によっては徳川の忠臣として攻め入ることもいとわない・・・とまで言ったのです。

正則も片桐旦元と同様、親族でもある家康と豊家の挟間にあって、気苦労が絶えなかったのでした。

淀君は当然激怒しましたが・・・現実を見ない激情だけでは、もはやどうにもならない事態となっていました。

  

また家康・秀忠両御所に親しい陸奥の伊達正宗に対しては、大坂方は仲裁を依頼しています。

しかし・・・正宗はこれに応ぜず、親書を秀忠に渡してしまいました。

徳川方の、対外様大名政策が、見事に成功していたのです。

逆に言えば、これらの大名統制がほぼできあがっていたからこそ、無理矢理大坂方を挑発できたのでしょう。

慎重居士の家康ならでは・・・。

   

これらの情勢を踏まえて、大坂城には全国から反徳川勢力が終結し始めました。

彼らは関ヶ原以降改易された大名や浪人、あるいはこれで一旗あげようという武道家でした。

大名としては大野治長・同治房・同道犬・青木一重・木村重成・薄田兼相・織田有楽(長益)。

改易された旧大名として、信州上田の真田幸村・土佐の長宗我部盛親・中国の毛利勝長・大谷吉継の子大谷大学・増田長盛の子増田森次。

武道家として後藤又兵衛(基次)・塙直之らがいました。

中でも家康が警戒したのが真田幸村でした。

かつて関ヶ原の頃、上田城で秀忠軍を足止めにした戦略家真田昌幸の息子であり、家康が最も苦手とした武田信玄の乱波戦術を持っていたからです。

家康は叔父の真田信幸を通じ、10万石をもって調略しようとしましたが、幸村は頑固者ぶりを発揮してこれを固辞。

真田家は徳川には屈しない・・・父親譲りの一徹ぶりでした。

   

1614年(慶長19)10月11日、家康は時きたりと判断し、手勢を引き連れて駿府を出発。

10月22日には二条城にはいり、片桐旦元らを引見して大坂の状況を聴取しました。

一方将軍秀忠は60000の軍を率いて、11月10日に伏見城に入城。

結果的に、幕府軍は20万もの大軍になったと言われています。

この軍の物資や食料には、上方の豪商が関わっていました。

有名な京都の角倉与一(了衣)・茶屋四郎次郎清次、平野の末吉孫左衛門、堺の今井宗薫らです。

彼らは幕府のご用達として、莫大な富を蓄えていました。

もはや豊家は、彼らにとって美味しい投機ポイントではなくなっていたのです。

陣地構築では大工の中井正清が採用されました。

  

『陣』となっていますが、いわゆる『冬の陣』では戦闘はありませんでした。

むしろ、『夏の陣』の伏線・・・そういうものだと認識しておくべきでしょう。

11月から開始された『冬の陣』は、大坂城への大包囲作戦した。

というより、改めて大坂城の難攻不落さに、家康が気付いたというべきでした。

大坂城の堀は3重になっており、しかもかなり深い堀だったのです。

大坂城内には大量の食料が蓄えられており、この堀をどうにかしないことには、手も足もでない状況でした。

   

長期戦は、家康が最も望まなかったことでした。

家康は何としても、不動の王者ぶりを見せつける必要があったからです。

幕府に荷担してはいるものの、気持ち的には豊家・・・そういう者がまだまだいると、そう感じていたからでした。

しかしこの堀を何とかせねばならない・・・。

家康は講和に踏み切ることにしました。

後藤庄三郎や茶屋四郎次郎も内使として大坂城内に出入りしはじめました。

後水尾天皇からも講和を希望する旨があり、講和へと向かうのでした。

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