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史跡コミュの須田古城跡

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 長野県須坂市臥竜3丁目3番1号

 1970年05月25日、須坂市が史跡に指定。

 須田城は室町時代に高井郡須田郷の国人領主須田氏が本拠とした平山城で、須坂扇状地の扇の要部分にある独立丘陵臥龍山(標高471.5m;比高約100m)の南西尾根部に築かれた。南麓には千曲川に注ぐ百々(ドド)川が流れ、南斜面は崖状を成す要害地形となっている。
 尾根山頂部に主郭を置き、堀切を挟んで二の曲輪、北側に帯曲輪を配した輪郭式縄張りで、帯曲輪部に土塁によって平虎口が設けられ、竪堀も配された。
 須田氏は平安末期以来、臥龍山西麓に館を設けて一帯を統治していたが、応仁2(1468)年には当地で須田氏と井上氏の合戦が行なわれているため、その頃迄には詰城として須田城が築城されていたと推定されている。
 戦国時代末期に須田氏は、須田城に拠る信頼と、その弟で大岩城に拠る満国が対立して分裂、須田信頼は信濃に進出して来た武田信玄と結び、一方、須田満国は坂城城主の村上義清と結んで抗争したが、天文22(1553)年、村上義清は武田信玄に敗れて越後の上杉謙信の下に亡命したため、須田満国も嫡男満親と共に越後に逃走した。
 また、武田信玄麾下の須田信頼も在地支配権を事実上喪失し、須坂一帯は海津城代高坂昌信の管轄下に入った。
 天正10(1582)年3月、織田信長が武田勝頼を滅ぼすと、須田信頼の後を襲っていた息子の須田信正も滅亡し、須坂城は信長麾下の海津城主森長可(ナガヨシ)の管轄下に置かれたが、同年6月の本能寺の変突発で長可が美濃へ撤退すると、越後の上杉景勝が混乱に乗じて北信濃を支配下に置き、景勝は天正13(1585)年6月、上杉家重臣となっていた須田満親を奥信濃四郡を統括する検断権を持つ海津城主に任命、12000石を与えた。こうして須坂は再び須田氏の支配下に置かれたが、慶長3(1598)年に上杉景勝が会津に移封となった際、満親は父祖代々の土地を離れる事を拒んで自刃、家督を継いだ次男長義が会津に赴き、その子孫は米沢藩家老となった。
 上杉景勝転封の後、伊勢国司北畠氏一族の田丸直昌が待城(海津)40000石の領主となって須坂を統治下に置いたが、慶長5(1600)年2月に美濃国岩村40000石へ移り、この際、須田城は廃城となった。
 江戸時代には東南山麓の曹洞宗臥龍山興国寺が須坂藩主堀氏菩提寺となったため、城跡は藩主の廟所となった。
 昭和6(1931)年、館跡に人工池の竜ヶ池が設けられ、大東亜戦争後は臥龍山全体が臥龍公園として整備されて須坂市指定名勝となっている。

*城下町須坂
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・臥龍山
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・臥龍梅
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