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織豊から徳川への歴史コミュの第一章 天下統一以前と三傑の役割〜その1

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織田信長に始まり、豊臣秀吉がなしえ、そして徳川家康により磐石なものとなった『天下』・・・。

最初の項で述べましたように、日本人の本質とは太古の昔から、それほど変化していません。

しかしながら、この三傑の時代だけは、この本質が多いに変化した時期でもあります。

そしてその唯一の変化とは・・・『本音で生きる』ことを余儀なくされた時期だということなのです。

それだけのエネルギーに満ちた時代でもあったのです。

   

それは一般社会の経済的充実によるものでした。

商人というものが、この時代から表舞台へと出てきます。

名誉や地位のため・・・それは過去のものとなりました。

経済的な裕福さを求めること。

これが根付いた時期でもありました。

ここで、古代からの日本の歴史を、少しふりかえってみます。

それによって、この三傑がどのような役割をしたかが、より鮮明になると思うからです。

   

   

1)日本の基礎構造をつくった律令国家

  

 

長く日本の支配者だったのは、朝廷と公家でした。

古くは蘇我一族・・・そして藤原一族。

両家とも、日本の一大イベントに深く関わっています。

   

蘇我一族は、当時保守派の物部一族と対立した、新興勢力でした。

この蘇我一族を利用し、また後年対立したのが、かの聖徳太子です。

大陸伝来の仏教によって日本を統治しようとした聖徳太子の思惑が、蘇我一族と一致したからです。

結局物部一族は滅し、蘇我一族の専横が始まりました。

これを苦々しく思い、聖徳太子が蘇我一族から政権を奪い、新しい天皇国家樹立のためにと作ったのが、『冠位十二階』と『憲法十七条』だったのです。

しかし太子の思惑はならず、物部一族を滅して60年後、中大兄皇子と中臣鎌足によってようやく達成されるのです。

  

日本史上有名な『大化の改新』をなしとげた中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿を政変で殺し、蘇我一族の専横を終わらせることに成功しました。

ときに645年。

中大兄皇子は後年天智天皇となり、強力な天皇親政を確立し、豪族の私有地だった土地や人民を全て国家のものとしました。

これが『公地公民』制度です。

またこの頃より、正式に国名を『日本』とし、『大化』という元号も初めて制定されました。

これは隋のやり方を模倣したものであり、おそらくは『天皇』という名称も正式に採用されたものと思われます。

隋の皇帝に対し、立場は同等かそれ以上だとしての名称でした。

それまでは『大王(おおきみ)』と名乗っていたのです。

また中臣鎌足は政変の功労者として藤原姓を賜り、後の一族繁栄の礎となりました。

政変をなしとげた功労者の末裔が、後に再び天下の外戚となろうとは・・・運命の皮肉以外なにものでもありません。

   

また政変の功労者はもう一人いました。

中大兄皇子の弟、大海人皇子です。

しかしこの兄弟は、後に大きな争いを引き起こすことになります。

そもそもの争いは、額田王(ぬかたのおおきみ)という、天智天皇の後宮にいる女性でした。

この女性はもともと大海人皇子の愛人でしたが、こういう立場になり、しかもこの後も大海人皇子と関係を持ちつづけていたのです。

政権への欲望もあり、対立は段々エスカレートしてゆきました。

そして藤原鎌足が他界して天智天皇も崩御した後、朝廷の圧力のため一時大海人皇子は吉野山に隠居してしまいました。

しかし大海人皇子の反乱を恐れる天智天皇の子大友が攻め、これに反攻して勝利を収めた大海人皇子は皇位につき、天武天皇となりました。

この乱を当時の年号にちなみ、『壬申の乱』と呼んでいます。

 

皇室にその血統を残し、実質的な日本の支配者となった貴族・・・それが藤原氏です。

大化の改新以後特記すべきことは・・・律令制度の完成でした。

701年(大宝元)、歴史上画期的な出来事・・・『大宝律令』が完成したのです。

これは当時の大国、隣国唐のものを参考にしてできました。

律は刑法、令は行政法。

これを契機に、本格的な天皇国家日本がスタートしたのです。

この強力な中央集権のしくみは、現代に至るまで崩れることなく・・・若干の変化はあっても、そのまま生き続けました。

そしてこれが、日本人の根本的性格を形成するものとなったのです。

つい最近まで使用されていた『大蔵省』の名称は、実にこのときから存在していたのです。

ましてや『宮内省』は、今現在でも使われている名称です。

  

また、この頃の官位が、後年重要な意味を持ってきます。

たとえば晩年の徳川家康に与えられた官位『太政官』は当時からある最上官位で、天皇に代わって庶政を執行する立場にあったものです。

『太政官』の下には『右大臣』『左大臣』『太政大臣』があり、さらに『太政大臣』の下には『大納言』『小納言』と続きます。

織田信長は『右大臣』、豊臣秀吉は『太政大臣』、江戸時代の駿府家は『大納言』、水戸黄門は『中納言』。

また『太政官』には『左弁官』と『右弁官』があり、『左弁官』には『中司省』『式部省』『冶部省』『民部省』が所属し、『右弁官』には『兵部省』『大蔵省』『刑部省』『宮内省』が所属していました。

これら八省の長官が『卿』、次官が『輔』、判官は『丞』、主典は『録』と呼ばれていました。

これらはそれぞれ大小があり、大輔・小輔という風に呼ばれていました。

正五位下に相当する官位が大輔であり、従五位下に相当する官位が小輔なのです。

例をあげますと、今川義元は『冶部大輔』であり、石田三成は『冶部小輔』。

また遠山金四郎は裁判官ですから『左衛門丞』なのです。

もっとも、彼らは一度も朝廷に足を運んでいません。

彼らが世間で通用しやすいように、また寺社などに対して箔がつくように、朝廷へ工作して得た『肩書き』だったのです。

そういう意味では、『守』や『介』はもっといいかげんです。

これは本来、国司や守護の地位にある人物に対して贈られるべき称号です。

つまり『守』が長官で、『介』が次官。

これが後年は、朝廷が『〜〜を守るにふさわしい』として与えるものになってしまいました。

たとえば直江兼継は、越後上杉家の家臣にすぎません。

しかし彼に与えられた称号は・・・『大和守』。

織田信長もかつて『上総介』を名乗っていました。

これなど、肩書きを重んじる日本人の、典型的な性質そのものと言えるでしょう。

   

   

 

 

2)武士団の形成と、院政

  

 

武士はあくまで貴族の下に仕える立場であり、決して高貴な身分ではありませんでした。

「もののふ」「つわもの」「さむらい」などと呼ばれていました。

「もののふ」は、古代の『物部(もののべ)』から来ており、武力で奉仕した人の総称でした。

「つわもの」は、『器の者』、つまり武器を持つ人のことです。

「さむらい」は、『さぶらう』・・・つまり貴族に従う者という意味です。

武力や武器をもって貴族に奉仕した人々・・・それが、武士だったのです。

   

しかし、この身分にも変化が訪れました。

天皇家や藤原家などから分かれた一派が野に下り、武家となりだしました。

彼らはその血筋からカシラに祭り上げられ、いわゆる『武家の棟梁』が各地に成立するのです。

その代表が、桓武天皇の血をひく上総介高望王を祖とする『平家』と、清和天皇の血統である『源氏』でした。

彼らの多くは各地の鎮守府将軍や諸国の国司を兼任したのち、そのまま土着したものが多かったようです。

追捕使や押領使に任命され、その土地の軍事・警察官となってゆき、地方の治安を維持したのです。

この権限を使い、彼らは武士団を形成してゆきました。

平家も源氏も、他の天皇から公家となったものもありますが、武家となって成功したのはこの2派だけでした。

  

やがて武家の中にも、朝廷や貴族に反抗し、独立しようとしたものもあらわれだしました。

その代表が、935年(承平5)に突如起こった平将門・藤原純友の乱でしょう。

平将門は製鉄地帯をその傘下におき、また有数の騎馬軍団を持っていました。

藤原純友は瀬戸内の海賊と協調し、また貿易によって富を蓄えていました。

荒々しさを身につけた武士は、その威力を京に見せ付けたのでした。

天皇や貴族は、驚嘆したことでしょう。

645年の大化の改新以来、実に300年の長きにわたって、貴族政治がまかりとおっていたのですから。

そしてこの乱を平定したのも武士・・・彼らの胸中に、どのような思いが芽生えていたことでしょう。

本来ならば、自分たちも決起したかった・・・そういう思いが芽生えてきたのではないでしょうか。

平将門と藤原純友の決起は、彼らの中に生きつづける結果となりました。

そして時は過ぎ・・・強大な2つの武士団は互いに覇を競い、成長してゆくのでした。

   

武士が台頭するきっかけとなったのは、天皇家が発端となりました。

まず1068年(治歴4)即位した後三条天皇は、200年ぶりに外戚に藤原氏を持たない天皇でした。

彼は延久の荘園整理令を出し、藤原氏の荘園にまで課税をかけることに成功しました。

彼によって天皇家の権威が向上し、その子白川天皇の時代にはさらなる変化が訪れました。

白川天皇は父後三条天皇が作った私的家務機関『院庁』を駆使し、天皇の地位という束縛から自由になり、わずか8歳で即位した子の堀河天皇をサポートするようになりました。

つまり、これまで藤原家が代々行ってきた摂関政治・・・摂政と関白という地位を下げ、新たに旧天皇が『上皇』として天皇の補佐をするようになったのです。

これが、『院政』の始まりでした。

これはその当時の婚姻形態が変化したことも、大きく関わってきています。

以前は婿が妻の家に住みつく、いわば「サザエさん的」な招婿婚でした。

しかしこの頃になると、妻の家とは別のところに新居を設ける形態に変化していたのです。

これによって、母方の親族に対する発言力が低下していきました。

天皇家に娘を嫁がせて外戚として権力を誇った藤原氏の没落は、こういったことにもよると思われます。

つまり『院政』とは、父方による『摂関政治』と解釈しても可能でしょう。

この院政は、鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇と受け継がれてゆきます。

  

院政を確立した白川上皇でしたが、彼の性癖が武士の台頭を招いたのです。

彼は徳川家康並の性豪で、平清盛が彼の落胤であったことは、公然の秘密にさえなっていました。

また孫の鳥羽上皇の第一皇子顕仁親王(後の崇徳天皇)も、彼の落胤だったと言われています。

この鳥羽上皇は、顕仁親王が自分の子でないことを知っていましたから、崇徳天皇は無理矢理皇位を3歳の弟(近衛天皇)に譲らされ、おまけに上皇となることすら禁じられてしまいました。

この恨みは根深く、後に後白河天皇に向けられることになったのです。

これが後に、『保元の乱』として爆発してゆくのでした。

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