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大阪市立聾学校コミュコミュの大阪市立聾学校に関するルーツ

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大阪市立聾学校(おおさかしりつろうがっこう)は、大阪府大阪市中央区にある聾学校。
http://www.ocec.go.jp/ss/rougakkou-ss/

<概要>
聴覚障害を持つ児童・生徒への教育をおこない、幼児部・小学部・中学部・高等部を設置している。高等部には専攻科も併設されている。
大阪市立盲学校とルーツを同じくする。1937年にヘレン・ケラーが学校を訪れたことがある。20世紀前半、高橋潔、大曽根源助校長時代には手話法によるろう教育の孤塁を守り続け、日本手話の発展や日本のろう者社会の形成に大きな影響を与えた。

<第6代校長高橋潔>
6代目の校長となった高橋潔は手話によるろう教育の重要性を主張した代表的な論客の一人として知られ、1933年1月に文部省が口話法の推進政策を開始した後にも、日本においては唯一、手話法によるろう教育を継続した(ただし口話法による教育も並行して行っている)。
当時、本校は台頭する口話法の成果を取り入れて、児童生徒の適性により口話法、手話法を使い分ける「適性教育(ORAシステム)」を提唱し、教育実践を行っていた。高橋は教え子たちに慕われただけでなく、同時代の成人ろう者社会においても幅広い尊敬を集めており、手話の達人でもあった。
高橋は当時まだ生まれて日が浅い言語であった日本手話の改良にも力を入れ、夏休みには教え子や彼を慕う成人ろう者たちとともに毎年、吉野の竹林院で合宿を行った。こうした高橋の活動が日本手話に与えた影響は小さくないのではないかとの見方も存在している。

<第7代校長大曽根源助>
大曽根は高橋が母校である東北学院から呼んだ後輩であった。大曽根は高橋校長時代の1929年に私費でアメリカに留学し(この時、高橋から個人的に資金援助があったとされる)、アメリカのろう教育を学んで帰国している。この直後、大曽根は現在の日本で標準的に使用されている指文字「大曽根式指文字」の原形を考案した。

<沿革>
五代五兵衛が1900年、東区本町4丁目(現在の中央区本町)に私立大阪聾唖院を開設したことが、学校の始まりとなっている。1907年には大阪市に移管された。当初は盲教育・聾教育が一体だったが、1922年に大阪市立聾学校と大阪市立盲学校に分離した。
学校敷地は、南区塩町(現在の中央区上本町西、現大阪市立上町中学校)、南区南桃谷町(現在の中央区松屋町、現大阪市立南高等学校)、東成郡生野村(現在の大阪市生野区)、天王寺区勝山通(現在の天王寺区勝山3丁目)と変遷している。1945年の大阪大空襲で、天王寺区の校舎を全焼した。1948年に東区広小路町・旧大阪市立東商業学校跡の現在地に移転している。
1900年9月13日 - 五代五兵衛が私立として大阪盲唖院を開設。この日を創立記念日とする。
1900年11月30日 - 南区塩町1丁目に移転。
1907年4月18日 - 大阪市に移管、市立大阪盲唖学校となる。
1913年7月24日 - 南区南桃谷町に移転。
1919年4月1日 - 大阪市立盲唖学校となる。
1922年9月26日 - 盲と聾唖が分離し大阪市立聾唖学校となる。
1923年5月 - 東成郡生野村に移転。
1934年9月21日 - 室戸台風で校舎倒壊。
1937年4月23日 - ヘレン・ケラー来校。
1942年4月25日 - 天王寺区勝山通3丁目に移転。
1944年12月19日 - 太平洋戦争の戦局悪化のため授業を停止。
1945年6月15日 - 大阪大空襲で校舎を全焼。
1946年4月1日 - 城東区野江東之町(現在の城東区中央1丁目付近)に仮校舎を設置し、授業再開。
1948年4月1日 - 学制改革により各部を置き現校名に変更。
1948年4月13日 - 東区広小路町(現在地)に移転。
交通
大阪市営地下鉄谷町線 谷町四丁目駅
大阪市営地下鉄谷町線 谷町六丁目駅

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