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競艇百物語 第七夜
艇王が紡いだダービーへの夢

艇王と呼ばれた男がかつていた。
彦坂郁雄・・・艇史に数限りない栄光を刻んできた。
しかし、その艇王・彦坂郁雄に唯一足りなかったもの、
それは頂点を意味するタイトル「ダービー」
文字通りの悲願だった。艇王がその勲章を手にするのは、
あの衝撃の引退から、わずか3年前の事である。


 ゴールの直後、愛馬の首筋をポンポンと叩いて労を労うと、2度3度とガッツポーズを繰り返した。
喜びがはじけていた。クールで鳴らす天才ジョッキーにしては、珍しいオーバーアクションだった。そこには格別の想いを捕らえることが出来た。
「ダービーだからだ。初めて手にするダービーのタイトルだからだ」
武豊にしてこれである。
一方の人気馬に乗っていた若い騎手は、レース前から顔面蒼白だったと言う。先頭に押しやられ、人も馬も不安なまま逃げさせられて、結果惨敗を喫した。
「ダービーだからだ。初めて騎乗するダービーの重圧だからだ」
福永祐一には苦い経験となった。
このことで余計に重いが募ったはずだ。『ダービーへの夢』である。
 競馬には、現在20モノG1レースがある。ダービーと言っても、他とグレードは一緒だし、実質的な価値観からすれば、国際的に認知されているジャパンカップのほうが高いはずである。でも、やっぱり競馬人にとってはダービーなのだ。
 「ダービーに勝てたなら、引退してもいい」
名手でありながら、夢をかなえられないでいた時の柴田政人現調教師の言葉である。これに勝った後に「もう一度勝ちたくなった」に変わったのだが、競艇の世界にも、そっくり同じ事を言っていた選手がいた。

彦坂郁雄。あの艇王である。
本稿では、トップを走り続けた競艇史における。巨人が、その最盛期にその振る舞いで露にしたダービーなるものの重さを映し出してみる。

ダービー。
全世界に数々のダービーと称されるレースがある。今年で219回目を数える本家本元イギリスの競馬において、この明けの4歳馬による競走が『ダービー』になったのは、創始者の2人・・・ダービー卿とバンベリー卿が名称を決めるに当たってコイントスをし、ダービー卿が勝ったからだと言う。わりと有名なエピソードである。もしも、コインの裏表が変わっていたのなら、現在「○○ダービー」と呼ばれる物全てが「○○バンベリー」になっていたはずなのだ。いかにもギャンブル臭くて好きな話なのだが、次第に競馬の世界を飛び出していき、特に我々の国では、その業界・分野での?1決定戦を「○○ダービー」と言い表す事が多い。

競艇のダービーは、全日本選手権競走である。1952年4月6日の大村における初開催の翌年、1953年11月10日に、第1回の優勝戦が若松で行われている。4日制で総売り上げは3500万円強、優勝者の友永慶近には、賞金20万円が贈られた。今で言うSG競走としては、2年遅れてMB記念の第1回は1万円である。第2回から3万円に増額されても、ダービーの6分の1に満たなかったのである。地区対抗とて同様、長年に渡ってダービーだけが傑出したタイトルだったのだ。
 初期には5・6・7回と「競艇の神様」倉田栄一が、優勝戦で苦杯を積み重ねた末に、8回大会で満願成就下歴史がある。

 昭和40年代(65年〜74年)には、第一人者の座を『神様』の取って代わる『艇王』が、初めて優勝戦に進出したのが62年の9回大会。しかし、連合会養成として先に栄冠を手にしたのは、その2年後の北原友次だった。彦坂は15回・16回大会と連続優出するも勝ち切れれず、37連勝(70年)、4年連続年間勝率トップ(69年〜73年)と『艇王』の呼び名が定着していく中、逆にダービーとは遠ざかってしまう。名が実に従うカタチで、地区対抗(70年)、MB記念(72年)、総理大臣杯(74年)、笹川賞(78年)と獲得タイトルも増やしていったが、ただダービーだけは優勝戦に乗ることさえ叶わなかったのである。

●1982年・秋・桐生…
【第29回・全日本選手権競走】
この年の彦坂は、ことさら大舞台で冴えていた。記念競走の優勝は三国の29周年だけだったが、SGレベルにグレードアップすると、いつにも増して強さを見せ付けていた。
3月の総理大臣杯が競艇界2度目のビッグにおけるパーフェクト優勝。下関で7本綺麗に白星を並べた。

笹川賞は、地元住之江の常松拓支に逃げられた。とはいえ準優勝なら文句はつけられない。
 夏・MB記念は有名な一戦。淺香登を交えての野中和夫との死闘である。鬼神と化した野中をその充実で封じ込めた。
 21戦16勝、2着4回、3着1回。
前記の3シリーズで、あわせてこれだけの戦績を上げて、桐生に乗り込んできたのである。参戦ムードは抜群だった。今度こそはと思わせた。
だが、ある意味では彦坂以上にここに賭けていた選手がいた。
「皆さんが思うほど、本人は気にしていませんよ。今年は最初から桐生のダービーが目標でしたからね」
きっぱりと言い切った地元の看板レーサー、安部邦男であった。この言葉は、MB記念を振り返っての物である。準優勝戦で痛恨の内規違反(不良進入)、これにより繰り上がった淺香登が優勝戦における名勝負に一役買う、そんな経緯を辿ってきた。彦坂との絡みはまだねじれながら続いていた。

 結果から先に述べると、安部は見事パーフェクト優勝を果たす。このダービーは何より「安部邦男が地元ダービーでパーフェクト優勝を達成したダービー」と記憶されるものである。
前年センセーショナルなデビューをした今村豊が笹川賞・MB記念に続いて、本年3度目のビッグの舞台になった。無論、ダービーは初出場だった。3ヶ月前の丸亀30周年を、キャリア1年2ヶ月で記念初制覇。既に驚くに足らない存在だったが、初出場で優勝戦まで進出する。このダービーは「今村豊がSG初優出を、それもダービーで記録したSG競走」でもある。スタークラスの中でも今村は、ダービーの思い入れが深い選手として知られている。
もうひとつ書き加えるのなら、このダービーは『ボートにカウリングが付いた初めてのSG競走』である。今ではボートの一部と化しているカウリングであるが、その初使用は1982年の6月26日の平和島なのだ。各競艇場でボートの更新のたびに付けられていき、桐生のダービー新艇での開催だったのである。(MB記念を開催した時の蒲郡はまだ旧ボートだった)
少なくてもこのダービーには、これらの意味付けがなされる。その上、『艇王たる者が艇王らしからぬ敗れ方をしたダービー』なのである。

〔予選・準優〕
エース機を手にしたのは黒明明光だった。「さすがに全部の足が揃うとる」のコメント通り、前検日から好調で、実際オール連対で予選を切り挙げた。
エンジン成績では劣っていた物の、彦坂・安部の仕上がりも早かった。特に彦坂はいきなりレコードタイムでイン快勝。最高の滑り出しを見せたのだった。だが取りこぼしや展開の不運もあった彦坂に対して、打つ手が全て当たっていたのは安部だった。イン・内より・センター、自在の立ち回りで1着をコレクションしていったのだ。
 今村は当時の今村らしく、6コースオンリー、そしてトップスタートの連発で内容も尻上がりだった。笹川賞、MB記念は前半の大敗が響いたが、ここはしっかりまとめて、SG3節目で、初めて準優戦までやってきた。

 準優の最初のレースは、彦坂が難なく逃げた。枠なりのコース取りから、2着もジカ付けの古賀武日児が差してすんなり、1番人気のマギレのない決着だったが、勝った彦坂には彼なりの感慨があった。ダービーに関しては、実に13年ぶりの優出だったのである。
 続く一戦では、黒明がフライングに散り、これを捲くり差しで捕らえていた星野幸正のパワーが目に付いた。石黒広行は恵まれた。
 安部は準優でも強かった。大外から強烈に飛び出してきた今村にも動じることなく、インで絶妙の艇回し、バック一気に伸びきった。すっかりシナリオ通りに事が運んでいた。また今村も素晴らしかった。安部には及ばなかったものの、外マイから2マークで突っ込んできた江原正義を差して、SG初優出を決めたのだ。
 
 こうしてベスト6が出揃った。黒明が脱落した為、いよいよ彦坂と安部の決戦ムードに満たされた。彦坂が勝てばグランドスラムの達成。安部ならばパーフェクト優勝である。ガップリ四つも、枠番抽選でイン取り有利の6号艇を引き当てた彦坂にわずかながら形勢は動いたかに思われたのだが・・・
新艇で馴染みの薄いカウリングボート、予選・準優を通してインが幅を利かせていたからである。

〔優勝戦〕
「あんなターンになるなんて・・・。自分自身が信じられないよ。2マークで手が縮かんで、ターンマークに寄りすぎたんだ。悔やんでも悔やみきれないよ」
レース後の彦坂は、痛々しくさえあった。艇王と呼ばれ、誰よりも勝つことに慣れていた男が、タイトルの重みに潰されてしまったのだ。それが彦坂にとってのダービーだった。
インを取った。トップスタートを決めた。ここまではいつも見る彦坂である。安部は彦坂を脅かすようなピット離れではなかった。一度はスローにおとしたが、自分より外枠にいる者たちが売りを狙っているのを見て取ると、1分針が回りだそうとする時、スーッと外に出て行った。その外では四角く大きく、今村が待機水面にシュプールを描いていた。当時の今村豊のトレードマークであった。

「彦坂さんのジカ付けでは勝てない。理想は捲くり差し」
と考えていた安部にとっては、今村の存在が大きかった。内・外両にらみのコース取りに出て、もし失敗しても6コースになる心配が無い。内マークから今村のスタートについて行けばいいのだ。安部はその通りにした。
彦坂がイン先マイ。安部はカドから伸びて、彦坂と差しの構えの星野の間に割って入った。彦坂が逃げる、安部が内で追いすがる、だが彦坂には追いつかなかった。安部が2マーク先取りをあきらめて、外に艇を持ち出した時、彦坂の悲願は成就したはずだった。だが次の瞬間、信じられない光景を見る。彦坂が2マークを大きく外したのだ。
 余裕で差す安部の向こう側で、彦坂は我を失った。焦りがハンドルに伝わっていく…。2周1マーク、今度は差しがブイに接触、星野にも抜かれてしまったのである。
まったく、らしくない走りだった。そうとうにショックな敗戦だった。

●1985年・秋・福岡
【第32回全日本選手権競走】
彦坂の『その時』は桐生の『あの敗戦』から3年後にやってくる。

「神様がくれた6号艇」
優勝戦の公開抽選で、絶好枠を引き当てた後、こう言って笑みを漏らした。
「これで何とかしなくては」
気持ちを引き締めた。3年前はこの枠で失敗している。

〔予選・準優〕
彦坂自体は、前年が最悪だったのである。桐生のダービーの翌年は、艇界大の年間特別(SGプラスG1)?9を記録したが、素晴らしすぎる2年間の反動という物か、目を引く活躍を出来ずにいた。それがこの年になって、G1?4とすっかり輝きを取り戻し、ダービーの前節、津のMB大賞も快勝していた。予感はあった。

「優勝までは考えなかったが、2500勝だけはするつもりでいた」
序盤の動きは、決して完璧ではなかった。節一は新田宣夫だったし、先立つMB記念で、彦坂に競り勝って、蒲郡における名勝負の借りを返すとともに、引退間近から、カムバック後、初めて大きいところを獲った野中の方がキレていた。
そんな中、彦坂は初日の1勝を元気剤にする。倉田栄一しかなしえていなかった2500勝に、瀬戸康孝と相前後して到達したのである。もちろん最速での達成。快く優勝に標準を絞る事が出来た。

 ポイントは野中がイン楽勝し、新田がフライングで散った後の準優だったか。ここで彦坂はインでモロに紫垣順一の捲くりを食らってしまう。
1マークを回って、紫垣はもちろん、差した村上一行、全速の今村も前に見るカタチだった。夢は潰えたかに思えた。しかし、天運は彦坂を見放してはいなかった。
2マーク、2周1マークと村上・今村で大競り、その間隙を衝いて2着を奪い取ったのである。そして「神様がくれた6号艇」に続くのである。流れは一気に彦坂の方へ傾いてきた。

【優勝戦】
野中を除く5選手は『ダービーの夢』を見る面々だった。中でも加藤峻二は、彦坂に負けないくらいの熱い思いを抱いていたが、枠番を眺めると、この時点での天の配剤を感じないわけにはいかない。スタート練習から彦坂とイン争いを演じ、コース取りに闘志を燃やす安岐真人は、1号艇に追いやられていた。
それでも必死のピットダッシュを安岐は仕掛けたが、やはり好枠の彦坂・紫垣には及ばなかった。
彦坂―紫垣―安岐でスローに並び、外に小林嗣政―野中―加藤のスタート、早かったのはうち艇と加藤である。
典型的な中へこみのスリット。ここで最も立ち遅れた小林が一計を案じる。居直りのイン変わり。しかし、彦坂はたじろかなかった。
 紫垣に艇を寄せながら、1マーク先回り大勢に持っていった彦坂は、小林の突進を冷静にやり過ごす。対岸まで飛んでいく小林嗣政の航跡を一呼吸待って乗り越えていった。紫垣はワンテンポはずれたのに対処できず、斜行してきた加藤はその紫垣に前を塞がれた。安岐は曳き波を超えるパワーがなく、野中は圏外に去っていた。展開の乱れさえも彦坂に有利に働いたのである。

 三年前とは違って、今度の彦坂は微塵も乱れはしなかった。艇王たる者の運びで、バック、2マークと独走。紫垣が野中の差しを抑えて2着を確保した2周1マークでは、バック側で勝利を確信していたのだった。
「ホームで時計を確かめたら大丈夫(スタート正常)だったので、『あぁ、これで勝ったな』と思ったんだよ。ほっとしたね、何か夢のようだね」
夢という語句を実際に使っている。
「家を出てくるときに、『優勝してくる』何て言ったら『じゃあ、引退ね』何て言われてさ」
家族も思いの強さは知っていた。
「ダービーだけは縁がないのかなって思う時期もやっぱりあった。」
確かに選手生活最高の日、艇王の瞳は潤んでいた。

この三年後、彦坂は競艇界を去った。安部も今はもういない。時は流れ、ダービーの位置づけも変わってしまった。今年から賞金額も、賞金王(決定戦・シリーズ)を除く他のSGと一緒になった。賞金王決定戦を頂点において、これに収束するSGの流れが、合理的に整備された結果ではある。言い切ってしまえば、ダービーとて賞金王決定戦の広い意味でのトライアルなのだ。

競馬においても8月に海外G1に連勝した2頭はダービーに出られない外国産馬だった。競艇以上に実績は変わっていると言えるだろう。
競技が社会や環境に対応するのは仕方のないことである。競艇そのものも姿を変えていかなくてはならない。しかし、歴史は厳然として残っていく。その後がどうあろうとも、艇王が紡いだ『ダービーへの夢』は、不変に記されるべきものである。





・・・・・おしまい


マクール「競艇百物語」 文・鷲田義継 より


コメント(13)

そうです。その鬼門の話がこれから始まります。

是非、読んで下さいね。
えぇーザビエルさんは彦坂選手に会ったことあるの?スゲェ!
どんな話したの?怖そうな人だった?いつ頃会ったの?
7〜8年前って最近な気がするけど・・・
やっぱりオーラはありますか。あれだけの世界を見てきた人ですから、引退してもオーラはなくならないんでしょうね。
津のダービーで野中和夫をまじかで見たとき、やっぱりオーラを感じました。
静岡の2・3着名人の中尾英彦は一時彦坂郁雄の弟子だったんだよ、知っていた?
いのしし侍さん
そういえば、彦坂に弟子がいたなんて考えた事も無かったです。
前にも書いたけど、彦坂って「一匹狼」のイメージがあるんですよね。
第29回全日本選手権競走(桐生)

優勝戦
1、今村  豊(山口)21歳
2、古賀武日児(福岡)33歳
3、星野 幸正(群馬)41歳
4、石黒 広行(愛知)42歳
5、安部 邦男(群馬)35歳
6、彦坂 郁雄(千葉)41歳

5−3 1860円
第32回全日本選手権競走(福岡)

優勝戦
1、安岐真人(香川)40歳 4131132
2、加藤峻二(埼玉)43歳 2413211
3、野中和夫(大阪)41歳 2141131
4、小林嗣政(山口)44歳 3331152
5、紫垣順一(大阪)37歳 3142221
6、彦坂郁雄(千葉)44歳 4131322

進入651432

6−5 1110円 逃げ
ざねりさんお疲れさまです〜。

「語り継がれる勝負」には、やっぱり人を感動させる背景があるんですね。
ザビエルさん
ありがとうございます。
彦坂のレースを見れたというのが、すでに自慢ですよ。
「勝ち続けなければ・・・」これは彦坂じゃないと言っちゃいけないセリフですよね。

せいじんさん
ホント疲れました(笑)
語り継ぎますよ。僕が・・・周りが嫌がってもね(笑)

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