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史跡コミュの諸岡太左衛門の墓

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 千葉県富津市金谷2413

 1973年07月06日、富津市が史跡に指定。

 真言宗智山派金華山華蔵院にあります。
 明和7(1770)年、金谷(カナヤ)村は旗本白須(シラズ)甲斐守政雍(マサチカ)の知行地となりました。当寺の金谷村は村高520石余・家数427軒・人口2300人余でした。政雍は江戸定番だったため、金谷村統治は下役の地頭所役人達に委ねられ、村高に比して人口が多いとして度々村民の実情を無視した重税が課せられていました。特に、天明3(1783)年の浅間山大噴火によって天明の大飢饉が深刻化していたにも拘らず、天明4(1784)年には年貢8石増が命じられ、更に天明5(1785)年3月には百姓の持山を伐り払う事となったため、村民の薪炭材採取を禁ずる「鎌止め」「鉈(ナタ)止め」の布令が出されるに至りました。
 この結果、田畑の持ち高が少なくて山稼ぎで渡世していた小百姓達は生計が破綻したため、名主や村役人が何度も地頭所役人達に布令撤回を嘆願しましたが却下され続けていました。そこで止む無く同年3月13日、85人もの村民が江戸麹町(コウジマチ)の白須邸に押し寄せる事態となってしまいました。こうして、政雍は年貢8石増と「鎌止め」「鉈止め」を取り止める事を申し渡し、村民の生活は回復しましたが、江戸府中に於いて大勢で門訴を行う騒動を起こした以上、幕府としても捨て置けず、参加者全員を重罰に処す事も検討され始めたのです。そのような状況下の同年10月、同村百姓の諸岡太左衛門(モロオカタザエモン)と惣兵衛から「今回の件は自分達二人のみが企画したものであり、残りの連中は訳が判らないまま勝手に付いて来ただけなので容赦して欲しい」との嘆願書が幕府勘定奉行所に提出されました。こうして太左衛門と惣兵衛は投獄され、天明6(1786)年3月、勘定奉行桑原伊勢守盛貞は太左衛門に全財産没収の上で遠島、惣兵衛に居村及び江戸払いの刑を申し渡したのです。他の村民は手鎖3人・過料銭10貫文80人の寛刑で済みました。しかし、太左衛門は判決に先立つ1月7日に45歳で獄死してしまっており、彼の犠牲的行為を徳として、以後村民は供養を続けました。太左衛門の法名は梅香了運居士(ウメカリョウウンコジ)です。

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